二十九日目

 疲れ果てたあたしたちの目に映ったのは、国を背負った男の姿。ニュースキャスターが茶々を入れるのも聞こえないで、六人で彼を見つめていた。

 本日、首都圏以外のほとんどの県において、緊急事態宣言が解除された。されど、あたしたちは喜びも嘆きもしない。ただソファとその下とに座って、じっと首相が話しているのを眺めているだけだった。天下の台所・大阪様は、独自の基準を満たして、独立して解除するみたいだけど、それすら心底どうでも良い。

 あたしたちの住む首都圏は、結局のところ東京のベッドタウンで、首都にナイフを突きつけられる位置にある。テレビに映る人々が一喜一憂しているのを、他人事のように眺めるほか無かった。

 どうせ支援金も来ないしなぁ、と蜜柑が力無く呟く。薊が乾いた笑い声を上げる。

「十万円、いつになったら来るんだろうねェ。大変なときに来なけりゃ、なーんの意味も無ェだろうが」

 本当、薊の言うとおりだ。仕事こそ始まったけれど、日常は何も帰ってこない。あたしたちはカラオケに行くことも、ゲーセンに行くことも、雑貨屋に行くことも、本屋に行くことも、ネイルサロンに行くことも、美容室に行くことも叶わない。オンライン授業はまだ始まったばかりだし、飲食店の仕事だって再開しない。上司の顔を見なくなって、もう一ヶ月も経ったのか、と呆然としてしまう。

 「その日」が来たとき、あたしたちの自己収容生活は終わる。もちろん、あたしたちはこれからもネットの繋がりは断つし、リアルの付き合いも自粛するつもりだから、これからも閉鎖的な生活は続くのだけど。

「まぁ、今月末には来るはずよ。それまでは辛抱ね」

「あーあ、新しい服買いたいなァ」

「金が入った途端ダリアに全部取られそう。いい? 十万円は、アタシが後輩に奢るためと、本を作るために使うの」

 蜜柑がぎらぎらと目を光らせて身を乗り出す。蜜柑は後輩を愛しているし、そのためならマジな顔をしたりもする。普段は温厚で適当な奴なんだけど、親友の話になるとすぐこうやって真剣な顔をするのだ。洋服を買いたかった牡丹も、口を尖らせておとなしく引き下がった。

 画面の首相はCMに消え、各員の視線はまたバラけていく。そんな中、腹筋のしすぎでへこたれた──失敬、課題づくめでへこたれた──薊が、うー、と情けなく呻き声を上げた。

「早く外で遊びたいな……」

「おや、アザミにしては珍しい。ここはたいてい、『ナメたこと言ってんじゃねェ、死にたいのか』とか言いそうなもんですが」

「ボクだってショーゴ先生とかと遊びに行きたいし。呑み会は遠慮しておくけど……」

「アザミがそう思うんじゃァ、僕が外に出たくてうずうずするのも当たり前です。あー、ゲームやりたいしメイク道具見たいし、ってか百均に行っていろいろ買い漁りたい」

「アンタはいつも無駄なもんばっかり買ってきてんだろォ……」

 薊が肩を落として答える。何かを買い漁るとき、それはたいてい牡丹が言い出しっぺだ。とはいえ、彼はこの中でも綺麗好きな方だ。この矛盾は、牡丹が「安いものがどれだけ使えるか試したい」とか「安いものだから使えなかったらすぐ捨てる」という考えを持っているがゆえのことなのだが。目の前で百円玉がゴミ袋に入れられていくのを見ると、無理にご飯を食べて吐きそうになるあたしの言えたことじゃないけど、なんだか虚しくなってくる。

 購買意欲をも潰すのが、世界に蔓延した死の病。政府と専門家、そして何より、医療従事者の賢明な努力によって、その感染者数は一日に二桁までに抑え込めた。しかしながら、一度かかったら、軽症だとしても地獄を生み出す現状は変わらない。自覚症状も直前まで無く、一緒に呑みに行った仲間が、その家族が、と感染していくのがこの病の恐ろしいところ。人々を屠っても、まだまだ足りない、と初夏の世界を喰らい尽くすウイルス。酷い症状になるくらいなら、愛する人に感染させるくらいなら、と人々を家に縛り付ける。

