第17話

 ヤスは苛立っていた。娼婦殺人事件発生後、何も成果が上がらないまま捜査本部は早々と縮小され、捜査本部会議室も十畳程度の小ぶりな会議室へ引っ越しとなっていた。

 そんな状況下、捜査員十人の前で、本庁の櫻井が捜査に対する激を飛ばしている。捜査本部長は新宿署署長の鴨居だが、捜査の進展がはかどらない状況に、本庁のキャリアが乗り込んできたのだ。

 三十半ばの櫻井は、警視正だ。ヤスから見れば、現場の苦労も知らずに出世した青二才である。七三に分けた髪と縦縞のダークスーツ、やたらと照明を反射するブランド銀縁眼鏡をかけた櫻井は、見事に警察官僚の匂いを放っている。新宿署署長の鴨居は一回りも年下の櫻井に、哀れなくらいへつらっていた。櫻井の訓示もどきが終わると、鴨居から、予め櫻井と示し合わせたらしい今後の捜査方針が示された。

「除を任意同行で引っ張り、事情聴取を行ないます。台湾勢が抵抗したら、まとめてしょっぴいて構いません」

 そこでヤスが叫んだ。

「ちょっと待ってくれ。この状況で除を引っ張って、一体何をするんですか。もし事情聴取が不発に終わった場合、それからの手は考えているんでしょうね」

 ヤスの迫力に鴨居が言葉を飲むと、すかさず櫻井が強い口調で言った。

「このまま時間が経過すれば、重要な手掛かりが失われていく。いずれは除が、姿をくらます可能性もある。大々的に聞き込みをしたんだ。奴らも捜査の手が伸びていることに勘付いているかもしれない。そうなれば振り出しだ。事情聴取を不発に終わらせるな。奴を締め上げて、何としてでも突破口を切り開け。それが現場の役目だ」

 同じ本庁の叩き上げであるヤスは、これまでも階級章だけは立派なキャリア組に、何度も煮え湯を飲まされている。櫻井とぶつかることも、初めてではなかった。

「それはこちらに、不利な賭けになるんじゃねえですか? 除は今のところ、法に触れたことは何もしていねえ。奴を引っ張れば、こちらの手の内が台湾組織に知られるだけになる」

「その通りだ。確かに除は何も法に触れていない。しかしあくまでそれは、今のところだ。一旦引っ張ったら、いくらでも叩いて埃を出せばいい。材料は腐るほどある。それで二度と、奴を開放しなければいい」

 櫻井は言外に、別件逮捕を匂わせている。この青二才は、国家権力をかざせば、その前に誰もが簡単にひれ伏すと思っているのだ。

「奴らには警察より怖いものがある。事はそう単純に運ばねえ」

「それならもっと怖いものがあるということを、奴に教えてやれ」

 だからあんたは何も分かっていないんだと、ヤスは胸のうちで毒づいた。

「奴らは国の親兄弟や子供を人質に取られているようなもんだ。そんな奴らに、それ以上怖いものなんてあるとは思えない。まして俺は、他人を教育するなんて柄じゃねえ」

「大丈夫だ。お膳立ては全部こっちでしてやる。あんたは現場の人間らしく、黙って体を動かしてくれ」

 ヤスは舌打ちした。警察は階級社会である。上の階級章には、最後まで逆らえない。

「どうしてもと言うなら、今日一日だけ待ってくれ。外堀を埋めておかなきゃ、どうにもなんねえ」

 櫻井は思案して、分かったと言った。「決行は明日だ。明日、昼前に除を引っ張ってくれ」

 除が関わる犯罪の証拠集めに、再び捜査員が散った。

 しかしヤスは街に繰り出さず、康夫の自宅に足を向けた。このまま突っ走っても、決して展望は見込めない。ヤスは匿名タレ込みの主が、猪俣、康夫ラインではないかと当たりを付けていたのだ。そうだとすれば、重要な手掛かりがまだそこにあるかもしれない。

