第11話

 中国人娼婦殺人事件本部が設置された新宿署会議室に、警視庁マル暴担当のベテラン刑事安田、通称マムシのヤスがよばれていた。殺人事件は捜査一課の担当だが、現場で一円会幹部バッチが見つかったことから、マル暴担当のヤスも動員されたのだ。

 元々警察内部には、暴力団以上に縄張り意識や競争意識が巣食っている。こうした課をまたぐ協力は珍しいが、刑事部長や上層部の意向が働いたり、お互いの利益に繋がるのであれば話は別だ。

 マル暴担当には、ヤクザか刑事か見分けのつかない大柄で粗暴な刑事が揃っていたが、その中でヤスは、唯一小柄な老年刑事だった。マル暴担当には珍しい理論派で、彼の勘と思考、それに基く捜査はいつも細に渡った。一旦マムシのヤスに目を付けられたら、全てを丸裸にされると恐れられるほどだった。

 康夫は、そのマムシのヤスにして言わしめた。

「とんだ食わせものが出てきやがったもんだ。こうなりゃしばらく、じっくり腰を据えて事に当たるしかねえ」

 しかし一課のベテランである池上は、ヤスの言葉を懐疑的に受け取った。

「奴はどう見ても一般庶民だがなあ……。ヤスさん、奴のこと、少し買いかぶり過ぎじゃないのか?」

 ヤスは絡み付くような目で、池上を睨んだ。

「池さんよ、俺はなあ、正直言って坂田康夫なんてのはよく知らねえ。しかし五所川原や猪股のこたあよく知ってるぜ。あいつらはな、その辺のヤクザと毛色が少し違う。ああ見えて五所川原は劉備玄徳で、猪俣は諸葛孔明なんだ。猪股ってのはな、最初は何を考えてんのかさっぱり分からんが、あとで気付くと、やってるこたあ全部理にかなってる。そういう恐ろしい奴なんだよ。そんな奴が推した後釜みてえな奴だ。余程凄い奴か、あるいはその裏に驚く仕掛けがあるかもしれん。とにかく俺は、坂田ってのに会ってみようと思ってる。そうすりゃあ何か分かるかもしれねえからな」

「まあ、ヤスさんがそう言うなら、そうかもな」

 池上はヤスの力説に怯んで、結論を曖昧にした。

 後日ヤスは、本当に康夫に会いに行った。平日の昼、康夫が務めている会社に行ったのだ。

 約束なしで、突然会社を訪問した。勤め先で警察手帳を振りかざし、少し威圧してやろうという魂胆があった。しかしそれは、受付で挫かれた。

 清楚な制服の似合う、ウエストが綺麗にくびれた美人の受付嬢が、社内電話で確認して言った。

「申し訳ございません。坂田は休職中でございます」

「休職?」

 あまりに怪訝な顔をするヤスを見て、受付嬢は言った。

「急用でございましたら、代わりの者にお取り次ぎ致しましょうか?」

 ヤスは少し考えて、「いや、結構」と諦めた。康夫の上司か誰かに詳しい話を訊きたい気持ちはやまやまであったが、特別何かで捜査しているわけでもない。

 ヤスはその足で、康夫の自宅を訪れた。ヤスは先ず、康夫が住むマンションを見上げて唸った。一介のサラリーマンが購入できる物件でないことは、一目瞭然だからである。麻布の一等地に広大な敷地を確保し、エントランスまでの緑に囲まれたアプローチが長い。意味の分からない石造りのアーチが連なり、それをくぐって建物の中へ入ると、磨きこまれた自然石の床や壁が燦然と輝いている。東京の中とは思えないほど静まり返った温もりのない空間に、ヤスは空々しさを感じた。

 インターフォンを押すと、女性の声が出た。聞き覚えのある声だった。警察だと言うと、「あら、ヤスさんじゃないの」と言われた。

「もしかして、貞子ちゃんか?」

「そうよ。懐かしいわあ。ちょっと待って、今開けるから」

 屈託のない貞子の対応に、ヤスは少し拍子抜けした。確かに坂田康夫は、五所川原一鉄の一粒種である貞子と結婚したのだから、彼女がそこにいても不思議ではない。しかし貞子は、仮にも今は一円会若頭代行の姐御となったのである。警察に対して少しくらいの警戒心があってもよさそうであるが、それがまるで感じられないのだ。昔から何も変わらないとすれば、それはそれで嬉しいことではあるのだけれど。