「アタシは早く後輩の顔が見たいよ。あの子たちに大事な推敲を任せているし、その恩返しをしてあげたい」

「私は、服が欲しい、かしら。ゴシックロリィタのバリエーションを増やしたいわ」

「僕は……特に望みは無い、ですね? おや、案外無欲なんですね、僕は」

 秋桜と蜜柑は、あたしたちの中でも欲に走らない方だ。そんな二人にも、この災いを越えた先でやりたいことがあるんだ。

 でも、あたしたちはやっぱり、雛芥子の一言で足を止めてしまった。望みは、無い。今が足りている、ということだろうか? あたしが口を出すより先に、雛芥子の親友たる薊がそれを尋ねた。

「雛芥子さァ、何かやりたいこととか無いの?」

「僕は、特にありません、かね。今のままで良いかな、と」

「ゲームは?」

「読書は?」

「こらこら、いっぺんに聞かないでください」

 牡丹とあたしが畳み掛けても、雛芥子は吐息混じりに睫毛を下げるだけだ。何が欲しいとか言ってくれるわけではない。それどころか、まるで甘いショートケーキでも食べすぎたかのような憂鬱そうな顔をして、頬杖を突いている。

「ゲームを買うお金はありませんし、本を読む時間もありません。メイク道具も事足りているでしょうし、着る服に困るほど外へは出ない。最近はお腹も空かないので、買いたい物が無いんですよ。強いて言えば、呑み会のときの酒くらいですか……」

「むー、それって良くないよ!」

 どうして、とははっきり言えない。なんとなく、だ。なんとなく、雛芥子が余裕ありげに微笑んでいるのを見ると、むしろ空っぽに見える。灰色の憂鬱が彼を包みこんでいるような気がしてならない。そのまま魔王に連れ去られてしまいそうだ。

 だから、止める。だって欲しい物が無いなんて、生きていけない。食べたい、寝たい、動きたい、知りたい、欲しい。人間はそういうエネルギーで生きているような気がするから。

「じゃあ聞くけど! お花はどうしたの? あんなに欲しがってたのに!」

「花……あぁ、そういえば、宣言が出される前はプリザーブドフラワーが欲しかったんですよね。なにせ、僕の誕生日でしたから……」

「今はどうなの?」

「今すぐ、ではないかと。僕が僕自身に向けて買う予定だった物ですし」

「じゃあ綺麗なアクセサリーは?」

「今は外に出ないので……」

「何か食べたい物とか無いの? ジャンクフードとか!」

「僕、もともと食べるのって好きじゃないので。何が食べたいとかはありません」

 問い詰めても問い詰めても、今はいいや、の一点張り。世界が自粛ムードに包まれて、不要不急の外出を控えるように言っているのが、こんなふうにはたらいてしまうなんて。むろん、それが狙いなのだろうけど。安定剤で腹を満たして、頭もぼかして。お金が無い、時間が無い。学生は暇で良いよね、と妬まれても、案外毎日課題に追われてアルバイトに駆り出されて暇じゃないのだ。

 忙しい日々でも、雛芥子にももっと、きらきらするものを見つけてほしい。彼は見るからに煌めいていて、美しくて、物静かで格好良いのだけれど、いつもどこか寂しそうだ。それがたぶん、生きる希望なんだと思う。トンネルの先はまだまだ長く、黒い視界の中、ぼんやりと光が見えていて、そちらの方にゆっくりと歩いている。

「そんなに何かを欲してほしいんですか?」

「うん、あたしはそっちの方が自然だと思う」

「満ち足りることは、良いことだと私は思うのだけど。リンドウはそうは言わないわね」

「うん。一生懸命頑張ったら、ご褒美が欲しいなんて、当たり前じゃない? ヒナゲシはそこさえも要らないって言うんだもん、なんだか変だよ」

 変だ、なんて適当なことを言ってしまう。変なんかじゃない、ただ、なんだか不自然なだけ。別に雛芥子を否定したいわけでもなんでもない。俯くと、顔がかあっと熱くなった。

 あたしがそれ以上何も言えないでいると、せーんぱい、と声をかけ、牡丹が肩を組んだ。雛芥子は、わっ、と声を上げて体を傾ける。

「あと少し、ですよ。あと少しで、世界は変わる。給付金は五月末までには届く。なんとか感染を抑えた政府は、今後次の波に向けて試験の数々を始める。そのとき、僕らは牢獄の外に出て、自由に買い物ができるようになります。それこそが試験であり、僕らのリハビリです。そうしたらきっと、何か欲しい物が見つかると思いますよ」

