懺悔室

しおぽてと

懺悔室~少女の告白~

 私は人を殺めました、殺しました、殺してしまいました。今から隠さずにすべてお話致します。どうか何も言わずお聞きください。――それにしても、救急車のサイレン音はうるさいですね。まあ、どうでも良いでことですが。

 私はごく普通の平凡な家庭に生を受けました。父、母、私、二つ年下の妹、美月みつきの四人家族です。母はOLで、昔から病気がちでした。よくお医者様からいただいた薬を飲んでいましたが、強いお薬なので、一日一錠しか飲んではいけないと言い聞かされておりました。父はタクシーの運転手をしておりました。不景気のせいもあり、収入は決して多い方ではありません。

 小学校一年生に上がった時、両親は離婚しました。いえ、離婚をしていた、と言ったほうが正しいでしょう。私が保育所へ通っていた頃にはすでに両親は離婚していたのです。私と妹は母に引き取られました。冬の、雪の降っていた夜、手を引かれて住んでいた家から出て行ったことを今でもはっきりと覚えています。 電車に乗り母の実家へ帰る途中、私は母に尋ねました。何故、離婚をしたのか。


「大人の事情よ。お話をし合って、決めたことなのよ」


 それだけしか教えてはくれませんでした。なにぶん幼いものですから私はそれを信じていました。

 母の実家へ戻り数ヶ月。新しい家庭環境にもようやく慣れてきたある日のことです。母は突然、言いました。


「美月も来年で小学校に上がるし、これ以上、おばあちゃん達に迷惑をかけるわけにはいかないからお引越ししましょうか」


 もちろん私達姉妹は驚きました。しかし、母は優しく微笑み続けます。


「こっそり市営住宅の抽選に申し込んでいたの。そしたらね、当たっていたの。新しいお家は小学校からも近いし、便利よ」


 幸いにも私達の荷物は少なかったので、一ヶ月と経たぬうちに新築の市営住宅に引っ越しをしました。新しい我が家は確かに小学校からも近く、祖母達の家よりも都会にありましたのでとても便利でした。

 引っ越してから二日後、新しい父親がやってきました。

 新しい父は知的な印象の人でした。簡単に言えば「出来る男」。周りからの信頼も厚く収入も安定している人でした。いったいどこで知り合ったのか、母は教えてはくれませんでしたが、ふと私は思い出しました。

 祖母の家へ住んでいた頃、週に三回、母は夜に出かけて行き帰ってこないときが度々あったのです。祖母は呆れながらもはぐらかしていましたが、今となってはなるほどと思えます。 娘の私が言うのもなんですが、母はとても美しい人です。長い濡羽色の髪に、大理石の様な乳白色の滑らかな肌。年齢よりもずっと若々しく、それでいて気立てが良くて家事も出来る。そんな母に惹かれ新しい父親が擦り寄ってきたのだろうと容易に想像できました。紹介された翌日から、四人での暮らしが始まりました。 新しい父親は初めのうちは優しく良い人でした。しかし、時間が経つにつれどんどん化けの皮がはがれていきました。

 彼は慢性アルコール中毒者だったのです。

 お酒を飲み始めると自分の意思で飲む量をコントロールできなくなるのです。家族になってはや一ヶ月。新しい父は私達姉妹に手を上げ始めました。痛かった。怖かった。気持ち悪かった。それから半年と経たず、母は新しい父と別れました。新しい父は家から出て行きました。

 後に母から知らされたのですが、この人はお酒の飲みすぎで亡くなったそうです。自業自得ですよね。 それから二年が経ち、私が小学校四年生、妹は二年生に上がりました。

 その年の五月、また新しい父親がやってきました。新たな父は母の高校の同級生であり元恋人でした。この父は以前の父とは違い、ごく普通のサラリーマンです。私達姉妹にもとても優しく、欲しいものは何でも買って下さいました。彼は時々、私達の知り得ない何かで母を困らせましたがすぐに二人は仲直りをしましたので、私は大丈夫だと、この父は信じられる人だと思いました。けれども私は不思議と、この父を好きにはなれませんでした。一緒に暮らした日々の記憶は薄いものの、本当の父の方が大好きだったのです。

