髪結いの呪

潮風凛

いつまでも貴女の傍に

 しめやかに雨が降る。これが天津神が零す涙だとしたら、きっと喜びの涙だろう。雪解けを促し、今は地中深くで眠る草花に目覚めを呼びかける春の雨。

 この時期、水仙姉様は一段と艶やかに美しく見える。それはとこにいたとしても変わらない。いつもどこか気だるげな瞳は寝起きでぼんやりと揺れ、部屋の一角に控えた私を見つけると花も恥じらう微笑みとともに艶やかに蕩けた。


ひな、そんなところにつっ立っていないでこちらにおいでなさい」


 小袖から伸びるほっそりとした指に呼ばれるままに、しずしずを意識して歩み寄る。意識して、だ。己の短い脚では、どうしてもとてとてという感じになってしまう。幼い体躯をしているが、本当はずっと大人なのに。どうあがいても姉様のような艶やかさは出せず、理解していることではあるがそれでも実感するたびに悔しさが滲んだ。

 一方の姉様は、品位に欠ける妹がいても嫌な顔ひとつ見せない。それどころかより一層笑みを深め、歩幅ひとつ分空けて立ち止まった私をぱっと抱き寄せてしまった。

 急なことに私は驚き、慌てて姉様の肌が私の髪に触れていないか確認した。幸い切りそろえた前髪も、肩口で揺れる髷の後れ毛のひと房も小袖の柔らかな布地に触れただけで、白く滑らかな彼女の肌にはかすりもしていない。そのことにようやく肩の力を抜いた私は、他人ひとには滅多に見せない無邪気な笑顔で頬を寄せてくる姉様に呆れたような溜息をついた。


「姉様、驚かせないでくださいませ」

「だって、雛が意地悪するから。貴女も私に甘えていいのよ?」

「立場というものがありますから。本当は姉と呼ぶことも恐れ多いですのに」

「駄目。ふたりの時は姉様と呼んで頂戴。貴女は、私のたったひとりの家族なのだから。そう約束したでしょう?」


 言われて思い出す。厳寒の頃、囲炉裏の温もりを分け合って語った夜。ぽつり、ぽつりと話した昔話の終わりに姉様が言ってくださったこと。


『雛も、本当の親はいないのね』

『はい……』

『だったら、私と姉妹になりましょう? お互い独りきりなら、一緒になればいいとおもうの。そうしたら、もう二人とも寂しくないわ』


 いつだって私を本物の妹のように愛してくれる、優しい水仙姉様。私は彼女と話すのが好きだった。この小さな離れで姉様と過ごす時間は、何にも代え難い愛しいものだと感じていた。

 けれど本当は、私は姉様に「姉妹」と呼ばれるのに値するような人間ではない。愛されていることを知るたび、逃れられない己の立場を自覚して苦く笑った。

 心の内に燻る闇はおくびにも出さず。それでも少し強張ってしまった顔を姉様に訝しく思われる前に、その表情に合った話題を探した。


「姉様、今日はお加減はいかがですか?」


 肌が触れるほど近くにある姉様の顔を覗き込む。顔色は悪くないけれど、出会ったばかりの時と比べ肌つやはすっかり失われてしまった。抱き締める腕も細くなっている。もしかしたら、食事があまり喉を通っていないのかもしれない。

 私が姉様と引き合わされて暫くした頃、姉様は少しずつ体調を崩されることが多くなった。酷い時は、床から起き上がれない日もある。その原因を知っている私は、しかし口を閉ざしたまま苦しげな姉様の傍にいることしかできなかった。

 優しい姉は、愚かな妹が隠している事実を知らない。今日もまた気丈に微笑み、「心配してくれるなんて、雛は優しい妹ね」と囁いた。


「大丈夫。雛がいるだけで、私とても元気になっちゃうわ。さあ、そろそろ身なりを整えないと。水仙を愛でる客人に、こんな姿見せられないわ」


 その言葉に、小さく胸が痛む。だが私は無視して、姉様が華やかなお着物に袖を通すのを手伝った。それから背後に回って、腰まで届く長く艶やかな黒髪を髷の形に結い上げていく。