『ヤクザに捜査の相談をするなんて、俺も焼きが回ったもんだ』

 そう思いながらも、ヤスは一縷の望みをそこに託していた。


 突然のヤスの来訪に、貞子は喜び康夫は驚いた。

 康夫自宅のリビングに通されたヤスは、話しをどう切り出すべきか迷っていた。

「突然邪魔して悪かった。職場でちょっと疲れることがあってな、ついここに来ちまった」

「疲れること? つまり厄介な組織の件ですか?」

「まあ、正直に言えば、そういうこった」

「ということは、例の娼婦殺人事件ですね」

 ヤスが無言で頷いた。

「猪俣さん逮捕の動きが、また活発化しているとか?」

「いや、そうじゃねえ。台湾マフィアが捜査線上に浮かんでな、上が台湾人のチンピラを引っ張れと言うんだ。しかしなあ、それをしたところでどうにかなるってもんでもねえし、ちょっと愚痴をこぼしに来たってわけよ。迷惑だったかな?」

 それだけで康夫は、ヤスの訪問目的を理解した。

「いつも暇なので、こちらは構いませんよ。家内が以前、随分お世話になったようで、ヤスさんならいつでも歓迎です」

 康夫は笑顔でそう答えた。脇から貞子も言った。

「そうよ、ヤスさん。いつでも遊びに来てよ。用事なんてなくてもいいんだから」

 ヤスは頭をかいて、照れくさそうに恐縮する。

「それで、台湾人を引っ張るとか」

「そうなんだ。まあ、本来は捜査の内容をぺらぺらしゃべるわけにはいかねえんだが、まあ今日は、俺の勝手な愚痴ってことで」

 そう前置きしたヤスは、おそらく康夫が既に知っているだろうそれまでの経緯を、かいつまんで話した。

「なるほど。その台湾組織っていうのはおそらく、郭協志グオ・シェーチーという老板ラオバンのいる組織ですね。一円連合も表面的な付き合いがあるようで、自分の耳にも名前だけは入ってきます」

 ヤスはおやっと思った。康夫の方から、水を向けてきたような気がしたのだ。

「そうなんだ。あの殺人は、おそらくその組織の中に犯人がいると睨んでいるんだが、まず動機がさっぱり分からん。いきがかり上のことなのか、怨恨なのか、それとも何か企みがあってのことか。それになあ、除というチンピラを捕まえたところで、そいつが何かをしゃべるとは思えねえ。奴らの結束は半端ねえほど固い。まあ実態は、恐怖政治で組織内の人間の上に、重石を置いているようなもんだがな。それでこれからどうしようかと悩んでるってわけだ」

 これで康夫がどう反応するか、ヤスは康夫をじっと見た。

「確かに困難な状況に見えますね。僕は素人なのでよく分かりませんが、この事件は現場に一円連合のバッチが落ちていたこともあり、色々と耳に入ってくるんですよ。これはあくまで、個人的な考えですが」

 康夫はそこで、一呼吸置いた。康夫にしても、どうせ行き詰まっている。ここは腹を割って話すべきだろうと康夫は考えた。

「僕はこの事件の動機を、何かの陰謀だと思っていたんです。誰かと誰かがお互いの利益のために、一円連合を貶めようとする陰謀です。しかし、それにしては手口が単純過ぎる。実際に警察も、都合よくそこに一円連合のバッチが落ちていたからといって、すぐに僕たちの誰かを疑ったわけではないですよね。もちろん警察に、そのことを利用しようという考えはあったのかもしれませんが」

 康夫は敢えて、これは複数の思惑が絡んだ事件であることを匂わせた。

 しかしヤスは、別の部分に気を取られ、そのことには直ぐに気付かなかった。

「今は、殺害動機が陰謀だとは思っていないような口振りだな」

「あくまでも、動機は違うところにあるのではないかと。バッチの件は、確かに一円連合や猪俣さんを貶める狙いがあったかもしれませんが、何か後付けで行われた仕業に思えて仕方ないんです」