 私は幼いながらもプライドが人一倍、強い方でした。いつか母と私と本当に血の繋がった父がまた結婚し、すべてが元に戻ると信じていたのです。

 それから少し月日は流れ、私は小学校六年生に上がりました。六年生にもなれば思春期の真っ盛りです。私は新しい父に対し、反抗的な態度ばかりをとり始めました。すると、新しい父の態度はみるみると変化していき、いつしか別人となっていきました。彼は大人なのに子供の反抗期に悪い意味で真っ向から勝負を挑んできたのです。

 私達のせいでストレスを感じた母の病状が悪化し始めました。仕事にも行けず寝たきりの状態が続き、私と妹は母にストレスを与えないよう新しい父のいじめ・・・に黙って耐えることにしたのです。それを良いことに、新しい父は母の居ないところ、声の届かないところで、私達を散々に扱いました。辛くて痛くて悲しくて怖くて苛々して、気持ち悪くて――それでも母のために黙って我慢し続けました。

 中学一年生になったある日、我慢の要領を超えた私は母にすべてを打ち明けました。


「あの人は良い人なんかじゃないよ? 本当のお父さんの方がずっとずっと良い人だよ。ねえ、もう元には戻れないの? また四人で暮らしたい。私、四人で一緒に居る記憶がないの。また四人で暮らそうよ!」


 母は、首を横に振りました。


「それはできないのよ」


 はっきりと応えたです。詳しい理由は教えてはくれませんでしたが、心のどこかでそう答えるのではないかとわかってもいました。悔しくて、その日は丸一日涙を流しました。ちなみに、妹はこのやり取りを知りません。

 本当の父親とは、実は別れてからも数える程度ですが交流はありました。ご飯を食べたり、遊びにいったり、買い物へいったり……都合が合えば、指で数える程度ではありますが、妹と一緒にお泊りをしたこともあります。

 母に再婚は出来ないと言われた翌日、腫れぼったい目をしながらも、本当の父と密かに連絡を取り、会う約束をしました。母達には友人と遊ぶと嘘をつき、中学校の近くにあるファミリーレストランで待ち合わせをしました。会ってすぐに、何故、離婚をしたのかと、もう何度したのか覚えていませんが質問をしました。


「話し合いで決めたんだ」


 本当のことを教えてはくれず、やはり答えてはくれませんでした。離婚してからも何度も会っているのに、どうして元には戻れないのか。ずっとそのことが心の奥底に引っかかっていました。その日も、結局欲しい答えを得られず時間だけがただただ過ぎただけでした。

 妹が私と同じく反抗期をむかえました。新しい父は過剰な反応を示し、私達姉妹へのいじめはますます酷くなるばかりでした。そして――時間の問題とも思われた事件が遂に起きてしまったのです。この家へ来たときに母と交わしていたらしい、〝子供には手を出さない〟という約束を破ったのです。

 この頃から母は薬を大量に服用し始めました。何度も、何度も、何度も病院へ救急搬送されました。新しい父は何もせず、私が本当の父に電話をして運転しているタクシーで病院へ連れて行きました。新しい父は、本当に何もしてくれなくなったのです。

 母が入院して一週間が経った日、妹の様子がおかしくなりました。すぐに声を荒げ涙を流すようになったのです。手の甲には不自然な傷がたくさん出来ていました。私はすぐに気がつきました。妹がおかしくなり出したのは、新しい父のせいだということに。

 妹の様子が変わったのと同時期に、母は退院しました。しかし、通院をしなくてはならず、たまたま妹が付き添い、母の担当のお医者様に病気を見つけてもらったそうです。

「ストレス障害」――心の病気でした。

 妹の病気の根源である父と距離を置きなさい、とお医者様から指示を受けたそうです。その話を母から聞き、私は新しい父をようやく追い出すのだと思っておりました。ですが、私の予想は外れました。

 母は、妹を追い出したのです。もちろん、小学生ながらも妹は必死に抗議しました。当たり前の行動ですよね。私も妹と一緒に抗議しました。ですが母は、しつこい妹に言ってはならない一言を口にしました。


「あなたなんて知らない、もうあなたとは縁を切る!」


 信じられないことが、目の前で起こりました。実の母が、親が、子を捨てたのです。妹は、ただただ涙を流すばかりでした。しかし、母は妹を捨てたとは思っていないのです。いえ、自覚をしていなかったのです。その日の夜、妹は一人で着の身着のまま本当の父の家へ住まうこととなりました。

 昔、小学校の中学年くらいでしたでしょうか。母は私達姉妹にこう言いました。


『お母さんは、本当のお母さんに捨てられて辛い思いをしたわ。だから同じことは、絶対にしないからね』


 そう言っていたのに、あの言葉は嘘だったのか。頭の中は真っ白になりました。

 なんて女だ! なんて最低な女なんだ! 

