葉桜の君に PP

文月(ふづき)詩織

葉太飼育記録

 その手の温かさを、彼は生涯忘れないだろう。

 小さく弱かった彼に差し伸べられた、優しい手。

 彼の頭にそっと触れて、舞い散る桜の中へと消えていった。

 あれ以来、彼はずっとその手を求めている。



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2015年3月〇×日

 本日、飼育員交代。飼育員になって初めて担当した彼らとの別れは辛いが、イルカの飼育には心躍らせている。後任への引継ぎは完璧だ。飼育員用の作業服もデザインが変わり、心機一転の新年度が始まる。

 気がかりなのは、ペン太のことだ。彼は私以外に懐かない。ふ化直後から人工給餌で育てたせいかもしれない。つい甘やかしすぎてしまった。

 いつまでもそばにいられるわけではなかったのに……

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2015年9月√256日

 やっと気が付いた。そう、俺はペンギンが嫌いだったんだ! ホンソメワケベラの世話がしたくて水族館に就職したはずだったのに、どうしてこんな憎たらしい、鳥だか魚だか解らない生き物の世話なんてさせられているんだ! もう嫌だ!

 こいつらの世話は後任に譲る。俺はホンソメワケベラに角質マッサージをしてもらうんだ!

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2016年V月XI日

 あの怪鳥を可愛いと思っていた時代が、私にも確かにあったのだ。何と呑気だったのだろう。こんなはずじゃなかった。こんな、はずじゃ……

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2019年8月◇〇日

 今日からペンギンの飼育を引き継ぐことになった……。何人もの飼育員の心を折った、乱暴者のペンギンたち。俺などの手に負えるだろうか。

 不安だ……

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*****



 彼は葉太と呼ばれていた。


 数年前、頭に葉っぱを乗せて歩いている彼の愛くるしい姿が電波の覇王のレンズに留まり、世界中の人に向けて発信され、何千もの心臓マークを捧げられた。


 以来、葉太の愛称が定着した。

 葉太と声をかけてやれば、彼はまんざらでもない様子で振り返る。


 彼は教育を目的とした施設の一角にある小さな海に住み込んで、そこを訪れる生徒に自分たちのことを教える、いわば教師であった。朗々たる声に、堂々たる立ち居振る舞い、時折見せる愛らしい仕草。彼はあまねく生徒たちを魅了した。


 空から注ぐ奇妙なものに、葉太はふと目を留めた。雨でも雪でもなく、温かくも冷たくもない、怪しく輝く奇妙なもの。

 葉太は極めて博識であったので、この不思議なものの正体を知っている。桜というらしい。サクラゼンセンなるものがもたらす特殊な天気である。

 桜が降るのを合図に、季節は冬から春へと移行する。春が過ぎればやがては夏。この輝くものは、過ごしやすい季節の終焉を告げるのだ。


 小さな海が花弁に埋もれる。葉太たちの暮らす場所をぐるりと囲む偽物の岩にも、水場に面した分厚いガラスにも、ペタペタと桜が貼り付いている。葉太もまた花弁に埋もれていた。体に貼り付く桜に為す術もなく、ぢっと目を閉じる。


「わあ、可愛い!」


 その声を聞いて葉太は薄く目を開いた。


 世界が静止する。


 そこには、在りし日に葉太を包んだ温かな手の持ち主とそっくりな生徒が立っていた。


 桜が降る季節に姿を消した、優しい彼女。


 あれから何度、桜を見送っただろうか。別れと同じ季節に、その生徒は葉太の前に現れた。


「桜子、あっちにアザラシを見に行かない?」

「私、アザラシよりアシカが良い!」


 笑いさざめきながら、少女たちが離れてゆく。


サクラコンクァックァー


 優しく響くその音を、葉太は幾度も繰り返した。


まるで彼女の活け作りンギャギギギィ……否、生き写し頭を上げ下げ……』


 呆けた様子の葉太に冷や水を浴びせるように、ギン子が首を傾げた。


そんなに似てるかしらギィイグググ?』

似ているともフリッパーバタバタ


 葉太は答える。


 羽毛の禿げた逆さ卵型の顔面に、目と鼻の穴がそれぞれ二つずつに口が一つ。頭頂部からしおれた雑草のように生えている、貧弱でありながら異様に長い体毛。そこまでは生徒のほとんどに共通している特徴だ。生徒たちは皆よく似ていて、区別することは難しい。

