三十五日目

 緊急事態宣言、解除。

 外出を許されたわたしは、悠々と銀行へ赴く。さっさと行って、授業前に課金を済ませてしまおうという算段だ。

「それって本当に今必要なんです?」

 懲りない雛芥子がそんなことを言うと、牡丹はむすっとした可愛らしい顔で、今です、と答える。薊のことなんてどうでも良い、と言い張ってしまう彼は、やはり自分勝手だ。

「まぁまぁ、ダリアもヒナゲシも。皆、お金を使うのを楽しみにしてたんだから」

「ほとんど毎日お金くらい使っていたでしょうに、調子の良いこと」

 わたしの言葉に、雛芥子が皮肉を返した。妖艶で耽美で憂げで、気怠げで、嗚呼、今日も美しい。いつも無理をさせてごめんね。

 銀行はまだ開いていないけれど、預金残高はチェックできる。うきうきしながら預金を開くと、そこにあったのは、予想の半分の額だった。

 わたしたちは愕然として画面を見つめる。よくよく考えてみれば分かった話だ。計算を間違えていたのである。それと、四月は結構短い。

「これでも課金するの?」

 わたしが聞けば、牡丹は押し黙る。それもそのはずだ、彼はずっと課金するのを楽しみにしていた。三千円の課金が四つ。辛酸を舐める顔をした彼は、ぷいっとそっぽを向くと、やめた、と呟いた。

「……やめたやめたやめたー。課金しなくても推しは手に入るし。欲しかったカードも、言うても衣装が好きじゃなかったし。契約に注ぎ込んだら良いんじゃないですかァ?」

「ダリア……あんなに欲しい物がいっぱいあったのに、我慢できるんだね」

「契約更新の方が大事でしょう。それに、一番課金したかったやつは当てがあるんですよね。数ヶ月に一回のSSR確定引き換えを逃すのは心惜しいですけど、まぁ、諦めます。

あ、でも月額プランを抜けるなんて一言も言ってませんからね。とりあえず千円はそちらに回しますから、カードの用意を」

「あはは……進歩してますよ、ダリアも」

 雛芥子と蜜柑が苦笑する。だって、苦笑しかできないだろう。想定の半分しか振り込まれていないのだから。明細を見ないことには分からないけれど。

 というわけで、振り込まれたお金のほとんどが契約に注ぎ込まれることになる。竜胆は不満げに頬を膨らませた。

「ずるいずるいずるいー! おかしいよ、いくら計算してもこんなお金にならないもん!」

「まぁまぁ、仕方無いわ。契約更新するお金があったことを喜びましょう。そろそろ、十万円の支給もあるはずだから」

「むー……ほとんど無くなっちゃうよ、補償金なんて。こんなんじゃ病院行くお金も心許ないよ」

 秋桜と竜胆も不服そうに肩を落とす。それもそのはずだ、これだけ苦しくたって、支払いは先延ばしできないのだから。

 そもそも、苦しくなったのは自分たちのせいだ。ついにしわ寄せがやってきた。

 とはいえ、別に生活できなくなるわけではない。あと五日もすれば追加で一万円が貰えるし、六月さえ乗り切ればいつもどおり三万円近くの給料が入ってくるのだ。その頃には十万円の補償も支払われるだろう。

