第24話

 鬼瓦は電話に耳を当てながら、顔を引つらせた。

「どういうことだ」

「そのままの意味だ。悪いが俺は、この件から手を引くことにした」

「し、しかし、ここまで話を大きくして、ただ手を引くじゃあ、筋が通らない」

「北京も上海も香港にも、全て話が通っている。奴らは既に了解済みだ。どうしてもやりたいというなら、日本人だけでやってくれ。俺は手助けできないが、邪魔もしない」

「だから、突然心変わりしたのはなぜだ? 俺たちは約束を守る。あんたたちには歌舞伎町の全てをくれてやる。いや、それだけじゃない。新しいシマだって沢山取れる」

「俺たちは、今のままで十分だ。それが分かった。理由はそれだけだ」

「納得できない」

「納得するしないは、おたくの勝手だ」

「そんなことを言ったら、身も蓋もねえじゃねえか。第一、酒井はそのことを知っているのか?」 

「まだ何も知らない。それは関東の責任者として、あんたから伝えてくれ」

「ば、馬鹿な。それじゃあ、極西も銀友会も黙っちゃいないぞ」

「もし何かを仕掛けてくるなら、受けて立つしかない。幸いこっちには、兵隊が揃っている。それにそんなことがあったら、おそらく一円連合が動く」

「そ、それはどういうことだ。まさかあんた、一円連合と組んだんじゃねえだろうな」

「そんなわけはない。ただ一円連合とはこれまで通り、友好的に付き合うだけだ。あんな奴らと喧嘩をしたら、こっちは命がいくつあっても足りない。海外組は、そのことに気付いた。だから手を引く」

「いってえ何があったんだ」

「一円連合の中にいてもそれに気付かないとは、あんたも平和な男だ。一つだけ言ってやる。一円連合を裏切らない方が身のためだ。あんたらに乗せられたおかげで、こっちも色々と後始末で大変なんだ。話はそれだけだ。では」

「いっ、いや、ちょっと待ってくれ」

 既に郭協志グオ・シェーチーは、通話を終了していた。受話器から、無情なツーという機械音が聞こえている。

 鬼瓦は、手に持つ携帯電話を床に叩きつけたくなった。誰もいない自室の壁に、くそっと口汚く吐き捨て、次第に青ざめる。何が起こったのか分からず、時間の経過と共に、底無しの不安が彼を包み込んだ。

 火蓋は既に切られている。そして康夫も、薄々何かに勘付いている節があるのだ。

 鬼瓦は焦った。今ここで計画が破綻すれば、彼は全ての組織を敵に回すことになり兼ねない。計画の破綻は身の破綻だ。


 きっかけは、熱海温泉旅行だった。池袋で店を持たせている女にせがまれ、仕方なく行った旅行だった。

 宿泊ホテルの上階に、展望温泉風呂があった。女が、せっかく温泉に来たのだから大きなお風呂に入りたいと言い、鬼瓦も渋々一緒に連れ立って、男湯と女湯に別れて風呂場へ入った。

 時間が遅かったせいで、幸い風呂場は空いていた。身体に彫物を入れている鬼瓦は、公共の場で裸になると、いつでも他人のいやらしい視線を感じる。そんな神経を逆なでされる余計なことは、無いに越していた。

 湯船の脇が、全面ガラス張りになっていた。熱海の街が、眼下に広がっている。湯煙の立ち込める湯舟に浸かり、そうした夜景を眺めるのも悪くなかった。鬼瓦は、面倒でもここまで来た甲斐があったと、満更でもない気分で温泉を満喫していた。

 ふと、湯煙の向こうから声を掛けられた。

「先程拝見させて頂きましたが、見事な彫物を持っていらっしゃる。さぞかし名の売れた親分さんとお見受け致しました」

 公共の場で、入れ墨を見られて敬遠されることはよくあるが、こうした声を掛けられることは滅多にない。恐らく声の主も同業だろうと、鬼瓦は警戒した。相手の姿が湯煙でよく見えないのだから尚更だった。しかも自分は丸腰で部下もいない。

