4話 東へ

(1)

 ツウィンカとカイはスヴィパルの指示通り、道なき道を歩いていた。

 母が不在の今、ツウィンカはリースヒェンの娘としてではなく、カイの姉として行動しなければならなかった。この状況で無防備に村へ戻ることはカイと、そして自分を危険にさらすことのように思われた。

 あの残虐極まりない黒い集団がどういう奴らかは分からなかったが、彼らはスヴィパルを狙っていて、村までたどり着いたのだ。そこにカイを連れて戻るわけにはいかなかった。

 考えた末に、ツウィンカは数少ない選択肢の中から、自らの意思でスヴィパルの予言に従うことにしたのである。

 ツウィンカはカイの手を引いた。温かな体温が伝わってくる。こうして弟の手を引くのは一体いつぶりだろうか。泣きたくなる気持ちを抑えて、ツウィンカは歩いた。感情を鈍くさせなければ、あふれてしまう。今はひたすらに歩みに集中しなければならず、溢れたものをふき取る余裕は無かった。

 木を掻い潜るようにして、道ではない地面を歩くことは、ただでさえ長時間歩くことに慣れていないツウィンカにとっては容易なことではなかった。おそらくはカイにとってもそうだろう。

 加えて夜である。松明もなしに夜空の月と星の光のみを頼りに進むのだから当然足元は覚束おぼつかない。

 足を滑らせて転ぶことは一度や二度ではなかった。

 細長く伸びる木は、いまや太陽の恵みを求める哀れな存在ではなく森にやって来る者を絡めとって離さない、檻のようだった。ツウィンカ達の影は木々のそれと重なり、自分たちが本当に囚われているように見え、それがツウィンカを一層暗い気分にさせた。

 囚われている憐れな己の影を、踏みつけながら歩くのだ。一歩踏み出す度に、深く、黒い塊である影の中に落ちてしまうような気がして、ツウィンカはカイの手首を掴む手に力を込めた。手を離したら、カイとも生き別れてしまう気がした。

 無心で歩くことが出来ず、多くのことが頭を過ぎっては消え、不安が掻き立てられた。スヴィパルはリースヒェンが死んだと言った。

 死別だとはっきり認めたわけではなかったが、一方でもう永遠に再会出来ない気がした。気分が低下した体力に引っ張られているのかもしれなかった。

 ツウィンカは村が無惨にも燃えていた様子を見てしまった。思い返してみれば、あの時視界の端に人影が見えた気がする。

 それはツウィンカが小さい頃から見知っていた村人に他ならない。だが、何も全員があの恐ろしい炎に巻き込まれたとは限らないのではないか。

 生き残りがいる可能性は十分あったし、その中にリースヒェンがいるかもしれない。せめて、こんな風に別離を経験するとしても、リースヒェンとそれを踏まえて会話することが出来ていたのなら違っていたものを。

 ツウィンカは歯噛みした。

 何もかもが中途半端なままここまで来てしまったので、ツウィンカの気持ちは宙を浮いたまま地に足付かない。引き返していきたい衝動に駆られて、ツウィンカは唾をのみ込んだ。一拍置くと高まる気持ちが少しだけ収まった。

 熟考した末に、ツウィンカは引き返さない道を選んだのだ。

 それが正しい保証はなかったが、一度決めたことを迷い出すと、この先ずっと自らの選択の是非を問い続けることになる。

 考えたところで変わらないことは考えるべきではなかった。



 目を瞬かせると、虚ろな瞳がツウィンカを捉えていた。

 イトカだった。

 ツウィンカに手を伸ばしていた。その手をツウィンカは反射的に振り払ってしまう。イトカは大切なツウィンカの幼馴染だった。にもかかわらず、死に引っ張られてしまうことが恐ろしかった。

