2121

 ネクタイを弛めて電車の揺れに背を預け、仕事帰りの疲れをやり過ごす。夕方の電車は帰宅ラッシュで混んでいて、座席は空いていなかった。

 ふと見ればブレザー姿の男女が隣り合って座っていた。言葉や距離感から付き合ってはいないように見えるが、どうやらお互いに好意は持っているらしい。

 きっと、あれは普通の愛だろう。

 まだ淡い恋かもしれないが、思いが通じればいずれ純粋な愛になるに違いない。

 程なくして電車は家の最寄り駅へと着いた。

 駅前のコンビニへ寄る。確か牛乳を切らしていたはずだ。ついでにお菓子の棚を見ていると、クリームの挟まったビスケットがあったので裏面を確認してそれも購入。疲れているときは甘いものに手を伸ばしてしまう。しかもこれは期間限定のイチゴ味なので尚更。

 電気の付いた家へと入りシャワーを浴び、お菓子を持って二階へ上がる。

「ただいま、何もなかったか?」

「おかえり。課題はちゃんとやりましたよ」

 扉を開けると少女が迎えてくれた。年齢は十二歳歳。学年で言えば、確か中学二年生だ。装飾のない白いワンピースを着ている、ショートカットの女の子。髪は俺が切ってあげたから、左右で少し不揃いになっている。

 笑って迎えてくれたその子の瞳は、片方の黒目が白く濁っている。外傷に因るもので、自然治癒はしないのだという。

 天窓から夕刻の太陽が降り注ぎ清浄な空気が流れる、少女にとっても俺にとっても息のしやすい場所。深呼吸すれば、疲れも安らぐ気がした。

「一階には下りてない?」

「もちろん」

「体調は?」

「問題ない」

「ごめんな、窓が開けられたら良かったんだけど」

「仕方ないですよね」

 悲しげに、声のトーンが下がった。そんな顔はさせたくなかった。

「お菓子、買ってきたよ。好きだろ?」

「好き!」

「一個置いとく。明日の三時のおやつにするといい。ご飯にするから、ちょっと待ってな」

 うん、と返事をして少女の綺麗な瞳が輝いた。その瞳に安堵と罪悪感を覚えつつ、部屋を出る。

 俺は犯罪者だ。

 この場所で少女を拉致監禁している。

 本やiPadは置いているから、勉強や暇潰しは出来るけれど外にはどうやったって出られない。

 俺は悪いやつなのであんな風に笑いかけてくれるなんてあるはずがないと思っていたのに、思いがけずいたく懐かれてしまった。だからと言って、絆されて監禁を解くわけにはいかない。そんなことをすれば、全てが崩れていくのだから。



 次の日の通勤途中、道端で転んで痛がる子どもを抱きしめる親を見掛けた。

 あれも愛の一つだろう。親から子へと向ける愛。

 では、少女に向けるこの感情は、なんと言えばいいのだろう?

 あの綺麗な少女を自宅の二階にずっと匿っていたい。穢れを知らず、純粋なまま、綺麗なまま育って欲しい。欲しいものは何不自由なく与えるから、隔離されて生きて欲しい。

 職場ではペットを飼っていることにしている。

 少女のことを誰かに伝えたい。けれど伝えられないから、代わりに白い猫を飼っている呈で少女の話をした。二十代半ばの独身。今の彼女はオッドアイの白い猫、という設定で話せば合コンの誘いや上司からの飲みの誘いもある程度は断ることができたから。

 今日は午後から立て続けに会議が入っていた。三つ目の会議に出席しているとき、電話が鳴った。珍しく、少女に渡していた携帯電話からの着信だった。

「会議中なんだが……」

 携帯電話のスピーカーから喘鳴が聞こえる。異変を察知した俺は会議室を一旦出た。手が震えて、携帯を取り落としそうになる。

「たすけ……て……」

「窓を開けたのか?」

「お菓子……?」

「すぐに帰る。待てるか?」

 少女は聞こえるか聞こえないかの声で小さく返事をした。あまり喋らせない方がいいと判断し、電話をすぐに切る。

 上司に「急用が入った」とだけ伝え、職場を出る。タクシーと電車を乗り継いで、急いで家へと帰った。そのまますぐに二階へ上がって扉を開ける。

 少女が床に倒れていた。息は細く胸は酸素を求めるように激しく上下して、苦しさに耐えるために手をきつく握っている。俺の姿を認めるとすがるように手を伸ばしたが、その手を取ることはできなかった。

