かすがい

小林犬郎

かすがい

 終幕後の劇場から観客ははけ、熱を帯びた空間は日常に戻りかけていた。演じるという仕事を終えたとき、特に評価される役者には多いことだが、役から抜けきれずにいるものもいる。一方山本は劇が終わるとすぐに山本に戻る。この舞台で彼は奴隷市場に雇われて反逆の意思を持つ奴隷を7人殺したが、もはやそんなことはどうでもよかった。メイクを落としてすぐ、彼は家庭に戻るべく楽屋を出ようとしたが、妻からの要望を思い出し引き返した。山本は憂鬱なまま楽屋に留まった。

 山本が変化のないメールボックスとホーム画面を何往復かした頃、主役の北条が楽屋に戻ってきた。北条は山本より三つ年下だが、山本に三年のサラリーマン時代があったので芸歴は同じである。彼はこの舞台では勇敢な奴隷として革命の先頭に立った。逞しくも無駄のない細身はその役柄に合わせたものだ。

「お疲れ様です!」と北条がいつものように扉を開けると、大部屋には山本が一人座っていた。「...お疲れ様です。」

 二人は顔も見ずに会釈だけを交わした。北条は山本から遠い席にかけたカバンから乱暴にタオルを引き抜き、さっと汗を拭ってテキパキと荷物をまとめた。北条がこの舞台に抱いた不安は山本の存在であり、逆も同じであった。どういうわけだかこの二人の不仲は長く続いている。理由はともかく、この事実は世間にはあまり知られていないながらも役者の間では有名であった。だから彼らの共演は他の出演者にとっても懸案事項であった。北条がドアノブを握るまで、山本は何も言い出せなかった。

「あっちょっと待って!」がっしりと大きな身体が立ち上がると空気の流れが少し変わったような感じがする。

「何ですか?」

「あのさ、サイン貰えないかな。」

「は?サイン?そんなに僕のサインが欲しいんですか。」

「子供に強請られたんだよ。俺が欲しいんじゃねえよ。」

 山本の身内には敵が多い。妻の良子も5歳になる息子の健斗も北条を好いていて、厄介なことにパパと北条の関係を正しく認識していない。というのも彼にこの対立をわざわざ説明する利点がないからで、妻との不要な口論は避けたかったし、息子にも嫌われたくなかった。そんな彼にとっては不都合なことに、北条は今年の戦隊ヒーローの緑に選ばれていた。

「いいよな戦隊ヒーローさんは。子供に好かれてよ。」

「殺陣で本当に殴ってくる共演者も居ないですしね。」

「あれはお前が近かったんだ。それにその後本気で殴りかかってきたよな?あれはなんだ仕返しのつもりか?」

「本物の殺陣はあのくらいの距離感なんですよ。ビビリすぎですよ、俺には当ててきたくせに。」

 二人の関係は先に示す通りだが、演出家はこれを知った上で、お互いの憎悪を殺し屋と奴隷の間に写そうとした。その目論見は大方成功した。殺し屋と奴隷の関係性を表現できれば、あとは山本と北条の関係など演出家にはどうでもいいことだった。ただし、彼らが同じ楽屋になったことについてはよく思っていないようだった。

「あーもういい!もうそれでいいからさっさとサイン書いてくれよ!」

「それが人にものを頼む態度ですか?」

「子供のためなんだよ頼むから!」

「そうやって子供を盾にするのズルいっすよね。」

「俺が欲しいわけじゃねえんだから盾にはしてねえよ。サービス悪いなあ、それでも子供の憧れか?」

「あんたがちゃんと頼まないからだ。」

「俺だってお前に頭下げたくねえよ。子供のためなんだ、お前も父親になればわかる。」

「そうですかね、うちの父親はそんな惨めじゃなかったな。」

「あ?」

「あんたみたいなのが父親なら俺はならなくて結構。父親だからって何でもまかり通ると思うなよ。絶対書かねえからな。」

 突然扉が開いた。良子だった。

「お疲れさまです!」

 その前にノックはあったものの、それから直ちにドアが開いたので、ごく形式的なものになった。山本が驚くのは当然だった。ということは健斗もいるなと思うと、やはりいた。妻と子は家にいるものと思っていたし、舞台の内容自体も幼い健斗には好ましくないように感じていた。