「そういうものでしょうか……僕が一番欲しかったのは、こうして本音で語り合える居場所であって。自らを偽る必要の無いものであって……それを守るためにお金を溜めているだけなので」

「そんな心配しなくても、アタシたちはどこへも行かないよ。ずっとそばにいる」

 牡丹と蜜柑の言葉に、雛芥子の薄紫色の唇が緩んだ。そうですね、と溜め息混じりに答える。

 いいなぁ、と思う。あたしもあたしの言葉で、五人を守れたら良いのに。世界の憂鬱に押しつぶされて、自らも憂鬱に浸ってしまった人々を救う言葉が欲しい。励ます言葉が欲しい。まるで首相が、悪意あるカメラマンの前でも堂々と語っていたように、人々を元気づける力が欲しい。それは才能なんだろうか、それとも──

 あたしが路頭に迷っていると、不意に薊に肩を叩かれた。びくりと体が跳ねる。薊は白く細い手でがっしりとあたしの肩を掴み、醜悪に嗤った。

「ハッ! お手柄だなァ、リンドウ」

「え、ええぇっ?」

「ヒナゲシも感謝した方がいいぜェ? リンドウお嬢様はアンタに生きる希望を見出してほしいって言ってんだよ」

「……生きる希望、ですか……」

 雛芥子の美貌が、笑顔が、どろり、灰色に溶けていく。あたしはそれが怖くって──でも逃げちゃいけないんだ。二つの梔子色の目に見下されていても、あたしの水色の目は貫けない。

「世界に影響されて、希望の見えない生活をしてるかもしれないけど、何かやってみようよ! ミカンは小説書いてるし、アザミは勉強してる。コスモスは家事したり絵を描いたり、ダリアはゲームやったりしてる。ヒナゲシだったら、何でもできるよ。そのうち、やりたいことも見えてくるよ! 烏滸がましい希望を持てば良いじゃん!」

「烏滸がましい希望、ねぇ……」

「うん、めちゃくちゃなことを祈ろう? この自己収容生活が終わったら……そうだ、六人でバイトなんてバックレて、旅に行くとか! 原宿行こうよ! それと、池袋も! 一日図書館にこもってみない? 漫画喫茶でも良いよ! せっかくの支給金を百クレジットで無駄にするとか! 課金もしちゃおうよ! そうそう、六人でバーに行くのも楽しそうだよね──」

「あんたが言うと、どれも楽しそうですね」

 雛芥子がクスクスと甘く笑う。朗らかなマシュマロの笑顔に、あたしも心がきゅっとなる。彼の黄色い目に日の光が入って、まるで琥珀みたいだ。彼はぶつぶつと、そうだ、体裁なんてどうでも良い、と小さく呟いた。

「塾長や上司の困り顔なんて蹴っ飛ばして、一日休みを取りましょう。無駄遣いをしましょう。逆に、要らない物は何でも捨てましょう。好きなゲームを買いましょう……解放されましょう。六人で、どこへでも行きましょう。それなら、楽しそうですよね」

「あはっ、見事な死亡フラグ大会ですね、これは。ま、これだけ立てておけばさすがに全部折れるでしょう」

 牡丹が口を出せば、薊に頬を引っ張られる。痛い痛い、と声を上げるけれど、薊はあんまり力が強くないから、実際のところはそんなに痛くないのだろう。

 あたしも、この長い長い自粛生活を越えるまでには、増えてしまった体重を全部筋肉に変えて、基礎代謝を保って、健康に生きたい。ちゃんと寝て、ちゃんと起きて、ちゃんと食べて。人間らしい体になりたい。そうして、今まで人でなしとしてドロップアウトしてきた分を生きたい。

 人間を馬鹿にしてきたあたしたちにとっては、嘘みたいな願いだ。これだけ我慢してきたんだから、人間みたいに生きたい。人間らしく生きたい。自分勝手に生きてみたい。何かをしたい。何かを欲しい。

 そう考えられるようになったのは、あたしたちが、底の見えない抑うつ状態から抜け出せている証拠だったら良いな、と思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る