「ごめん、ちょっと待っててな」

 もう無理だ。

 俺もそろそろ腹を括ろう。

 いつかはこうなるとは分かっていたんだ。

 俺は、救急車と警察に連絡した。

 少女の目から涙が出ていたけれど、きっとそれだけ苦しいのだろう。悲しげに見えたのも、気のせいだ。



「少女誘拐拉致監禁。酷い奴だ」

「そうなんです。すみません」

「本当に反省してるのか?」

「してるに決まってるじゃないですか」

「殴られて片目も白濁してる」

「酷い奴がいたものですよね」

「ああ……あんたじゃないのは分かっている。古い傷だ。幼少期に親から受けたらしい」

 少女を救急隊員に引き渡したあと、俺は続けてやってきた警察に連行された。取り調べを受けているのだが、やはりその間も気になるのは少女のことだった。

「あの子は大丈夫なんですか?」

「一命は取り止めたそうだ」

 俺は安堵して、深く長く息を吐く。

 少女には重度のアレルギーがあった。あのお菓子に、アレルゲンとなる物質が入っていたらしい。裏面のアレルギー表示も確認したが、表示されてないアレルギー物質もある。通常商品であれば問題はなかったから、そこまで確認していなかったのが仇となった。

 少女はアレルギー物質が少しでも肌に触れれば反応を起こす。風に乗ってきた微量なものでも反応するから、空気の悪いところにはいられない。自分の髪でさえも反応することがあるから、髪を長く伸ばすことも出来ない。

 そのせいで、初めて出会ったときには皮膚の爛れが酷かった。理解できない親からは虐待紛いのことも受けていたらしい。片目が白いのは、幼少期に殴られたせいだった。

 あるとき仕事帰りに道端で出会った女の子。どこか辛そうなので話を聞けば、すぐにアレルギー症状だと知れた。痛い、痒い、苦しいと泣きじゃくる少女を見ていられず、衝動的に連れ去った。

 実家は俺しか住んでおらず、二階は空いていた。だから少女専用の部屋にして清浄な場所を作った。

 始めこそ戸惑って誘拐犯の俺に心を開いてはくれなかったが、爛れた肌が綺麗になる頃には少しずつ自分から話し掛けてくれるようになった。

 もしものときのために携帯電話を渡した。勉強用にiPadも渡した。どちらも外部に通信できるものだった。家の鍵も、中からであれば開けることは出来た。

 逃げたいなら逃げたって構わないと言ったこともあったのに。

「ここでなら、深く息が吸えるんです。病院以外では初めてなんです」

 そう言って見違えるような笑顔と綺麗な瞳をこちらに向けて笑った少女を、一生守ってやりたかった。

「この場所を自ら手放すわけ無いじゃないですか」

 そうして俺の手を取った少女。本当はどう思っていたか分からない。逆上させてはいけないからと、そう言っただけなのかもしれない。けれど俺はその言葉に甘んじて、少女を二階に閉じ込めた。

 今、少女は劣悪な環境に居やしないだろうか。

 病院ならば、少女の居場所も確保できるだろう。その後は、親元に戻されてしまうのだろうか。子どもは親と共に居た方が幸せだと言うのが一般論だから、そうなる可能性は高いだろう。

 そしたら、また暴力を受けたりしないだろうか。

 ずっと匿い続けていたかった。

 けれど俺にはこれ以上どうにも出来なかったから、仕方がなかった。

「心配だ……」

「━━これはあまり言うべきではないんだが」

 ため息混じりに呟くと、目の前の警察官が言いにくそうに頭を掻く。

「あんたは本当の親みたいだな」

「は?……何言ってるんですか」

 愛着くらいはあったがそれこそペットに向けるようなもので、困ったら助けるし衣食住は用意するけど……それだけだ。

「ただ守ってあげたかったんです」

 この世の悪意と彼女を脅かす全てのものから。

「それが愛じゃなければ何て言うんだろうな」

「さぁ、知りませんよ」

 恋愛ではない。

 友愛でもない。

 親愛でもない。

 ただ純粋に、深く息を吸い笑って自由に生きていてほしかった。

 俺の祈りを形にしたら、あの二階になったのだ。

 せめて彼女が俺から愛に似たようなものを受け取ってくれていたならいいのになんて、そんな他愛のないことを願うだけで。

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