 五月を自己収容して乗り切った我々は、今度は節約という壁にぶち当たってしまった。最初からその壁にぶち当たっておくべきだったのだが……

 いずれにせよ、と言い出して、薊が話をまとめる。一番ショックだったのは彼女だろう。それでも彼女は顔色一つ変えず、カーペットにあぐらをかいて我々を見上げた。

「ダリアはいくら課金したい?」

「欲を言えば、三千二百円に追加して三千円の六千円」

「そいつはキツいな。どっちか我慢できないの?」

「一個だけ、二千円くらいでどうです? あ、コスモスが欲しがってたぬいぐるみも忘れずに。あれはフリーマーケット物ですから」

「宜しい。六千円で手を打とう。いいな?」

 わたしも含めて、「七人で」頷く。神妙な顔をしていたわたしたちは、話し合いが終わると、一斉に笑い出した。

「まったく、期待させておいて下げてくるわね」

「あのウィッシュリスト、少しも功を奏してないんだよね」

「まぁまぁ、これを機に、課金から足を洗いましょうよ、ダリア?」

「無理ですね。今回は諦めてやるだけですよ」

「往生際の悪い奴だぜ」

「お金がいっぱい入ったら、我慢したダリアにご褒美あげようよ!」

「リンドウは優しいなぁ、涙が出てきますよ」

 少しも泣いてないくせに、牡丹は冗談でそんなことを言う。彼はこんなことでは泣かない。

 突きつけられた現実は、あまりに非情。これが人々の経験した苦痛だ。我々とて部外者にはなれない。だが、人生の全てが金だなんて、我々は思っていない。

 話し合いがまとまったところで、コンビニへと七人で出かけていく。黒いパーカーを羽織って出たものの、外は想定以上に暑くて驚かされる。子供連れの母親が、散歩を楽しむ老人が、マスクをして歩き回る。穏やかな日差しに包まれた彼らは、心なしか表情が明るい。

 コンビニでお金を下ろして、カードとレシートに変えて。我々は悠揚と家へ戻る。バーコードを読み込ませて、課金して。七人はガッツポーズをして、牡丹がゲームを始めたのを眺め始めた。

 そうしているうちに眠くなってきてしまって、オンデマンド授業も後回しに、ずいぶんと眠り込んでしまった。最近は早朝に目が覚めるくせに、昼間や夜になって急に眠気が返ってくる。薊に謝ると、彼女は複雑そうな顔で、勝手にしな、と言った。

「あとで痛い目を見るのはアンタだよ。完璧にやってみせる自信はあるんだろうなァ?」

 完璧にやってみせる──薊はいつもそんなことを考えている。何かに欠けることが許せない。だから、何かしらの疵があると、わたしは授業にすら行けなくなる。

 そんなとき、たいていは蜜柑か雛芥子がそんなわたしたちに待ったをかけてくれるのだ。

「まぁまぁ、オンデマンド授業なんだから、そんなに棍詰めなくても。きっと土日では疲れが取れなかったんだろうね。あまりバイトを多く入れちゃいけないよ」

 蜜柑がすかさずフォローに入る。わたしは彼女の言うとおりに、暖かい日差しの中、ベッドに横になった。

 こうして昼寝をするのは、いつぶりだろう。学校に通っていた頃は、途中で眠くなってしまって、授業の間はずっと眠っていた。電車に乗っても眠っていた。無秩序に眠り続けても、眠気が無くなることは無く、かえって嫌な夢を見て気を病んでしまう。

「秋桜は眠るのが好きだけれど、薊は好きではない」。だから、今わたしが眠っているのは、「薊の意思ではなく秋桜の意思だ」と思っている。ついでに言えば、「蜜柑の助言があったから」だろう。

 そうしてベッドで目を瞑っていると、ぐう、とお腹が鳴った。朝ご飯は食べたから、昼ご飯を求めているのだろう。「何かを食べるのは竜胆の仕事だ」。お腹空いたー、と声を上げ、竜胆は立ち上がってリビングへ降りていく。

 そんな彼女についていくのは、「食べるのが嫌いな雛芥子」だ。そんな二人がいつも鬩ぎ合って、「わたしの食事を決めてくれている」。

「そうだ、納豆鮭ご飯食べよーっと。ヒナゲシは?」

「僕は付き添いですよ。食べすぎないよう見張ってるんです」

 二人に見守られつつ、わたしは昼ご飯を食べ始める。ご飯に納豆と鮭フレークを乗せただけのねこまんま。でも、久しぶりに食べると美味しいから、「竜胆の言うことに従って良かった」。