 だが葉太は熟練の教師である。そして地位を確立した今に至るも、生徒たちとの触れ合いを疎かにしてはいない。故に生徒を見る目は確かなのである。

 生徒たちを見分けるポイントは、ずばり胴体部分の皮にある。色も厚みも質感も、形までもが異なるこの奇妙な皮が、生徒の個体差の最も大きなところなのだ。


ああ、確かに、似ているなピューイピューイ!』


 納得の声がペペから上がる。仲間たちの頭上に哀愁が漂い出る。葉太だけではない。誰もが彼女のことを好きだった。彼女からはいつも、豊潤な魚の香りがした。


サクラコンクァックァー

サクラコンクァックァー!』


 自分のくちばしの先さえ見えない夜闇の中、葉太たちは桜を抱く月を仰いで高らかに鳴き交わした。



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2020年3月△〇日

 昨今のウィルス騒動に合わせて屋内施設を公開停止。屋外施設に人が集中している。幸い、人が増えたことによってペンギンにストレスがかかっている様子は見られない。


(追記)深夜にペンギンたちが騒いでいたという苦情あり。やはりストレスがかかっていたのだろうか。

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*****



 翌日からもサクラコンクァックァーは葉太たちの下にやって来た。毎日のように通ってくる熱心な生徒はこれまでなかったので、葉太は大いに感心した。

 学ぶ意欲に満ちていて、しかもあの人に似ている。こんな完璧な生徒が他にいるか。

 葉太はサクラコを大いに偏愛した。彼女の姿を目にすると体中をばたつかせて泳ぎ寄り、甘やかな魚の匂いのする水を撒き散らして水上で跳ねた。彼女と葉太との間を隔てるガラスに水がかかり、桜の花弁が貼り付いた。


 彼女の黒い目が楽しげに細められる。


 彼女の隣には別の生徒が立っていた。脂肪の蓄えもなく、腕も小枝のように細い、間抜けそうな雄である。葉太の立派な腹の中で苛立ちがぐるぐると渦を巻いた。


「ペンギンって間の抜けた生き物だねえ」

「本当に。よく野生で暮らすことができるよねえ」


 気の抜けた声で鳴き交わすサクラコと雄の生徒の前で、葉太は自らのたくましさを教えるべくフリッパーを羽ばたかせた。


「あ、あれ見ろ薫子。イルカがいるぞ」

「素敵! イルカ大好き!」


 葉太を残してサクラコはどこかへ去っていった。


 はて、と葉太は首を傾げる。


カオルコンクアックァー?』


 葉太は首を傾げた。葉太に生徒の言葉は解らない。だが、何となく名前だろうと察せられるその音は、以前彼女が名を呼ばれた時とどこか異なっているように思われた。


サクラコンクァックァー!』


 誰かが鳴いた。


カオルコンクァックァー!』

サクラコンクァックァー!』


 何度も繰り返してみれば、大した違いではなかった。葉太は納得して首をぶんぶん縦に振った。仲間たちが唱和する。


「はいはい、解った解った! ほら、餌だぞ」


 飼育員げぼくが大きな声で鳴きながら小さな海に入って来た。手に握られたバケツを見て、葉太たちは色めき立った。


ごはんだンクァックァー!』

ごはんだンクァックァー!』

おれのだギュギュギュッ!』

どきなさいよツピュィー!』

ごはんだンクァックァー!』


 葉太たちは口々に叫んでバケツに襲い掛かった。飼育員がバランスを崩して倒れ、頭から魚と氷を被る。葉太たちは間抜けな飼育員を取り囲み、夢中になって魚をつつく。ついでに飼育員も突く。