 相手は、落ち着いた声で続けた。

「なに、怪しいものではありません。余りに立派な彫物で、思わず見惚れたものですから、ついつい声を掛けさせてもらいました。せっかくごゆっくりなさっているところをお邪魔して、申し訳ございません。見たところ、それは浅草銀次の仕事ではないですか?」

 確かにそれは、彫物をさせたら日本一の腕を持つと言われる、浅草の彫物師、銀次の仕事だった。

「ほう、そこまで言い当てるとは、あんたも堅気じゃねえな」

「ご推察の通り、その筋に関わっている者でございます。もっとも表向きは、堅気の仕事を生業としておりますが。どうでしょう、お近付きのしるしに、明日にでも一献差し上げたいのですが」

 鬼瓦は、随分馴れ馴れしい奴だと思った。

「悪いが、連れがいるんでね。付き合えねえな」

「なに、そのお連れさんなら、現在私共の手の内にあります。由香里さんとかおっしゃる、大層お綺麗なご婦人さんで」

 その言葉に、鬼瓦は湯舟の中で勢いよく立ち上がった。湯煙の向こうに、薄っすらと人影が見えている。

「おい、俺を池袋の鬼瓦と知ってのことか」

「鬼瓦親分、どうかご心配なさらずに。我々は、決して手荒な真似は致しません。ただ、親分と顔を突き合わせ、内密のご相談をさせて頂きたいだけでございます」

 いつの間にか、湯煙にかすれた人影が五人になっている。鬼瓦は、自分が囲まれていることにようやく気付いた。

「目的はなんだ? こんな真似をして、ただじゃ済まねえぞ」

「ここではちょっと話しにくいことでして。ただ、親分にとっても、決して悪い話ではないと存じます。手荒な真似は一切しないとお約束致します。もし親分をどうこうしたいなら、今この場で仕事を終わらせる方が手っ取り早いのですから、そのことは御信用頂けるのではないでしょうか」

 鬼瓦は思案した。確かに自分の命を狙っているなら、とうに殺られているだろう。

「分かった。それで俺は、どうすればいいんだ?」

「ご理解頂き、ありがとうございます。明日の昼十二時に、熱海の料亭楓で食事をしながら、ということで如何でしょうか? 明るい人目のある場所で、紳士的にお話をさせて頂くだけでございます。それでもご心配ならば、配下の方々をお呼びになっても結構です。但しお話は、私と二人だけでお願い致します」

 慇懃な物言いの中に、有無を言わさぬ響きが隠れている。

「分かった。明日の昼だな」

「はい、それでは私共の誠意を示す意味で、ご婦人はすぐに解放致します。どうしても親分とお話をしたく、少々強引な手を使いましたこと、平にお詫び申し上げます。明日は何卒、宜しくお願い致します」

 それだけを言うと、全ての人影は湯煙の向こうへ消えた。

 鬼瓦が慌てて風呂場から部屋に戻ると、由香里は風呂上がりの上気した顔で、テレビを観ながらビールを飲んでいた。

「おい、何か変わったことはなかったか?」

 由香里は問われた内容が不可解というふうに、「何が?」と訊き返した。

「いや、だから危ない奴らに襲われたとか」

「あんたより危ない人なんて、滅多にいないわよ。ただお風呂で、入れ墨の入った綺麗なお姉さんと話したわ。あれはきっと、どこかの親分の奥さんよ。私のような愛人じゃないわね」

 そう言って由香里は、またテレビに視線を戻す。鬼瓦はわけが分からなかったが、得体の知れない連中にまとわりつかれていることは確かだった。そして、相手が自分たちに危害を加えるつもりがないことも、どうやら信じてよさそうだ。

「明日は急な仕事が入った。悪いが昼は温泉に浸かって、ホテルで美味い物でも食ってのんびりしてくれ」

 由香里は驚いた顔で笑った。

「ヤクザの親分に、急な仕事なんてあるの? まるで会社の中間管理職みたいじゃない」

 鬼瓦は由香里の物言いが癇に障り、むっとした口調になる。

「あるんだよ、たまには」


 翌日鬼瓦は、由香里をホテルに残し、一人で料亭楓に行った。無視してもよかったが、相手の素性や目的を確認しなければ、それはそれで心配なのだ。

 気の小さな彼は、念のため東京から配下を呼び寄せ、料亭の近くに潜ませた。

 約束通り一人で料亭に入ると、中居が座敷に案内してくれる。

 部屋の中では、淡いクリーム色の背広に身を包む真面目そうなサラリーマン風の男が、正座で鬼瓦を迎えた。歳は四十半ばで、その容姿には、どこにも筋者の雰囲気が見当たらない。

