第10話 不安

 牧島夫人に、冷や水を浴びせかけられたような気持ちにさせられたということは、浮ついた気分でいたということだ。鉄太が帰ってくるということ、絵に描いたような南の島へやってきたこと、わたしはそのことを楽しんでいた。乗組員クルーの家族は皆、わたしと同じように家族の帰還を楽しみにしているものと思っていた。

「考え込まないほうがいいですよ」

 ラウンジ前の大窓から軌道エレベーターサイクロプスをぼんやりと眺めていると声をかけられた。岡嶋だった。自分の部屋へは戻らず、さっきと同じようにソファに腰を下ろしていた。

「不安なんですよ」

「牧島さんが?」

「彼女だけじゃなくて、みんな」

「みんな……」

「ぼくも、あなたも。不安だから、ああいった話も真に受けて、ことさら違った意見を吐いてみたり、深刻に考え込んでしまったりしてしまうんだ」

 岡嶋はまず自分の、そして次にわたしの鼻に人差し指を突きつけて、乾いた笑い声をあげた。

「六年間。ぼくは彼女を待ってきました。でも、長すぎました。ひとりの人間をただ待つには長すぎる時間でした。理恵は帰ってきますよ、間違いなく。でも……」

 岡嶋のいう彼女とは、妻である岡嶋理恵宇宙飛行士のことだ。しかし、声はだんだんと小さくなり、聞き取れなくなった。

「でも?」

「……すみません。はじめて会った人になにを話そうとしてるんでしょう、ぼくは。すみません」

 今度こそ岡嶋はソファを立って自分の部屋の方へ去っていった。重ねて考え込まないことですと言い残して。

「考えるな――か」

 窓の外、軌道エレベーターに視線を戻した。空港から飛び立った飛行機がまた一機、旋回しながら空の高みへと上っていく。岡嶋には、むしろ、もっと考えろと言われたような気がした。飛行機の航跡が、一本、青い空に飛行機雲として残った。


 六年間。決して短い時間ではない。あれから六つも歳をとってしまったのか、もう若くないのかと思うと、なにやら取り返しのつかないことが起こってしまったかのように感じることもある。

 本来のわたしの計画では、生まれてくる子どもは鉄太とふたりで育てていくことになっていた。そこへ割り込んできたのがJAXAの『KANATA』プロジェクトだ。晴天の霹靂のように。プロジェクトは、わたし、そして生まれてきた晴人と鉄太を、六年間にわたって引き裂いた。

 周囲の助けもあって、わたしは仕事を続けながらなんとか晴人を育てているが、鉄太がそばにいてくれればどんなにいいかと思ったことは、一度や二度のことではない。恨みに思わなかったといえば嘘になる。鉄太が、プロジェクトの宇宙飛行士に選ばれたことは、ほんとうに誇らしいことだと感じると同時に、なぜ鉄太でなければならなかったのか、どうしてわたしがこんな思いをしなければならないのかと、考えないことはなかった。

 その鉄太がわたしたちのところへ帰ってくる。

 とてもうれしい。早く会いたい。勝手に身体が躍り出しそうなくらい喜ばしい気持ちが、次からつぎへと湧き上がってくる。しかし、まぶしい光の奔流のような感情に隠れて、暗く地を這うような不安もにじみ出てくるのも確かに感じていた。六年間、鉄太はいなかった。わたしの生活は、わたしと晴人と、わたしたちを見守ってくれる優しい人たちの小さな世界で完結していた。いまここに鉄太が帰ってきたら、わたしたちはどうなるのだろう。どう変わってしまうのだろう。

 世間的に見るとわたしは、国家プロジェクトを成功させた英雄宇宙飛行士の妻で、いま日本でもっとも幸せであり、栄光に包まれた女のはずだった。わたしの小さな不安などその前ではかき消されてしまう。

 そうか。乗組員クルーの家族は皆、同じような不安を抱えているのだ。わたしたちは英雄ではない。小さな不満やよくある葛藤を抱えている普通の人間だ。それをずっと言い出せなくなるのでないかという不安をわたしたち家族は抱えている。


 自分の部屋へ戻ると少し疲れを感じた。空腹は満たされてのだが、それとはまた別のものがお腹に入り込んできて、胸やけを起こしそうだった。

 いけない。晴人だ。

 先に目が覚めたわたしだけ昼食をとってしまって、まだ寝ていた晴人は朝からなにも食べていない。わたしだけ、お腹いっぱいになってしまって、お昼を食べさせてあげないと。

「ハルくん、ごめんね」

 しかし、豪華なベッドルームは空っぽだった。床の上に、白いシーツが落ちていた。

「ハルくん?」

 返事はない。

 ベッドルームを横切ってバスルームをのぞいてもいない。もちろん、通ってきたリビングにも晴人の姿はなかった。どこへ行ってしまったのだろう? 立派な応接セットの並ぶ応接間、トイレ、ウォークインクローゼットと探して回るが見つからない。

 眠っているからとほうっておかず、起こして一緒に行動するべきだったと悔やんだ。部屋の扉はオートロックで、外からはカードがない限り入ってこれないが、部屋の中からは自由に出ていくことができる。晴人はひとりで部屋を出て行ってしまったのかもしれない。さっきまでとはまったく別の種類の不安がわたしの中でどんどん大きくなってきていた。

 あわててリビングを出て行こうとしたそのとき、視界の端になにかが引っかかった。窓の外、テラスだ。なにかがいる。

 窓を開けてテラスに飛び出すと、一瞬、天頂からふり注ぐ強烈な太陽の光に目が眩んだ。青い空と白い雲を背景にそそり立つ、灰色で無骨な巨人の手サイクロプスとその指先から天頂に向けて伸びる、蜘蛛の糸対地ケーブル

 テラスに巡らされた手すりをよじ登った晴人が、あたかもそれらを迎え入れようとするかのように、振り仰ぎ大きく両手を広げていた。

「晴人!」

 空中に向かって張り出したテラスは地上40メートルの高所にある。風にあおられ手すりを踏み外して、ホテルの外へと落下しようものならひとたまりもない。わたしはしゃにむに駆け出すと、息子の腰にしっかりと腕を回し、手すりからひったくるようにして床に倒れ込んだ。

「なにしてるの!」

「あ、お母さん。おかえり」

「おかえりじゃない! 絶対にこんなことしちゃだめ!」

「うん……、でも、ほら……」

 わたしは必死になって、おかしなところはないか、怪我はないかと息子の身体のあちこちを確かめていたが、肝心の晴人はわたしのことなど見ていなかった。仰向けに横たわったまま、わたしよりずっと向こう、蜘蛛の糸が空に消えてゆく彼方を見て、こういったのだ。

「お父さんだよ!」

 思わず振り返ると、空の彼方、きらめく対地ケーブルが青い天蓋の底へ消えるまさにその位置に、かすかに、しかし確かに黒い昇降機クライマーの姿が大きくなってきていた。


 英雄たちクルーの乗る方舟だった――。

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