宵闇の園

mafumi

宵闇の園

 日曜日のデート帰り、都内へ向かう高速は酷く渋滞していた。

 眠気に襲われながら愛車の古いレクサスを運転していると、助手席に座る明子が突然、僕に向かって言った。


「祐介、私たち別れよっか」


 僕は、ドキリとして目を覚ました。

けれど、別れ話にはあまり驚いてはいなかった。むしろ、明子の就職が決まったあたりから、ちょっとした予感があって、それが現実になったのだと感じた。


 明子は私大に通う四年生で、裕福な家の娘だった。気分屋ではあるのだけれど、僕よりずっと頭が良くてしたたかで、品があって、その上人をたらしこむのが上手かった。たとえば明子が男性に対して調子づくと、たぶん九割がたは好意を抱かずにいられないような類の魅力を持っていて、つまり、男に困る娘ではなかった。


 それがなぜ土建屋で働くような、学もない僕のような男と付き合っていたのか、ずっと良くわからなかった。何故と訊けば、筋肉質な身体が好きなのとか、車を持っているからとか、大学生は甘ったれで嫌なの、なんて答えが返ってきた。いつも冗談めかした口ぶりで、ごまかされているような気がしていて、本心がよく分からなかった。からかわれているのか、バカにされているのか、そんな調子だから、僕にとって別れ話自体もちょっとした想定の範囲ではあったのだ。ただ一方で、気まぐれな明子を前にして、言葉の本意は見当もつかなかった。


 僕は少し考えた後で、二人の関係にせめてもの答えの一つでもと思い、明子に理由を尋ねた。明子は一瞬目が泳いで、ちょっと目をそらした後で、前を向いて喋り始めた。


「あたし浮気したの。相手はね、ワルい感じの、だいぶ年上のおじさん。そしたらハマっちゃってさ、だから、もう祐介から気持ちも離れちゃったし、つき合えないの。それに祐介も、あたしみたいな薄らバカな女とかさ、面倒でしょ? こういう事あると、お互い居心地も良くないから、別れた方がいいと思うの」


 明子の話し方は、演技がかってセリフの練習でもしているみたいだいった。それでも、僕は十分に困惑して、明子に問いを重ねた。


「それは、本当なのか?」


 すると明子は随分と長い間、黙りこくって喋らなくなった。沈黙の間ずっとFMラジオが流れていて、それが時刻の変わり目を知らせた頃に、明子は再び口を開いた。


「ごめん、ちょっと理由わけを整理させて」


 それから、その日は大した会話もないまま、僕らは別れた。


 ◇


 翌日、僕はいつものように早朝六時に勤め先の工務店に出勤し、トラックに乗り換えて、社長や同僚たちと一緒に仕事に向かった。現場は思いがけず、明子に良く連れて行かれた、調布の深大寺裏にある植物公園で、仕事は薔薇園のタイル補修だった。七月、夏の薔薇が盛りを迎えていて、目に痛い色彩をそこらじゅうに広げていた。


「年寄りばっかりだな」


 同僚が、補修用のタイルを並べながら、薔薇園を見やって悪態をついた。


「お前、そういうこと言うんじゃないよ」


 社長が同僚をたしなめた。僕が聞こえないフリをしていると、同僚は矛先を僕に向けた。


「草花見て何が楽しいのかねぇ、なあ祐介」


「あ? ああ」


 僕は、曖昧な返事をした。なんだか明子と僕の想い出の場所を汚された気がして、ムカついて口をつぐんだ。同僚は、そんな僕を訝しげに見返すと、以後は大して盛り上がる話もせず、作業を進めた。あっという間に一日は過ぎた。


 仕事を終え事務所に戻ると、僕は機材や建材を倉庫に戻した。それから休憩所で煙草を吸っていると、同じく片付けを終えた同僚が、休憩所にやってきて僕に話しかけてきた。


「お前さ、たしか女子大生と付き合っていたよな? こんどその子に頼んで、女集めてコンパできないか?」


「なんで? 嫌だよ」


「何だよ、お前だけそういうの独占すんの?」


 僕は、ニヤけて話す同僚に対して、強く苛立ち、煙草を捨てるとその顔を睨みつけた。


「おまえ、何睨んでんだよ?」


 同僚は僕の視線に気づくと、反射的に僕の胸ぐらを掴んだ。僕は、だからこういう連中は嫌なのだと思い、まず右の拳を硬く握り始めた。次に左手をゆっくりと上げて、僕をつかむ同僚の腕を払おうとした。すると、事務所から社長が現れた。


