第2話

東和一刻は13歳を生きていた。


「あれー?」


和やかな夜のリビングに、一刻の間抜けた声が響く。

それは脱衣所方面から聞こえたため、永真はテレビに向けていたぼんやりとした視線を、そちらに投げやる。


「永真、これどうしたの?」


リビングへ入ってきた一刻の手には、薄汚れたワイシャツが握られている。


永真は顔から血の気が引くのを感じた。

それは昼間に同級生たちに乱暴され、ボタンを引きちぎられたシャツだった。


永真は昼休み終了後、地面に捨てられ土色を帯びたそれを羽織り、こっそり早退して家に帰った。

シャワーを浴び傷の手当を済ませてからボタンをつけ直そうと思っていたのだが、あまりの気怠さに手当を終えてすぐ寝てしまったから、シャツは脱衣所に放置しっぱなしだったのだ。


風呂に入る前の一刻に気づかれてしまったのは当然だろう。

家事分担において洗濯担当は自分だから、他のものと混ぜて洗ってしまえば大丈夫だと油断していた。


永真は心の中で舌打ちをし、立ち上がって一刻に近づくと、その手からシャツを奪い取った。


「…グラウンドで転んだ。」


単調だが違和感しかない説明に、一刻の顔が怪訝そうに顰められる。


「転んだだけでこんなに汚れる?ボタンも外れてるし…。」


「派手に転んだんだよ。ボタンは前から取れかかってたから。」


「でも…、」


何か言いたげな一刻の脇を通り過ぎ、二階へ続く階段を上る。

背中に一刻の制止の声がかかったが、無視をして階段を踏みしめ、自室へ逃げ込んだ。



ベッドに腰を下ろし、目の前にシャツを広げる。

満遍なく付着した焦げ茶色の土埃は、転んだと言えばそう見える汚れ方だ。

ボタンは4,5個ほど飛んでいる。これを転倒で説明するには無理があったが、信じられない範疇でもない。

…と、自分に無理矢理言い聞かせた。


永真はシャツを丸め、自室のゴミ箱に詰め込んだ。

あとでこっそり捨てよう。

ボタンをつけ直す気も、洗濯した後で着る気にもなれなかった。


その日はそのまま、泥のように寝付いた。

眠りに落ちる寸前、階下から、シャワーの水音が聞こえた気がした。



翌朝、一刻は何も追求しては来なかった。

いつものようにハムエッグとトーストとカフェオレの朝食を用意し、永真に笑顔で「おはよう」を投げかける。


20分も洗面台を独占する兄に文句を言う弟、ゴミ出しを忘れた弟を貶す兄。

いつもの二人だ。

何も変わることはない。

今までもこれからも、変わらせはしないと、永真は思っていた。


しかし。

永真が自分を罰することで必死に紡いできた”日常”は、皮肉にも、守ろうとしていた兄の手で壊された。



その日も永真は昼休みに彼らに呼び出された。

いつものように暴力を振るわれる、これもまた変わり映えのない日常。


「こいつさぁ、男のくせにめっちゃ肌白くて、キモイの。見る?」


彼らの中に見慣れぬ女子生徒たちがいることに永真は気づいていた。

彼らは彼女らに良いところを見せるつもりか、いつもよりじわじわと永真をいたぶろうとしていた。

永真を羽交い絞めにし、小型ナイフの切っ先をシャツに引っ掻ける。


「きゃー、やだぁ、マジでやるのー?!」


(またシャツを買わないと。出費はどう誤魔化そうか。)


永真は彼女らの甲高い悲鳴を聞きながら、ぼんやりと考えていた。


「下もやっちゃえよ」

「やだやだやだ、マジキモイ!そんなん見せないでよ!!」

「根性焼き見せてやるよ、こいつ泣かねぇけど」

「下にやったら泣くんじゃね?」


ズボンに誰かの手がかかる。女の悲鳴が上がる。永真は考えている。


(今日、一刻はバイトで帰りが遅いから、その間にシャツを買いに行こう。)