「えっ、なんだお前、来てたのか。」

 彼は必要以上に動揺しないように気をつけていた。席にも着かず、それこそ舞台の上のような距離を挟んで会話していることの異常さに良子が気づいていないらしいことには安心したが。

「うん、健斗が絶対みたいって言うから。あと私も。あなた、サインもらってくれたの?」

「いや、まだ...」

「もう、あなたって本当に先延ばしにする人ね。そんなこと言ってるうちに千秋楽も終わったじゃない。」すると今度は北条に向き言葉を続けた。

「あの、私たち家族みんな北条さんのファンでして...その、お疲れのところすみませんがサイン頂けますか?」

「ええ、いいですよ。」

 慌ただしくカバンから角のたった色紙とマジックペンを取り出す様子も含めて、良子は感じがいい女性だと北条は思った。それから俳優が妻に持つには少々不便があるようだとも。マジックの書き味が普通よりいい気がした。

 サインを書き終え良子に渡したとき、彼女の影に健斗の姿を見つけた。ミントの葉のように小さく柔らかい身体は良子の細長い脚にもすっぽりと隠れてしまう。北条はこの子をどうにか喜ばせてあげようと思った。彼は元来子供が好きだったし、山本が複雑な立場に置かれていることを心得たので彼の反応を見たくなったのだ。

「健斗くんこんにちは。アースグリーンだよ。」アースグリーンというのは彼が変身した姿を指す。役名で言っても通じないかもしれないと思ったからこちらを名乗った。健斗が微笑んだので、今度は手を伸ばしてみると握手が成立した。北条は子供が好きだが、彼には子がいないし、特に扱いに慣れているわけではなかったから、その後どうするべきか分かりかねていた。そこに良子が自然に割り込んでくれた。

「良かったね、健斗。」慈愛に満ちた顔だった。北条が今まで演じたどの笑顔よりも愛情深かった。「ありがとうございます!あっ、そうだ...パパと健斗と一緒の写真撮ってもいいですか?」

「もちろん、いいですよ。」

「ありがとうございます!」

「えっ、俺も写るの?」と山本。いや、よく考えれば写らない方がおかしいか。

「当たり前じゃない、じゃあ健斗も入って...」

 健斗が北条に駆け寄る。北条は幼い髪を撫でるようにそっと手を置く。山本は健斗が中心になるように北条に近づきしゃがんだ。北条も高さをそれに合わせた。しゃがんでいても大人二人の体格差はよく現れていた。

「パパ、もう少し寄って。」

「えっ、まだ寄るの?」

 結局良子が彼と北条に求める距離まで詰めさせられた。シャッター音が「もう一枚撮ります」という良子の声にかき消される。二回目のシャッター音はクリアに鳴った。

「お疲れ様です、いきなりすみませんでした。今日は本当にありがとうございました!」

「いえ、こちらこそ。」

良子は山本に振り返った。

「じゃあパパ、帰ろうか。」すると今度は健斗が父親に飛びついた。

「パパ、グリーンと一緒にお仕事してるのすごい。パパもグリーンと同じくらい強いんだね。」

 山本は身体がすっと軽くなったのを感じた。蛍光灯のわざとらしい白さが急に柔らかそうに見えた。北条に倒され自分の出番が終わったあの瞬間よりも好きな感覚だった。思わず健斗の頭をそっと撫で、抱き上げた。

「ちょっと荷物片付けるから先行っててくれ。」山本が健斗を良子に託してそう言うと、二人は素直に楽屋を出た。「あの、ありがとね、いろいろと。」

「いえ、そんなとんでもない。」

「じゃあ、帰るわ。」

 山本はそういうとすぐに楽屋を出て行った。先に行かせた二人に、あまりにも早く追いついてしまうだろう。

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