第2話

私は反射的に空いている手を突き出して、彼の肩を押した。

その手首をつかまれ抑え込まれそうになり、咄嗟に振りほどこうとする。

細身の彼の力は、 異常に強い。


頬が裂けんばかりに弧を描く唇の向こうで、赤い舌が覗く。

今までとは違う意味でゾクッとした。


「やッ――― やめて、くださいっ!!」


無我夢中で足を振り上げ、彼のお腹めがけて蹴りを放つ。

手ごたえはなかった。

足が当たる直前に、彼はベンチから飛びのいていたから。


少し離れた位置で月光を浴びる男性は、先ほどまでのヴィンセントさんじゃない。

鋭い八重歯をむき出しにして、私を嘲笑っている。

―――― ”吸血鬼”の 顔だった。



「………惚れた男を足蹴にするんだ。いい根性してるじゃん?」


小馬鹿にするような物言いに、これまたさっきまでとは違う意味で顔が熱くなった。


「惚れてなんか……っ!」

「嘘つき。会った瞬間から熱っぽい目ぇしてたくせにさ。……あれ、誘ってたんじゃねぇの?」


下卑た笑みを浮かべる彼に対し、今はもう、甘酸っぱい気持ちなど抱かない。

ひたすらに腹立たしく、憎らしかった。

血を奪うために弄ばれたのだと、表情や言動から読み取れるから、余計に悔しい。


「食欲抑えるの、しんどかったんだけど。まだお預けするつもり?

