第12話 浴場のグリエとラビオリ

 しっぽ族はきれい好きなことで知られている。


 オーガやドワーフは、一般的に勤勉さを美徳としている。一方で、二~三日入浴しなくても、ましてや服を着替えなくても平気に感じる者が多い。だが、たいていのしっぽ族は二日に一回以上の頻度で入浴、あるいは体を磨くことを好む。これは、彼らの嗅覚が他種族に比べて敏感だからとも、エルフの奴隷として扱われていたころに不衛生を嫌ったエルフがしっぽ族に清潔を義務付けた名残りだとも言われている。


 パステシュはしっぽ族によって作られた街であり、今でも住民の大半はしっぽ族だ。そういうわけで、街中の宿はほとんどが入浴施設を備えており(ただし、『寝袋宿』と呼ばれる安宿を除く)、市民が使うための公衆浴場もある。


 ラビオリがいまいるのは、そんな公衆浴場のひとつだった。しかも、個室のある最高級の浴場である。


 たっぷりと湯の張られた浴槽は、四~五人は入ることのできる広さだ。その中に全身を浸からせ、ラビオリは大きく伸びをした。


「美しい夜だこと」

 小さな窓から、ちょうど月が見えた。逆の壁には、魔法のランタンがかけられている。ラビオリの右手の中指には、銀の指輪が着けられたままだ。青白い月光と、薄緑の照明が左右から指輪を照らし、妖しい光輪をつくっていた。


 ラビオリが満足げに笑みを浮かべていたとき……

 コン、コンッ。

 戸板をノックする音。


「なんです?」

 静かなひと時を破られて、ラビオリの声は不機嫌さを帯びる。だが、それはすぐに喜色へと変わった。


「あたし。グリエ」

 ぱしゃん、とラビオリの尾が湯を跳ね上げた。


「グリエさん? いったい何の御用かしら?」

 つとめて平静を装っているが、声は上ずっている。いつもならふとした会話のなかでも優位を保とうとするのだが、この時ばかりは油断しきっていて、反応が鈍くなっている。


 その間に、戸板が開いた。

「ちゃんと話をしたくて……」

 戸板からそっと姿を現したのは、間違えるはずもない、グリエである。赤い髪をまとめてあげているから、うっすら日に焼けたうなじがはっきり見える。体をタオルで隠しているが、薄明りも照り返して艶を浮かべている。


「は、話ですって?」

 見惚れるあまり、おうむ返しすることしかできない。グリエの体つきには、毎日手入れを欠かさないラビオリとは違った、自然の健康美があった。


「さ、さっきはマリネの前だったし、いきなりだったから……」

 何かに耐えているように体を震わせながら、ためらいがちにグリエが近づいてくる。一歩、また一歩。

「でも、考えてもいいかなって。ラビオリに雇われること」


「ほんとうですの?」

 食い入るように浴槽から身を乗り出して、ラビオリは聞き返した。思わず鼻息が荒くなり、呼吸の勢いで胸が上下に弾む。


「す、すごく広いお風呂だねっ。気持ちよさそう……」

 グリエの表情が少々ぎこちないことを気にする余裕は、今のラビオリにはない。


「わ、わたくしと一緒なら、毎日入れますわ」

 思わぬ状況に、ますます声が上ずっていた。


 🌳


(いいぞ、その調子だ)

 湯気にまぎれて、セージは無言で拳を握った。


 小さいことを逆手にとって、グリエの背中に隠れて一緒に浴室へ入ってきたのだ。そして、ラビオリの死角に隠れている。


(理屈で身を守っているやつに対しては、そいつの予想を超える手で攻めるに限る。それに、自分の思い通りになっていると勘違いさせるのもいい)


 案の定、思わぬ展開にうろたえているラビオリの表情を眺めるのは楽しい。が、楽しんでばかりもいられない。


 手順はこうだ。まずラビオリが行きつけているという浴場を探し出す。これについては、簡単だった。ラビオリはこの街でも屈指の有名人だし、こそこそ出入りするようなマネはしていない。グリエのツテを何人かたどれば、なじみの浴場はすぐに分かった。それから、その中へ入ること。これも難しくなかった。グリエがラビオリに借金していることも周知の事実であり、「ラビオリに呼ばれている」と彼女が言えば、何かあったのだろう、と浴場の従業員に思わせることができた。


 難しかったのは、グリエ自身を説得することだ。


 いつもなら逃げ回っている相手の前に、自分から(しかも裸で)姿を現すことにかなりの抵抗を示したが、いずれ借金を返せなくなったら結局はラビオリに従わざるを得なくなる。一緒に入浴しろ、という無茶な命令も、「毎晩やるのと、一回だけで済むのとどっちがいい?」と聞けば、答えは明かだ。


(あとは、隙を見て指輪をすり替えるだけ……)

 セージは指輪をひとつ抱えていた。マリネの弱みに付け込んで、できるだけ「王の指輪」に似ているものを探させたのだ。内側に刻印がないから比べれば一目瞭然だが、一晩くらいはごまかせるだろう。たとえ短時間でも、時間が稼げればいい。


「お待ちなさい。湯につかる前に、体を洗わなければ!」

 ざばっ! と勢いよくラビオリが体を起こした。水滴がセージにまで飛んでくる。


「ひゃっ!? だ、大丈夫、自分で洗えるから!」

(バカ、接触していけ!)

