第3話

 職場で改まった呼び出しを受けたその日、康夫と貞子は、駅と反対に向かうところの喫茶店で会った。二人の密会で、よく使う場所である。

 画廊に繋がるそこは、料金が少し高めのせいで客が少なく、職場の人間と鉢合わせになることのない安全な店だった。

 そこで貞子の口から飛び出した打ち明けは、康夫を震撼させた。

「ねえ、わたし、できたみたいなの」

「で、できたって、まさか……」

 貞子は恥じらうように頷いて、上目使いで康夫をじっと見る。

 画廊の一部となるその店は、上品な静寂に包まれていた。その空間が、貞子の言葉で無機質な真空状態へと急変する。

 実際に変化を持ったのは、もちろん康夫の方である。彼の生物的機能全てが、一瞬で停止した。呼吸できているのかも怪しかった。

「黙ってないで何とか言ってよ。どう? 嬉しい?」

 それでも康夫が放心していると、恥じらいを伺わせる貞子の目付きが、恫喝を帯びたものにさっと変わった。

 そのことで我に返っても、康夫には返す言葉が見つからない。苦し紛れに口をついて出た言葉がまずかった。

「そ、そりゃあ、嬉しいよ。きっ、決まってるじゃないか」

 貞子の三白眼が、弓なりになる。

「そうよね、そうよね。それじゃ、産んでもいいわよね?」

 貞子は、畳み込むというか丸め込むというか、相手に有無を言わさぬ口調であった。

 流石に焦った康夫は、彼の辞書には存在しない、根性というものを振り絞る。

「ちょっ、ちょっと待ってくれる? 突然父親になるっていうのも、心の準備ができていないんだ」

 康夫は、貞子と一生連れ添うことへの心の準備が必要だった。いや、心の準備などという生易しいものではない。根底から検討する必要があったのだ。

 つまり康夫は、貞子を愛していなかった。

 彼は彼女の体に溺れはしたが、それも回数をこなすうち、花園を駆け巡るような幻想的高揚感は減退していた。康夫は客観的に、自分のそういった心の動きを認識していたのだ。

 しかし貞子は、そんな康夫の逡巡をまるで意に介さない。いや、何も気付いていないのかもしれない。あるいは気付いているが、気付かない振りをしているのかもしれない。

「あら、こういう気持ちの整理なんて、あとからついてくるものよ」

 そんなふうに言われてしまうと、気の弱い康夫はそうかもしれないと思ってしまう。

 康夫に言い返す言葉はなく、貞子は反論なきは了承という具合で話を先へと牽引した。すると、あることないこと全てが既成事実のように積み上がっていくから、康夫は身動きが取れなくなる。康夫の優柔不断さは、職場でも折り紙付きなのだ。


 貞子の行動力は大したものだった。まるで重戦車並だった。貞子は、翌日曜に康夫を自分の両親に紹介すると言い出した。

「そっ、そんな……。まだ早いよ。もう少し二人でよく話し合ってからのほうが……」

「何言ってるの。こうしている間にも、お腹の子供はどんどん育っているのよ。わたし、お腹の大きな花嫁姿は嫌だわ」

 その通りだった。貞子の巨体でお腹まで出っ張れば、ウエディングドレスが可愛そうというものだ。

 それでも康夫がぐずぐずしていると、貞子の三白眼が康夫を射抜く。康夫には、男女関係のいざこざを職場に持ち込まれたら困るという弱みもあった。

 そして康夫は全てに踏ん切りのつかぬまま、貞子の両親へ挨拶しにいくことになったのだ。押しの強い貞子と気の弱い康夫の対決である。結論は、自明の理である。

 貞子は、実家が浅草にあると言った。

「下町情緒の溢れる、長閑な町よ」

「そんな近くに実家があって、どうしてアパート住まいしてるの?」

「古いしきたりの残る家でね、そこにいると息が詰まるの。だからお父さんの猛反対を押し切って、家を飛び出したのよ」

「お父さんは何をしてる人なの?」

「うちは自営業よ。結構歴史があるらしいわ」

 康夫はそのとき、彼女の実家が人形焼きか雷おこしのような、浅草名物の老舗なのだろうと勝手に思い込んだ。

 日曜日は、本格的な春の訪れを感じさせる、穏やかな日だった。銀座線浅草駅から隅田川に沿って、二人で歩いた。

 間の抜けている康夫は、その手に土産として買った東京バナナを持っていた。

 康夫はふと、もし先方が和菓子の老舗であれば、手土産は果物の方がよかったかもしれないと気付いて焦った。手土産に失敗したかもしれない焦りは、その日の康夫の緊張にますます拍車をかけ、その足取りは重くなるばかりである。

