第4話

 康夫が三人の子持ちになった頃である。関東では、不穏な空気が漂い始めていた。関西を牛耳る極西連合が、関東へ進出する機会を具体的に狙っているという噂が猪俣の耳に入っていたのだ。

 それまでも、関西勢が関東進出に意欲を燃やしていることは知られていた。しかしそれは、叶わぬ夢のように、実際に進展することはなかった。

 暴対法が施行されてからというもの、極西連合は一万人の構成員を食わせるシノギが思うようにはかどらないようだった。

 その点関東という土地は懐が深く、都市再開発における不動産業、風俗、祭り、金融、ノミ屋、賭博そして飲み屋のみかじめと、それなりの金が動く土壌が広い裾野を成していた。それぞれの分野は規模が大きく、一円連合の場合、極西より多い一万三千人の構成員を、比較的楽に食わせることができていた。

 それらのシノギは、できるだけ猪俣がコントロールしていた。猪俣は直参から枝まで、小競り合いが起きないようにそれぞれの希望を取り入れながら調整し、各組織が十分な上がりを持てるように取り計らっていたのだ。

 その代わり猪俣は、組織で薬の取り扱いを固く禁じ、容赦ない強制売春や一般人への恐喝、暴力を戒めた。交通違反でさえ指を持ってこいと騒ぐほど、猪俣は法の遵守を徹底させたのだ。

 この掟を破ったものは破門とし、それを見せしめとすることで組織内の浄化を図った。それでも十分しのいでいける筈だと猪俣は計算していたし、実際に関東という土地は、それだけ大きな金が動く土地柄だった。

 もし極西の連中が本当に関東進出を企てたら、一円と極西は、血で血を洗う全面対決となる。東と西の雄がぶつかれば、お互いの存続をかけた掛け値なしの争いに発展するのは必至だが、頭の回る猪俣はもっと先を読んでいた。そんなことになればお互い組織の弱体化に繋がり、漁夫の利を得るのは国家警察ということになると。

 大体内輪もめは、シノギが原因になることがほとんどだった。つまり、誰しも上限なしに金儲けしたいのは間違いないが、一先ず食うに困らなければ大きな問題にはならない。

 いくら東京が肥えた土地だといっても、資源には限りがある。それを上手に配分するのが、組織安泰の秘訣なのだ。

 食えなくなれば悪事に手を染め、警察に刈り取られる。縄張り争いは抗争に繋がる。指導者がブタ箱に入ったり内部分裂になれば、組織の弱体化が始まるのである。日頃からその芽を摘み取っておけば、あとはどうにかなるというものだった。元々武闘派であった猪俣だが、彼にはそういった先見の明もあった。

 身体を張っては一目置かれ、組織運営でも誰も頭が上がらない猪俣を、五所川原一鉄は重用していた。

 猪俣が親分に何かを相談すると、五所川原は決まって言うのだ。

「わしにゃあ難しいことは分からん。全部おめぇに任せる。思った通りやってみりゃあええ」

 全権を委譲されても、猪俣は決して親分をないがしろにしなかった。権力を持つと表裏が出ることも珍しくないこの世界で、彼はいつでも「オヤジ」と言って心から親分を立て、半歩下がりながら実際の采配を振るう。

 そんな猪俣の頭痛の種は、組織が肥大化し、隅々まで目が行き届かなくなったことだった。いつどこで凶悪犯罪が発生するか分からず、抗争の火種も把握し切れない。世の中のはみ出し者が一万三千人もいれば、何が起こっても不思議はないのだ。それが親であるオヤジにどう飛び火するかも、まるで預かり知らぬことであった。

 ある日猪俣は、そのことを康夫宅で思わずこぼした。

 貞子の様子を親分以上に気に掛ける猪俣は、康夫と貞子の結婚後、二人のマンションへ足繁く通っていたのだ。

 猪俣は康夫のことを若旦那と呼び、いつでも親分の身内として立てた。

 康夫の娘たちも、最初は猪俣の大きな顔を怖がって泣いてばかりだったのが、いつの間にかおじちゃんと呼びなついている。否が応でも裏社会との関わりを持つ康夫にとって、猪俣が身近な存在であることは心強かった。

「先日渋谷で小さな揉め事がありやしてね、それがどうも、最近流行りの薬絡みのようなんですよ。若い奴らが粋がってハネてるようなんですが、どうもその背後にうちの三下が絡んでるようでしてね」

「猪俣さんくらいになっても、そんな小さなことを気にするんですか?」

 康夫は怪訝に思った。

「若旦那、これを小さなことだと言っちゃいけねえ。薬はだめだ。あれは人間を壊すんだ。薬に溺れた奴ぁ、見境がなくなる。それに今や薬は、持ってるだけで厳罰だ。うちの軒下にそっと置かれただけで、組の破滅にも繋がりかねねえ」

「そうなんだ。僕はてっきり、暴力団が率先してそんなものを扱ってると思ってましたよ」

「あれは利幅が大きいんで扱いたい奴が大勢いることは確かでさあ。どこだって手っ取り早く稼ぐために手を出しちまう。でもうちは、俺の目のくれえうちはぜってえに許さねえ。しかしそうは言っても、中々目が行き届きやせん。どこで何が起こってるのかさっぱり分かりやせん。もっとこう、上手く全体を管理して、危ねえ橋なんか渡んなくてもいいようにしてえんですがねえ」

 珍しく猪俣はため息をついた。

 そこで康夫はひらめいた。会社の様々な管理は、今やコンピュータの中で行われている。全てがネットワークで繋がり、世界中の支店、工場を一元管理できるのだ。暴力団の世界だって同じようにすれば、効率よく管理し稼ぐことができるのではないかと。

