第25話

 康夫に台湾へ出張中の猪俣から、国際電話が入った。

 猪俣は、挨拶もそこそこに、弾んだ調子で切り出す。

「若旦那、郭協志グオ・シェーチーから会って欲しいと連絡が入るはずです。電話があったら、すぐに彼と会って下さい」

「ということは、楊華健ヤン・ホアジェンさんとの会談は、上手くいったということですか?」

 楊華健ヤン・ホアジェンがどれほどの大物かを聞かされていた康夫は、今回の猪俣と楊華健ヤン・ホアジェンの会談を心配していたのだ。

「へい、何もかも順調に事が運びました」

「除さんの件は、どうです?」

「それも大丈夫です。楊華健ヤン・ホアジェンが除を預かることになりやした。これで郭協志グオ・シェーチーは、除に一切の手出しができやせん。もし手を出したら、それは楊華健ヤン・ホアジェンに弓を引くことになりやすから」

 それを聞いて、康夫はようやく肩の荷を降ろす。

「それは本当によかった」

 彼の大切な人たちの安全を約束していた康夫は、そのことをずっと気に掛けていたのだ。

「それにしても、随分と上手くことが運んだようですね」

「なに、楊華健ヤン・ホアジェンと親父は、どうやら親戚みたいですぜ。つまり、若旦那も彼の親戚ってことになりやすかね」

 そこで猪俣は大きな声で笑った。機嫌のいいことが、声の調子で伝わってくる。

「申し訳ありやせんが、どうせ潜伏中なんで、もう少し台湾を満喫してから帰国したいんですが、若旦那は大丈夫でやすか?」

 猪俣は、敢えて重要な郭協志グオ・シェーチーとの会談を、康夫に任せようと考えていた。

「せっかくですから、是非ゆっくりしてきて下さい。こっちは何とかなりますよ」

「申し訳ありやせん。それではお言葉に甘えさせて頂きやす。若旦那も郭協志グオ・シェーチーとの会談は、お気を付けなさって下せい」

 楊華健ヤン・ホアジェンは、猪俣が彼を訪ねた日の午後、早速話の裏を取り、夕食時に猪俣の目の前で郭協志グオ・シェーチーに電話を入れたのだった。普段から忙しい人は、流石にやることが迅速である。

「食事の前に、先ずは大切な用件をすっきりさせておこうかのう」

 そう言った楊華健ヤン・ホアジェンは配下の人間に、郭協志グオ・シェーチーへ電話を繋げるよう命じた。

 繋がった電話を受け取ると、楊華健ヤン・ホアジェンはいきなり「どうするか決めたかね?」と言った。既に話は、大方ついているようだった。言い方は懇願的でも威圧的でもなかったが、それが逆に彼の圧倒的優位な立場を誇示するように、脅迫的であった。

「そうか、分かった。お前は五所川原組と直接会って、きちんと話をつけるんじゃな。除はわしが預かる。お前は一切手を出すな」

 短い会話だった。電話を置いた楊華健ヤン・ホアジェンが、猪俣に言った。

「奴はもう、お前さんたちに一切ちょっかいを出さんそうだ。これまでのことについては、けじめをつけると言っとるから心配ないじゃろう。聞いての通り、除という若いもんはうちで預かる。まあこれで、今日は食事を存分に楽しめるということじゃ」

 大きな口を開けて天真爛漫な笑いを見せる楊華健ヤン・ホアジェンに、猪俣は丁寧に頭を下げる。

「何から何まで、ありがとうございます」

 言うまでもなく、その日の楊華健ヤン・ホアジェンと京子、猪俣の宴は盛り上がった。


※※※


 二日後、猪俣が言った通り、郭協志グオ・シェーチーは本当に康夫へ電話をかけてきた。康夫は郭協志グオ・シェーチーの求めに応じ、彼と会うことをすぐに決めた。

 約束の時間は午後七時。食事に招待したいという郭協志グオ・シェーチーの申し入れを受ける形で、康夫が新宿まで出向くことになった。場所は郭協志グオ・シェーチーの経営する中華レストランである。

 念の為、五人の腕利き護衛を伴った。それは猪俣の指示である。康夫は電車を使い一人で新宿まで行こうと思ったが、特にその日の会合は、周囲が康夫の単独行動を許さなかった。