 コップを一つ出して、オレンジジュースを飲みながら、わたしは雛芥子と竜胆に向かい合う。彼らはにこにこしながら、わたしのことを見つめてくれていた。

「自己収容生活も終わりだね」

「好きなところに行ける、とまではいきませんが。補償金の申請もできるようになったことですし、ちゃんとお金貯めましょうね」

「うん、分かってるよ」

 だってそれが、六人の、ひいてはわたしのためだから。

 六人は、よく頑張ったと思う。

 筋トレを始めさせてくれたのは雛芥子のおかげ。

 ゲームの楽しさを知ったのは牡丹のおかげ。

 食事を摂れるようになったのは竜胆のおかげ。

 小説を書いて、体調管理をするようになったのは蜜柑のおかげ。

 自己収容生活でも弛まないでいられたのは秋桜のおかげ。

 勉強面も仕事面も抜かりなく進められたのは薊のおかげ。

 そして何より、何度も自殺に走っていたわたしを止めてくれたのは、毎夜孤独に泣いていたわたしのそばにいてくれたのは、誰よりも愛してくれたのは、六人のおかげ。

 わたしはただ、六人の言うとおりに動いていただけだ。わたしは何もしていない。

 誰よりも賢く優しい薊。

 誰よりも慈悲深く厳しい雛芥子。

 誰よりも温和で面白い蜜柑。

 誰よりも図太く陽気な牡丹。

 誰よりもストイックで真面目な秋桜。

 誰よりも素直で正直な竜胆。

 彼らのおかげで、筋力もついて、勉強も進んで、家事をするようになって、仕事も任されて、幸せになった。死にたいと願うことも少なくなった。

 わたし一人では、きっと自己収容の──つまりは、孤独になることの──重みには耐えられなかっただろう。

「皆、ありがとう」

 薊と秋桜が小さく微笑む。牡丹が得意げににやりと笑う。蜜柑が、こちらこそありがとう、と言ってくれる。雛芥子が抱きしめてくれる。竜胆が手を繋いでくれる。

 一軒家というシェルターの中、たった一人でわたしは笑っている。家族こそいるけれど、家族には六人は見えない。だから、わたしのことを幸せにしてくれた彼らを褒め称えるのは、わたししかいない。

「これからも、よろしくね」

 わたしの言葉に、六人はまるで、当然であるかのように肯いた。

 まだ感染症は終息したわけではない。外に出るには防護マスクをして、消毒を怠ってはいけない。されど、水曜には病院に向けて一時間も電車に乗る。その頃には、ショッピングセンターも開いているだろうか。六人でディスカッションした結果、手元にはあまりお金は残らなかったけれど、六人と話しながらウインドウショッピングをするのも悪くないだろう。

 白い壁に囲まれた、物の多いリビング。ソファに置かれたコントローラー、ヨガマット、点きっぱなしのエアコン、オレンジジュースのペットボトル。

 脱ぎ捨てた服が転がった自室の床。メイク道具に勉強道具、ノートパソコンにスケッチブック。やりたいことで埋め尽くされた机の上。飲み捨てられた薬のゴミ、かつて首を吊ったマフラー。

 一人分のコップ、一人分の皿、一人分のカトラリー。一人分のベッド、一人分のゲーム、一人分のスマートフォン。昼下がりの陽気に包まれ、ソファでうたた寝をする一人の孤独な大学生。ウイルスの蔓延に際して、一人引きこもって、白い牢獄の中で、ゾンビ映画ごっこなんかをして、生きていくための仲間たちと生きている。

 それがわたしであり、神楽坂一家だ。

 これは、前代未聞の感染症が広がった、二千二十年の日本のお話。一人の心を病んだ大学生が、六人の仲間に導かれ、自粛生活を乗り切る記録。


(了)

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自己収容生活 神崎閼果利 @as-conductor

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