2170年8月14日森の中で

@hayama116

八月の森

 森の中のベンチに座り、そこで考え事をするのが夏休みの私の日課だった。

 ある日のことだった。

 冷たい空気に包まれ始めた森の中で、もう日も暮れようとしたとき、一人の老婆が私の隣に座った。私は簡単なあいさつで、早々に切り上げて家に戻ろうと思ったのだが、老婆は私に次のような話を始めた。


 「一人の科学者が、心臓を造ることに成功しました。とても小さな心臓でしたが、科学者はその心臓を毎日眺め、自分自身の技術力や知識の素晴らしさを誇りに思っていました。」

 私は老婆の独り言をラジオのように聞いた。それは最初、意味のある言葉とは私には思えなかった。ただ老婆の声だけが優しかった。

「赤く浮き出た血管が激しく波打つ度に自身の心臓のあたりがじわじわと暖かくなり、時に痛んだそう。

 ある日、その痛みが止まらなくなりました。痛みは激しくなり、科学者の心臓を突き破ったの。すぐに病院に運ばれ、移植手術が始まった。自分自身が造った小さな心臓が、科学者の胸の中へ移植され、一命をとりとめました。

 退院した科学者はすぐに新しい心臓を作り始めました。次から次へと新しい心臓が造られ、科学者は心臓を造る工場を作りました。工場は世界中に建設されたわ。工場からは廃水の代わりにおびただしい量の血液が流れ出た。でも、死にかけた人は生き返り、病気の人は皆救われたのよ。科学者は世界に「生」を与え、世界は、「生きる」ことに喜びを見出したのよ。

 心臓は毎日造られ、毎日誰かが購入した。そして心臓の価値はみるみる下がり、類似品が多く出回っていったのよ。戦争が起きれば、兵士はリュックに心臓を入れ、幾本かのチューブで自分の体につなげた。空からは缶に入った血液がばら撒かれ、兵士が死ぬ事は無くなった。死ぬまで戦い続けるのではなく、永遠に戦い続けることになったの。戦死者の出ない戦争は決して終わらなかったわ。憎悪だけが増えていったのよ。

 その科学者の胸にはいまだに鈍い痛みが残っていた。科学者は痛みを消す方法を考え、より強く頑丈な心臓を造ることにしたの。大きくて強い心臓であれば、傷付くことなく痛みも無くなるだろうと考えたのね。出来上がると、さっそく心臓を自らに移植した。それでも数年経つとまた痛みが出てきた。科学者はさらに強い心臓を作り、痛みを鎮めるために数年繰り返して、新しい心臓を造り続けたわ。

 科学者はついに巨大な心臓を造った。人がひとり入れるほどの大きな心臓だったわ。科学者は全てを捨てて、痛みを消すために心臓の中に入った。科学者の身体と、巨大な心臓は一本のチューブで強く繋がれてね。

 心臓の中は孤独な世界だった。最初の数日間、彼は耐えたわ。周囲の人々は彼に警告した。それでも、その中で科学者は一人で生きたの。巨大な心臓は大きく脈打ち、周囲の家や、高層ビルを、大きな振幅で揺らし始めた。そんなことが数ヶ月続いたにもかかわらず、周囲の人からの苦情は、一切なかった。揺れていることに気付いていないのかと思えるほど、人々の暮らしは静かで穏やかになっていた。しかし、世界各地で造られていた小さな心臓に関しては、次第に苦情が寄せられるようになった。戦争は続いていたから。

 科学者は巨大な心臓の中で静かに生きていた。巨大な心臓はその鼓動をやめなかった。低く震えるような鼓動は、科学者の肉体の外で響いていた。すでに三年の月日が経ち、服は溶け、科学者は裸になり、自分の心臓にやさしく包まれていた。科学者は自分の鼓動を聴き続けたの。そのうち「鼓動」という言葉も忘れ、音に包まれ彼の世界は沈黙したわ。それはもはや「音」でさえなくなろうとしていた。全く違う人間が、脈を打つ度に生まれてくる、そんな感覚だったのね。決して後戻りすることのできない時間を刻んでいたため、脈を打った瞬間から次の脈を打つまでの間に、科学者の記憶は塗り替えられていった。科学者は自らが科学者であったことを忘れ、自分が男だったことも忘れた。そして人間だったことも・・・

 目を瞑り、心臓の壁の方へ近寄り、自分の額を心臓の壁にぴたりとつけた。額からこめかみ、耳、左肩、そして左の胸のあたりに、赤くそして黒く輝く肉の壁にみずからをめり込ませていった。自分をめり込ませてみると、心臓よりも、自分の肉体の方が温かいということが分かった。その時一瞬だけ、自分がかつて人間だったことを思い出したの。その科学者は、身体を心臓から離すことができなかった。肉体の湿った熱が、心臓を温めようとしていたから。もはや、身体を離す気など科学者にはなかった。科学者はそこで科学者であることをやめ、ようやく人間について考え始めたのよ」

 

 日はすっかり暮れて、森の中は冷たい空気に包まれていた。

私はしばらく黙り込んでいたが、こう聞いた。

「その人は一体どうなったんです?」

「結局、心臓から出てくることに決めたの。出てきてから、自分の胸に一番最初に造った小さな心臓を移植したのよ。それから彼は誰とも話をしなくなったわ。何を言われても、何をされても、言葉を発する事はなかった。言葉の世界を忘れたように。でも次第に彼の周りには人が集まっていったわ。ひとりひとりの話を聞いてあげたの。彼はいろいろな場所へ赴き、人々の問題を考え続けたのよ。彼の頭はおかしくなったという人もいたけど、彼の眼差しはそうではなかったわ。その瞳は大切なものに向かって注がれているように見えたし、輝いていたもの」

 老婆は両手をゆっくりと擦り合わせてから私を見た。

「何があったんでしょうか。私なら、そんな稀有な経験を言葉を使って、もっと話をしたでしょうね。そんな体験をしたのなら」私は何か小さな混乱をしたまま言葉を発したようだった。

 老婆は私の目をじっと見つめるとまた話し始めた。

「彼はある日突然いなくなってしまったの。誰にも何も言わずに去ってしまった。でも誰も探そうとはしなかったわ」

「それはなぜです?」

「きっとすぐに帰ってくると思ってたのよ。すぐに戻れる場所に行ったと思ったの。それに彼の周りにいた人達の悩みや問題はもうほとんど解決していたし、彼自身が違うところへ行きたそうなのを、みんな知っていたのかもしれないわ。いずれ彼がどこかへ行くことは、分かっていたのよ」

 老婆はもう一度手をすり合わせて、闇へと向かう藍色の冷たい空を見つめた。

その瞳の中の光が震えていた。その時、私ははじめて、科学者だった男が、実在の人物であり、老婆の大事な人間であると分かった。私は、その男が、物語の中だけの人物だと決めつけていた。老婆の作り出した単なるストーリーだと思っていたのだ。老婆の話し方が「男」を現実から離れた存在であるかのように私に錯覚させていたのだった。おそらく老婆は意図的に「男」を物語にしたのだと思う。

 私は男を現実に引き戻そうと思い、こう聞いた。

「すぐ戻れる場所ってどこでしょうね?」

 老婆の姿はもう夜の闇に紛れてほとんど見えなくなっていた。

 乾いた声だけが私の耳に聞こえた。

「戦場よ。彼は戦場へいったわ、一つの心臓も持たずに。そしてあの戦争の唯一の戦死者となり、ようやく戦いが終わったのよ」

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