 腸が煮えくり返りそうでした。母は子供よりも安定した収入を――お金を選んだのです。

 更に同時期、私は母と本当の父の離婚の真相を、ようやく聞くことが出来ました。会う度に私が同じ質問をするものですから、ようやく意を決したのか、もしくは話しても良い時期を待っていたのか、硬い口を割ったのです。

 昔、生活が苦しくなり何気なく本当の父が母に一つの提案をしました。


「水商売とかしたらどうだろう」


 その一言に母は突如怒り狂ったそうです。別に「体を売れ」とは言っていません。子供を養うために、それくらいしなければ厳しい現状だったそうです。

 この事実を知り、私は悔しくなりました。妹を捨てたのも重なり、母が嫌いになりました。

 信じてきていたのに、ずっとずっとずっと愛してきたのに……何もかも、信じられなくなりました。こんな馬鹿げた人から産まれた私が恥ずかしくて嫌いになりました。

 醜いみにくいニクイ!  私も将来、この女のようになってしまうのだろうかと不安になりました。ぐるぐると頭の中で混乱し、考えているうちに、ある答えにたどり着きました。


「子供を捨てるような母親にしたのは、今の父のせいだ」


 妹は捨てられてから母を「お母さん」ではなく「おばさん」と呼ぶようになりました。最初、母は「おばさん」と呼ばれ嫌悪しておりましたが、慣れてきたのか、最近は呼ばれても普通に返事をします。時々、妹の声を聞くために電話をするのです。自分から捨てたくせにね。

 次は私の番か、と思いました。妹が居なくなり、新しい父のいじめの矛先は、私へと切っ先を向けました。しかし、何を言われても妹のように純粋ではないので相手にはしませんでした。


「こんな馬鹿の相手をしていたらキリがない」


 自分に言い聞かせ、上手にかわしていました。無視をしておりましたが、知らずのうちにストレスは私の小さな体に蓄積されていたらしく、妹と同じように、ストレス障害の症状が現れました。

 何も悲しくはないのに、辛くはないのに、知らずのうちに涙が溢れる。最初は雨が降ってきたのかと思いました。気がつくと、頬が濡れていたのです。泣く、というよりも、涙が止まらない、という状態です。

 まったく泣かないから? 涙は流さないと止まらないものなの?  何度かこの不思議な体験をしておりますと、今度は感情がほんの少しですが混じってきました。「なんとなく悲しくて涙が出る」……妹が話していた症状と同じでした。ふと、妹が母の担当のお医者様から窺(うかが)ったという話を思い出しました。


「なんとなく涙が出るのは、なんとなく死にたくなっているんだよ」


 冗談ではありません。この私があんな馬鹿に負けるですって? その時、もっともっと強くなろうと決心しました。

 いじめに耐え抜き、耐え抜き、月日は経ち、私は市立の高校へ進学しました。もちろん、あまり家庭に負担をかけぬよう徒歩で通える場所を選びました。人付き合いは上手な方ですので、中学のときと同じくすぐに友人も出来ました。部活はずっと帰宅部をしておりましたが、心機一転しようと、運動はあまり得意ではありませんが女子ソフトボール部に入りました。部員が少なかったので、ユニフォームやスパイク、グローブなど、必要なものはすべて卒業をした先輩のお下がりをお借り出来ました。厳しかったですが、部活の練習、周りの友人達のおかげで私は空元気から本当の元気をいただきました。

 とても楽しかった。ずっとこんな日々が続けば良いと思いました。家へ帰れば辛いことがたくさんありましたけど、学校へ行けばすべて忘れられました。

 あっという間に三年生へと上がっていました。部活は夏で引退し、受験シーズンです。私の進路は就職と決まっておりましたので面接の練習が週に二回、放課後に一、二時間ある程度でした。友人達は大学へ進学する人がほとんどでしたから、一緒に過ごせる人も少なくなり、私の心はまた暗くなり始めました。けれども、落ち込んでばかりいては周りの人に迷惑が掛かると思い、わざと明るく振舞っておりました。そうしなければならないのだと思っていたのです。

 ですが私も人間です。生きています。明るく振舞うにもそれが空回りしてしまうと、府の奥底に足を踏み入れてしまい、なかなか抜け出せなくなってしまう日々が多々ありました。