 身を引こうとするグリエに、セージは内心でどなった。声を出すわけにはいかないのがもどかしい。


「いいえ、せっかくの機会ですもの。しっかり洗ってさしあげますわ」

 一瞬のうちに、ラビオリは石鹸を泡立てていた。数倍の速度で動くことができる疾走術である。グリエの肌に触れるのを、一秒も待てないのだろう。


「ちょ、ちょっとラビオリ、目が怖いよ……あいたっ!」

 ラビオリの視界に入らないように、セージがグリエの背を叩いたのだ。


(精神的に負けるな。攻めていけ!)


「どうしました?」

「な、なんでもない! ちょっと手を床にぶつけただけ」

 グリエは逃げ出したい気持ちを抑えながら、なんとかごまかそうと手を掲げた。


(他人事だと思って……!)

 ふつふつと怒りがわいてくる。ともすればまた火を噴きそうだが、こんな状況で爆発を起こせば、その結果は……恥ずかしいどころではない。


「まあ……かわいそうに」

 ラビオリはその手を取って、自分の頬へと導いた。スリスリと頬を擦り付けてくる。


「こんなにかわいらしい手なのに……」

 ぞぞぞぞっ! グリエの尻尾の毛が逆立ち、倍くらいに膨らんだ。


(負けるな! 押せ!)

 セージからの無言のエールが届いたのかどうかは不明だが、グリエはふいごのように大きく息を吸って、その手を滑らせた。


「そ、それより……」

 できるだけ自然な動作を装って、ラビオリの手を握った。指輪を着けたままの右手を。そして、それを意識させるよりも早く、もう一方の手を自分の体へ……胸元へ導く。

「洗ってくれるんでしょ?」


「もちろんですわ!」

 鼻息荒く、ラビオリの白い手がグリエの肌をなでまわす。ふくらみの形をなぞるように、泡を広げていく。


「ああっ……!」

 かん高く声を上げながら、グリエはラビオリの手を握った左手を引く。石鹸まみれになっていたおかげで、驚くほど簡単に指輪を外すことができた。


「なんてきれいな肌。妬ましいくらい……」

 グリエの体をなでまわすラビオリは、そちらに意識を向けていて気づいていない。その隙に、グリエは指輪を後ろにそっと差し出した。


(やればできるじゃねえか!)

 はじめてグリエへ称賛を送りながら、セージは「王の指輪」を受け取る。代わりに、グリエの手にニセの指輪を握らせた。


 「王の指輪」を手にした瞬間、その内側に刻まれたエルフの王の名が輝いた。さすがに指につけることはできないから、代わりに冠のように頭にかぶる。それは持ち主を認めて、ぴったりとサイズを合わせた。


(俺の指輪だ、間違いない……!)

 被ったリングから魔力が流れてくるのがわかった。かつては自分の魔力のごく一部を籠めただけだったが、今となっては全身からあふれんばかりの力を感じた。


 セージはその魔力で得意の幻影術を使い、自分の姿を消した。小さな体を透明にすることぐらい、わけなかった。


「後は頼んだぞ」

 と、グリエの耳元でささやく。ラビオリには聞こえないように空気の振動を操作していた。これもまた、簡単だった。


「ちょっ!?」

 すべておしつけられたグリエは思わず声を上げた。気配で、セージが窓から外へ飛んでいくのがわかった。


「どうしましたの?」

 大声に驚いたラビオリが顔を見つめてくる。熱っぽい瞳は、グリエに今更ながら身の危険を感じさせた。


「あ、え、えーと……」

 視線をさまよわせて、ぱっとグリエは身を離した。そして、さも今見つけた、というように、床からものを拾い上げるしぐさ。


「ほ、ほら、指輪が取れちゃったよ。あたしが着けてあげる」

「まあ。さっそく、気が利きますわね」

 上機嫌なラビオリが手を差し出す。グリエはできるだけゆっくり、元の指にリングを通した。


「……少しキツくなったような」

「気のせいじゃないかなっ。それより、なんだかあたしぼうっとしてきちゃった。のぼせちゃったみたい」

 グリエがよろめいてみせると、これ幸いとラビオリはその体を抱きとめた。


「それはいけませんわ。体を流してあがりましょう。それから、ゆっくり話し合いましょう。これからのことを……」

 ラビオリの笑みを近くで見ながら、グリエは体を流れる冷や汗が湯気にまぎれてくれることを祈っていた。


(セージめ、そのうち絶対バチが下るからね!)

 そして、心中でやり場のない怒りをふつふつと燃やしていた。結果として、グリエの体温はかなり上がっていたので、ラビオリはグリエが本当にのぼせていると信じてくれたのだった。


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