 貞子はふてぶてしいほど至って平気に、込み入った下町の狭い道路を迷いなく進む。彼女から半歩下がって東京バナナを抱え歩く康夫は、彼女の家に奉公する丁稚のようだった。康夫は敵陣に足を踏み入れた気分で、ただでさえ恐々としていた。

 やがて大きな屋敷の前で、貞子の足がはたと止まった。数寄屋門と繋がる石造りの塀が、大きく敷地を取り囲んでいる。敷地の中には立派な庭があるようで、塀の上から手入れの行き届いた赤松やモッコク、イヌマキなどが顔を覗かせている。

 数寄屋門の上部に、木製の看板が掲げられていた。その上に、毛筆で五所川原組と書かれている。

「ここがわたしの実家よ」

 確かに貞子の名字は、五所川原だ。貞子は和風の門に不釣り合いなインターフォンを押して、右上を向いた。その先に、小さなカメラが不気味に佇んでいる。

 女性の声で「あら、お嬢様。おかえりなさいまし。直ぐに開けさせますから」と返事が返った。

 お嬢様という言葉が、康夫には意外だった。彼女はどう見ても、お嬢様という風采ではない。途端に門の向こう側が騒がしくなり、数寄屋門の引き戸がスライドする。そこで康夫は、手元の東京バナナを放り出しそうになった。

 門の向こう側に、目付きの鋭いハッピ姿の男たちが、ぞろぞろと十人くらい揃っていたのだ。

「おかえりなさいやし。親分が首をなごうしてお待ちです」

 肩幅の広い、年配の角刈り男が腰を屈めて言う。

 貞子は康夫に目配せし、手に持つハンドバックを集まった男の一人に手渡しながら、先頭で口火を切った男へ言った。

「猪俣、彼がわたしのダンナよ。あとでまた紹介するわ」

 へい、ご苦労さまですと、怖いお兄さんさんたちが一斉に康夫へ挨拶した。角刈りにパンチにスキンヘッドの脳天が、康夫の眼下に並ぶ。暴言と共に睨まれても怖いが、こうして仁義を切られても怖い。康夫は、皆の前では貞子に事情を訊ねるわけにもいかなかった。つまり、五所川原組の組とはそういう組ってこと? を薄々勘付いてはいるものの、それでも状況をはっきりさせたいのだがそれができない。少しでも余計なことを口にすれば、たちまち複数の鋭い眼光が、目前に迫ってきそうな雰囲気なのだ。

 下っ端らしいパンチの若者が、腰を屈めて手のひらを先に出し、「お足元にお気を付けなさって」と先導してくれる。康夫は気を使ってもらうほど、ますます生きた心地がしなかった。

 飛び石の長い道を歩き、十畳はあるだろう無駄に広い玄関に入ると、立派なけやきの回廊が康夫の目に飛び込んだ。無限にどこまでも続くような静まり返る回廊の先で、自分を待つものとは一体何か。康夫の脇の下に、じわりと汗が滲む。東京バナナの箱が無意識に入れた力のせいでひしゃげていた。それに気付いた康夫はまたぎょっとして、手の甲で額の汗を拭う。

 奥の広い座敷で康夫を待っていたのは、白髪混じりの角刈りが似合う、絣を着込んだおじさんだった。その横に、黒っぽい大島に身を包む四十代の上品な女性が、背筋をピンと伸ばして正座している。五十代半ばと思しき男性は目尻に皺を寄せ、柔和な顔付きをしていた。女性は極道の妻たちにそのまま出演できそうな、ややきつい目を持つ美しい人であった。