 男は丁寧に畳へ手を付け、鬼瓦に頭を下げながら言った。

「本日は本当に来てくださいまして、ありがとうございます。昨夜のご無礼、何卒お許し下さい。どうしても親分と話がしたく、思い詰めてのことでございます」

 確かにその声は、昨夜湯舟の中で聞いたものだった。

 鬼瓦が空いている上座に腰を下ろすと、男は鬼瓦に両手を添えて、丁寧に自分の名刺を差し出した。

「私、ハイアットエージェントの酒井と申します」

「ハイアットエージェント? 知らない会社だが、そこが一体何の用だ」

「何分込み入った話になりますので、詳細は追々説明させて頂きます。まあ、先ずはご一献」

 話し方や態度の全てにおいて、如才ない男だった。酒井は鬼瓦の持つ盃に、日本酒を注ぐ。鬼瓦がそれを空けるのを見届けると、彼は素早く二つ目の酒を鬼瓦に注いで切り出した。

「私共ハイアットエージェントは、金融、旅行代理店、不動産、飲食業と、何でも扱う神戸の会社でございます」

「神戸?」

 鬼瓦は、付け出しに持っていく箸を止め、神戸という土地の名に反応した。神戸は極西連合の本拠地だからだ。

「まさか、極西と関係のある会社じゃないだろうな」

 酒井は冷静に答える。

「流石、鬼瓦親分。正直に申し上げます。ハイアットエージェントは、神戸白戸組のフロント企業でございます」

 鬼瓦は一瞬固まった。彼は動揺したのだ。フロント企業とはいえ、自分は宿敵極西連合に関わりの深い連中と、こうして密室で会っている。今ここで相手の仲間に踏み込まれたら、一巻の終わりだ。

 鬼瓦は、携帯電話で近くに忍ばせる配下を呼び寄せたい衝動を、辛うじて抑えた。彼にも、一円連合執行メンバーとしての面子があるのだ。鬼瓦はできるだけ狼狽を隠し、平静を装った。

「ということは、俺が一円連合執行部の人間だと承知の上で、ここに呼んだということか」

「はい、その通りでございます。だから内密のお話ということでお願い致しました。昨日も申し上げましたように、本日は平穏にお話をしたいだけでございます。事を荒だてるような企ては一切ございませんので、その点はご安心下さい。先ずは料理を運ばせて頂いても宜しいでしょうか?」

 鬼瓦は不承不承の体で、うむと頷く。彼にしてみれば、宿敵極西連合の手先がこうして自分をもてなすことに納得がいかない。下手に出る丁寧な物言いも不気味だった。中居により料理が運ばれる最中、鬼瓦は酒を注ぐ酒井の顔を注意深く観察しながら、この成り行きについて思案していた。

 目前に、新鮮な海や山の幸が並んでいく。小鉢に綺麗に盛り付けられた、刺し身や焼き魚、煮物に山菜料理だ。彩りが華やかだった。

 酒井が鬼瓦に料理を奨める。

「どうぞ御遠慮なくやって下さい。食べながら、ゆっくり話を進めましょう。ところで最近、猪俣さんはお元気ですか?」

 百戦錬磨の酒井は、こうした場の機微をよく心得ている。先ずは世間話で、鬼瓦の心を開かなければならない。

「あの人は相変わらずだ。いや、迫力にますます磨きがかかっている。あんたはうちの兄貴を知っているのか?」

「生憎お会いしたことはありませんが、嫌でも噂は聞こえておりますよ。最近、五所川原親分の娘婿さんと仲良く色々やっていることも聞いております」

 敢えて酒井は鬼瓦の、組織への不満を刺激する言い方をしている。

「色々仲良くか。確かにそうだな。若旦那が関わるようになってから、組織も随分変わったかもしれない」

「ほう、その旦那さんは、若旦那と呼ばれていらっしゃるのですか。その方が入られてから、何やら随分締め付けが厳しくなったと聞いております。親分も苦労が増えたのではないかとお察し致します」