 護衛の二人は康夫の車に同乗し、三人は別の車に乗るという具合に、二台に別れて本部事務所を出発した。

 駒形から首都高速六号線に合流し、環状線から四号線に抜ければ、新宿はそれほど遠くない。高速道路では防弾用のガラスや鉄板が埋め込まれた重量級ボディを、メルセデスの大排気量エンジンが軽々と引っ張り、加減速の多くなる首都高速にはうってつけの車だ。車両の重量化に伴い、サスペンションまで強化された特別仕様車である。

 レストランへ到着すると、先ず別の車に乗った護衛の三人が先に車を降り、レストランの中へ姿を消した。その五分後、戻ってきた護衛がレストラン内部に問題ないことを伝える。これでようやく、康夫が乗る車のドアが開かれた。

 康夫が車から降りると、初老の小柄な人物がレストランのエントランス前に立っていた。郭協志グオ・シェーチーである。彼は護衛に囲まれる康夫に歩み寄り、顔にへつらうような笑みを浮かべて自己紹介をした。

「今日はわざわざ足をお運び下さって、ありがとうございます。私が郭協志グオ・シェーチーでございます」

 彼は日本風に腰を降り、深々と頭を下げる。まるで服従を誓う儀式のように、うやうやしい挨拶だった。

「坂田康夫です。臨時で若頭代行をしています。今日は猪俣が不在のため、代理で参りました」

 そう言った康夫は、差し出された郭協志グオ・シェーチーの右手を握った。

 握手を交わしたとき、郭協志グオ・シェーチーは驚いていた。鬼瓦から聞いている康夫は、あの猪俣さえ一目置く人物である。余程狡猾で非情な、恐ろしい人物に違いないと思っていたが、目の前に現れた男はまるで違ったからだ。ダークスーツに身を固めた護衛の中で、康夫はポロシャツに綿パンという出で立ちの、如何にもその辺のサラリーマンという見た目である。

 この戸惑いは、食事が始まってからも続いた。郭協志グオ・シェーチーにしてみると、まるで康夫の底が見えないのだ。頼りなく気弱な男に見えて、そんなはずはないという思い込みが郭協志グオ・シェーチーの混乱を生み出していた。それはある意味不気味で、彼の中に恐怖心を呼び起こした。

 康夫はただ、いつもの通りにしているのである。彼にしてみれば、見栄や虚勢は不要なものであり、郭協志グオ・シェーチーを組織の長として尊重し、丁寧な対応を心掛けているだけだった。

 円卓には、郭協志グオ・シェーチーの配下が二名同席した。

 康夫の護衛二人は、テーブルから少し離れた位置で、個室の壁を背に手を前で結んで立っている。背筋をぴんと伸ばした身だしなみのよい護衛は、威圧感を放っていた。残りの三人は部屋のドアの外に、郭協志グオ・シェーチーの部下と一緒に控えていた。

 しばらく差し障りのない会話の中で会食は進行したが、郭協志グオ・シェーチーはどこか落ち着かなかった。色々会話を交してさえ、康夫の実力がさっぱり測れないからだ。狡猾なのかそれとも義父の威光を笠に着る間抜けな成り上がりなのか、あるいは二重人格者なのか。

 次第に郭協志グオ・シェーチーは、今の内に重要なことを全て申告しておかなければ、あとでとんでもないことになるという怖れまで抱くようになった。そうなると身体の中で芽生えた動揺がじわりと広がり、とうとう彼の方から、核心へ触れる話題を康夫へ差し向けてしまう。

「台湾の楊華健ヤン・ホアジェンとは、随分親しい仲なのですかな?」

「実は僕はその方に会ったことがありませんし、何も知らないんですよ。台湾では随分凄い人だと聞いているのですが、そうなのですか?」

 例え彼を知らなくても、普通は親しいことを匂わせたりするものだろうと思う郭協志グオ・シェーチーは、やはりここでも意表を突かれる格好になる。

楊華健ヤン・ホアジェンに睨まれたら、この世界で生きていくことはできません。彼には金も力も政治力もあります。正直に言いましょう。その彼から言われましてな、一円連合とはこれまで同様、上手くやっていくようにと。そのような口出しなど普通はありませんので、一体どうしたことかと不思議に思っているんです。とにかく彼にそう言われたのは確かなので、改めてあなた方に挨拶をしておかねばならんだろうとなったわけですよ」

 そこで康夫は切り出した。

「上手くやるとはどういうことでしょう。具体的におっしゃって頂けると助かるのですが」

 突然人が変わったように、康夫は郭協志グオ・シェーチーを真っ直ぐ見据える。康夫の底を見極められない郭協志グオ・シェーチーは、いよいよ康夫が本性を現し始めたとたじろいだ。