 開いた自動ドアを抜け、薄茶の御影石に囲まれた鏡のように輝くステンレス製ドアのエレベーターに乗り込み、二十階に上がる。エレベーターを出た廊下は、天井が高く物音一つない。天井に等間隔に並ぶスポットライトが、暖色の照明を床に落としている。

 ヤスが部屋の呼び鈴を押すと、すぐに貞子がドアを開けた。久しぶりねと嬉しそうに言う貞子に、ヤスが言った。

「貞子ちゃん、大きくなったねえ」

「ヤスさん、それ、どういう意味よ。女も三十を過ぎると、脂肪が付きやすくなるのは仕方ないわよ。とにかく上がって。旦那を紹介するわ」

「ほう、旦那さん、居るのかい?」

 ヤスは意外だった。居留守を使われ、会うのは難しいかもしれないと思っていたからだ。

「ええ、居るわよ。忙しくなると思って会社を一時休職したけど、結構暇みたいなのよ」

「貞子ちゃん、今日は旦那に、猪俣のことをちょっと訊きてえんだ。貞子ちゃんも一緒に話を聞いてもらいてえんだがよ」

「もちろんいいわよ。さあさあ、上がって」

 リビングに通されると、生真面目そうな男が立ち上がってヤスを迎えた。

「やっちゃん、彼が警視庁で有名なマムシのヤスさん。昔からよく家に来て、お父様と将棋をするのよ。勝負が佳境に入るといつも喧嘩になって、将棋盤をひっくり返して大変なことになるの」

「おいおい、貞子ちゃん、もう昔のことだ。そんな恥ずかしいことを蒸し返すのは、なしで頼むよ」

 ヤスは無意識に、自分の頭をかく。

「初めまして。坂田康夫です。僕も同じヤスなんですよ。突然妻の家の稼業を手伝わされることになりましたが、元々はただのサラリーマンです。それで、今日は猪俣さんのことだとか。猪俣さんに、何か容疑がかかってるんですか?」

 ヤスは少したじろいだ。康夫が、まんまのサラリーマンではないかと驚いたのだ。ぎらつきも狡猾さも、何も感じられない。康夫の印象は、予想や噂とあまりにかけ離れていた。やはり何事も自分の目で確かめるのが一番だと、ヤスは改めて思った。

「まあ、その、なんだ……。正直に言ってしまうとな、新宿の殺人で奴を追いかけている連中がいることは確かだ。しかしよう、俺はあいつを疑っているわけじゃねえ。あいつがそんな馬鹿じゃないことくれえ、俺には分かっている。ただな、警察の組織ってやつも厄介でなあ」

「そうでしょうね。組織というものはどこも厄介ですよ。うちの会社も一円会も同じです」

「確かになあ。なんでもあんた、会社は休職中だっていうじゃねえか」

「ええ、突然若頭代行なんか頼まれたもので、仕方なく。元々社内ではそれほど重要な人間ではなかったんで、会社もあっさり了解してくれました。いっそ辞めてくれたら助かるなんて思ってるかもしれませんね」

 康夫は楽しそうに笑った。貞子もつられて笑う。ヤスは曖昧に頷いた。

「なぜ休職なんだ?」

「僕の若頭代行は、猪俣さんがいない間の一時的なものですから。猪俣さんが戻れば、僕も会社に戻ります」

 受け答えに躊躇がない。ヤスは一瞬、猪俣の居場所を尋ねたら、康夫はそれも素直に答えるのではないかと考えた。

「ほう、一時的に……。その猪俣なんだが、奴は元気なのか? 警察の中じゃあ、もう消されちまってんじゃねえかって話も出てるんでよ」

「とんでもない。元気ですよ。あの人は、殺そうとしたって簡単に死にませんから」

「ちげえねえ。まあ元気ならそれでいいんだ。俺も、ちいと心配になったもんでなあ。まあ、それだけだ」

 ヤスはそれ以上、余計なことを訊かなかったし話さなかった。猪俣の居場所を尋ねて康夫や貞子を困らせることに、躊躇したのだ。それに今のヤスにとって、猪俣の居場所は重要ではない。