 貞子が畳に両手を付いて、深々と頭を下げた。

「お父様、お母様、ご無沙汰しておりました。只今帰りました。本日はかねてからお伝えしております、わたくしの最愛の人を連れて参りました。どうぞお見知りおきを」

 ドスの利く貞子の声が、静謐な和室に響く。

 貞子は凛としていた。康夫は、普段空気の抜けた風船のような雰囲気を持つ彼女の、意外な一面を見たような気がした。

 康夫も慌てて畳に額を擦り付ける。

「はっ、初めまして。坂田と申します。宜しくお願い致します」

 何が宜しくなのかも分からず如何にも儀礼的な挨拶をすると、康夫の頭上からしゃがれた声が飛んだ。

「ようおいでなすった。まあ、固いことは抜きや。どうかごゆるりと。さあさあ、頭をお上げなさって」

 顔を上げた康夫は、口元をきりりと結んだ表情のない表情のお母様と目が合う。そのお母様が、康夫を見つめたまま柏手を打った。すると膳を持つ女中がぞろぞろと現れる。いや、女中は先頭の三人までで、あとに続くのはいかつい兄さん方ばかりだ。一体何が始まるのだろうと訝しく思うほど、数々の料理が運ばれる。

 貞子が康夫に耳打ちした。

「あなたは合格みたい」

「は? 何が」

「あなたの人物評価よ」

「どっ、どうして?」

「理由は知らないけど、お母様の合図。不合格なら、柏手は鳴らないの」

 貞子がそう言うということは、このようなイベントは始めてではないということなのだろうか。そうであってもなくても、康夫は心底思った。不合格であって欲しかったと。

 並んだ料理は、邪気を払う鯛の尾頭付き、長寿祈願の伊勢海老、厄を払う赤い小豆料理、繁栄の象徴である昆布、出世魚の代表格ぶり、永続して発展するアワビと、縁起を担ぐものがずらりと並ぶ。それ以外にも舟盛りの刺し身、栗きんとん、煮物、ごま豆腐と、料理は正月のおせちや割烹料亭顔負けであるが、樽酒が担がれて運び込まれたのには、康夫も腰を抜かす思いだった。

 ここは男らしく腰を据えてじっくりやりたいところであるが、生来の気弱で竹男である康夫は、どう振舞えばいいのか今一つ分からない。さっきから、背中を嫌な汗ばかりが流れている。

 三人の若い衆が、部屋の隅で鏡割りの準備を始めていた。金槌で蓋の隙間に金べらをコツコツと押し込んでいる。しばらくして準備の整った酒樽が、酒宴の側へ運ばれた。

「親分、用意ができやした」

 お父様が頷いて立ち上がる。

「おい、貞子、今日はおめぇのめでてぇ日だ。二人で鏡を開けてくれねえか」

 親分がそう言うやいなや、たちまち大勢のハッピ姿が酒樽を取り囲んだ。康夫は貞子に、背中をそっと押された。

 足を踏み出した康夫の膝が震える。大勢の子分が康夫と貞子のために後退り、鋭い視線が注がれる極道の花道ができた。

 二人はその中を、静静と進む。康夫は会釈する余裕もなければひらひらと手を振るわけもなく、死刑台に昇るような深刻な顔付きで進んだ。一瞬足がもつれ、貞子に支えてもらう。

 酒樽の蓋は、元々最初から三つに割れている。よって樽から外すと、それはバラバラになるのだ。それを一枚板のように樽の上で並べ直し、主役が木槌で叩いたときに、如何にも今割りましたという儀式が鏡割りである。

 皆の衆の見守る中で、貞子と一緒に一つの木槌を持つと、康夫はあることに気付いた。それがまるで、結婚披露宴のウェディングケーキ入刀のようなのだ。

 このまま二人で一緒に木槌を振り下ろしたら、それはこの世界で何を意味するのだろうか。二人の初めての共同作業が行われました、などと解説されても困るのだ。もっとも、子作りという立派な共同作業は既に成就しているのだが。

 康夫は途端に怖気づいた。しかし仮にもう止めようと言えば、生きて塀の外に出ることはないような気がしてくる。運が良ければ、小指程度で済むかもしれない。いや、小指の進呈だって、随分痛いだろう。

 色々思考するだけ思考して、結局結論の出ない持ち前の優柔不断さを発揮しながら、鏡割り、枡酒での乾杯とイベントが進行した。その度に、拍手喝采となる。

 さして深刻な話もせず、時間だけが進んだ。貞子も二人の結婚の件には全く触れない。康夫は次第に、今日はやはり単なる顔見せだったのかもしれないと、考え過ぎの自分を恥じた。

 しかし宴もそろそろ終わる頃に、親分が唐突に核心へ触れた。

「康夫くん、今日はこんなむさ苦しいところへ足をお運び下さり、ありがとうごぜぃやす」

 名字ではなく名前で呼ばれて、康夫は戸惑った。

「ここはご覧の通り特殊な世界じゃ。しかしわしも人の親として、子を思う気持ちは誰とも変わらん。わしは一人娘の貞子の幸せを、心から願っておるんですわ。貞子がかたぎのあんたを選ぶと言うなら、わしはそれでいいと思っとる。あんたがわしらの世界と関わりたくねぇなら、それもよい。わしは二人の邪魔はせんつもりじゃ。貞子と生まれてくる孫のこと、よろしゅう頼んます」