「祐介、ちょっと頼みあるんだけど」


 社長の出現で僕らは身を引いた。社長は僕に頼み事をしてきた。植物園に倉庫の鍵束を忘れてきたらしく、僕に回収に行って欲しいとの事だった。


「守衛さんには話通してあるから、入り口で社名告げて入らしてもらって。鍵拾ったら、そのままあがっちゃっていいから」


 社長はそう告げると、またどこかに電話をかけながら事務所に入ってしまった。気が収まらない同僚は、僕を睨んでいる。僕は平静を装って車に乗り込み、その場を後にした。



 宵の口、甲州街道から脇道に折れて、高速の高架下を抜け、深大寺に向かう。もう客が少なくなった駐車場に車を停めると、植物園入り口へ向かい、守衛に声をかけ中に入った。広大な敷地を抜けて薔薇園にさしかかると、向こう正面の大温室の一角は、まだ誰かが植物の世話をしているのか明かりがついていた。


 鍵束は花壇を囲う柵に引っ掛けてあった。僕は鍵束を手にとると、その向こうにある薔薇園を見渡した。大温室の照明にうすらぼんやりと照らされた薔薇は、昼間見るものと違い、とても深い色をしていた。

 僕が景色に見とれていると、携帯が鳴った。明子からの着信だった。


『ごめん、研修が長くて、今終わった所』


 明子の声を聞いた僕の心は、嬉しさでざわつき踊りかける。しかし、表向きは平静を装って、改めて明子に別れの理由尋ねた。明子は淀みなく喋り始めた。


『この前の浮気の話は嘘よ。でも、気持ちが離れたのは本当の話。私就職したでしょ? それで、上司とか会社の先輩とか、新しい同僚とかといっぱい話したの。すごく話をして、自分はこうです、って言ったら、それはそうだね、それは違うよって色々返事が帰ってきて、気づいたら、とてもたくさん新しい事を教えてもらっていたの。そして世の中って、互いに刺激し合えば私が思っていたよりもずっと色々なものを得られるんだなって感じて、すごいって思ったの。そしたら、急に祐介との関係が褪せちゃったの。だから、一緒にいても意味ないかなって思ったの』


 明子の口ぶりには強い拒絶の意思が感じられた。僕は、動転して食い下がった。


「俺だって色々なことをした。なのに、おまえは俺を振り回して、飽きて気持ちが離れたら、そんなにあっさり別れるのか?」


 明子は、躊躇なく言葉を返した。


『振り回したのはお互い様でしょ。それに、付き合っている間私はお飾りでしかなかったよね。祐介が、私を連れ回したのは、私を使って、縄張りで自分を威張って見せたかっただけでしょ? 何かを学んだりとか、互いを高めたりとか、そういうの一切ないじゃない』


「違う」


 僕は否定した。


『違わない。あなたは粗野であることをどこか誇りに思っていて、無知である事を恥じていない』


 僕は、言われて胸ぐらを掴んだ同僚の姿と、その直後に殴りかかったかもしれない自身を思い返した。

 風が止み、あたりには薔薇の香りが立ち込めていた。ざわつく心を抑えこもうとして、暗がりの中でかろうじて見える花の名札を、歩きながら心の中で読みはじめた。


 インターフローラ、朝雲、ルビーリップス、チョコフィオーレ、緑光、オクラホマ、夕霧、カリンカ、ファバージェ、ピンクパンサー、天津乙女、コンチェルティーノ。時折、明子が教えてくれた花の名前が目に入る。イザベルデオルテイツは、目がさめるような濃いピンクの花を咲かせる。ダブル・ディライトは白地に赤をスポイトで垂らしたようなグラデーションで染め上がる。マチルダは仄かな桃色がさした花弁を広げる。イングリッドバーグマンは、今の時期、明子の実家の庭にも咲いていると聞いた。それは有名な女優の名前だというが、僕はその女優が出た映画を見たことがない。最近だと、どんな映画に出ているのだろうか?


「違うよ、だって俺は、おまえの言う薔薇の名前だって少し覚えたんだ」


 僕は言い返す。


『ちょっとくらい何かを覚たからって、それが、何だって言うの?』


 明子は、僕の言葉をばさりと切って捨てた。

 僕には、返す言葉がなかった。広大な薔薇園で、知っている花はほんのちょっとしかなくて、後はただの文字列でしかなかった。わかることよりわからないことのほうが多くて、憤りを通りすぎて、途方にくれた。歩きながら明子の声が、どんどん遠くなっているような気がした。僕は、明子が今日を最後に、連絡を断つのだろうと思った。


 ふと花壇を見ると、また知っている花が目に入った。ピースという煙草の銘柄と同じ名前の薔薇が、黄に桃色を帯びた大輪花を咲かせている。そのすぐ横では、アルバメイディランが真っ白な花を夜露に濡らして輝かせている。どの薔薇も、見る者に分け隔てなく、その花弁を広げている。

 けれど、薔薇も、薔薇園も僕のものではなかった。


 僕に許されていたのは、暗がりの中紛れ込んだその場所で、むせ返るような薔薇の香りにまみれて、ただ辺りを周回することだけだった。


  終

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