2-15 日常

 スマホのアラームの音で、俺は目を覚ました。

 現在時刻は午前五時、いつも通りの起床時間だ。布団から身を起こし、這うようにして窓を開けにいく。室内に吹き込んできたのは、冷たいが、清々しいとギリギリ言えないこともない空気。ようやく春になってきたという実感を噛み締めながら、朝食の用意と身支度を整える。

 修羅場を超えたからといって、俺の生活は全く変わらない。鏡に映る顔は相変わらず無愛想で、髪はボサボサ。カラスのあだ名が不本意ながらぴったりと合う。朝食はインスタント味噌汁と、昨日のうちに作っておいたおにぎり。味噌汁を作った後にほんの少しだけ電子レンジで温め、人肌程度の温かさにしてから食す。

 歯を磨き、いつ見ても微妙な青色をした作業着を着込み、昼食用のおにぎりを入れた巾着袋を手に部屋を出る。

 階段を下りきったところに、思いがけない相手がいた。

「おはようカラス。この時間に出勤なんだね」

 山瀬だった。近所着に眼鏡、一つ縛りといった緩い格好でひび割れだらけの駐車場にしゃがみこんで、野良猫と戯れている。

「おう。……お前は? 散歩か?」

「行こうと思ったらこの子に捕まっちゃったんだよ」

 慣れた手付きで撫でる山瀬に、猫はうっとりと腹を見せている。

「好きなのか、動物」

「好きだよー。勤務先もペットショップだし」

「へー…………ペットショップ!?」

 素っ頓狂な声に、猫が驚いて首をもたげる。

「そう、この近くの」

 あまりの衝撃に、喘ぐようにしてどうにか声を出す。

「嘘だろ……俺ずっとアパレルかなんかだと思ってたわ……」

「よく言われるよ」

 山瀬は猫から目を離さないままケラケラと笑う。

「……仕事でも猫と触れ合って、野良でも猫と触れ合って、流石に動物に飽きねぇ?」

「飽きないね。カラスだって仕事以外でもゴミ捨てのこと気にするでしょ?」

「……別に好きでやってるわけじゃねーけどな」

 荷物を抱え直す。

「……それじゃ、俺は行くから」

「いってらっしゃーい」

 猫に釘付けのままの山瀬が、片手だけ振って俺を見送った。


「おはようございます」

 毎朝恒例のラジオ体操と朝礼を終えた直後、俺は木村さんの元に向かった。

「おう、おはようカラス。今日は随分スッキリしたツラしてるじゃねーか、なんかいいことあったのか?」

「いや、特に……」

 少しだけ考える。

「アパートの前に人懐っこい猫がいました」

「猫ォ? ……まあ、楽しいことがすぐ身近にあるのはいいこった」

「木村さんは猫苦手なんですか?」

「苦手っつーか……猫の臭いが苦手なんだよなあ」

「猫の臭い……考えたこともなかったです」

「マジか。今度嗅いでみろ、案外くせーから」

 そんな話をしていた時、騒々しい音と共に関が飛び込んできた。

「すいません寝坊しました! まだ間に合いますか!?」

「おはよう。……まだ時間あるから、とりあえずあっち行って遅刻の報告してくれば」

「はい!」

 バタバタと走り抜けていく関の後ろ姿を見送りながら、木村さんが俺の背中を叩いた。

「すっかり先輩らしくなったじゃねーか、ええ?」

「木村さんに比べたらまだまだですよ」

「んだよ謙遜しやがってー。……お、戻ってきた。よし、今日もよろしくな!」

「よろっしゃーす!」

「よろしくお願いしまーす」

 三人揃ってゴミ収集車に乗り込む。

 今日の天気は晴れ。春らしく、名前も知らない白い花があちこちに咲き誇っている。気温と天気は丁度いいが、如何せん新生活の季節だ。きっといつもよりも多いであろうゴミに、心の中でだけ嘆息する。この咲き誇る花も一週間後には結構な量のゴミとなって出されるであろう未来に、さらにため息をつく。

 木村さんと関は相変わらず競馬の話で盛り上がっている。やっぱりギャンブルをやる気にはなれないので、俺はぼんやりとラジオの音楽を聞いていた。

「そういえばカラス聞いたか。佐藤と塩野、窃盗で捕まったんだとよ」

「佐藤と塩野……ああ」

 事務所の休憩室で、怪しい勧誘を繰り返してた二人だ。

「道理で最近顔見ないと思ってました」

「盗んだ貴金属をその辺のショップで売ろうとしてあっという間にお縄って話だ。まったく、なにやってんだかな」

「本当ですよ」

 盗難。貴金属。最近。

 もしかすると――いや、確証がない。それに、別に俺と山瀬が派手にやらかした件に絡んでなくても関係ない。そういう手合がちゃんと捕まる世界だというだけで、俺は希望が持てる。

 俺達の乗っているトラックが赤信号で止まった。左側にもう一台、他社の回収トラックが止まった。

 運転手は木村さんの知り合いだったらしく、相手に手を振っている。相手の運転手も窓を閉めたまま、妙なハンドジェスチャーで木村さんに応じている。

 俺も向こうのトラックのゴミ収集員に小さく頭を下げ……そこにあった知った顔に、思わず目を見張る。

 三島だった。塾講師でもやっていそうな真面目そうな顔に、新品の作業着がとてもよく似合っていた。

 目が会った途端、三島はバツの悪そうな顔になる。もぞもぞと居心地悪そうにしているが、横に三人掛けの狭い車内、逃げることは到底できない。やがて観念した三島は、照れくさそうにへらっと笑った。

 信号が変わる。三島の乗ったトラックが左に曲がり、直進する俺達のトラックと離れていく。

 俺は晴れ渡った今日の空模様と同じ清々しい気持ちで、そのトラックがミラーにも映らなくなるまで見送った。

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灰色世界の境界でカラスと蛇蝎は隣り合う @pochi-e

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