 時を止めたような、静謐な時間。その中でふと、朝から降り続ける雨の音を聞いた。

 降り注ぐ天の涙。萌えいづる新しい命の気配。


「もう、春になるのね」


 ずっと黙っていた姉様が呟いた。私は彼女の髪を梳りながら、甘えた声でお願いしてみる。


「桜が咲いたら、一緒に見てくださいませ」

「そうね、楽しみにしておくわ」


 他人ひとからみたら本当に細やかな、他愛もない約束。けれど子供のじゃれあいのようなやり取りが、私にとっては何よりも大事なものだから。

 だからどうか神様。私がこんなことを願える立場にないことくらい分かっている。それでもどうか、私の傍にもう少し姉様を留めてください。喜びの涙を零すなら、その喜びをほんの少しでいいから分け与えて。せめて貴方が待ち望む春を見終わるまで、暫しの時間を私達にください。

 さあっと細かい雨が、朝の屋敷を包み込む。降り注ぐ細い雫は、艶やかに流れ落ちる娘の髪にも似て。


 ――姉様の髪のひと房をそっと摘む、その度に。私の髪が少しずつ短くなっていくことを、彼女は知らない。


 *


 雛菊という名前は、表向き働かせてもらっていた宿の女将からもらった。

 本当の名は、ただの雛。いつまでも幼い姿のまま全く成長しないことからつけられたものであり、私のように生まれながらにして身体に呪いを宿した娘につけられる決まりみたいなものだった。

 私の家では、しばしば呪いを身体に宿した娘が生まれる。……否、生まれるという表現は正しくないだろう。私の本当の両親はいるのかすら不明で、私は家が所持する儀式場で拾われたというから。

 別にそう珍しいことではない。私の家は名の知れた呪術師の一族で、長く続く系譜の中では度々あることなのだ。娘が呪いを宿している原因は、長く人を殺めてきた一族に対する恨みの権化とか、系譜に妖怪ひとでなきものが混じることの証とか、諸説あってはっきりとは分からないらしいけれど。

 娘は四、五歳ほどの姿で現れ、皆揃いも揃って引き摺るほどに長い髪をしている。そこから僅か十あまりで身体の成長が止まってしまう。また人に比べ短命であり、三十まで生きられたらいい方だ。成長を止めるほどに強い呪いが、命の長さも縮めてしまうのだろう。

 そんな儚く不思議な少女達だが、更にある特異な性質を持っていた。他人の髪に触れることで、己の呪いをその人に移すことができるのだ。

 呪いを移すたび、私達の髪は短くなっていく。別にそれで成長するようになったり寿命が延びたりはしないけれど、長く続ければ移した他人を呪い殺すことができるという特性に一族は利用価値を感じた。

 以来、「雛」は一族の商売道具として様々な人を呪うことに使われている。私怨で恨みを買った町民からお金持ちの館の主人まで、ありとあらゆる人間の髪に呪いを移していく。

 私も一族に言われるまま、沢山の人を呪った。姿は変わらないが内面は既に十六。身の丈よりも長かった髪は背の中ほどまで縮んでいる。失った髪は、私が人を呪い殺めてきたことの証。けれどそのことに、何の疑問も抱いていなかった。

 市井に混じる稽古として小さな宿の下働きをしていた私にその依頼が届いたのは、風がようやく涼やかさを帯び始めた夏の終わりのことだった。

 依頼者は、名の知れた名家の女主人。呪う相手は、その義理の娘。聞くところによると、この帝都を揺るがしかねないほどの絶世の美人で、且つ奔放な娘だという。

 あまりの気まぐれさと使用人全てが骨抜きにされるという事件に堪らず遊郭にやったが、そこでもまた奔放に振る舞い、数々の伝説を作り上げた後遊郭の客全員の無理心中と見世の全焼をもって実家に帰ってきた。それからは離れに事実上軟禁しているが、しばしばあちこちの男がひと目見るためと訪れ、或いは一夜の情を交わす。ずっとそのままにしておくわけにもいかないので、どうにかこっそり処分してくれ。それが、依頼内容だった。