「痛い痛い痛い! やめろ! 落ち着け!」


 その時、空から巨大な影が舞い降りた。ふしだらな長い足をした鳥である。大きな翼を広げて葉太たちを威嚇し、魚を次々と横取りしてしまう。葉太は果敢にフリッパーを広げ、勇ましいときの声を上げ、鳥に背を向けて一直線に走る。


「こら!」


 飼育員が大声で威嚇すると、足の長い鳥は無様に空へと舞い上がった。葉太は勝ち誇って胸を反らした。


 鳥という奴は実に不気味だ。何だって空を飛ぶのだろう。


そう言えばンピュゥイ前から疑問だったのだけど首ふりふり生徒たちは私たちとフリッパーおっぴろげ同じ生き物なのかしらじだんだ?』


 不意にギン子が表した疑問を受けて、葉太は首の肉に顔を埋めた。


同じだよしっぽふりふり


 葉太は自信を持って答えた。一つの頭に二ずつの目鼻に、口が一つ、二本足で立って二本の腕を持つ。少しばかり羽毛が禿げていて、脂肪の蓄えも少なく、足が不格好に長い。フリッパーが枝のようなのは本当に可哀想だ。

 しかし、生徒たちが持つ手という器官の存外な温かさを、葉太はしっかりと覚えていた。親の脂肪の中よりずっと冷たかったのは確かだが、それでも葉太はあの手を何より温かく感じたのだ。

 フリッパーを持たない者への差別を、葉太は許さない。


おなじだンクァックァー!』

おなじだンクァックァー!』


 仮に同じ生き物ではなかったとしても、近い生き物には違いない。少なくとも空からやって来るふしだらな足長鳥に比べれば、生徒と葉太たちはよほど近い存在に違いない。


「あ! ペンギンだ!」


 どこからともなくサクラコがやって来た。葉太はすぐさまサクラコの下へと泳ぎ寄る。

 歓迎の水しぶきを上げる葉太をガラス越しに見つめて、サクラコはそっと溜息を零した。ガラスを曇らせた呼気を、葉太は不思議な心地で見つめた。


「いいなぁ、ペンギンは……。呑気で」


 彼女の姿を隠すように、曇ったガラスに舞い落ちる桜が写り込んだ。


 葉太は身震いした。彼女の言葉は解らない。だが、葉太の感情の受容体は言葉の壁を越えて彼女の苦しみを捉えたのである。


「もうすぐ休校も終わりなのにさ、課題全然やってないわ。ああ、休み、延びないかなあ……」


 彼女の悩みに応えねばならない。だが悲しいかな、葉太には何が彼女の心を蝕んでいるのか、さっぱり解らなかった。


「董子、帰ろ!」

「あ、うん。今行く!」


 サクラコは小走りに葉太の前から去っていった。彼女の動きが生んだ風が、散った桜を舞い上げた。


スミレコンクアツクァー?』


 葉太は首を傾げた。


サクラコンクァックァー!』


 ペペが叫んだ。


サクラコンクァックァー!』


 葉太は納得した。やはり彼女はサクラコだった。


 彼女がサクラコであるならば、絶対に助けてやりたい。葉太は強く、そう思った。



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2020年3月〇◇日

 最近、ペンギンたちが若い女性を追い回す様子が観察されるようになった。俺には全く懐かないのに……。今日も酷くつつかれた。もうすっかり慣れたけども、理不尽だという気持ちは否めない。サギを追っ払ってやったというのに。

 もっとも、若い女性なら誰でもいいわけではないらしい。彼らが何に引き寄せられているのか、興味深い。

 残念ながら明日からここも全面休館となる。この疑問は当面の間持ち越しか……。それにしても、こんな田舎の小さな水族館まで休館する必要はあるのか?

