第3話

それまで買っていたお酒もタバコもやめて、無駄な買い物を一切せずに貯蓄に走った。親との縁を切るつもりで猫と共に家を出る算段を立てていた。


部屋を借りて仕事を探し、気づかれぬうちに生活に必要なものを運んで一夜で夜逃げしようと考えていた。


そんなことを考えながら毎日父の店を手伝った。従兄弟が居候に来てからも、日常会話程度なら話を合わせているが、心が通うことはない。一切本当のことを話し合った経験はない。いつも「かたち」でしか接していない。居候を引き受けたのも普段からお世話になっている叔父へのお礼という名目で、本当のところはその見返りが目的だった。お金が全てだと言うのは父の考えの主たるものだった。


利用価値があるかないか、そんなことでしか人を見れない父を哀れに思う。何度も父の考えを変えようと試したが、残念ながらこの現実を受け入れる以外に解決策はなかった。私もまた、人を思い通りにコントロールしようとする利己主義的な考え方を持っていた証拠だった。


そんな考えが衝突を起こしては互いに傷つくばかりだと悟ってからは、まともに父の言葉に耳を傾けることはなくなった。


従兄弟がいつまでいるのかわからなかったが、1週間で実家へと帰ったいった。ことの発端となった従兄弟がいなくなっても、一度家を出ると決めたら意地でも出て行く。頑固で素直になれない大人らしからぬ態度だが、そんなことより怒りと憎しみに駆られていて冷静になれない。


ずっと甘えていたかったのだ。


そんなことですら素直に受け止められていなかった自分自身に対して申し訳なさを感じる。己の弱さが相手に付け入る隙を与えて、狡い人間に騙され続けることで現実の自分から目を逸らしていた方が楽だった。


私は現実の自分が嫌いで、理想の自己イメージに酔っていた。ナルシシストだった。


楽な道で生きてきたつけは相当に大きかった。心の仮借を返済するには今まで生きてきた年数の半分の時間を要するという。私の失われた時間が莫大な重荷としてのしかかってくるように思えて苦しかった。しかし、ここで気づかずにいればもっと悲惨な目に合っていただろう。幼児的要求を満たされないまま一生を終える人もいる。人に愛された経験がない人は、愛されたい欲求を愛する力に変えていくしかない。それは、相当に険しい道のりだということはわかっていても、既に失われた時間を思えばこれ以上の誤ちは許されていなかった。


生きながら死んでいるも同然だった。


しかし人は生まれ変われる。幼少期に過ごした時間が残りの人生の大半を決めてしまうが、それを自分の意思で変えることができる。


それが人類の最大の強みだと思う。


子供は皆ナルシシストとして生まれ、それが自然に満たされて過ごせる家庭に生まれる人もいれば、逆に親の要求に応えられなければ生きられずに搾取され生きる力を破壊される家庭に生まれる人もいる。


人間は生まれながら不平等。


ナルシシズムを持つこと自体は決して悪とは言い切れない。子供は皆ナルシシスト。ナルシシズムを持つということはそれを克服して人の心を理解して優しさを持つ人になれるということを意味する。それを持つことを認めず、子供や恋人などの身近な自分より弱い人間に満たせと要求して、思い通りにいかないと責めて恐怖を与えるような者は邪悪そのもの。


自分自身にならなければ悪魔になるより他仕方ない。


幼児退行をして自己蔑視を抑圧すると、どんな冷酷なこともできてしまう。


「無気力の行き着く先はサディズム」だとエーリッヒ・フロムは言っていたらしい。


冷酷な独裁者も、不安の沈め方と不幸の受け止め方を知っていれば歴史的な指導者として歴史に名を残していたかも知れない。


個性化の段階で絶望してしまい、父もまたサディスティックに振る舞うことでなんとか自分を保っているのだろう。


私の祖母は父に対して虐待を行なっていたとよく聞いた。しかし、父はそれを普通のこととして認識していて、虐待とは思っていないと話していた。


しかし、私の目には傷つけられて困惑して甘えたい母に甘えられずに途方に暮れた幼き日の父の姿が浮かんでいる。


優しい人ほど傷つけられる、この世の一番残酷な理不尽だ。


神経症者になった人は必ず一番優しかった人なのだ。


この世の残酷さに打ちひしがれて、目を背けて自らがサディスティックに振る舞うことでしか解決できない時期というのは私にもあった。


この世界は非常に残酷だ。


だからといって暗い見通しばかりとも限らない。


必ず明るい未来はある。その事実が現在の苦しみをより一層強くするように思える。


私の人生の責任は私にしかない。


親が子供に言うあなたが心配、あなたのためという言葉は嘘だ。親の責任で子供の人生の全てが定められるとしたらそれはこの世の終わりを意味する程、子供にとってそれは残酷な言葉だと思う。子供はそれを言われると、あなたを信用していませんという意味で受け取る。親が不安から子供にしがみついて操作したいというのが本当だろう。


心理的に健康な親に育てられた人でも必ず個性化の段階では苦しむという。


世界でたった1人不幸な人なんていない。


誰もが悩みを抱えて、苦しみを経験し、それにも関わらず生きている。


一つ屋根の下で過ごしながら孤独なことほど寂しさは増す。仮面夫婦が形成する家庭はいくらでもある。


うちもその一つだった。


一人で家を出られる程の貯蓄が十分に溜まり、誰にも知られることなく計画を実行に移し始めた頃、中国武漢では新型のウイルスが発見され、既に猛威を振るっていた。

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