 とっさにイトカを拒絶してしまったツウィンカは、振り払った罪深き自らの両手を見た。

 片方の手はカイを捉えていたはずではなかったか。血が引いた。カイとも別れてしまう。ツウィンカを知る者が誰もいなくなる。完全なる孤独になる。

 嫌だ、誰か助けてくれと口に出そうとして、目の前に水滴が垂れた。

 暗闇が開けたが、視界は濁っている。すぐに額の汗が目に垂れたのだと、今の今まで自分が夢の中にいたことに気づいた。後ろを振り返ると、ツウィンカに手を引かれたカイがいた。

 息が上がり、口を結べない。喉が熱くなって異物を含んでいるような感覚に襲われ、顔が麻痺したように歪んだ。目の奥が熱く潤んできた。泣き出している。

 懸命に抑えようとしていたものは、ツウィンカの懸念どおり、一度溢れ出すと止まらなかった。

 声を押し殺して泣き出したツウィンカは、暫くすると声を殺すのをやめた。何も考えられずに、カイの手を引きながら声を張り上げた。何もかもが、理不尽で納得できなかった。常ならば柔らかい寝具にくるまれて寝ている時間に、何故自分は弟と二人、寄る辺なく歩いているのだろうか。イトカの亡骸は今もあの森にいるのだろうか。ツウィンカは憐れなイトカを置き去りにしたのだ。

 この罪を背負わせた、この燃え尽きない感情を与えた連中全てをツウィンカは憎んだ。あの作り物のような黒髪の少年がツウィンカの目の前で痛い目に合わねば心穏やかでいられず、イトカが生き返り、焼かれた村が戻ってこなければこの胸を刺す切なさからは逃れられない。

 その全てにあてがなく、ツウィンカは身に覚えのない危険から逃げている。今抱いているこの感情に名前があるのか分からなかったが、ツウィンカの知るいかなる感情ともかけ離れていて、どこに何をぶつけて良いのかも分からなかった。

 ただ、無心で泣いている瞬間だけはこの胸の重みから逃れられた気がした。

 ひとしきり泣いたのち、後ろを振り返った。

 カイがいる。リースヒェンに似たカイがツウィンカを見上げている。あどけない顔だ。カイは七つの子どもだった。ツウィンカがカイよりも更に幼い頃、リースヒェンはカイを産んだ。一人っ子だった時のことは記憶にはないので、覚えがある限りツウィンカの日常にはカイがいることが当たり前だった。

 頼りなくか弱い、ツウィンカの家族だ。ツウィンカはカイを抱きすくめて、低い声を出した。


「うちの弟から何かを奪ったら許さないわよ」


 返事はなかった。

 やがて当たりが明るくなり、湿気をはらんだ空気が肌に纏わりつき、夜が明けたことが分かった。明るい空に月はうっすらと、しかし昼間よりもはっきりと浮かんでいた。

 ツウィンカにとって、夜明けは不可侵の領域だった。徐々に明るくなる様は、本来寝ている時刻に起きていることへの背徳感をもたらす一方で、夕暮れとは正反対の爽やかな気分にさせた。

 忘れていたが、今日は正月だ。一年の始まりの日である。

 幾らか心を励まされたツウィンカは、これから始まる長き冬を意識した。ミュルグヴィズの一年が冬から始まるのは、死の季節である冬が同時に再生を促す季節でもあるからだ。

 夜明け前が一番暗い。あとは夜明けを待つばかり。だからきっと、全ての悲しい事象にはやがて春が訪れるはずだ。

 檻のように思えた白樺の木の間から、開けた大地が見え出した。ようやくふもとにたどり着いたのだ。

 安堵する一方で、スヴィパルの言葉が思い出された。

 ――このまま真っすぐ歩いていけば馬車と巡り合う。

 ツウィンカは複雑な気分だった。スヴィパルの言うとおりだったら、奴の言葉への信用はさらに増す。歩みを止めなかった二人の前に何かが見えてきた。

 馬車だった。

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