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*****



 降り注ぐ桜の密度がになり、小さな生き物たちが蠢き出す、そんな今日この頃。


 サクラコが来ない。


 しわがれた桜を嘴の先にくっつけたまま、葉太はぢっと空を見上げた。


 サクラコだけではない。生徒たちがぱったりと来なくなった。


 桜の花弁は暑くて過ごしにくい季節の予兆のはずだった。今年は過ごしやすい季節が少し長く、葉太たちの羽毛の上を滑ってゆく空気は未だ寒々しい。


 サクラコはどこへ行ったのだろう。


 葉太は不安になる。あの日彼女に応えることができなかった。それが全てだったのではないか。

 言葉が通じず、触れ合うこともできない。そんな葉太が、彼女に何か伝えようなどと、あまりにも嘴を大きくし過ぎたのかもしれない……。


私たちギューイ思い違いをしてピュピュイ、いたのかもしれないわウゲゲゲゲ……』


 ギン子が切なげに空を見上げた。


というとヴォァアア?』

私たちキューイやっぱり生徒と尻尾むずむず似てないわンゲッンゲッむしろ、いつも食べるンギャギャギャギャアレに似ている首を上げ下げ……』

そんな馬鹿なヴォッヴォッ!』

私たちって、何なのかしら首だら~ん……』


 葉太はゆっくりと首をもたげて空を見上げた。うっすらと紫外線が映える青空に、ちぎれた雲が漂っている。


おれたちはンキュゥウペンギンだペン!ギン!


 葉太は胸を反らして天を仰いだ。


生徒たちもまたンクワーックヮペンギンだペン!ギン!


 いつの間にか緑が目立ち始めた巨木の上で、花を突き回していた小さな鳥が、訝しげに首を傾げて葉太を見つめた。




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2020年4月〇×日

 全面休館から10日ほどが経過した。人が通らないと空間から体温が抜けていくのか、園内はどこか寒々しい。心なしか、ペンギンたちも元気がないように見える。人間に観られることは彼らにとってストレスにしかならないと思っていたが、違うのかもしれない。

 俺もストレスが溜まっているのか、最近なんだか熱っぽい気がする。

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*****



 旅に出る、と葉太が決意したのは降る花も少なくなった頃であった。あの日ガラスを曇らせたサクラコの溜め息が、葉太の心も曇らせている。会えない期間の分だけ心の曇りは広がって、もはや耐えられそうになかった。


行くのかククッ


 白昼堂々抜け出そうとした葉太に、ペペが声をかけた。


止めてくれるなグヮグヮサクラコにはンクァックァー俺が必要なんだフリッパー広げ

止めないとも首をスゥッと空に伸ばすだが、道を知っているのかフリッパーぶるぶる

道は見つけるものさンクアックア

そんな労を負わずともククッググッ知れば済むことはンギョロロロ知ればいい首ぐるんぐるん


 ペペのくちばしが道を示す。去年の夏、彼はそこから抜け出して、外の世界を見て来たのだった。帰って来た時は脂肪が落ちて皮がだるだるになっていたが、一回り逞しくなってもいた。


気を付けろギュロォオ外の世界は恐ろしいキュイッ!キュキュイ!とりわけ生徒たちは首ぐるぅり&尻尾むずむずガラス越しでなければ危険だングルゥギュギュギュッ奴らは時にクエエエエエッ獣になるフリッパーびしばし


 ペペは何かを思い出したかのように羽毛を逆立たせた。


彼女を見つけられるキュゥイイイイイ?』


 ギン子が心配そうに問う。


見つけてみせるアーギィアーギィ


 葉太はぶんぶんと首を上下に振った。


そうピギィ……頑張ってキュッキューイ!』

ありがとうアーアーアー行ってくるクックアドゥールドゥドゥ


 二本のフリッパーを大きく横に広げ、お尻を振りながら左右の足を交互に前へと動かす。小さな一歩一歩をゆっくりと着実に積み重ねる。


 葉太の冒険が始まった。



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2020年4月×π日

 PCR検査は対象外だと言われてしまったが、微熱が続くため自宅待機。ペンギンの世話は新人に任せることになってしまった。

 ……不安だ。

 思えば俺も、飼育員を請け負ったばかりの頃に脱走を許してしまったし。

 ……そう言えば、ペンギンゾーンの鍵はかけるのにコツがいるということ、ピンチヒッターにきちんと説明したっけ?