アンタ、普通の人間じゃないでしょ。魔族かなぁ………すげぇ美味そうな匂いがする。」


立ち上がり、舌なめずりする彼から距離を取る。

血を与えるのはもちろん、嫌だ。しかしそれより、騙されたことが許せなくて、彼には怒りの感情しか湧き起らない。


「………最低。貴方みたいな吸血鬼は大嫌いよ。」




実は以前、餓死しかけている吸血鬼を助けたことがある。

住んでいた村で吸血鬼という正体がばれてしまい、村人全員に追われ、命からがら街まで逃げてきた女性だった。


血の代用品を持ち歩き、薬まで使用して、極力血をのまないように努めていた彼女。

私が血を分け与えたとき、泣きながら何度も礼を言っていた。

その様子を見て、私の方が申し訳なくなった。


彼女は一日だけ私の家で横になっていた

次の日の夜、「このお礼は必ずする」と書置きを残し、名も名乗らずに姿を消した。

後日私宛に、貴重で滅多に手に入らない材料ばかりを使用した調合薬が届いた。



世の中には、そんな吸血鬼もいるのだ。

心優しく、誰も傷つけず生きようとする、脆く儚い存在が。


―――― でも、この人は違う。


「騙された方が悪いんだよ、おバカさん。

いいから早く、喰わせろ。殺しはしないから、ね。」


弄んで嘲笑って、楽しんでいるのだから。



私は肩を怒らせ、つかつかと彼に歩み寄る。

向こうが身構えるのを待たず、右手を振りかぶって、白い頬を張った。

静寂の空気で木霊する、強烈な音。


彼はこちらを横目で窺い、一瞬消した笑みを再び浮かべる。

唾液を吐き出し、唇を拭う―――― その所作さえまだ美しいって、思ってしまう。

悔しい。


「最低だッ……… どうしてそんな風にしか、血を求められないの?!」


涙で目の前がにじんでゆく。

振り上げたままの右手首を、強く掴まれた。

まっすぐに此方を見据える朱色の目が冷たい。彼はわざと殴られたのだろう。


「血を分けてほしいって、頼むことだってできるじゃない。なのに、どうして――――」

「アンタは本当にバカだね。」


恐ろしく冷えた声が、私を掻き切った刹那。



右手首の内側に強烈な痛みが走り、叫びをあげた。

皮の薄い部分が噛み千切られ、太い血管に牙が届き、裂いて抉っている。

濁流となった血は、彼の端正な口元に吸い込まれ、一滴も零れることはない。


「痛い、痛いっ!!いやぁッ、やめて…………この、ッ!!」


左手に雷をまとわせて拳を握り、彼の首元を狙う。


突然、目の前が真っ暗になった。

彼の背から開いた夜のような両翼が、彼と私の間に入り込んでいるのだ。

私の拳は羽に阻まれ届かない。まるで、鋼みたいに硬くて。


「い――――い゛やだあ、……ッい―――うああ…ぁあ…………!!」


困惑しているうちに、身体に力が入らなくなった。

頭が重くて眩暈がする。


痛みはもう感じない。

手首から血が失われていく、非常に嫌な感覚だけが、私の身体を蝕んでいく。




気づけば両膝をつき、右手首をかばう形で蹲っていた。

頭に霞がかかったように何も考えられない。

ちかちかする視界の中で、彼の妖艶な笑みが浮かんだ。


「こういうところが見たいから、貰うんじゃなくて、奪うんだよ。」


横に裂けた手首の傷から、細く血が流れて地面に垂れる。

魔族であるが故に、回復力が人間より優れているから、傷はすぐにふさがるだろう。

でも、血を失いすぎている。

悔しくてたまらないが、彼に立ち向かうことが、今はできない―――



「イイ子だね、ポーラ。アンタは俺の思い通りに動いてくれた。」


「ごちそうさま。 また、喰いに、来るから 」


「 それまでに死んだら 許さないよ。 」



頬を撫でてゆく風のような掌に、噛みつくことさえ叶わずに。

涙の染みしか残せないのだろう。


私の意識は、自分の浅はかさを悔いながら、夜の狭庭に沈んでいった。





目覚めると、自警団本部の仮眠室に居た。

真っ白な天井が目に入り、助かったのだと自覚する。

横になっていた身体を起こせば、少し頭がくらくらするが、意識ははっきりしている。


その時、右の手首がちくりと痛んだ。

手首には包帯が巻かれており、僅かに血がにじんでいる。

それを見た途端、胃のあたりが重くなり、暗い気持ちになった。


「おお、気が付いたか!」


同僚の自警団員が軽食を手に部屋に入ってきて、嬉しそうに声を上げる。

私は彼と目を合わせず俯いて、己の感情と戦っていた。


「街はずれの公園でぶっ倒れてたんだと。近所の住民が通報してくれたんだよ。

手首の傷は大したことないが…… 一体どうしたんだ?何があった?」


傷の場所が場所だけに、同僚は顔を歪め、言いにくそうに尋ねてくる。


「…………至急、全班に通達を。それから、住民に警告を伝える準備もしてください。

凶悪な吸血鬼が街周辺をうろついている危険があります。」


私は震える声で告げながら、寝台から降りる。

同僚の、説明を求める問いかけも、制止する手も振り払い、まっすぐに出口に向かった。



自警団になって以来、初めて感じる屈辱だった。

嘲り笑われ、小馬鹿にされ、ハエでも追い払うかのようにあしらわれた。

血を吸われたことより、それらの行為が胸に痛い。


それより、何より。

私は自分の浮ついた心に腹が立って、胸を掻き毟りたい気持ちだった。


警戒もせずに甘い心地を抱き、それどころか彼と良い雰囲気になることさえ期待して、まったくもって恥ずかしい。

自警団失格だ。


唇を噛み、まっすぐ前を睨む。

すれ違った同僚がぎょっとして道を開けた。

きっと今の私は、ものすごい形相をしているのだろう。


いや、これでいい。

私に足りないもの。緊張感、警戒心、自制心。

それらを手にするためには人が避けるほどの威圧感が必要だ。


今この瞬間から、気持ちを入れ替え、失態を糧にする。

私は深く深く息をついて、上司の部屋へ報告へ急いだ。

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アッチェレランドは残酷に 吉野さくら @nametorakame

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