埃をかぶった傑作

黒中光

埃をかぶった傑作

 アトリエというのはプライベートな場所だ。創作といういわば自分をさらけ出す行為を行うその場所は、僕、高井涼という人間の個性が出ている。窓の無いその空間に置かれた机には、絵の具が出しっぱなし。そのくせに作品は丁寧に梱包されていたり、イスはガタガタでもコップにはわずかな汚れもなかったり。


 滅多に入れない場所に、画商の浅井さんは顔をあちこちに動かして全てを確認するように見ていた。


「わざわざすみませんね。ご足労頂いて」


 礼儀としてコーヒーを出すと、浅井さんは落ち着かなげに席に着いた。


「高井先生。注文していた絵は」

「できてますよ」


 僕は傍らのキャンバスに載せられた絵を指さす。そこには通勤、食事、睡眠、デート、様々な人々の様子が描かれている。しかし、離れた位置にいる浅井さんには別の姿が見えているはずだ。


「悪魔」


 浅井さんが嬉しそうに唸った。プロになってからの僕のモチーフだ。今回の作品では人の姿が悪魔の顔になるように配置されている。題して「悪魔は人の世に」。


 コーヒーを一気飲みすると、音を立ててテーブルに置き、せかせかと浅井さんは彼の商品に近づく。仕事熱心な人だ。僕は冷めた目で喜ぶ彼を見る。


「いやー、ありがたいです。高井先生の絵なら80万は堅いですからね」

「浅井さんの腕がいいんでしょう」

「いえいえ。今度雑誌に載るって聞きましたよ。高井先生の絵はこれからも価値が上がりますからね。よろしくお願いしますよ」


 本人はにこやかなつもりかもしれないが、頭の中でそろばんがパチパチ音を立てているのが聞こえてくる。 ……いい加減、うんざりだ。

 僕の顔は爽やかな仮面を作る。


「お時間、大丈夫ですか」

「あっと、そうでした」


 今回、締め切りが近かった。アトリエには他人を入れない主義の僕がわざわざ彼を呼んだのはそのためだ。直接彼が運ばないと間に合わない。


「そういえば」


 手際よく絵を梱包しながら、浅井さんは視線を壁に向けた。そこには、1枚の絵が裏返しに立てかけられている。


「あの絵は?」

「あれは知人の絵です。勝手にお見せできません」


 自分で言うのもなんだが、ろくな説明じゃない。それでもあっさり引き下がったのは、僕の絵じゃないと分かったからだろう。ビジネスにはならないと判断したか。バカな奴。

 あの絵こそ、この部屋で最も価値ある絵のうちの1枚だというのに。


「では、失礼します」


 自分がなにをしたのか分からないまま、ほくほく顔で浅井さんは帰って行った。


「『高井先生の絵はこれからも価値が上がります』ねえ」


 ハッと笑い飛ばす。絵に描かれたものは、変わりようがない。価値に変化など起きうるはずがないのだ。ただ、周囲の人間が見栄や先入観を含めることでその評価を変えるだけ。


 エンジン音が聞こえなくなるのを待ってから、僕は壁際に向かう。埃をかぶった、あの絵の元に。


 フワフワの誇りを拭おうとしたその指が、止まる。やっぱり、触れられない。裏面を見ているだけで逃げだしそうだ。表面おもてめんなど、この5年間一度も見ていない。


 しかし、覚えている。その絵に描かれたものを。


 絵の下側には森が描かれている。枯れて茶色く変色し、朽ち倒れた木々が。その上を、白い鳩が一羽だけ跳んでいる。下界のことなど気にも留めず悠々と。自由で軽やか。何の悩みもないように。

 しかし、溢れんばかりの陽を背に受ける鳩は荘厳であった。まるで、神の祝福を受けるかのように。そして、羽根が一枚だけ風に舞っている。見る者に向かって。光り輝く、幸福をもたらす護符アミュレット


 あれこそが、傑作だ。あの時の、魂を揺さぶられ、自分がなにか大きなものに包みこまれる感覚。未だに忘れることはない。


 この絵に出合ったのは、芸大の卒業制作に取り組んでいるころだった。

 卒業生の中には、就職する人間も多かったが僕は絵描きとしてやっていこうと決意していた。仲間内でも一目置かれ、教授陣からの評価も高かった。小さなコンクールに出して入賞したことも自信につながっていた。


 しかし現実問題、それだけでは絵だけで生活することができないことは理解していた。そこで僕は、卒業作品を規模の大きなコンクールに提出しようと考えていた。卒業制作は内輪のものなので、コンクールにだすことに支障はないことは確認して、あとは作品を仕上げるだけというところまで行っていた。


 だが、その作品ができなかった。


 描き進めるにつれて、これじゃない、という想いがどんどん強まっていくのだ。自分の描きたかった要素はちゃんと満たしている。しかし、何かが違う。悶々とした気持ちが抜けず、手を遅くなり、ついに止まってしまった。