 今の父は信じられない。母も信じられない。本当の父も頼りがない。学校さえもストレスを感じる場となってきている。やり場のない思いを自分の体にぶつけました。腕にたくさん消える程度に、傷をつけていました。爪で何度も何度も何度も引っかきました。痛みは感じませんでした。

 十一月のある日、地獄から抜け出せる出来事が起きました。こんな非ポジティブのネガティブ不細工を好きだという、おかしな人が目の前に現れたのです。彼は同級生で、ずっと私のことを見ていた、と言ってくれました。私は嬉しくて、でも不安で、しかし心のどこかで安堵感が生まれました。私は、ぎこちなくですが首を縦に振りました。

 それからというもの、とても幸せでした。辛いことがあれば、いつでも彼が私の話を聞いてくれ、時には慰め、勇気付けてくれました。

 本当に幸せでした。いつまでもいつまでもいつまでも、この幸せが続けば良い。ずっとこの人と一緒に居たいと願いました。

 ですが――突然、彼から別れを告げられました。理由は話してはくれませんでした。私は捨てられたのです。いらなくなったのです。泣きました。一日中、泣き続けました。

 自室で一人、涙を流していると父がノックをせず入って来ました。そして、私を叩きました。殴りました。蹴りました。泣き声がうるさいからと、髪をつかまれ床に叩きつけられました。母は、私の方を一瞬だけ眇め見ただけでふいと顔を背けました。

 その時です。私の中で何かが音を立てて切れました。それはあっけなく、けれどもはっきりとした音でした。

 気がつけば私は――真っ赤な湖に一人、佇んでおりました。冷静になり辺りを見回すと、自室ではなくリビングに居ました。私の前にはいくつもの場所から血を流している母と、そして父の姿。次に右手が重いことに気がつき視線を落としますと、真っ赤に染まっている刃包丁を握っておりました。そこで気がつきました。

 嗚呼――私が二人を殺したのだな、と。

 不思議と冷静でした。改めて二人の屍に目を向けますと、なんとまあ痛々しい死に方をしているではありませんか。父は全身、穴だらけでした。顔も、もう誰なのかわからないくらいでした。母は、私は何を考えていたのでしょう。父と同様に殺した後、腹を開き臓物を床一面に引きずりだしていたのです。

 私の姿は普通に見える? ええ、それはそうでしょう。ここへ来る前に自宅でシャワーを浴びて服を着替えましたから。ええ、ええ。そうです、その通りです。二人の死体はまだ家に、そのままの状態であります。家の鍵は閉めておりません。あるのは二人の無残な姿だけですから。それに家には盗られるような物はありません。ですから大丈夫です、ご心配ありがとう。嗚呼、でもよかった。洗礼も受けてはいないのに、信者でもありませんのに、お話を聞いてくださって……本当に感謝しております。懺悔室って本当にあったのですね。宗教関係はまったくの無頓着むとんちゃくですが、日本にもこんな場所があったなんて知らなかったです。――え? ああ、そうなのですか。懺悔室のある教会って珍しいのですか。此処にそれがあるのは、ある意味、奇跡に近いのですね。教会って、実は初めて来たんです。はい、本当に初めてです。何度か前を通ったことはありましたけれども。え? どうしてここへ来たのかって? 決まっているじゃないですか。罪を告白したかったのです。話を聞いていただきたかったのです。……一緒に警察へ行きましょう、ですか。優しいのですね、あなた様は。そうですね、本来ならば警察へ向かわなくてはならないのでしょうね。けれどもごめんなさい、それは出来ないのです。いえ、もう出来ません。もう遅いのです。真っ黒に染まり地に堕ちた私を、純白の光を放つ美しいお方が迎えにやって来られたからです。――何を言っているのか、ですって? ふふ、私ついさっき、この世に存在しない者となってしまったのです。ほら、私が来る前に救急車がサイレンを鳴らしてこの近くに止まったでしょう? あれ、私が交通事故に遭ったからです。街頭も付いていない真っ暗な道でしたし、運転手の方もしっかりと前を見ていらっしゃらなかったようで……ああ、でも、痛みはありませんでしたよ。打ちどころが悪くて即死でしたので。嗚呼、すみません。そろそろ時間みたいです。もうこれ以上、ここへ居ることは出来ないそうです。夜分遅くにどうも失礼致しました。お話を聞いてくださり嬉しかったです。

 それではおやすみなさい、良い悪夢ゆめを――。

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