「まあ、締め付けというか、管理というか、そんなものが細かくなったのは確かだ。まるで堅気の会社みたいだよ」

 そこで酒井が笑い、鬼瓦も釣られて笑う。

 酒井が揉み手で、鬼瓦へすり寄るように訊いた。

「それでも一円連合は、猪俣さんが睨みを利かせているから安泰という声をよく聞きますが、そんなに凄い人なんですか?」

「確かに凄い人だ。腕が立つ上に頭もきれる。うちの中じゃ、誰もあの人に頭が上がらない。唯一対等なのは、その若旦那だけよ」

「若旦那も相当に凄い人だとか」

「あの人だけは分からない。見た目や物腰はまるで堅気なんだが、本気になれば怖いという噂がある。猪俣の兄貴があれ程寄り添うには、かなりやばい人じゃねえかって気はするがな。実際に若旦那は、相当怖いものを作っている」

「相当怖いもの?」

 酒井は鬼瓦の顔を覗き込み、それは何かと目で訴えた。

「いくら何でも、それは迂闊に言えねえよ」

 酒井は鬼瓦のご機嫌取りで、鬼瓦の言葉になるほどなるほどと、大袈裟に頷き相槌を打つ。この辺りになると、単細胞な鬼瓦の気は随分緩んでいた。

「そうであれば鬼瓦さんのような大親分でも、組織の中で窮屈な思いをしていらっしゃるんじゃないですか?」

「まあな。地元にいるときはまだいいが、最近は携帯電話だのインターネットだのと、どこにいても情報が取られちまうし捕まってしまう。気の休まる暇がなくて、世の中便利なのか不便なのか分からなくなる」

 酒井はまたしても、分かります分かりますと大袈裟に同意した。

 ふと、鬼瓦は気付いた。

「そういやあ、あんたの話ってのは、一体何なんだ?」

 そこで酒井は姿勢を正し、実は、と始めた。

「鬼瓦親分を男と見込んで、私共とビジネス提携できないかという御相談なんです」

 突拍子もない話に、鬼瓦は息を飲む。

「うちに、あんたの会社と提携できる何かがあるとは思えないんだが」

「ビジネス提携といっても色々あります。狭義の意味では扱う商品などの話になりますが、広義の意味では、お互いの利益を計る何かをするということになります。お互いメリットがあれば、それは何でもいいということです」

「よく分からんな。具体的な例を挙げて教えてくれ」

 酒井は僅かに口角を上げた。

「例えば、我々は関西のことに詳しい。そして鬼瓦親分は関東に精通しています。もし我々が関東に需要のあるものを持ち、親分が関西に需要のあるものを持っているなら、それをお互いの地元で商売するより、交換して商売した方が遥かに簡単に多くの利益を出すことができます」

 鬼瓦は酒井の顔を見て、目を瞬かせる。

「ふうむ、分かったような分からないような、気持ちの悪い状態なんだが、結局その商売のネタは何なんだ? 単刀直入に言ってくれないと分からんじゃないか」

「はい、確かに分かりにくい説明でした。申し訳ございません。では、こんな説明はどうでしょう」

 ここで酒井の目が狡賢く光ったが、鈍感な鬼瓦は全く気付かない。

「例えば、極西連合と一円連合が、全面抗争に入ったとします」

 ここで鬼瓦は、勢いよくテーブルに手を付いて驚く。

「なに? そんな話があるのか!」

「いえいえ、あくまで例えばの話です。しかし、全くあり得ないことではありません」

 鬼瓦は浮かした腰を元に戻し、確かにあり得ないことではないと勝手に納得した。

「そのとき、親分と私共が何らかの提携をしていたと致しましょう。そうなれば、言ってみれば我々は同士です。極西連合は、決して同士に攻撃致しません。そんな不測の事態が発生しても、鬼瓦組は安泰ということになります」

「ふむ、それは魅力だが、わしも一円連合の端くれとして抗争には参加しなければならないだろ?」

「そのお立場はよく理解しております。ですから鬼瓦組は、戦うふりをして頂ければ結構なんです。相手が鬼瓦組となれば、極西も少し抵抗するふりをして、すぐに尻尾を巻いて逃げます。それで傍目には、誰も何も気付きません」