 聞いた時は何の冗談かと思った。そのくらい、とんでもない話ばかりだったのである

 だが実際に対面して、噂は本当であると実感した。女の自分から見ても思わず見蕩れてしまうほどの美人。ほっそりとした肢体を大胆に着崩した着物が覆い、その上を艶やかな黒髪が流れる。気だるげな瞳は猫のように気まぐれで掴みどころがない。大胆で力強く存在感があるにも関わらず、目を話したら消えてしまいそうな儚い雰囲気がある。私は周囲の品定めをするような視線も忘れて、思わず息を詰めて見入ってしまった。


「なんだ、女の子なの」


 つまらなそうに呟く声すらも、鈴を振るような可憐で、それでいて鼓膜が熱を帯びるような艶やかな響き。初めて会った水仙姉様は、まるでその動きのひとつ、言葉のひとつでこの場を支配していくような、美しくも少し怖い女性だった。

 衝撃的な出会いにすっかり怖気付いてしまった私だったが、仕事である以上逃げることは許されない。持てる知識と経験の全てを注いで、とにかく彼女の信頼を勝ち得ようと努力した。

 姉様の心に潜り込むのは、中々難しいことだった。何より私は、彼女を全然理解することが出来なかった。

 いつも絶え間なく違う男が現れて、常に誰かの視線を受けている彼女と、日陰に生き出会う人を尽く殺してきた私。姉様は私と生きている世界の違う人だと、私の想像も及ばないような高みを歩いている人なのだと、ずっとそう思っていた。

 だが分からないなりに理解しようと足掻き、長い時間をかけて毎日を共に過ごしていくに連れて、少しずつ彼女が隠してきた部分が見えてくるようになった。

 早くに亡くした母。娘を見ない父に愛されたくて女性であることを磨いたが、それが仇となって義母に疎まれたこと。結局努力は報われることなく父が亡くなり、義母の連れ子である義兄に襲われたのを自分のせいにされ遊郭に売られたこと。


「遊郭の人は優しかったわ。世間は時代遅れの女の遺棄施設なんて言うけれど、姐さんも客の男も優しかった。こんなに素敵なことがあるなんて、全然知らなかったの」


 誰かの愛を知らなかった姉様は、その穴を埋めるように男との快楽に溺れた。毎日違う男に抱かれ、違う男に愛され、一夜の儚い夢を見る日々。だが、その時間も長くは続かなかった。

 男のひとりが他の男と交わる姉様に激昂して、その日の相手である男を殺そうとした。彼らは相討ちとなり、その噂は姉様と心中を図ったのだと尾ひれがついて広まった。結果客のほとんどが自害を遂げ、焼死を図った男によって店が燃やされてしまった。