 貞子にもヤスのことは分かっていた。いつかはヤスが、康夫に会いに来ることを。

 しかしヤスは、いつでも公平だ。悪は徹底的に憎むが、レッテルは決してはらない。しかしいくら親しくなっても、悪事に手を染めたらとことん追い詰める。なあなあの誤魔化しは通用しない。そんな人間だ。

『俺の仕事に、社会正義なんて考えは毛頭ねえよ。税金で飯食ってるから、ちょっとは社会にお返ししなきゃみたいな考えはあるけどよ、結局は飯の種を失いたくねえだけだ。飯だけは、食わなきゃなんねえからな。だから悪く思わんでくれ』

 かつてヤスが五所川原を引っ張るときに、思春期に差し掛かった貞子に言った言葉だ。

 普段懇意にしていた刑事が、突然父親に牙をむいた。しかし貞子は、それを正直な言葉だと思った。社会正義を振りかざす人間ほど、信用できるものではない。思想を振りまく人間も、怪しい臭いを纏っている。誰もが所詮、人間だ。食って寝て、欲求を満たす、根は獣と同じ動物だ。貞子はそのとき、実父の逮捕は当然のことなのだろうと、ヤスを見て納得することができた。

 五所川原が長い間自宅を留守にすると、ヤスは貞子のことを気にかけてくれた。様子見で、相変わらずヤスは五所川原邸を訪問した。いつでも貞子にだけささやかな手土産を持って。貞子は実父を奪った人間に妙な暖かさを感じ、自分の感情を不思議に思ったものだ。

「ヤスさん、仕事の話が終わりなら、家でランチを食べていってよ。久しぶりなんだから」

 ヤスは貞子の勧めに従い、そこで昼飯を馳走になった。大根と鶏肉の煮物、野菜サラダ、味噌汁というシンプルなメニューだが、どれも出汁を丁寧にとり料理されたことが分かる、上品な味付けだ。

「貞子ちゃん、料理の腕が随分凄いんだねえ。こんな美味い味噌汁や煮物を作れるなんて、こりゃあ驚いた。料亭でも開店できるぜ」

「ヤスさん、大袈裟なこと言わないでよ。恥ずかしくなるじゃない」

 珍しく貞子が照れてはにかむ。

「貞子ちゃん、幸せなんだな。今日はここに来てよかったよ」

「ヤスさん、何よ、突然。わたしはご覧の通り幸せよ。今度は子供がいるときに遊びに来てよ。三人共、可愛い娘なんだから」

 子供たちはそれぞれ、幼稚園や学校へ行って留守だった。普段は組の若い者が護衛を兼ね、それぞれを送り迎えしてくれる。

 ヤスは、リビングに飾られた何枚もの家族写真に気付いていた。どれも幸せを絵に描いた写真だった。

 おそらく坂田康夫という男は、見た目通り、本当に極道の似合わない人間なのだろう。ならば猪俣の狙いは何か。猪俣は、五所川原の意向を忖度し、使えない人間をトップに据えるほど甘い人間ではない。

 あるいは歳で、自分の目が曇ってしまったのか。康夫は実は、善人の皮を被った極道なのか。それとも実は猪俣が、保身的で俗物的な人間だったのだろうか。

 珍しくヤスは翻弄された。複雑なパズルを前に、途方に暮れた気分だった。

 しかしここに、たった一つ救いがある。幸せそうな貞子の様子だ。貞子の前で、康夫に手錠をはめることだけは避けたい。そんな日が訪れないことを祈りながら、ヤスは康夫の自宅をあとにした。

 この間猪俣は、隣の部屋にいた。前もってヤスが来ると連絡をもらったため、猪俣は自分の空腹を呪いながら、ヤスが帰るのを待っていたのだ。ヤスさんが猪俣のことを心配していたと貞子が告げると、「食わせもんだが、あのオヤジらしいわ」と猪俣は言った。