「ついでに鬼瓦組は、向かうところ敵なしということになるな。それは中々いい」

 鬼瓦は想像の中で、既に悦に入っている。

 その様子を見ながら、内心酒井は、こいつは馬鹿かと思った。余りに鬼瓦が間抜けで、こんな奴と組んで、本当に大丈夫だろうかと心配になるくらいだった。しかし白戸組の組長越智は、鬼瓦が狙い目だと彼を指名した。そこで酒井は由香里の店でふんだんに金を使い、そしてベッドを共にする仲になり、ようやく鬼瓦を温泉におびき寄せたのだった。今更計画を変更し、別の人間に工作するのも厄介だ。

「しかしだな」鬼瓦ははたと気付いたように言った。「そもそもそれは、抗争があった場合のことだろう。そんなことは滅多にないし、だったら他には、どんないいことがあるんだ?」

 それがあるんだよ、と酒井は思いながら言った。

「これは親分だけの特別待遇なんですが、上等な薬を、原価に近い価格で流すことができます」

「いや、うちは薬が厳禁なんだ。扱っていることがばれたら、かなりやばい」

 酒井はごもっともですと言わんばかりに頷いてから、たたみ込むように言った。

「ばれなければいいんです。親分のところで直接扱うのは危険ですから、販売を下請けにやらせればいいんですよ。何せ原価ですから、親分が通常の儲けを取っても、下請けに十分な手数料を渡すことができます。下請けが販売実行部隊となれば、まず足のつくことはありません。我々は、いざとなればトカゲの尻尾のように切り捨てることのできる下請け紹介も、準備万端整えてございます」

「ほう、あんたも現実的な話ができるじゃないか。それで、紹介できる下請けは誰なんだ」

「関東で一円連合の息がかかっていない、銀友会なんかはどうでしょう。そこならば、私共と長い付き合いがありますので、自信を持ってお薦めできます」

 鬼瓦は少し顔を曇らせた。銀友会といえば、元々博徒の系譜を持つ暴力団で、武闘派として名が通っている。できれば関わりたくない組織であった。

「銀友会ねえ。あそこは荒くれ者が沢山いて、少しやり辛くねえか?」

「いえいえ、我々の越智が一声掛ければ、奴らは途端に親分の従順な下僕になりますから、ご心配には及びません。仮に揉め事が起きても、白戸組のバックアップでアフターケアは万全です」

「なんだか詐欺商法みたいになってきてねえか」

 その言葉で、酒井は少し調子に乗りすぎたと反省する。

「とんでもございません。自分が言うのもなんですが、こういうことは石橋を叩いて渡るに越したことはありません。先ずは少額からお試し頂ければと存じます。それで御納得頂ければ、順次扱い量を増やしていくということで如何でしょう」

 鬼瓦は、美味い話が転がってきたと内心ほくそ笑みながら、それをお首にも出さず、渋い顔で頷いてみせた。


 鬼瓦は、度々内密に酒井と会って話を詰め、本当に薬の横流しを始めることになった。

 販売は酒井の進言に従い、銀友会を下請けとして使うことにした。実際にこれをやってみると、自分の懐に簡単に大金が転がり込んでくるから、鬼瓦は酒井の奨めに従い、次第に取り扱い量を増やしていった。

 このビジネスで、鬼瓦と銀友会に深い繋がりができた。強面でならした銀友会の幹部たちは、鬼瓦の自尊心をくすぐるように、本当に彼に従順だった。それで気をよくした鬼瓦は、まるで天下を取ったように有頂天になった。

 当初薬の受け渡しは、酒井を通して行われた。しかし酒井と鬼瓦の間で信用が確立し取り扱い量が増えてくると、商流はそのままに、商品は台湾組織から直接受け取るという形に変わった。