「離れにいれた私を、家の者は誰も見ようとしないわ。たまに外の男が私を愛でにくるだけ。まるで籠の鳥か、鉢に植えられた水仙のよう」

 結局私は、誰にも本当に愛されることなくその生涯を終えるのだわ。


 そうぽつりぽつりと話してくれるたび、私の胸は苦しくなった。姉様を怖いと思ったことを、彼女の表面しか見ていなかったことを私は激しく後悔した。

 姉様は私と同じだった。……否、私と同じように自分の一部しか他人が見てくれなくても、私よりずっと強く美しく生きている人だった。

 知らず、私は姉様に自分の境遇を語っていた。沢山ぼかしはしたけれど。朝晩彼女の髪を梳り整えながら、自分がどんなに卑しく浅ましい存在であるかを告白した。

 姉様は私の話を聞いても、少しも嫌悪の表情を見せなかった。ただ優しく微笑んで、姉妹になりましょうと仰った。それが、どれほど嬉しかったことか。

 姉様は、私の誰よりも特別な人になった。彼女と一緒にいられるだけで幸せだった。


 だが、その時間が永遠ではないことも、その時はもう分かっていた。


 *


 その日も、雨が降っていた。行く春を惜しむ、花を散らす天の涙。


「姉様、私の声が聞こえますか」


 叫ぶような声に、知らず涙が滲む。震える手で繰り返し揺するのは、床に伏せたままぴくりとも動かない細い身体。青ざめた頬に、私が零した涙がぽつり、ぽつりと水滴を作る。

 約束通りともに桜を見てから、姉様は急激に体調を悪化させた。床から出られなくなり、話しかけてもぼんやりとしていることが多くなった。

 いつか、この日が来ることは分かっていた。私が、姉様に呪いを移していたのだから。

 ずっと、できることなら死なせたくないと思っていた。こんな仕事止めてしまいたいと思った。けれど同時に、呪いを移すことになっても姉様に触れることを切望した。

 姉様を求めて、離れには沢山の男が訪れる。彼らが姉様に触れ、身体中に痕を残していくことに私は嫉妬した。

 仕事なら、姉様に触れることができる。呪いという罰があって、初めて私は姉様に触れることを許される。そう思った。

 今日は、雨のせいか誰の訪れもない。二人だけの小さな世界。それでも、いつも身なりに気を使っていた姉様ならきっとボサボサのままの髪を気にするだろう。私はポロポロ涙を零しながら、静かに瞳を閉じたまま動かない彼女の髪を、いつものように梳った。その時、不意に姉様の腕が私の顔に向かって伸びてきた。

 それは、無意識の行動だったのかもしれない。しかし、如何なる偶然か姉様の細い指先は私の耳の横で揺れている後れ毛にちょこんと触れた。


 次の瞬間、肩に触れないぐらいの長さだった私の髪が、一気に身の丈以上の長さに伸びた。


「……っ」


 小さく喘ぎ、姉様の横に倒れ込む。私の短い命が、浴びるような呪いを一気に受けて一瞬にしてその残り時間を使い切ろうとしていた。全て、私が姉様を含めた誰かに移してきた呪いだった。

 私達「雛」は、他人に自分の呪いを移すことができる。が、その時決して忘れてはいけない決まりがひとつあった。


 ――決して、自分は髪を触れられないこと。


 髪は呪いの媒介。私が誰かの髪に触れると呪いを移すことができるが、逆に誰かに触れられると呪いが返ってきてしまう。しかも、ただ返ってくるだけではない。今まで他人に移してきた呪いが倍になって返ってくるのだ。

 ただでさえ短い命に、大量の強力な呪い。それは殆ど死と同義だ。私も、恐らく助かる見込みはないだろう。

 けれど、それでいいと思った。この呪いは私の罪。重ねてきた業の証。正しく私のあるべき死に方だ。図らずもそれを姉様が与えてくれたことに感謝したいくらいだった。

 何とか身をよじり、姉様の身体を正面から抱き締めた。呼吸を止め身体を冷たくしていく姉様は私よりもずっと大きく、大人びていて、けれどとても儚かった。姉妹のようにじゃれ、常に傍にあっても遠い。目を離すとどこかにいってしまいそうな気がする。そんな、舞い散る花のような貴女に私は恋をした。

 姉様は、いつも沢山の男に囲まれていた。彼らのように愛を囁くことは、私には許されないことなのかもしれないけれど。


「姉様。私はずっと、誰よりも姉様が好きでした」


 外界と離れを隔てる花散らしの雨の方が大きいくらいの小声で呟き、もう何も応えてくれない小さな唇に啄むように口付ける。

 それから、胸を満たす恍惚のままに吐息をひとつ。それが、私の最期の呼吸になった。

 儚い花の命を惜しみ、天津神が春を散らしながら涙を零す。雨の間離れには誰ひとり訪れることなく、ただ長い髪を絡め眠る少女達が奇跡のように時を止めていた。

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