輪廻~アリア予言の章~

深海愁

輪廻~アリア予言の章~

あらすじ

 愚かな人々は同じ過ちを繰り返す。

破綻し退廃を迎えた村に、それぞれ過酷な人生を歩む5人の少女達が居た。

貴族として育った珂翠(かすい)は、生まれ育った土地を守るために高い志を持って、単身村に降りたち一人の幼い娼婦と出会う。

そこで己の生活とは全く違う生き方をしてきた、少女達から己の愚かさを目の当たりにさせられ、驕りを感じる。生まれ育ちの違いは簡単には埋まらない中、使用人であり兄として慕っていた聖と、乳母であった由美の助力を借りて、知らなかった現実を知る決意を固めた。

珂翠の穢れを知らない強い意志を感じ、徐々に少女達も珂翠に手を貸す事を決めるのだった。貴族の皇子と、親も家族も住む家さえも無い、それぞれ多くの闇を抱えた少女達は破綻していく世界を変るために共に手を取り合う。

歴代神より示されて来た、『アリア予言の章』のもと、葛藤しながらも無力な少年と無知な少女達は、逃れられない苦難に立ち向かう。


それぞれの人生に寄り添える時間は余りにも短く、終焉の時が刻々と迫って来る中、珂翠はせめて少女たちの希望で在り続ける事を望んだ。


両親も、持ちえた富も全て失い、不治の病を抱えたまま、苦痛からの解放である死を待つ瞳。

実父である神父に虐待を受けながら、神を信じられないで居た、シスター霧月。

口減らしの為に親に殺された、妹の肩代え人形の傍らで強く生きようとする、頑なな眞留美。

まだ幼いのに親に強要され、娼婦をしている。笑顔の仮面を張り付けた少女、亜理紗。

そして、人と付き合う事が苦手で人嫌いの美少女。浮浪孤児の詩絵。


迫り来る破滅の時を、神からの奇跡を信じながら、己の境遇と戦う彼女達と同じ時を過ごし、少女達と珂翠の間には、確かな絆が芽生えていく。

今までの生き方を、己の意志で変えていく力がある事を知り、人を信じる愛の力を確かめ合うのだった。

その時に、今まで感じる事の無かった僅かな奇跡が起こる。自分たちの行いが奇跡を生むのか、それとも珂翠という少年が奇跡を起こしてくれるのか?

残酷にも、彼らには選択の時が刻々と迫って来ていた。


愚かな多数の人々を救うために生きるのか、愛した者達を守る為に生きるのか?

足掻いても変える事の出来ない終焉をどう迎えるのか?


そして、再生を繰り返す。終焉を迎える時に、珂翠が出した答えとは?


人は同じ過ちを繰り返す。抗うのか、全てを諦めて惑わされるのか?

それぞれに選択を迫られるが、珂翠は出会えた愛すべき者達と共に、現実に抗う道を進む。しかし、各々に迫られる選択は過酷なものだった。心を病み、身体を傷つけ、僅かな弱みに付け込み、アレが囁いてくる。

『我がテを取れ』と。


何度も過ちを繰り返し、破壊と再生を繰り返す世の理の中で、珂翠は愛すべき者達を救えるのか?誰の為に生きるのか?生きる意味とは何か?信じる事とは何か?を問いかける、異世界ファンタジー。


『神は葉を枯らすモノ。アレは枯れた葉を蘇らせるもの。』


 それが真実ならば、この輪廻は永遠に終わらない。







アリア予言の章 序章

『真っ黒に塗りつぶされた章は、聖火により塵へと帰するであろう。

また新たな芽を息吹かせる為に。』



序章

少年は荒れ果てた農村を、小高い丘から見下ろしながら考えて居た。

 あの腐敗した土地に住む農民と、貴族として育てられた自分との違いとは一体何処にあるのだろうか?