「つまりですな、友好的な関係を維持するということですよ」

 康夫は郭協志グオ・シェーチーを見据えたまま、静かに言った。

「我々も無駄な争いはしたくありません。組織の人間が傷付いたり命を落とすのは、本当に避けたいと思っています。しかし、はっきりさせておかなければならないことを曖昧にしたまま、友好的な関係などあり得ないのではないですか?」

 郭協志グオ・シェーチーの身体に、電流が走る。やはりこの人間は甘くない。話し合いが無駄だと悟れば、無表情で引き金を引くタイプだ。郭協志グオ・シェーチーは康夫を、そんな風に評価し始めていた。

「はっきりさせなければならないこと? それはどういったことですかな?」

 郭協志グオ・シェーチーの、精一杯のとぼけ方だった。しかし康夫は、意に介さない。

「あなた方が陰で画策していたことです。もっと分かり易く言った方が宜しいですか?」

 ここで郭協志グオ・シェーチーは、口をつぐむしかなかった。どこまでしらを切り、どこまで正直に打ち明けるべきか、彼は咄嗟に判断できなくなってしまったのだ。康夫は、静かな攻撃の手を緩めなかった。

「中国人娼婦殺人は、あなたたちの仕業です。そして現場に一円連合の幹部バッチを置きました。兵庫の酒井さんと一緒に、何を企んでいましたか? 鬼瓦組や銀友会、そして海外の他組織まで巻き込んで、随分大掛かりなことをやろうとしていたようですが」

 康夫の言葉で、円卓を囲む空気が凍りついた。同席している郭協志グオ・シェーチーの二人の配下が、顔色をさっと変え、僅かに椅子から腰を浮かす。それに呼応するように、康夫の護衛二人がスーツの内ポケットに手を入れ、素早く康夫に近付いた。康夫と郭協志グオ・シェーチーは、お互い無言で睨みを利かせたままだった。

 一発触発の事態に見えたが、郭協志グオ・シェーチーはふっと肩の力を抜いた。

「いやいや、参りました。何もかもお見通しのようですな。噂通り、怖いお方のようだ。確かにおっしゃる通りです。我々は、五所川原親分と猪俣さん、そして追加の依頼であなたの命を狙っておりました」

 その言葉で、護衛の二人が銃を抜き郭協志グオ・シェーチーヘ銃口を向けたが、康夫がそれを手で制して「それで?」と言った。

 郭協志グオ・シェーチーも腰を上げた二人の配下を手で制する。

「もちろん今は、そんなだいそれたことは考えておりません。それにたった今、私はここで命を取られても仕方ないと覚悟しましたよ。どの道あなたが本気を出せば、我々は虫けらのように消されるのでしょうからな。全て言いましょう」

 郭協志グオ・シェーチーは、酒井から持ち掛けられた計画を、ありのまま康夫に語った。歌舞伎町再開発計画奪還と、極西連合にとって邪魔な一円連合の幹部抹殺の件だ。しかし五所川原や猪俣、康夫といった幹部を取られれば、一円連合は総出で犯人を探し報復に出る。下手をすれば全面戦争だ。そこで他の海外組織と協力し、幹部を殺ったすぐあとは、混乱が冷めやらぬうちに一円連合参加の各組へ一斉奇襲攻撃をかける計画だった。

 歌舞伎町再開発は、台湾組織に関わらず、香港や中国マフィアにとっても共通の死活問題なのだ。郭協志グオ・シェーチーが音頭を取り、各組織をまとめるのは簡単だった。バックに有力政治家が付いていることや、既に一円連合の一部を取り込んでいることも、説得力を増す材料となった。

 親玉を取り襲撃を終わらせれば、実行犯は直ちに地元の国へ高跳びさせ、後始末を鬼瓦組、銀友会、極西連合が引き受けることになっていた。

「つまり、一円連合壊滅作戦ですか」

「その通りです。民民党の国会議員が出てきて、わしもあとへは引けなくなってしまった」

 康夫は水上の存在に気付いていた。酒井を調べているうちに、酒井が水上と深く繋がっていることを知ったのだ。

「水上さんですね」

 郭協志グオ・シェーチーは、ここでも驚いた。

「そこまで分かっておられるのか。大したもんだ。日本で活動するためには国会議員の力が有力な助けになるが、今回は厄介な足枷になってしまった。わしは今、奴にこの件から手を引くと申し出ている。楊華健ヤン・ホアジェンの方が、よほど恐ろしいですからな。おそらくあとで、水上から何らかの報復があるでしょう」

