クドリャフカの星

水牛掴み取り処理場

こんな時世だからと、勤め先の社長は言い残して、あまりにも容赦がない、と褒め称えざるを得ない程惨く俺との糸を切った。山ン中育ち、田舎育ちの坊主っころが親に「出稼ぎに東京に出る」なんて言ったときには目玉をひん剥いていたが、今まさに目にもの喰らったのは誰でもない、俺だ。


ずぅっと地面と会話して、代々引き継ぐように稼ぎを得てきた農家の親父達にゃ経済危機だとかりぃまんしょっくだとかの文言を並べ連ねたところでわかる気も起しやしねぇだろう。一平社員の俺は東京に渦巻く、不可視の荒波の恐ろしさをまだよくわかっておらず、気づいた時には自分が細く、やわっこい糸で雁字搦めにされて生殺与奪の権を握られ、すっかり牙を抜かれて歯向かうことすら許されなかったのだ。そら年がら年中ンなことを思いながら戦ってたわけじゃねぇが、特別仲の良い同僚が「俺らはもうダメかもしんねぇ、実家に戻ってやり直すしかねぇな」と呟いた時、俺は言われようの無い手遅れ感を手汗と共に握りしめたのを覚えている。それから間もなくして首切り祭りが始まったころには、もう出立の準備は出来上がっていた。正直な所、暫く顔を合わせていない親に面を向けるのがこっぱずかしいくらいでそう辛さは感じなかったが、俺が実家に「帰る」と連絡を寄越した時に、まるで待ち望んでいたかのように「本当かい」と喜ばしく応答したのを聞いて、やんちゃしてた頃にペーパーしゃぶった時のような、悍ましいバッドに包まれたような、そんな感覚になった。


家に戻ってからは、自炊の必要もなくなったし、家事も手伝い程度。本当はすぐにでも職を探したいところだが、その話をすると両親は少し寂しそうな顔をする。土地の跡継ぎがいなくなった後どうするのかという不安は、間違いなく存在する。本来比較すべきではないが、ここ数カ月に押し寄せた俺へのナイフのような恐怖と、親達にまとわりつく真綿の拘束具は、どちらの方が軽いと言えようか?

勿論悪いことだらけではない。農業の手伝いもそれはそれで価値がある時間だ。昔の顔馴染みのご近所さんだとか、旧友に会えることには、ある種安心感もある。ただそれが、後腐れの一つでもある。

そして、思いださねば良かったものを、俺は一つの地雷を脳裏で踏んでしまった。飼い犬のことだ。親父が拾って来た野良の子で、りつという雌が一匹実家で飼われていたのを唐突に思いだした。りつは漢字で「立」と書く。なんでそんなヘンテコな名前を親父は付けたもんかと思ったが、上京してからも送られてきた写真で様子を見ていたくらいには、可愛がっていたもんだ。それが今日になって疑問符を帯びて、ついに親父に聞いた時の返答は、煙草をふかしながらあっさりと伝えられた。

「あれ、電話よごさねがった? おめが大三の時[死んだべ]って」


りつは人懐っこい奴だった。いろんな人間によく突っかかる。故に、危ない橋を渡ったことも多い。変質者を撃退したことも幾度かあるくらいにはパワフルな子だった。親父から改めて話を聞くと、死因は多分普通に老衰で、名前の立、とは「自立」の意だった(なんで犬にそんな名前を託したのか聞くと何故だかはぐらかされた)ことも、あくまで改めて聞かされた。それから、席を外して猛烈な気持ち悪さに襲われたので、厠で胃の中の内容物を全て吐き出した。当時、大学三年の俺は恐らく話を忘れていたんじゃなくて、きっと受け入れられなかったんだろう。俺はあの頃客観視しても、少し荒れていたと思う。東京の空気は排ガス臭いが、でも何となく心地よくて、それこそ一種の中毒性のようなものを帯びていた。夜遊び、火遊び、女遊びは田舎の俺にはあまりに刺激が強くて、正直全ての倫理観に罅が入りながらもなんとか絶妙な均衡を保っているような、そんな感じだ。本当にそういう暴れ方とか若気の至りがピークの頃、そういうことで俺より一歩先に進んでいたツレの女が、「極上の一枚」と称して、うっすい紙を格安料金で寄越したのだ。流石に恐ろしいと思って最初は拒否したが、ソイツが別の菓子を食って恍惚とした表情で行為に及んでいたところをしっかりと見ていたもんだから、そういう境地への好奇心で、紙を吸う様にしゃぶった。