 修正するにはどうすればいいか。必死に頭を働かせてみても、浮かんだアイデアはどれもしっくりこない。理屈ではうまくいくと考えているのに、心が納得できない。


 そんなある日、当時恋人だった彩がやってきた。彼女も同じ芸大の同級生でいっしょにコンクールに出ようと約束していた。彼女だって自分の作品に追われていただろう。それでも、会いに来てくれた。


『涼くん、顔がすごいよ。ちゃんと食べてる?』

『食欲なんか、ないよ』


 ぐったりした口調だったのを、覚えている。紅茶を注ぎながら『思いつめすぎだよ』と彩は笑っていたっけ。『自分が楽しい、綺麗と思えなかったら。作品を見る人にその感情は届かない』というのは、彼女の持論だった。


 ひと通り食べ終わった後、彼女は1枚のキャンバスを取り出した。今まで方向性が違っていたせいで、絵を見せ合うことはあまりなかったが、それが彼女の作品であろうということは何となく分かっていた。


『完成したのか』


 先を越された。そんな僕の想いを彩は笑って否定した。


『コンクール用は、まだ。でも、ふっと綺麗だなって思うシーンがあったから。涼くん、スランプらしいし。片手間で描いたものだけど息抜きくらいにはなるかな」


 微笑みを浮かべた彩が取り出した絵に、衝撃を受けた。その時の絵が、今僕の目の前にある、鳩の絵だ。


 構図や配色は原則を忠実に守っているわけでもなく、さりとて奇をてらっているわけでもない。ただ、美しいだけ。


 それなのに、彼女の絵からは慈愛が溢れていた。優しく抱きしめ、慰め、受け入れられる。どれだけ、注意深く絵を観察しても何故そう感じるかは分からない。ただ、感じるだけ。まっすぐに、何の歪みもなく、当たり前のように深く。


 恍惚として見入っていた僕は、彼女の眩い笑顔を直視できなかった。

 僕が必死に努力し、知恵を絞っていた渾身の絵。それよりも、はるかに高いところにこの絵はあった。しかも彩はそれを『片手間で描いた』。


 その時、僕は絶望した。僕がどれほど時間をかけ、血の滲むような努力をしても彼女には敵わないと確信してしまったから。


 その後、僕は自分の絵を完成させた。最高の傑作にしようという想いが失せると、泣きたいぐらいすんなりと完成した。


 僕は当初の予定通りコンクールに作品を出した。もう名誉を得ようなんて気はなかった。はっきり否定されることで、別の道に行こうと思っていた。

 しかし、僕の絵はコンクールで金賞を受賞した。選考委員だった大物批評家が絶賛してくれたそうだ。仲間たちもささやかながら祝賀会を開いてくれた。家族は夢がかなったねとわがことのように喜んだ。


 けれど、僕は罪悪感で押しつぶされそうだった。なぜなら、彩はコンクールに作品を出せなかったから。彼女は、間に合わなかったのだ。


 聞いてみると、あとほんの少しというところだったらしい。あとたった1日あれば、確実に完成するところまではこぎつけていた。 ……僕を励まそうとしたあの鳩の絵。それさえ描かなければ。彼女は間に合ったはずだ。


 もし、間に合っていれば。片手間であれだけの絵を描けた綺のことだ。本気の絵を出せば、確実に金賞を取っただろう。それは僕自身が一番よく分かる。


 芸大を卒業した後、僕と彩の仲は自然消滅した。今ではもう、連絡を取りあってもいない。風の便りでは、彩はアルバイトをしながら絵を描き続けているらしい。小さな展覧会やコンクールに出展して高評価を得ているそうだ。今はまだ無名だが、力のある評論家と出会えば、すぐに日本を代表するような画家になるだろう。彼女は、ただチャンスが与えられていないだけ。僕にチャンスをかすめたられただけ。


 あの鳩の絵は、今でも僕を責め苛ませる。


 自分の作品を描いている時、描きかけの絵がどうしようもない駄作に感じる。彼女から贈られた絵に比べれば、何の価値もない有象無象に過ぎないと。

 眠っていれば、彼女が画家として成功する夢を見る。美術界の人間がこぞって彩を褒め称え、僕には全く見向きもしなくなる。


 これが、5年間続いている。


 絵を描く時。テーマをどうすべきか、構図はどのようにするか、配色は。その他様々なことを考え、試行錯誤する。努力は今でも怠っていない。その自負はある。


 それでも、鳩の絵に匹敵するほどの作品を描ける気はしない。才能のなさを延々と突きつけられ、彩の絵を破り捨てたいと思ったことは数知れない。


 けれど、僕にはそれが出来なかった。


 あの鳩の絵が、どれほど素晴らしいか、僕には分かってしまうから。

 思い出すだけでも、美しく暖かい。どれほど憎もうとしても、否応なく救われてしまう。


 アトリエというのはプライベートな場所だ。個人の内面を色濃く表すその場所の中心に、埃をかぶった裏返しの絵がある。触れられることも、見られることもなく、ただ憎まれ愛されながらそこにある。

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