 こう言って親分は、畳に手を付いて深々と頭を下げた。それに倣い、周りの子分たちもよろしゅう頼んますと声を揃え、一斉に康夫へ頭を下げる。

 親分が貞子の妊娠まで承知していたことに、康夫は驚愕した。それがバレたら、この温厚に見える親分は逆上し、自分に詰め寄るのではないかと康夫は思っていたのだ。

 ここで康夫が返すべき言葉は、一つであった。状況的に彼に選択の余地はない。もはや観念するしかなかった。

「おやぶ、いや、お父様、貞子さんと生まれてくる子供が幸せになるよう、誠心誠意努力致します。今後共末永く、宜しくお願い致します」

 大広間が、水を打ったように静まる。この家に到着したとき貞子に猪俣と呼ばれた男が、スッと立ち上がった。

「本日の誠に目出度い宴も、そろそろ終了でございます。僭越ながらこの猪俣、心からの祝福の気持ちを込めやして、三本締めを仕切らせて頂きやす。どうか皆様のお手を拝借仕りたく、よろしゅうお願いいたしやす」

 全員が立ち上がった。康夫も一呼吸遅れ、慌てて立ち上がる。猪俣が正気とは思えない血走った目でぐるりと周囲を見渡し、「ようござんすかぁ」と通る声を飛ばした。

「押す」と、これまた気合のこもる返事が部屋中に響く。

「お二人の婚儀決定を祝して、いよぉー」

 た、た、たん、た、た、たん、た、た、たん、たん、よっ……。

 居合わせた全員の手を合せる音と掛け声は、周囲一キロまで響き渡るのではと思えるくらい、きっちり揃いかつ気合に満ちていた。仕切った猪俣自身も、こめかみに血管を浮き上がらせ、それが破裂しないか心配になるほど真っ赤な顔で声を張り上げた。

 親分は目尻の皺を一層深くし、幸せそうな笑顔を振りまいている。康夫が貞子を振り返ったとき、彼女の三白眼は弓なりになっていた。

 これより上はないという既成事実を積み上げられ、康夫の悪あがきは呆気なく詰んだ。

 こうして二人は、職場の仲間に盛大に祝福される中、晴れやかにバージンロードを歩くことになったのだ。

 披露宴は二度行った。康夫の家族、二人の上司や同僚、友人向けと、貞子の身内向けである。親分が気を利かせ、一度に全員出席するよりも、業界関係者は分けた方がいいと言ってくれたのだ。

 好機が逃げないうちに早く結婚しろと言った両親は、どちらの宴にも出席した。ただし彼らは、より豪華な貞子の身内用へは出席したくないと、子供のように駄々をこねた。

 康夫の両親が参加しなければ、まるで祝福されない結婚のように見えてしまう。それは親分に失礼であり、それを回避するため、康夫は両親を懸命に説得した。

「なあ、親分がね、もし父ちゃんと母ちゃんが二人の結婚に反対だったら、お許しを得るまで毎日誰かの指を届けるから、どうか考え直して欲しいって言ってるけど、どうする?」

 両親の顔にさっと影が刺す。

「だから康夫、父ちゃんも母ちゃんも反対なんてしてないんだよ。ただね、披露宴は一回見れば十分だって言ってんの。そこんところをよく親分に説明しておいてくれんか」

「でもさあ、口ではそう言っても顔を出さないんじゃ、本心はやっぱり反対なんだろうって心配するじゃないか。貞子や俺のためなら、親分自ら一肌も二肌も脱ぐって張り切ってるよ。親分に一肌脱がれちゃったら、そりゃ大変だと思うよ。何せあの人は、関東一円を統括する一円連合の総長でもあるんだから。家の前に黒塗りのベンツが連なる前に、とにかく行くって言ってくれよ。なあ、親分の顔を立ててくれ、頼む」