 つまりここで、鬼瓦のおいしいビジネスに、郭協志グオ・シェーチーの組織が絡んできたのである。こうして極西連合、台湾組織、銀友会、鬼瓦組の四つの組織が繋がった。

 もちろんこれらの取り引きのことは、一円連合本部に秘密であった。鬼瓦は用心深く、自分の組の人間にもそのことを隠していた。

 ブツは鬼瓦自身が郭協志グオ・シェーチーから直接受け取り、組事務所の自分の部屋へ持ち帰る。それを銀友会幹部が、鬼瓦の事務所に出向いて受け取るという具合だ。

 郭協志グオ・シェーチーは、薬を台湾と中国から仕入れていた。この原価に輸送費や手間賃と僅かな利益を上乗せして売れば、少なくとも赤字にはならない。

 郭協志グオ・シェーチーにとって鬼瓦との取り引きは、それでよかった。このビジネスの裏には、彼にとって大きな利益に繋がる陰謀があったからだ。

 元々彼らのビジネスといえば、せいぜい水商売や飲食業、そして風俗に違法ドラッグや密輸拳銃販売くらいのものだ。しかもそれらのビジネスは、新宿から新大久保へ繋がる、歌舞伎町エリア限定といった状況だ。

 歌舞伎町といえば、たかが五百メートル四方のエリアである。そんなところへ多くの組織が入り込み、まさしくしのぎを削っている。当事者にしてみると、変化に乏しく大きな展望も望めない土地である。そこへ縛り付けられるように住み着き、小競り合いをしながら彼らはうごめいているのだ。そんなことを考えれば 、惨めでさえあった。

 そこへきて、歌舞伎町再開発計画が噂されていた。郭協志グオ・シェーチーや他の海外組にとって、歌舞伎町再開発計画は、自分たちの生死に関わる問題である。

 日本の組織は、華僑資本が強固に根を下ろす既存歌舞伎町から新宿繁華街を奪還できるチャンスとばかりに、政治家への強力な働きかけを行っていた。しかし海外組は日本の政治家や役人との繋がりがなく、それを指をくわえて見守るしかなかったのだ。再開発計画の全容も分からず、郭協志グオ・シェーチー自身も焦りと苛立ちを募らせる日々が続いていた。

 しかし郭協志グオ・シェーチーは、まだ神に見捨てられていなかったことを痛感する。薬で取り引きの長い極西連合から、与党民民党の有力議員である水上を紹介できるという話が持ち込まれたのだ。郭協志グオ・シェーチーにしてみれば、まさに起死回生となる話であった。

 水上は、総理大臣の席が最も近い人物として知られる、兵庫選出の代議士であった。元々黒い疑惑を多く持つ議員であったが、民民党幹事長に抜擢されるとその暗躍ぶりが顕著となった。そして次期総理大臣として取りただされるようになると、なりふり構わず集金に奔走する傍ら、その金を派手にばら撒き総裁選への布石を打っていた。

 金を集めるには、きれい事だけで済まない。水上はそれまでも、相当に際どいことをやってきた。

 特定企業に便宜を図り法外な献金を受け取るのは当たり前で、国有地を安く斡旋し利益の還元を受ける、公開目前の株の裏譲渡、インサイダー取り引き、国防費に絡むリベートと、それまで検察の的にならなかったのが不思議なくらいだった。

 ハイアットエージェントの酒井はこの水上と、土地再開発に絡むことで繋がっていた。土地買収、地上げ、売却に関し、裏の部分を酒井が請け負っていたのだ。

 つまり、水上が再開発地区の情報を酒井にリークする。酒井の会社がそのエリアの土地を買い占める。必要な資金は水上の口利きで銀行から調達できる。ペーパーカンパニーの間で土地を転がし、土地の値段を吊り上げる。あるいは再開発計画ネタで土地の評価額を上げる。そして最後は開発者、あるいは国に高値で土地を売却する。酒井の会社で儲かった金が、水上に政治献金や裏金という形で進呈される。こういった構図で、巨額の利益が生み出されていた。

 酒井は実際に赤坂の料亭で、水上を郭協志グオ・シェーチーに引き合わせた。その場で水上は、歌舞伎町の件を上手くさばいてくれたら、郭協志グオ・シェーチーを東京や大阪での土地再開発利権に食い込ませると言った。