 ……不安だ!

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*****



 葉太がサクラコを見つけたのは、葉太たちの暮らす教育施設のすぐ隣にある公園の一角だった。


 彼女は妙に整った形の木の板に腰掛けて、泥水に沈んだ魚の卵をすすっていた。


 葉太はのしのしとサクラコに歩み寄り、サクラコの脚の横にちょこんと立った。サクラコの黒い目が驚きを帯びて葉太を見つめた。


サクラコンクァックァー……』


 葉太はもじもじと脂肪を揺すった。


 彼女の悩みを見て取った瞬間から、彼女の隣にいなければならないという強迫観念が葉太を包んでいた。しかし、いざ隣に立ってみると、言葉の壁が二人の間に氷河のごとく横たわり、何を伝えることもできないではないか。


 葉太は体に首を埋めて考え込んだ。何を伝えればいい。どうすれば伝わる。


 くるりと流れた視線は、舞い散る桜に固定された。雲から雨が降るように、木から桜が降ってくる。小さな海に降る花は、ここから生まれていたのだろうか。


 葉太とサクラコだけがいるその場所で、桜を生む木の圧倒的な存在感を浴びて、葉太はしばし自失した。サクラコもまた、その威容に魅入っているように思われた。


 ああ、そうだ。葉太とサクラコの間で、言葉は通じない。だがそれでも、同じものを見ることはできる。きっと同じことを感じている。


――見ろ、サクラコ。あの青く光る花弁を。輝く葉脈を。俺たちは今、あの桜を通して心を通わせている。君は一羽ではない。君が腹を空かせているなら、俺がきっと魚を獲ってきて、君のために吐き戻そう。君が何を悩んでいるのか、俺には解らない。ただ君に知っておいて欲しい。俺はいつだって君の味方だと……


 心でそう伝えて、葉太はゆっくりとフリッパーを広げ、上半身を優しく揺らす。サクラコはそんな葉太に視線をやって、ふと皮の内側から四角いものを取り出すと、器用に動く指で表面を突いてから側頭部に寄せた。


「あの、公園にペンギンがいるんですけど……」


 サクラコの言葉も気持ちも、葉太には解らない。

 けれど確かに通じるものがあっただろうと、葉太はそう信じている。



*****




 春川桜子はその日、公園でペンギンと出会った。


 新型の感染症が世界を席巻する中、都会だけに出されていた緊急事態宣言が全国に拡大されると噂されていた。


 高校生活一年目は曖昧な終焉を迎え、高校生活二年目は始業式だけで再び休校。人の集まる場所には行くなと言われ、家に籠って感染症関係のニュースを見るか、教師たちが急造した課題に向き合うか……。


 そんな状態に飽き飽きして公園に向かった。公園の中には小さな水族館があって、常ならばそれなりに賑わっている。休校になった直後には桜子も友人と連れ立って遊びに来たものだ。


(グソクムシ、元気かなあ?)


 タピオカミルクティー片手にベンチに腰掛け、花よりも葉が多くなった桜を見上げてそんなことを考えていた桜子がふと視線を足元に移すと、自分を見上げるつぶらな瞳と目が合った。


 艶やかな羽毛は黒と白。分厚い皮の内側には脂肪がたっぷり。翼は一枚の板のように固い。短い脚でよちよちと不器用に歩く間抜けな姿が愛らしい。


 ……何故ペンギンがここにいるのか?