「つまり、殺害動機とバッチの件には、元々深い繋がりはないと?」

「そういう可能性もあると思っただけです。根拠はありませんが、例えば警察の捜査を撹乱する必要があったとか、あるいは殺された女は、知ってはいけない何かを知ってしまったなどです」

 ヤスは、ほうと頷き、康夫が続ける。

「僕はその何かを知りたいのですが、これがよく分かりません。しかしあの殺人は、個人的な何かではなく、組織が絡んでいます。と言うのも、少し気になることがあるからなんです。ここ三ヶ月くらいで、新宿の海外マフィアが急増していますが、それはご存知でしたか?」

「そうなのか? それは知らなかった」

「台湾だけでなく、上海、北京、香港の各組織に、兵隊らしき人間が随分流れ着いているようです。まるで戦争でも始めるみたいにです。それに、上野に事務所を構える銀友会のメンバーに、おかしな動きがあります。そこがうちの鬼瓦組と何かをしています。更に関西の白戸組が、台湾組織と何かを話している。白戸組は、鬼瓦さんとも関係しています。そして白戸組の後ろに、有力な政治家の影が見えています」

 ヤスは頭の整理をつける以前に、そうした裏事情に精通している康夫に驚いた。

「政治家? それは一体、誰なんだ? 名前を聞くわけにはいかないか」

「民民党の幹事長です」

 ヤスの目が、驚きで自然と大きくなる。

「水上か? そりゃ厄介なことだ。しかし他の組織のことならいざ知らず、なぜ自分たちの動きまで教えてくれるんだ?」

「鬼瓦組の動きは、一円連合の意向とはまるで関係ありません。もし彼らが一円連合の意向に沿わない何かを企んでいるなら、猪俣さんは決してそれを許さないでしょう。鬼瓦組が潰れることになってもです。一円連合は今、真実を知りたい。もちろん警察も、殺人事件の背後関係を知りたいはずです。つまり両者の思惑は一致しているのかもしれない。ならば僕たちは、警察に隠すことは何もありません」

 ヤスはたじたじになりながら、深く頷いた。

「それと今、ある台湾人が日本に来ています。赤坂プリンスホテルに滞在していますから、調べてみたら如何でしょう」

「台湾人? それは組織絡みの人間なのか?」

「いえ、組織とは全く関係ありません。台湾組織から、身を隠している方々です」

 ヤスは少し考えて、はっとした。もし自分の勘が当たっているなら、この酒田という人間は、相当に気の回る人間かもしれない。

「ほう、もし俺の考えが正しければ、あんたに礼を言わなきゃならんな」

「お礼なんてとんでもない。僕も事件を解決して、早く元の職場に戻りたいんですよ」

 そう言って朗らかに笑う康夫を、ヤスは目を細めて不思議な男だと思うのだった。

 貞子の食事の誘いを断わり、ヤスは赤坂プリンスに直行した。思った通りそこには、除の母親と妹、そして兄の家族が滞在していた。彼らは最初、ヤスが台湾組織の回し者ではないかと疑い警戒したが、ヤスが日本の警察官であることを信じると、来日の経緯を話してくれた。

 一週間前、突然除の母親のところへ弁護士が尋ねてきた。台湾人の弁護士だった。彼は日本での除の近況を伝え、おそらく近々、除が警察に捕まるだろうことを教えてくれた。そうなると、除が属している組織が家族に危害を加える可能性があるため、ある人より、家族を安全に匿まうよう依頼が入ったとのことだった。

 依頼者が誰かは知らないが、その人は実際に台湾での潜伏費用や日本までの飛行機代を出してくれ、こうして快適なホテル生活も保証してくれている。親兄弟が日本に来ていることは、当面除には内緒という約束なので、まだ会っていない。会いたくても、息子がどこで何をしているかを知らず、連絡が取れないとのことだった。

 手を回したのは、康夫に違いなかった。除を少しでも身軽にするためである。そのことで、警察が彼から何か情報を取れるかもしれないと考えてのことだ。

 こうなると、除を強引に逮捕して、徹底的に叩くことにも意味が出てくるのだった。

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