「若旦那、あいつがここへ来た本当の目的がなんであるか、知ってやすかい?」

「猪俣さんの消息じゃないんですか?」

 猪俣は、煮物の鶏肉を骨まで噛み砕きながら言った。

「とんでもねえ。奴は若旦那を見にきたんでさあ。彗星のごとく登場した新リーダーの若旦那の偵察ですぜ」

「新リーダーって……。僕は正直に、臨時の代行だと言いましたよ」

「それでいいです。若旦那はいつでも誰にでも、正直に接してくれりゃあええんですよ。ヤスは戸惑ったにちげえねえ。なんだ、こいつは? ってね。いろんな勘ぐりをして、今頃は頭の中がこんがらがっているはずですぜ」

 猪俣は愉快そうだった。これまで散々彼は、ヤスに煮え湯を飲まされてきたのかもしれない。

 猪俣が突然真顔になった。

「ところで若旦那、諜報部にハッカーチームを作ったそうじゃねえですか」

「勝手なことをして済みません。例の捜査状況を調べたりビデオカメラの情報を取るためには、やっぱりハッキングが必要なんですよ」

 康夫はハッキングチームを作る際、世界的に有名なハッカーであるレオナルドに会うためわざわざフランスに出掛けた。表向きは家族旅行で、康夫の家族も同行した。たんす預金していた現金が、随分役立った。

 紹介者は、フランス外人部隊帰りの、一円会特殊部隊隊長佐々木であった。レオナルドとは傭兵として、長い間、戦場の銃弾の下を共にかいくぐった仲だった。そのときレオナルドは、フランス軍上層部に諜報技術を買われ、今ではフランス政府の機密諜報部に所属している。その片わらで彼は、アメリカのペンタゴンやNASAのサーバー侵入に挑み、アメリカ諜報機関とイタチごっこのせめぎ合いをしているのだ。

「いや、どんどん勝手なことをしてもらって構いやせんぜ。ただ、警察のサーバーへ潜り込むのは注意してくだせえ。ばれたら奴らの面子は丸つぶれですから、本気で攻めてきやすぜ」

「大丈夫ですよ。段階を踏んで入り込んでます。いくつもの海外トンネルを経由してますから、気付いたとしてもこちら側に辿り着くのは容易じゃありません」

 レオナルドがパスワード破りのソフトをくれたり、アクセスポートを開くための技術、マルウエアの仕込みなどを伝授してくれた。足のつきにくい方法や清掃、つまり不正アクセスの痕跡を消す方法も教えてくれていた。それらを企業から引き抜いたITエンジニアたちが引き継いだ。

 猪俣が満足気に頷く。

「で、何か収穫はあったんですかい?」

「被害者の写真で画像検索を掛けたら、犯人らしい人が被害者と一緒に写ってましたよ。彼らの歩いたルートを追跡すると、二人で現場のホテルに入っていました。そのことは、警察も既に掴んでいるんじゃないかと思うんですけどねえ」

「警察にとって、情報操作なんて珍しくもありやせんぜ。都合の良し悪しで、事実の取捨選択ですよ」

 その言葉には、存外な皮肉が含まれている。

「それで? 顔は写ってやすか?」

「それがサングラスを掛けて、しかもしっかり、顔をカメラから隠しているんですよ。各カメラの位置を熟知しているみたいに。つまり、かなり怪しいってことなんですけど」

「なるほど。まあ、犯罪者の考えることですわな」

 重要な手掛かりの糸口が切れたと言わんばかりに、猪俣は肩を落とす。しかし康夫は、猪俣との会話を通してあることに気付いた。

 翌日康夫は、諜報グループの影山と相談した。

「影山さん、今まで殺された女とその周辺ばかりを追いかけていたのですが、ちょっと目先を変えたいのですよ」

 康夫の話を聞いた影山は、なるほどと手を打ち、それはいけるかもしれないと目を輝かした。

「まあ当たるかどうか分からないのですが、どうせ行き詰まっているんです。ダメ元でやってみませんか」

「いや、若旦那、それはきっといけますぜ。すぐにやってみましょう」

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