 見つめ合うこと、しばし。視線を逸らしたのはペンギンの方だった。ペンギンの視線を追えば、これを最後とばかりに花弁を散らす桜の木がそこにある。


(ペンギンも花を見るんだろうか……)


 横目でペンギンを確認すると、ペンギンはじっと桜子を見上げて両翼を広げ、上半身をくねらせていた。


(……病気?)


 桜子はポケットからスマートフォンを取り出すと、異常事態に行き合った時の正しい対応として、とりあえず三桁の数字を打ち込んだ。


 110。


 ペンギンは不思議そうに桜子を見上げて、小首を傾げた。


 通報を終えると、せっかくなので写真を撮ることにした。今年流行の色の服に身を包み、タピオカミルクティーを片手にペンギンとツーショット。なかなか素敵な写真だ。

 二枚目は葉桜の下で両翼を広げる、場違いなペンギン。


 いつ始まるか解らない新しいクラスの友達に提供する話題を見つけて、桜子はにっこり微笑んだ。




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2020年4月〇B日

 ペン太が脱走した。

 たまたま隣の公園にいた女子高生が通報してくれたから良いようなものの、そうでなければどうなっていたことか……。彼女には感謝してもしきれない。

 彼女に怪我がなかったのも幸いだった。ペンギンの持つ間抜けなイメージのせいか、彼女はとても無防備にペン太と接したようだけれど、噛まれたりしなくて本当に良かった。

 ペン太は妙に彼女に懐いていた気がする。

 もしかしたら服の色に関係があるかもしれない。思えばペンギンに懐かれる若い女性は、大体同じ色の服を着ているような気がする。

 あの服、ペンギンが狂暴化する前に飼育員が着ていた作業着と同じ色だよな……。

 ペンギンは四原色でものを見ているはずなので、人間が見て同じ色でもペンギンから見て同じ色かどうかは不明だが。

 桜なんて、どういう色に見えているのだろう……?

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*****



 沢山の季節が訪れては去り、また再びサクラゼンセンがやって来る。


 長く姿を見なかった生徒たちが、再び現れるようになった。低く空気を揺らす生徒たちの鳴き声が、葉太の耳を楽しませる。


 その中にサクラコの姿を見つけて、葉太はフリッパーを広げた。頭が一つに目と鼻の穴がそれぞれ二つずつ、口が一つ。大体皆同じ顔をしているが、あの皮の色は間違えようがない。ガラスの向こうにいるサクラコに、葉太は走り寄る。


「ご飯だよ」


 飼育員の声が聞こえて、葉太は足を止めた。


 優しい手の彼女と同じ皮の色をした飼育員が、魚バケツを持って小さな海に入ってきた。葉太は短い足を懸命に動かして飼育員の下に急ぐ。


ごはんだンクァックァー!』

ごはんだンクァックァー!』

チョーダイギュギュギュッ!』

食べるツピュィー!』

ごはんだンクァックァー!』


 足元に集まってぴょんぴょん跳ねるペンギンたちに笑いかけると、飼育員はそれぞれの嘴の中に魚を滑り込ませる。その姿を多くのレンズが捉え、一瞬一瞬を切り取って四角い端末にしまい込む。


 桜の花弁を頭に載せて魚を呑み込む愛らしい彼は、いつしか桜太おうたと呼ばれるようになっていた。


「ンクァックァー!」


 水族館の隣の公園の桜の木まで、元気の良い鳴き声は届いていた。



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2024年3月〇✕日

 ペンギンたちとも今日でお別れだ。

 飼育員たちを次々と破滅に追い込んだのも今は昔。懐いてくれれば、ペンギンは可愛いものだ。

 しかし俺は念願だったオワンクラゲの飼育に移る。

 なに、きっと大丈夫さ。次の飼育員は若い女の子だ。彼らは若い女の子が好きだし、それにもはや以前のような狂暴なペンギンではないのだから。

 頑張ってくれたまえ、春川さん。


 ただし一つだけ忠告しておく。

 作業着の色だけは、絶対に変えてはいけないよ。

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~葉桜の君に Penguin Penta 了~

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