断章 晴人

第11話 テントウムシ

 晴人はがっかりしていた。

 海の見える公園にサキサカの姿はなかったからだ。公園のあちらこちらを探したが、期待していたカタツムリもテントウムシも見つけられなかった。麻由子は赤城と立ち話に夢中である。

「ちぇっ」

 草の葉を蹴ると雨の滴がきらきらと飛び散った。空ではさっきまで雨を降らせていた厚い雲が割れ、太陽が顔をのぞかせていた。晴人は目を細める。まぶしい。あのときもこうだった。太陽が晴人の視界を遮って目を眩ませたのだ。


 あのとき、父親を乗せた昇降機クライマーが糸のようなケーブルを地上に伝い降りてくる様子を晴人はずっと見ていた。なぜ父親が空から降りてくるのがわかったのか、自分でもうまく説明できなくて麻由子を困らせたが、そんなことはどうでもよかった。やっとそのときがきたとうれしくて仕方がなかった。

 いまでは別の意味を帯びてしまったが、あのときの鉄太も晴人にとっては特別な存在だった。なにしろ父親なのだ。

 まだ幼い晴人の記憶にはあいまいなところがある。エウロパからの帰途、麻由子に『KANATA』からやってきたビデオメッセージを見せられて「お父さんよ」と鉄太を指して言い聞かせてもらっても、なんとなく「うん」とうなずくだけだった。お父さんという存在自体が晴人にとってぼんやりとしたものなのだ。幼稚園の友達にはいるもので、晴人にはいないものだった。

 それが突然宇宙から帰ってくるというので、麻由子とふたり飛行機に乗り、遠い南の島へ迎えにいったのは、晴人の実感ではずっと前のことになる。

 そして父親は帰ってきた。

 ブルーのフライトスーツを身にまとった三人の宇宙飛行士が軌道エレベーターの終着点アンカーゲートの到着ロビーに現れたときには、待ち構えていた研究スタッフや大勢の報道関係者から歓声が上がった。三人はそれぞれ、がっちりとした体格の意志の強そうな男、細身で背が高く繊細な雰囲気をまとった男、そして小柄で眼鏡をかけた優しそうな女だった。

「お父さんよ」

 麻由子に肩を叩かれるまでもなく、晴人は背の高い男を目で追っていた。北原鉄太宇宙飛行士だ。はにかみながらも右手を上げて人々の歓声に応えている。

 やがて人々から押し出されるように晴人たち宇宙飛行士の家族は前に進み出て、帰ってきた宇宙飛行士たちの対面した。近くで見ると、父親は遠くから見るよりずっと大きな人だった。

「ただいま」

 やはり父親ははにかんだようにそういって妻の手をしっかりと握った。大勢の人の目や構えられたテレビカメラに舞い上がってしまった麻由子は、口の中でなにかもごもごと繰り返すばかりで言葉ならず、頬は涙に濡れている。

「晴人」

 しゃがみこんで晴人をのぞき込む鉄太の顔は急に父親を演じなければならないことに戸惑っているようにも見えた。

「会いたかったぞ」

お母さんが言えなかった分もきちんと言葉にして伝えなくては――。

「おかえりなさい。お父さん」

 これまで何度もテレビで見てきた北原宇宙飛行士の顔が笑み崩れ、はじめて顔を合わせた晴人と鉄太はしっかりと抱き合った。

 六年間離ればなれだった家族だ。お互いに話したいことは山のようにあったはずだが、地球への凱旋を果たした宇宙飛行士たちには、その家族にばかりかまけている時間は許されていなかった。六年間、宇宙空間で生活してきた宇宙飛行士の身体は、J日本政府の主催する公式記者会見を挟んで、精密な医療検査と運動能力検査がJAXAの研究所Laboで行われることになっていたからだ。

「また、ゆっくり話そうな」

 鉄太とは笑顔で手を振って分かれたが、この後、息子と父親が言葉を交わすことはついになかった。


 なんだか半透明の薄い膜で隔てられた世界の出来事のように感じられる。あれから何年もの月日がたったわけではないのに、ずっと昔のことのように思い出される。

 世界は変わってしまった。

 だれも住んでいない団地。

 人影の消えた街と張り巡らされたフェンスと有刺鉄線。

 白い感染防護服。

 晴人は思う。これは「新しい世界」だと。

 垂れ込めていた灰色の雲が大きく割れて、その向こうに真っ白な入道雲と青空があらわれはじめていた。

「おっ!」

 なにかを見つけて晴人が草むらにしゃがみこんだ。草の葉の陰から小さな昆虫を探し当てて、大事そうにその小さな手のひらに包み込んだ。

 テントウムシだ。

 お母さんに教えてあげよう。晴人は立ち上がると、草を蹴って走り出した。

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