秘密 第二

 ケロウジが隠れた事に焦れたのか、犯人が斜面を下り始めた。

 これは不味いなとケロウジが思っていると女の声が聞こえる。


「ムジナさん? いるの?」

 間違いなくモエギの声だ。何も知らないらしい様子のモエギはこちらに近づいて来る。

 さらに悪い事に矢じりには毒が塗られていたらしく、ケロウジは頭がぼぅっとしてくるのを感じていた。

 四面楚歌とはこういう事を言うのだろうな、などとケロウジが思っているうちにも弓矢を持った犯人は近づいて来る。


 木々の間から見えたのは、怒りに歪んだムジナの顔だった。ムジナはその顔のままでモエギに呼びかける。

「あぁ、いるよ。見せたいものがあるんだ。こっちへ来なさい」

「止まれ!」

 ケロウジは出来る限り声を張り上げ、そう叫んだ。叫んでおいて、自分はモエギの方へ走る。


 足が速くなくとも急がなければならない。体が痛くとも、毒が回ろうともこの瞬間だけは走らなければならない。自分には不可思議な力なんてものは使えないのだから。ケロウジは自分に言い聞かせて走った。


 どうもムジナの怒りはモエギの方に強く向いているらしく、矢じりはモエギを狙っている。

 ケロウジが訳も分からずにうろたえるモエギの腕を掴んで引き寄せた時、放たれた矢がモエギの首筋を掠めた。

 そのまま二人で地面に倒れ込むが、すぐにムジナがこちらに歩み寄ってくる。


「さぁ、おいで。モエギ。少しお転婆が過ぎるねぇ、困ったなぁ」

 怒りを抑えきれないムジナは、あと五本ほど矢の入った矢筒を背負っている。

 ケロウジの腕にしがみ付いて震えるモエギは、それでも話しかけた。


「ム、ムジナさん……! 待って! 何を怒っているのか教えて下さらない?」

 モエギの上擦った声、ムジナはそれを聞いて足を止めた。

「分からないとでも言うつもりなのか? とんだ狸だな。お前、私の他にもたくさんの男がいるだろう? 今まではお前を可愛いと思えばこそ、見て見ぬふりをしてきたのだがね」


 ムジナの声は柔らかく、いつもと同じように聞こえる。けれどその目は血走り、手には毒矢が握られている。

 ただならぬ雰囲気を察した鳥たちが狂い鳴く。

「ちょ……っと待って」

「もうたくさんだよ。愛とは痛いものなのだねぇ。この歳にして初めて知ったよ。昨夜はその男に遊んでもらったのかな? 火遊びは楽しかったろうね」


 ムジナが話すうちに何とか逃げ切りたいケロウジは、ぼぅっとする頭で道を探す。

 峠の道に出てしまってはダメだ。見通しが良すぎる、とケロウジは思う。

 そして山の中を河原町へ向かって進もうと決めた。


「ねぇ……待ってよ……だって、私」

 ケロウジは腰が抜けた様子のモエギを無理やり背負い、走り出した。あまりの痛みに呻き声が漏れるが、止まる事は出来ない。

「もう限界なのだよ。可愛いけれどね、モエギ」

「だって私……あなたとお付き合いなんてしてない……」


 背中で漏らされた震える声を聞きながら、ケロウジは隠れられる洞穴を探した。どこにだってあるはずなのだからと、ケロウジは知っている。

 人間たちはつい百年ほど前までは洞窟の中や地下に穴を掘って暮らしていたのだから。

 追い詰めるようにゆっくりと付いて来るムジナに恐怖しながら、ケロウジは縺れる足で進む。


 すると、ようやくケロウジの怪我に気付いたモエギが短く悲鳴をあげる。

「ごめんなさい、気が付かなくて! おろして下さいな」

「まだダメだ」

 ろくに説明もできないまま走り続け、ケロウジはようやく隠れられそうな地下住居を見つけた。


 こんもりと盛り上がった場所には、背の高い草に隠された入り口がある。

 ケロウジはそこへ体を滑り込ませると、当時は獣のためであっただろう石の蓋を閉める。

「私がやるわ」

 モエギに言われ、ケロウジは土埃に塗れた木の床に倒れ込む。


 岩を積んで作られた壁からは根が張りだしている。天井は木で支えてあり、所どころ朽ちてボロボロと落ちてきている。窓だっただろう場所は床から伸びた木の幹で塞がれている。

 部屋には割れた皿や湯飲み以外には何も残されてはいない。


 これならササが戻ってくるまでは持つだろう、とケロウジは安堵した。そうすると急激に毒が回りはじめ、腕の一本すら動かせなくなった。


「ケロさん、ありがとう。それから……巻き込んでしまってごめんなさい」

 そうか、とケロウジは思った。モエギには霊体が見えていないので、自分が書き付けを渡したばっかりにケロウジが巻き込まれたように感じているのだ。

 僕が勝手に首を突っ込んだのだと言えなくて、ケロウジは言葉を探す。

 モエギはケロウジの左腕の傷に手拭いを巻く。そしてポロポロと涙を溢した。


「僕が……もう少し、上手くやればよかったんだ」

 ケロウジはそう言ってから、思い出して聞く。

「矢は、当たってない?」

「当たってないわ。大丈夫よ」

「そう。よかった」


 入り口からはムジナの柔らかな狂気の声が入ってきている。モエギはそちらをチラチラと見ながら、今日の事を話し始めた。

「ムジナさんに、お前の夢が叶うから山へ来いって言われて……地図を貰ったの。危ないなんて考えてもいなかったわ。だって……こんな事……」


 いつの間に入って来たのか、薄暗い部屋の中にはケロウジとモエギの霊体が立っていた。部屋の暗さと体が溶けあい、その顔だけが浮かび上がっている。


 そこへ馬のひづめの音が聞こえた。朽ちかけた天井を揺らしながら響く。

 ケロウジは場所を知らせないとなと思い体を起こそうとするが、モエギがそれを止めた。

「ケロさんは、もう少し周りをよく見るべきよ」

 ぐしゃぐしゃに濡れた顔のモエギが何を言いたいのか気付き、ケロウジは黙ってまた体を横たえた。

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