葉桜の君に

枕木きのこ

葉桜の君に

「はい、それじゃあみんな気を付けて帰ってね。よい休日を」

 ホームルームが終わると、生徒たちは葉擦れのようにざわざわと音を立てはじめ、教室内がにぎやかになる。私はその様子を横目に教員室へ向かう。世間は明日からゴールデンウィークに入るため、しばらくはこの喧騒とも距離を置くこととなるが、侘しさを感じることはない。


 一通り仕事を終え帰路につく。すっかり遅くなってしまった。コンビニに寄って缶ビールとビーフジャーキーとハイライトを買う。不貞腐れた顔をした茶髪の少年が不愛想に私の手に小銭を載せようとしたが、わざと両手が塞がっているふりをしてトレーに置かせる。


 アパートまでの道に小さな公園があった。入口に置かれた木彫りの札はくたびれて文字も読めない。多分、「何々児童公園」とか「何丁目公園」とか、そういった当たり障りのない名前だったろう。ブランコと、申し訳程度の滑り台に砂場。後はベンチと、小ぶりな桜の木があるだけだ。

 私はそのベンチに座り込んで、さっそく煙草に火を点けた。住宅街の灯りを眺めながら、時にその中から上がる嬌声に似た子どもの楽しそうな声に耳を傾けて、一本吸い終わるとプルタブを上げる。


 味気ない。泡と同じだ。


「秋田葉太にはもう飽きたようだ」

 小学生のころ、悪ふざけで何度も言われた。ところが今では「秋田葉太はもう飽きたようだ」と独り言ちて、自嘲するだけだ。あれほど言われるのが嫌だったのに、もうそれすら言ってくれる人がいない。


 人生はこうして途端に無になる。桜が花を咲かせ、葉桜へと変わっていくようには、自然ではない。ましてや一年周期でまた花を咲かせられるわけでもない。私たちの人生はあまりにも短い。もう一度人生が盛り上がることはないのだろうと思えてしまう。


 あっという間に缶を空けてしまった。もう一本吸ったら帰る——それが休日前のルーティンだった。


「あれ、先生」


 ライターを擦るのに集中していたせいで視野が狭くなっていたところに、突然声が降ってくる。

「——春川」

「いけないんだ。こんなところで煙草吸って」


 黒を基調とした薄手のワンピースを揺らし、後ろで手を組んで、春川が近寄ってくる。担当するクラスの女生徒だ。そういえば彼女の家はこの近くだった。

「春川こそ、こんな時間にどうした」

「べっつに」


 ストン、と隣に腰を下ろす。木製のベンチのささくれに裾が引っかかり、彼女の白く細い脚が露わになっている。私は視線を外す目的で、所在なげだった煙草をしまった。


 夜九時を回っていた。中学生がふらつくには遅い。たしかに今まで受け持った生徒でも休み前に羽目を外す子どもはそれなりに居た。しかし春川桜子はそういった生徒ではなかった。

 胸元までのストレート。切り揃えた前髪から覗く瞳は大きく、すべてを見透かしているようだ。すっと通った鼻筋は巨匠の描く一筆ひとふでに似て美しい。


「受験生なんだから、今からちゃんと勉強しておかないと」

 今更ではあったが空き缶をビニールへ放り込む。春川はそれをじっと見ていた。

「うーん。でもなあ」

「女優になるったって、勉強は必要だからな」

「意地悪だなあ、先生。別に勉強したくないから女優になりたいんじゃないよ」

「わかってるよ」


 春川は顔を背けて、足を揺らし始める。キーコー、キーコー……そんな音がして、彼女が作り物であればよかったのにと、奥のブランコを見やった。

 

 冬野香枝子。

 春川を見ると、いつも彼女のことを思い出す。容姿端麗で、爛漫な少女だった。もうずっと以前に交際していた女性——二年と少し前、入学式で春川を見たとき、冬野香枝子の生まれ変わりかと思った。

 だからというわけではない。そうでなくとも、春川は人を魅了する。そういう人種だ。私だけが特別視をしているわけではなく、彼女は誰からも愛される。名前の通り、桜のような子だ。


「先生って、どうして先生になったの?」

 動かないブランコを見ていただけなのに、すっと意識が遠のいていたようで、私は春川の声にひどく驚いた。

「どうしてって、なんで?」


「うーん、大した理由じゃないよ。理由って大体そうでしょ?」

「別に、俺も大した理由なんかないよ」

「ふーん」

 顔を伏せる。私はその横顔を見た。


「——贖い、かな」

「あがない? どういう意味?」

「さあね」

「もう」


「——さ、もう帰った帰った。いい子は家に帰ってお風呂入って寝てちゃんと明日を迎えなさい」

 これ以上彼女といると余計なことを言いそうになって、私はすっと立ち上がるとスーツの尻を叩いた。軽く振り返り、ビニールを取ろうと手を伸ばしたが、

「待ってよ」

 先に彼女に掴まれる。


「こら」

「やだ」

「春川」

「帰らない」


 強く引っ張られた反動で、しりもちをつく形でベンチに戻された。隣の春川を見ると、彼女の大きな瞳は潤み、じっと私を見ていた。

「はるか——」

「いい。いいから。先生は聞いてるだけでいいから」


 空いた手で口元を覆われる。甘い香りがする。


「偶然じゃないと思うから、話す。先生とここで会ったことは、偶然じゃないと思うから」


 春川は何度か小さく呼吸を繰り返し、少しずつ語った。家庭環境。自分の身に起こったこと。担任教師として知っている情報もいくつかはあったが、最後に落とされた言葉だけは知らなかったし、——知りたくもなかった。