 康夫は黙って頷いた。

「一つだけ分からないことがあります。なぜ中国人の女性を殺す必要があったのですか?」

紫涵ズー・ハンのことですな。あれは香港組織の馬鹿が、自分の女である彼女にこの計画を漏らしてしまったからですよ。自慢げに話したらしいが、紫涵ズー・ハンはそれを、自分の男である日本人に話してしまった。つまり彼女は、中国人と日本人を掛け持ちしていたようです。偶然というのは恐ろしいもので、その日本人というのが銀友会の幹部でしてな、そんな秘密を漏らすくらいだから、彼は女と香港人の関係を疑ったわけです。そして真相を突き止め、男は香港人をいたぶって殺してしまった。それに香港組織が怒ってしまい、わしが調停をする羽目になりました。香港には、重大な計画を漏らしたのだから仕方ないということで納得させましたが、紫涵ズー・ハンが計画を知ってしまった事実は消せない。また他の誰かにぺらぺら話されたらそれこそ危ない。そこで銀友会と香港の許しをもらい、彼女を消すことにしたわけです」

「それでも現場に一円連合のバッチを置く意味が分からない」

「酒井がこの騒ぎを嗅ぎつけ、私が彼にことの成り行きを告げたのですよ。酒井は、女を殺害するなら、現場に一円連合のバッチを置けと言いました。運良く猪俣さんが警察に捕まれば、この計画は進めやすくなります。バッチを置いたら、あとは水上さんが警察上層部へ働きかけると言われました」

 康夫は、注意深く郭協志グオ・シェーチーの様子を伺っていた。

「しかし今度あなたは、我々と友好な関係を維持することにしたわけですね?」

 このとき郭協志グオ・シェーチーは、康夫から最大級の皮肉を投げられたと思った。

「先ほども申し上げたように、我々にとって楊華健ヤン・ホアジェンより怖いものはありません。ですからそのことはお約束しますよ。もっとも私が、まだ生きながらえていれば、ということですが」

 康夫は腕を組み、郭協志グオ・シェーチーの自白内容に整理を付け始めた。一方で郭協志グオ・シェーチーは、康夫に黙り込まれると、断崖の淵へ追い込まれたような気になる。一度は観念したはずが、冷たい汗が背中を伝うのだ。

 一分もそうしただろうか、康夫は閉じていた目を開き、郭協志グオ・シェーチーに言った。

「辻褄は合うようです。あなたの言葉を信じましょう」

 康夫は後ろへ立つ護衛に向いて、冷静に命じる。

「例の件を、実行に移して下さい」

 護衛は無言で頷くと、その場でどこかへ電話を掛けた。

「若旦那より指示が出ました。すぐに始めて下さい」

 それだけの言葉だった。しかしその短い言葉に、郭協志グオ・シェーチーを不安にさせる何かが含まれていた。それでも郭協志グオ・シェーチーは、その様子を固唾を飲んで見守るしかないのである。

 郭協志グオ・シェーチーの不安を察したように、康夫が言った。

老板ラオバン、明日には景色ががらりと変わりますよ」

「それはどういう意味ですかな?」

「状況が色々変わります。一つだけはっきりさせておきます。女性を殺した実行犯を、新宿署に自首させて下さい。それで一円連合は、今後老板ラオバンと友好的に付き合うことができます」

 郭協志グオ・シェーチーは康夫の言葉に、再び意表を突かれた。

「それはそのままの意味に受け取って構わないのですか? 正直私には、まるで理解できないのですが」

 康夫の顔には、いつもの無防備な笑みが宿っていた。

「最初に言ったはずです。僕は無駄な争いをしたくありません。老板ラオバンの話は、女性の殺害を除けば全て未遂です。殺人の件でけじめを付けて頂けるなら、あとは水に流しましょう。但し、これまでの事実を曲げて全てを処理する訳にはいきません。そして極西連合や銀友会の件は、きっちりかたを付けます。これは、水上さんのことも含みます」

「あの水上も?」

 康夫は笑顔で頷いた。

 郭協志グオ・シェーチーはそこで初めて、康夫に対する敗北感を味わった。それまでは、一円連合に負けたのではなく、楊華健ヤン・ホアジェンに屈しただけと思っていたのだ。そうであれば諦めもついた。しかしどうやら、最初から一円連合にはかなわなかったようだと彼は悟った。

 しかしそうだとしても、郭協志グオ・シェーチーの中に、不思議と怒りや憎しみは湧いてこなかった。

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