第21話

 台北の萬華区大通りでタクシーを降り、混雑する屋台通りを進んでから、屋台の隙間をすり抜けるようにして薄暗く細い道に入った。何軒もの屋台で聞き周り、ようやく探し当てた小路だった。

 廣州街夜市は観光客が大勢出歩き、まるで祭りのように賑わっていたが、一歩裏に回るとそこは闇に包まれている。如何にも何かが起こりそうな気配だった。

 猪俣が慎重に通りを進んでいると、突然「止まれ」という低い声と同時に、背中に拳銃を突き付けられた。

 両手を上げた猪俣の背後から、「何処へ行く?」と、再び落ち着いた声が発せられる。同じように拳銃を突き付けられた案内役の土方が、「何処へ行くかと訊いています」と言った。日本から連れてきた土方は、台湾人と日本人の混血である。

 普段、背後であっても人の気配に敏感な猪俣が、まるで察知できずにこうして後ろを取られることは稀だった。そのことに驚きながら、上げた両手をそのままに猪俣は言った。

楊華健ヤン・ホアジェンに会いにきた」

 すぐさま反応があった。

「お前は誰だ」

「五所川原組の猪俣だ。日本から来た」

 土方は決して振り返らず、もう少し丁寧に、猪俣の素性を台湾語で説明した。気付いたら二人の背後に、少なくとも四人の台湾人がいた。気配の殺し方や落ち着いた態度で、猪俣は彼らを、ただのちんぴらではないと思っていた。下手に逆らえば確実に殺られると、猪俣の勘が告げている。

 彼らの一人が、電話で話し始めた。五所川原組や猪俣といった日本語が、台湾語の会話に混ざっている。会話を終了した男が、猪俣の前に回り込んで言った。

「失礼しました。ボスがお待ちしております。その前に、身体検査をさせて下さい。武器の持ち込みは禁止です」

 角刈りで、小柄ながら引き締まった体を持つ三十代後半の男だった。日本のテキ屋が着るダボシャツの首筋や袖から、見事な彫り物が覗いている。

 彼の言葉は、流暢な日本語だった。日本のヤクザと交流の深い台湾黒社会には、日本語を話す幹部が結構いると聞いている。猪俣がときどき日本で会食する台湾組織の頭目たちも、みんな器用に日本語を操った。

 角刈りが「失礼します」と言い、猪俣と土方のボディーチェックをした。猪俣が素性を告げたことで態度は丁寧になったが、チェックは形式的なものと違い、彼らはスーツの裏ポケットまで丹念に調べた。

 前方に二人、後方に二人の台湾人に挟まれ、猪俣は再び小路を進んだ。台湾黒社会の大ボス、青龍会の頭領である楊華健ヤン・ホアジェンの警備は、流石に厳重であるようだった。

 楊華健ヤン・ホアジェンは、台湾で全てを手に入れた黒幕の大物だ。

 台湾黒社会の実力者は随分政治の世界にも進出しているが、楊は自ら表に立つことを嫌い、目立つことも控え、それでも実力と金力により、いつでも睨みを利かせている。

 楊自身は、権力などというものにとうに興味を失っていた。しかし、楊の力を背景に利権や金を欲しがる周囲の人間が、いつでも彼を必要としている。既に六十に手の届いた彼の本音は、隠居しのんびり余生を過ごしたいというものだが、一度影響力を持ってしまうとそれがままならないのだ。

 五所川原一徹が台湾の楊に連絡を取ったのが、ほんの三日前だった。会う約束を取り付けると、猪俣は隠れ家を密かに抜け出し、台湾に精通している土方を伴い成田から台湾に飛んだのだ。

 楊の住まいのある場所は、一見大物が住むような場所ではなかった。萬華エリアの、ごみごみとした埃臭い場末だ。しかし、周囲のあらゆる古びた家の中に鋭い眼光が潜んでいることを、猪俣は見逃さなかった。周囲一区画丸ごと、楊の配下が目を光らせる要塞になっているようだ。この分では、不測の事態が発生したときの逃げ道となる地下道もあるのだろう。あらゆるところが袋小路になっていて、敵の侵入を防ぐには都合がよいが、万が一追い詰められたらお終いだからだ。

 しかし、これ程複雑に入り組んだ狭い道の奥にいれば、楊に辿り着くのは容易ではない。大軍で押し寄せたとしても、前線は否応なく伸び切り、あるいは分断され、個別化された小隊が三百六十度の全方位攻撃を受けてせん滅するはずだ。よく考えられた要塞だと、猪俣は感心する。

 しかも猪俣は、自分たちが真っ直ぐ楊のもとへ向かっているのではないことに気付いていた。迷路のような通路を左右に頻繁に曲がり 、ボスの客人であっても回り道をさせられているようだ。その用心深さも大したものだった。

 案内人が、周囲の景色に溶け込む古い木造家屋の前で立ち止まった。随分とくすんだ建物だ。ここでも入り口で、ボディーチェックを受ける。

 建物に入り廊下を左右に一度ずつ折れると、正面に長い廊下が現れた。その両側に、いくつもの部屋がある。

 案内人が、そのうち一つのドアをノックした。中からドアが開けられ、部屋に通される。

 部屋の中にいたのは、立派な体躯の、目付きの鋭い男だった。まだ若いが、随分落ち着いて貫禄がある。その男が、部屋の中央にあるソファーを勧めた。

「お掛けになってお待ちください」

 部屋の中には、使い古された木製の調度品がいくつか置かれていた。キャビネット、机、椅子、衣紋掛けなど、どれも表面に艶のあるダークブラウンで統一されている。部屋の四隅に置かれた灯籠に、暖色の灯りが灯っていた。窓がなく薄暗いが、建物の外観とかけ離れた、落ち着いて品のある部屋だ。