結果から言えば最悪の一言だ。あまりに不慣れなバッド・トリップは、ただの頭痛と倦怠感に変貌し、一日寝込んでも悪魔が無理やり叩き起こしに来るような吐き気が延々と続く、ただそれだけ。そうこうしている内に俺は、その女がただ俺をカモにしていただけだったことを理解した。金品の類をそう多く持たなかったことが幸いだったが、自分が漁られたことのあまりのショックで、それ以降夜遊びも女遊びも、キッパリ全部やめることにした。俺の手元に残ったのは、思い返せばバカみたいに情熱的な記憶と、紙切れにしか見えない違法薬物が数個だけだった。俺は多分俺が想像している以上に、バカなんだと思い知らされた。


りつの墓は、親父らが管理している農地の、更に外れにあった。そう期待はしていなかったが、見てみると案外立派な石造りをしていた。子に恵まれず俺一人だけだった家族が、まるで増えたかのように接し、振舞った互いが、こうさせているのだろう。

今日は仕事が無いからと言って、俺は一日中その墓の前あたりで呆けていた。何をするでもなく、ついに陽が沈もうとしている。徐々に星が明るみを帯びる中、俺はあの時の紙を取り出した。強い幻覚症状を引き起こすコイツが、今なら俺をどうにかしてくれる。そんな破滅的な自信が、どこからかぐつぐつと湧いてきて止まらない。俺は紙を千切って貪った。


自信は確信へと変わる。効果は覿面だった。最初は視界がぐにゃぐにゃとうねりを帯びるところから始まって、近くの電柱の輪郭が空気中に溶け込んでいく。紺藍の空は憂鬱な極彩色に変貌し俺の眼球に食いかかる。自分の足腰が言うことを聞かなくなり、ついに自分の輪郭まで安定しなくなった。喉元からぞわぞわと這い寄る不快感の大群を掻きむしる。確か俺はその時泣き叫んでいた筈だが、声は出ていなかった。びちゃびちゃと液状になっていく空と地面と、俺。ついに何も見えなくなった時――

俺は、二人になった。詳しく言えば今、俺は第三者としての、この狂った世界の唯一無二たる神として降臨し、狂気に苛まれた一人称としての俺を見つめていた。

一人称の俺は、最早そんじょそこらの獣と大差ないような声を上げている。目はうつろになり、極彩色の空と大地の海をかけずりまわり、太陽と月の行進が欺瞞の晩餐を開くと、俺の首を切った会社の社長だとかも勢ぞろいで、達磨落としに霰の雨、リテラシーを口に加えた鳶の子供がイデオロギーを謳う。スキーム色の信号機が総理大臣に変ると、生命の樹はガラガラと崩れ落ちていく。大地のうねりの中で全てを理解した俺は、一つだけわからないものがあった。極彩色の中でたった一つだけ、空に浮かぶ犬の顔は、あの時見た最期のりつの顔であった。すると、俺という名の神の認識は、世界を動かした。一人称の俺は裸になって、四つん這いになって、吠え始めた。すると、他の万物森羅万象も同じことをした。宇宙も四つん這いになった。りつの墓の輪郭だけが、その世界に残存した唯一の――


ド深夜、急に世界は終わりを迎えた。誰も居ない農地の端っこで、俺は裸で肌寒い思いをしながら、立派な石造りの墓石に自分の精液をぶちまけていた。それでもまだ収まらなかった自分のモノを、たった一滴残った狂気を振り絞って、何発も、何発も何発も何発も全部吐き出してから、その墓を思い切り蹴とばして、裸足のまま踏みつけた。罅が入るまで、否その墓石が粉々になるまで。血まみれの脚を拭いながら、衣服を着直す。最早俺には、今自分がりつに会うために握るべきは麻縄か包丁か、その区別すらつかなくなったのかもしれない。ただ今は、選択肢があるだけ幸福と言えよう。




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