 指のお届けも黒塗りベンツの襲来も御免と思っている康夫の両親は、渋々披露宴の出席を了承したのだった。

「お前も大層な家の娘を落としたもんだねぇ。いつもびぃびぃ泣いてたお前が、いつの間か……。大したもんだ」

「母ちゃん、俺が落としたんじゃないよ。俺はただ、落とし穴に落っこちたんだ。そこのところを勘違いしないでくれよ」


 親分は、康夫と貞子のために、都内の高級マンションを用意した。もちろん康夫は受け取りを固辞したが、親分は聞き入れてくれなかった。

「これはなぁ、わしからのお祝いじゃ。なぁに、それほど気にせんでくれんか。地上げで儲かった分を、ちょっとだけそっちに回したようなもんやから」

 そう言った親分は、豪快に笑った。

 親分は康夫に約束した通り、極力娘夫婦の生活に立ち入らないよう努めた。ただし、孫の顔を見たいときは別だった。そのために、月に最低一度は康夫のマンションを訪れる。

 長女の永子が生まれて間もなく、親分は黒塗りのベンツに乗って康夫のマンションを訪ねた。親分の乗ったベンツには、その前後に別のベンツが五台ずつ、合計十台がお供し、それぞれにダークスーツを纏ったボディガードが乗り込んでいた。その物々しさは、警視庁が出入りか重要な会議があると疑い、各所にパトカーを配備、覆面に尾行させ、機動隊を待機させたほどである。実は親分が、孫への土産を持ちきれなかったのだ。

 親分が康夫の部屋を訪れた際には、その後ろに赤ちゃんグッツを手一杯に抱えた精鋭が十五人もぶら下がるようにくっついてきたから、康夫は泡を食った。

 おそらくマンションの住民は騒々しさに気付き、ベランダから覗いたりドアスコープから廊下を覗き見していたはずだ。

 マンションで変な噂が立っては、そこに住みづらくなる。康夫は親分にお願いした。

「お父様、こうして来て頂けるのは嬉しいのですが、あまりに騒々しいと近所の手前、あまり宜しくないようです。もう少しどうにかならないものでしょうか?」

 これだけ言うのも、康夫にとっては難儀なことだ。相手は義父と言えども、天下の大親分である。彼が一度動けば、警視庁でさえ火事場の大騒ぎになる人物だ。

 親分は康夫をぎろりとにらめ付けてから、後ろで赤ちゃんグッズが入った三越の袋を両手にぶら下げる猪俣に言った。

「いのまぁたぁ、だから言ったんじゃ。お前たちが大げさなことをすると、カタギの皆さんにご迷惑がかかる。土産物を置いてさっさと撤収せい」

 黒服の子分たちはさっと顔色を変えた。当の猪俣は、すぐに頭数を揃えろと言われて精鋭を用意したのだから、親分の叱咤に戸惑いながらも、皆を引き連れてそそくさとマンションから出た。もちろん各自、マンション全ての出入りが見渡せる場所に身を隠しただけである。

 その後親分は、娘宅訪問のため、白のカローラを購入した。ボディガードにも付いてくるなと言明したが、さすがにそれはそうもいかず、親分がカローラを自ら運転する際、子分たちは複数のバイクで親分の車を追いかけるという珍事となった。

 大型も中型もバイク免許のない猪俣は原付きで追いかけようとしたが、大きな頭に見合うヘルメットがなかったため、仕方なく腕利きをよりすぐり、親分のボディガードを命じたのだ。五所川原組は元々、一円連合屈指の武闘派である。腕に自信のある奴は、石を投げれば当たるほどいた。決して目立たないようにしろと言うことも、さすがの猪俣は忘れなかった。

 天下の大親分が、まさか自らカローラを運転しているなど、誰が想像できただろうか。通称マル暴担当、警視庁捜査四課でさえ、その事実を掴んでいなかったかもしれない。

 五所川原親分は孫への土産を車一杯に詰め込んで、高倉健の唐獅子牡丹を口ずさみながら上機嫌で運転するのだ。泣く子も黙る五所川原一鉄も、一皮めくればただの親であり爺さまだった。

 新居での生活がスタートすると、康夫は毎夜、貞子に襲撃された。夜襲、奇襲はお家芸であり貞子の得意とするところである。その結果、結婚五年で更に二人の子供が矢継ぎ早に生まれた。康夫は三十前の若さで、早くも三人の子持ちになったのだ。何でも松竹梅の竹であった康夫の人生に、変化の兆しが現れていた。

 結婚の経緯はさておいて、二人は幸せを絵で描いたような家庭を築いているように見えた、が実際はどうして、運命のいたずらは康夫に更なる試練を用意したのである。

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