「それはありがたい話ですが、なぜ外国人の私にこの件を持ってこられるのですかな?」

 水上は一見ヤクザと変わらない、ひと癖もふた癖もありそうな雰囲気を持っていた。それはひとえに、彼の人相の悪さからきている。浅黒く四角い顔の中、決して笑わない切れ長の目が異様な光を放っている。団子鼻の下にある分厚い唇は、いつでも貝のように閉じている印象で、話しているときでさえ彼のそれは動きが鈍い。

 しかし滑舌はよく、意味も明瞭だった。

「ここは正直に言いましょう。現在競争入札に名乗りを上げようとしている会社は、全て他の議員の息がかかっている。いや、率直に言えば、私のライバル、まあそいつをAとしましょう……、全てAがツバを付けている会社や組織になっている。つまりこのまま物事が進めば、Aに大きな金が流れ込み、総裁選では私が不利な立場に立たされるわけです。第一に私は、それを阻止したい。そして第二に、できればその金を自分が引き込みたい。しかし日本の会社や組織同士にはしがらみというものがありましてね、既存の名乗りを上げている会社に対抗しようという気概を、誰も示してくれないんですな。そこで、今の歌舞伎町は元々台湾華僑の方々が牛耳っておられるのだから、新しい場所もそうしたらいいのではないかと思い付いたわけです。華僑の方々であれば、資金面では全く問題ない。日本の大手企業に十分対抗できる。そして華僑の方々と組むことができるのは、あなた方台湾や香港、中国ということになる。しかし、突然そんな横槍を入れたら、当然その筋の人たちも黙っていないでしょう。そこは酒井さんに、頑張って活躍してもらわなければならない」

 そこで水上が、同席する酒井をちらりと見る。酒井はゆっくり頷いて、水上の言葉を引き継いだ。

「そちらは銀友会、極西連合がバックアップします。但し、極西連合が関東で動くには、一円連合が邪魔になります。そこで手始めに、一円連合の鬼瓦組をこちらの懐に取り込んでしまいたい。老板には、鬼瓦組長を手なづけるためにご協力頂きたいのです」

 早速不穏な依頼が飛び出し、郭協志グオ・シェーチーは警戒心を顕にした。

「何をするんだ?」

 酒井は、銀縁メガネの奥で目を細めながら言った。

「薬のビジネスに引きずり込んで、後へは引けないようにしてしまうんですよ」

 酒井にしてみると、これほど目立つプロジェクトを関東で遂行するのは厳しい。動き回るにも、常に一円連合の目が光っているからである。どうにか前工程をしのいで建設にたどり着けても、今度は建設現場に必要な日雇い人足を集めるのが難しい。そういったところまでカバーするのが、その手のビジネスにおける従来のやり方なのだ。そこまでやらないと、建設会社やスポンサーの信用を得られない。同時にその辺にまつわるピンハネ利益は、無視できないほど大きいのだ。

 しかし、関西から人手を連れていくとしたら、交通費や月極月給の保証、住む場所の確保等で経費が掛かり過ぎる。自分たちの利益を確保し、水上に対するキックバックも抜かりなく捻出するには、関西のやり方を関東で踏襲しなければならないのである。

 思慮深い郭協志グオ・シェーチーは言った。

「薬を売るだけなら簡単だ。しかし本当の狙いは何ですかな? 計画の全てを知っておかなければ、あなたたちの話に迂闊に乗るわけにはいかない」

 水上はあけっぴろげに笑った。

「いやあ、流石に海外の方は用心深い。しかしまあ、そのくらいでないと私もあなたをパートナーとして迎えるのが心配ですから、まあいいでしょう。酒井さん、ここからは専門的な話になるでしょうから、私はここで退場することにしますよ。あとは同業者同士で、じっくり語り合って下さい」

 水上は席を立ったかと思うと、郭協志グオ・シェーチーに向き直りじろりと彼を睨んだ。

「最後まで話を聞いたら、もう後戻りはなしですよ。そんなことにでもなれば、あなたは日本に居られなくなるかもしれない。私には入管や関係省庁に手を回すだけの人脈があることを忘れんで下さい」

 獲物を狙う獣のような目付きでそう言われたとき、郭協志グオ・シェーチーの背筋に冷たいものが走る。

 唾を飲み込む郭協志グオ・シェーチーの様子は、水上を満足させた。彼は高らかに笑い、その場を去った。

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