 

 すべてを話し終えると、春川は私の口からようやく手を離した。そして視線を外すとそのまま駆けだす。


「春川!」


 パタパタと、不釣り合いなパンプスの音が住宅街に響く。

 一人残された私は、行く当てのない右手をしばらく戻せないでいた。



 ■


 

 ゴールデンウィークが明けたものの、春川はしばらく学校を休んだ。連絡を取ったところ「体調不良だと言い張る」と困った声で返される。訪問しようかと提案したが、そっとしておいてほしいと跳ねられた。


 梅雨に入ると、私のルーティンはしばらくお預けになる。もしかしたらあの公園でなら会えるかも知れないと期待したが、それもかなわぬままだった。

 私は頭の中で、再会した時のシミュレーションを何度もしていた。なんと声を掛けるか、どうしてやるか。それを何度も何度も、擦り切れるほど考えた。いずれも、もし心が復帰していなければ、という仮定のもとだが、空振りになるとしても重要なプロセスだ。


 夏が始まる。春川と再会したのは、そんな七月の金曜日のことだった。

 いつもの公園でいつものように煙草を吹かしていると、煙の向こうに彼女がいた。白いシンプルなブラウスに膝丈のタイトスカートを穿いた彼女は、髪をバッサリと短く切っていた。

「——久しぶり、先生」

「——ああ」


 隣に座るよう手で促すと、彼女は何も言わずに従った。

「飲むか?」ペットボトルの水を向ける。「あ、開いてるの嫌だったか?」

「いい。先生がいいならもらう」

「ほれ」


 もともと細かった彼女の身体は、さらに華奢になっている。

「どうだ、最近は」

 私はすでに確信めいたものを感じてはいたが、それを出さないように注意しながら声を掛けた。


 ペットボトルから水を飲むと、やがてその水分をすべて放出するように、春川は泣き始めた。静かに、霧雨を降らすように、しかし確実に。

 私はしばらく彼女を待った。手を握ることも、肩を抱くこともしないで、じっと待った。


 ——おそらく今日まで、彼女は変わらず、義父に犯し続けられていたのだろう。


「もう散ったの、私」

 あの日の春川の声がリフレインされる。小さな唇を震わせ、朧げな目をした春川の姿がフラッシュバックする。オーバーダブされる。

 ——そんなところまで冬野に似なくてもいいのに。


「ごめんね。先生。先生には関係ないのに。でも、もう頼る人がわかんなかった。耐えられない。——私、こんなんじゃ女優なんて全然無理だね。笑っちゃう」


「そうだな。もう無理だ」


 春川は腫らした目をこちらに向けた。

 まさか、同調されるなんて思っていなかったのだろう。そんなことはないと否定してほしかった。みんなそうだ。夢は応援されるべきで、美しいものは無条件に称賛されるべきだと、勘違いしている。そうじゃない。そうじゃないから冬野も、春川も犯されてしまうんだ。油断している。人生を。容易だと思っている。すべてのことが。


「でも大丈夫だ。俺は——初めてじゃないから。助けてやる」


「え、——」


 ふらついた春川は、そのまま自重を支えきれなくなり、糸の切れたマリオネットのように地面に落ちた。いや、——桜か。


「大丈夫。春川。みんなお前のために泣いてくれるよ。お前はひとりじゃないよ。どんなに汚れていても。お前はきれいだよ」



 ■



「葉太、桜餅食べる?」

「うん」


 縁側で陽の光を浴びている。

 三月に卒業生を見送り、そこで教員を辞め実家に戻った。ひとりだけ見送れなかったから、と悲劇めいた辞職願は、安い涙を頂戴した。

 もう贖いは終わり。求めていたものが手に入った以上、自らを犠牲にする理由はない。


 私は学生時代にひとを殺した。嘱託殺人だ。幸いと言うべきか、疑われることも、捕まることもなかった。彼女の遺体は未だに見つかっていない。失踪として処理されたが、もう、書類上でもちゃんと死んでいる。おめでとう、冬野。


 幸いと言い切れないのは、味を占めてしまったからだ。覚えてしまったのだ。


 ずっと探していた。冬野のような人間を。彼女のように美しく、聡明で、人生に悲観した女の子を。もう見つからないと思って、自らを絶とうとも考えていた時に、——あの偶然が起きた。


 ——私は庭先の桜を見た。

 すっかり花は落ちている。


「ほい、お待たせ」


 台所から母が盆に載せた桜餅を持ってくる。ちゃんと桜葉漬けの巻かれたものだ。


 母は気付いているのだろう。気付いていないわけがない。気付いていて、何も言わない。


「ありがと」


 私は母の持ってきた桜餅を手に取ると、葉桜の頂点からゆっくりと視線を根元へと下ろしていく。



「いただきます」



 季節はやがて夏を迎えるが、充足した私に、もう秋は来ないだろう。

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