「……お前みたいなのが家族なんて、一刻は本当に、かわいそうだわ。」


ああ、まったく、その通りだ。

昼下がりの太陽光がとても眩しくて、目を閉じかけた瞬間。



それよりもさらに眩しい光が辺りを劈いた。



陽だまりよりも暖かく、それでいて鋭い雷のような光が、永真の閉じかけていた視界をこじ開けた。

余りの眩さに一瞬まばたきをするが、すぐに目を見開き、眼前の色を見る。


淡い山吹色の光が徐々に解かれ、中から凶悪な赤色が滲み、広がってゆく。

同時に鼻をつく生臭さで、永真はすぐ気付いた。

血だ。


だが永真は痛みを感じていない。確かに目の前で、血潮が広がったのに。

疑問を感じるより前に、どさ、と足元で聞こえる鈍い音に、視線を下げた。


永真のシャツを切ろうとしていた同級生が倒れていた。

背に何かで抉られたような傷を作って。


そこから夥しい量の赤い液体が流れ、その身体を沈めてゆく。

永真が息を呑む寸前、響いた女の悲鳴は、フィルターがかかったように永真の耳には届かない。


両親を殺した日の記憶が鮮明に呼び起される。

血の匂いは永真の中の闇を呼び起こす。

殺せ、殺せ、と 聞こえたから、殺したんだ。

両親と、自分を。



永真はパニックになり、記憶と戦うことに必死で、声を出すことすらできずに目の前の惨状を見守るしかなかった。


そこには光しかなかった。

のどかな陽だまりを暴力的に裂いて、破壊していく幾重もの閃光の矢継。

逃げ惑う彼らは、ある者は心臓を、またある者は額を射抜かれ、死んでいった。


「………い、いやだ、死にたくない……!!」


永真をいじめることに一番熱心だった上級生が、腰を抜かして震えた声を捻り出している。

感情が抜け落ちた表情で自分を見下している人間へ、



「頼む、殺さないでくれ、 一刻!!」


叫んだ瞬間に、その大口を光で穿たれて、死んだ。



太陽は燦々と降り注いでいるのに、そこら一帯はまるで真冬のように沈み込んでいた。

あちらこちらに死が散らばり、収束することなく失われていく。

ここまで多くの死を見たことが、永真にはなかった。


しかし、両親というたった二つの死と比べ、絶望は、どこにもなかった。

嫋やかな希望だけが、血に塗れ、光を纏う一刻の周囲を渦巻いていた。


一刻は暫く、不思議そうに光の迸る両手を眺めていた。

そしてひどく緩慢な動作で、へたりこんでいる永真を見据える。


それはまさしく、何人もの命を奪った光の矢のような、眩くあたたかい目だった。

とろり、と蕩ける目元で、光の粒がきらめいて。



「永真、」


百日紅色の唇が、希望をたっぷり味わって微笑んでいる。



「これで、 おそろいだよ。」


永真は、いっそ光に焼かれて死んでしまいたかった。



「良かったぁ、本当に良かった。これでおんなじだね、永真。僕も同じになれたんだよ。嬉しい、嬉しいなぁ。」


一刻が喜んでいる。

譫言のように歓声を上げながら、魂と感性が抜け落ちてしまった永真の身体を無理矢理に立たせて、その肩を揺する。

永真はまるで他人事のような感覚で、それらの所作を見ていた。


「生きよう。生きようよ。生きてよ、永真。お前だけが苦しむ必要はないんだよ、僕だってもう、お前と同じ、」


人殺しだから。


同じ血を浴びて、同じ身体の造りを持ち、同じ罪を背負っている。

しかし、真っ赤に染まりながらも向日葵のように笑っている兄を、同類だなんて思えない。


自分の所為で、目覚める必要のないものを呼び起こさせてしまった。

自分の身体に新たな、とても深い罪が重ねられただけだと、永真は思った。



誰かに罰を与えさせていたのが悪いんだ。

結果として兄まで巻き込んで、人殺しにしてしまった。


もう誰かから与えられる罰では償いきれない。

自分で自分を罰し、それに耐えて、闇に飲まれて死んでいかなければ。



「………お前と、一緒にするなよ。」


臓器の底から涙と共に絞り出された声は、その後、永真の口癖となる。

もう二度と兄のことを、”兄さん”とは呼ばないだろうと、永真は確信する。


「お前、なんかと、……… 一緒にするな。」


自分自身に呪いをかけて、明日からまた死ぬためだけに生きていこう。

そう思う自分の前で、顔をくしゃくしゃにして笑う一刻の気持ちが、およそ理解できない方向に歪んでいく音を、永真はそっと、聴いた。


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litter-mate MZT 吉野さくら @nametorakame

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