「猪俣さん、それって色々なものをデーターベース化して、必要な情報が全部猪俣さんのところに上がるようにすればいいんじゃないですか?」

 猪俣は大きな顔の中で、本気で睨んだら相手を気絶させることができるとまで言われる鋭い目を丸くした。

「若旦那、そのデータブスってなんでっしゃろ?」

 その手の話にからっきしの猪俣は、キョトンとしている。

「データブスじゃなくて、データベース。様々な基本データをサーバーに格納し、管理アプリでそれらのデータを呼び出したり加工するんですよ」

 猪俣は、ますます混乱した。康夫が説明すればするほど、猪俣の頭がこんがらがるようだった。

「若旦那、あっしにはさっぱりついていけませんぜ。もっと、こう……あっしにも分かるように説明してもらえんですか」

 猪俣は、鼻の頭に脂汗を浮かばせていた。

 康夫は素人にも分かるよう、例えばという言葉を重ね、具体的なアプリケーションと活用方法を猪俣に説明した。こうして具体的な例をひねり出すうちに、実際に使えそうなアイディアも浮かび上がってきた。

 最初は狐につままれたような顔をしていた猪俣は、次第に目付きが鋭くなり、気付いたらいつもの極道の顔になっていた。

「若旦那、そらあ、いけまっせ。早速それをつくりまひょ」

 根っから江戸っ子である猪俣は、興奮すると『し』が『ひ』の発音になる。言葉に凄みがなくなるからと、普段は発音に気を付けているのだ。

 頭の回転が速い猪俣は、データベース活用の効果をすぐ様直感で見抜いた。

「金に糸目は付けねえつもりです。若旦那、なんとかそれを作ってもらえんでしょうか?」

「まあ、他ならぬ猪俣さんのお願いなら、やってみますか。実際の管理アイディアをまとめて出しますから、それから具体的に相談しましょう。ソフト開発は専門家に依頼すれば、どうにでもなりますよ」

 こうして康夫は、業界初の極道管理システムをプロデュースすることになったのだ。

 そこまではよかった。実際のソフトができて、ネットワークの構築もできた。操作マニュアルを作り管理ルールも決めた。

 例えば、全ての組や支部においてデータベース管理担当を置くこと、管理担当者は毎月一度、自分の受け持ちエリアを必ずアップデートすること、もしそれを怠れば、担当者と管理責任者である組長や支部長がエンコを詰めること、等々である。

 康夫が作った管理ルールを、猪俣が実態に合わせてアレンジした。

「厳格にしなければ、猫に小判となってしまいますからね」

「猫にこんばんわ? 若旦那、それはなんですか? 猫にも挨拶するくらい、謙虚になれってことですかい?」

 猪俣は至って真面目なのである。康夫は笑いをこらえて言った。

「宝の持ち腐れになるってことですよ。ただ、こんばんわじゃないですけど」

 しかし問題が一つあった。肝心のデータベースを作る情報集めを、外部に委託するわけにはいかないのだ。何せ、どこにどれだけのキャリアを持つ人材がどれほどいて、住処や家族構成、本人の必殺技までデータ化しようというのだから、それは紛れもなく機密情報である。それほど委細に渡る情報が敵に漏れれば、家族を人質に取られることや就寝中の奇襲、果ては引き抜きまで心配しなければならない。便利で効果的であるほど、それは諸刃の剣となる。

 いざとなればそれは、諜報機関の指令ディスクのように、ボタン一つで全ての端末とサーバーのデータが自動消去されなければならない。そしてバックアップは、セキュリティのしっかりした世界中のサーバーに分散させる必要もあった。事故があっても、すぐに復旧できなければならないのだ。

 基礎データは猪俣と康夫で、時間を掛けて構築することにした。関東一円の組事務所を康夫と猪俣の二人で回り、端末設置と個人データの聞き取り収集を行ったのである。

 二人は二年もの月日を掛けて、この作業を完了させた。それは涙ぐましい努力の賜物だった。なにせ康夫は、普段は普通の会社員である。それは二足のわらじを履くようなものであり、康夫は随分プライベートな時間を犠牲にした。

 全てを終えたとき、猪俣と康夫は手を取り合い、嬉し涙を流しながら小躍りした。

 この作業には、思わぬ副産物があった。

 一円連合ナンバーツーである猪俣は、言わずもがな有名人であり時の人であったが、康夫はその猪俣と一緒に一円連合の隅々まで出かけ、全ての組員の前で猪俣から若旦那呼ばわりされたのである。お供の精鋭たちにも有名人が揃っていたが、彼らも康夫を猪俣の上に置いた。

 康夫は盃を交わしていないにも関わらず、たちまち一円連合で、陰のドンと呼ばれ畏怖される存在になってしまった。

 そして悪いことに、猪俣もまた、その噂を否定しようとはしなかった。何せ康夫は、組織の屋台骨を支えるシステム構築の、最大の功労者である。そして康夫は、オヤジの義理の息子でもある。

 更に猪俣は二年に及ぶ作業を通し、これからの極道はシステムの時代だと、完全にコンピュータかぶれになっていた。とくれば、康夫は名実共に一円連合の陰のドンであると、純朴な猪俣は信じて疑わないのである。

 実際に康夫は、一円連合の状態を隅々まで知ることになった。お抱え病院のカルテまでシンクロさせてしまったから、誰が何の種類の痔を患っているとか、誰それは虫歯が何本あるとか、そんなことまで知っていた。

 情報は剣よりも強し。情報は武器になる。全てを知っている康夫は、猪俣にとって身内以上の存在となったのだ。

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