 若い男が部屋を出ると、入れ替わりで女が中国茶を持ってきた。

 四十半ばと見られるチャイナドレスを着た背の高い女性で、切れ長の目と筋の通った鼻が、日本的な美しさを際立たせる美人だ。それは、美しい顔に有りがちな、冷たい印象を人に与える顔立ちだ。そのときなぜか猪俣は、その女と姐御を重ねていた。

 彼女は二人の前にお茶を出してから、「楊はすぐに参ります」と流暢な日本語で言った。それで猪俣は、彼女が日本人だと気付く。彼女はお茶を出し終えても退室せず、テーブルの横にかしこまって立っていた。

 猪俣は彼女のことが気になり、訊ねてみた。

「あなたは、日本人ではないですか?」

 女の口元が、僅かにほころんだ。

「はい。申し遅れましたが、私は楊の妻で、京子と申します。楊と連れ添って、もう三十年以上にもなりますのよ。日本へ伺ったときに、私と楊は五所川原さんに随分お世話になりましたの。今日は、お邪魔でなければ私も同席させて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」

 猪俣は驚いて、ソファーから立ち上がった。土方も慌てて腰を上げる。

「それは大変失礼しました。もちろん御一緒で構いません。それにしても、楊さんの奥様が日本人だなんて、驚きました。うちの親父は、これまで楊さんには多く世話になったと言っておりましたが、奥様のことは何一つ伺っておりませんでした。五所川原から、楊さんに会ったら、是非宜しく伝えて欲しいと伝言を預かっておリます」

 京子は、あの人らしいですわねと言って、ふふふと微笑した。その顔を見て、猪俣は今度こそはっとする。

「失礼ですが、もしかしてあなたは、うちの姐御をご存知ありませんか?」

「よくお分かりになりましたわね。私はあの子の、実の姉ですのよ」

 そう言った京子は、唖然とする猪俣を見て、甲高い声で笑う。

 唐突にドアが開き、小柄で痩せた老人が現れた。染みと皺の多い顔の中で、眼光が異様な鋭さを放っているのが印象的だった。

 京子が笑いをピタリと止めて、あら、早かったのねと意外そうな顔を作ったことで、猪俣はその老人が楊だと悟る。

「わしが来る前から、随分と話が盛り上がっているようじゃないか」

 日本人の妻に、楊は日本語を使った。

 猪俣は咄嗟に姿勢を正し、楊に向く。挨拶をしようとしたが、先に京子が口を開いた。

「あなた、猪俣さんの勘の良さは、噂通りですわよ」

 笑顔を作る楊に、猪俣がようやく言葉を発するタイミングを掴んだ。

「五所川原組の猪俣です。この度は、時間を作って頂きありがとうございます」猪俣は丁寧に、深く腰を折り曲げる。

 楊はまあまあと、差し伸べる手で猪俣に着席を促しながら、猪俣と向き合う格好でソファーへ腰掛けた。

「待たせて済みませんでしたね。突然の来客があったものでな。今日は、はるばる東京からよくおいで下さった。一徹さんは、元気にしているかね?」

 温和な言葉と裏腹に、視線は猪俣を値踏みするようにねっとりとし、楊の不気味さが漂う。

 たかだか人口ニ千五百万の台湾で、台湾黒社会に身を置く人間は百万人いると言われている。日本の暴力団構成員数の約二十倍だ。その中で楊は、実質頂点にいる人間である。その事実だけを取っても、楊が相当なやり手であり、恐ろしい存在であることは確かだった。

「ええ、相変わらず親父は、毎日欠かさず竹刀の素振りをニ百本こなし、元気にしております」

 楊は笑って、京子と同じように、一徹さんらしいと言った。その言い方には、随分な親しみが漂っている。しかし猪俣は、五所川原親分と楊の関係を、何一つ知らなかった。

 ほんの五日前、猪俣は五所川原に、新宿娼婦殺人事件にまつわる一連の出来事を報告した。つまり事件に台湾組織が関わっている可能性、除の逮捕、極西連合や銀友会の不穏な動きについてだった。

 その二日後、五所川原は今の問題を、台湾青龍会の楊に相談してみたらいいと言い出した。もちろん猪俣は、楊の名前を知っていた。

「親父、いくら一円連合でも、先方は簡単に会ってくれませんぜ。しかもビジネスではなく相談ごとなんですから、そりゃあ無理じゃありやせんか?」

 しかし五所川原は、平然と言った。

「なに、もう約束は取り付けてある。お前は何も心配せんと、台湾に行ったらいい。向こうは喜んで、お前の話を聞いてくれるはずだ。ただな、下手なことをしたら奴の手下に簡単に殺されるから、それだけは気を付けることだ。あいつの手下は恐ろしいぞ」

 あっけにとられる猪俣を見て、五所川原は快活な笑いを飛ばした。しかし五所川原は、二人の関係について、何一つ詳細を語らなかったのだ。

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