 呼吸をし、物を食べ、痛みを感じ、笑い、泣き、欲望と闘う。同じ人として生を受け、その生を全うする為に歩む存在である筈なのに。


 少年はその意味を知りたかった。


 ただその未来に、漠然とした疑問を抱いた。だから少年は、この地にその答えを求めた。


少年が生まれる前は農業が盛んで、村外れで取れた食物を、中心部の市で売買され、小さいけれど活気のある村であった。また、絹や綿を作り隣国に輸出していた。

 しかし、中心部の開発事業により、農業を営む人は減り、廃棄物の影響で農作物は枯れ、疫病、異常気象が続き、今の様な荒れ果てた町とはとても言えない、僻地へと変貌した。

 村人たちは飢えと疫病に苦しみ、ある者は村を離れ、ある者は生きる希望を失った。



 人気の無い道には、村が盛んだった頃に使われていた看板や、特殊な機械の残骸が放置されている。

 少年は、愕然とした。自分達貴族が治めているこの村の現状を、今、この瞬間まで少年は全く知らなかったのだ。


 しかし、少年は無力だった。


 城に戻り、村の状況を両親に訴えたが、呆気なく流された。


 少年が知らなかっただけで、貴族であっても既に有り余る程の財力がある訳では無い。

村の開発の失敗は、貴族達にも大きな影響を及ぼしていた。多くの貴族階級が破綻し、姿を消した。

村を逃げ出す者や、城を潰して、当てもなく物乞いに身を落とす事もざらでは無い現状だった。だが中には、貴族のプライドを捨てる事が出来ず、一家心中をした貴族も居た。

村を取り仕切っている程の名家である少年の一族でも、例外では無い。既に農民達を救う力は、両親には既に残っていないのだ。

その先に横たわる破綻への恐怖と戦う日々に、農民を思いやる余裕など何処にも無い。


 全ては、愚かで知識不足が招いた悲劇。


 少年は、自室の窓から見える暗闇の農村を見下ろした。あの地にも人は生きて居る。

そして、自分は彼らから絞りとった食物で生きている。


 少年は胸を痛め、己を恨むように嗚咽を漏らした。

 少年には、それしか出来なかった。



第1章  愚者―THE FOOL―


 古びた農村の片隅には、孤独な少女が凍えながら蹲っていた。少女には家が無い。両親の顔も知らない。捨て子であった。

 夜風は少女の心まで冷やして行く。

 暖かい暖炉の火も、優しい両親の笑顔も、無条件に与えられる、自分より大きい手の温もりも知らない少女は生きる喜びを知らない。


 空腹感を覚えれば、盗み。

 恐怖を感じれば、逃げ。

 失望感に襲われた時は、独り泣いていた。

 少女にとって此処に存在している。それが生きる事であった。



 この農村には、医者が居ない。薬も無い。

そんな高価な物を買う金を持っている農民は居ない。

病にかかった者は、ただ死を待つのみ。

隙間風が入ってくる薄暗い部屋に、一人の女性が横たわっていた。

 ベッドも布団も無い、彼女を包むのは薄汚れたシーツ一枚だった。彼女はただ、そこに寝ているだけ。必ず訪れる唯一の救いは、死という誰も知らない世界への旅立ち。

 彼女にとって死への回り道、それが生きる事であった。



 出稼ぎに出る農民も後を立たない。

 彼らは身一つで、当ての無い旅に出る。一攫千金を夢見て。しかし、出稼ぎから帰って来る者は居ない。残された幼い子供は、食べる物も無く、飢えて死んでいく。

 生きる術を知っている子供は、帰らぬ両親をひたすら待つ。期待等出来ない夢に縋り、少女は何も無い家を守って居た。

 出稼ぎに出た両親を信じ、心に空いた穴を埋める様に、古びた人形を抱き締めた。

 自分達が生きる為に犠牲した、妹の身代わりである小さな人形を。

 少女にとって妹への償いが、生きる事であった。



 夜の道には、少ない食料を手に入れる為に、身体を売る娘が居た。勿論、自分の意思では無い。

 職が無い一家にとって、若い娘は唯一の財産だった。愛を知らない娘は、今日も愛の無い行為に身を投じる。誰かの愛を求めて、ただ身を汚す。心を殺し感情を封じ、薄っぺらな紙切の様に夜道に立つ。

 娘にとって自分に嘘をつき続ける事。それが生きる事であった。



 生きる術を持つ大人達。

 生きる術を持ち得ない子供達。


 この村に唯一残った教会には、数々の苦しみを抱えた人々が駆け込んで来る。

 己の罪から逃げる為に。己の過ちを隠す為に。

教会の牧師には、一人娘が居た。

 牧師の罪の証として、娘の身体には父親から受けた暴力の痕が刻まれている。

 彼女は、神に問う。

この世を創造したその訳を。

彼女にとって神を憎む事。それが生きる事であった。



 彼女達は多くを望まない。

 夢、希望、自由、愛情、そんな言葉すら知らない。ただ、目の前に引かれたレールから外れない様に進むだけだった。



 牧師の娘霧月は、毎朝病気に苦しむ患者の家を訪ねる事を日課にしていた。何を施す事も出来ないが、声を掛け、水を飲ませ、神の言葉を説く。


 神は「愛」である。

 いつか来る審判の日の為に、誠実に生きる。それが、人の定めなのだと。


 生きる。

 生きる。

 生きる。


 死を待つ者に、同じ言葉を繰り返す。

まるで拷問の様な行為だと知っていながら、罪を犯す重圧に苛まれながら、説き続ける。

 しかし、日に日に訪れる家の数も減り、今は一軒を残すのみとなってしまった。


 薄汚れたシーツに包まり、息絶え絶えに、友人の瞳は霧月の手を握る。


「私が死んでも悲しまないでね。いつか訪れる審判の日。それは安らぎの時だから。」


 瞳は、霧月を幼い頃から可愛がってくれた、姉の様な存在だった。両親は裕福な地主で、信

仰の厚い一家だった故に、飢饉が訪れた時、飢える農民に少しでも援助を申し出て、教会に財

産を渡した。

しかし、霧月はその資金が困っている人々の為には使われなかった事を知っている。貴族階

級と教会の為に使われ、苦しむ者達には使われなかった善意。

その事実を知る事も無く、瞳の両親は瞳と同じ病でこの世を去った。

もし援助をしなければ、薬を買い、助かった命なのかもしれない。瞳だって、そうだ。

霧月は喉の奥に引っ掛かった真実を、瞳に告げる事が出来ない自分を憎んだ。

「霧月ちゃん?何かあったの?」

「え?どうして?」

「苦しそうな顔をしているわ。」

「大丈夫ですわ。何でも無いです。」

 霧月は出来る限りの笑顔を作る。

 それが、霧月に出来る唯一つの優しさであり、瞳への償いであった。


 街は物乞いをする人々で溢れて居る。

 教会に来ない人々に対し、説教を街角でするのも霧月の日課であった。

毎日同じ場所で、同じ説教を説く霧月に向け、石を投げつけて罵声を浴びせる者も居る。 霧月は背中に刻まれた刻印を疼かせ、その制裁を黙って受け続ける。それが、牧師の娘である自分が出来る、せめてもの償いだと自分に言い聞かせて。

誰よりも自分は知って居る。父親が説く神は、何の救いでも無い事を。この地が、いかに神から見放された離島であるか、目の前の人々よりも、霧月の方が痛い程に解る。


「神を信じるのです。」

『神なんて居ない』

「己を悔い改め許しを請うのです」

『何を悔い改めろというの?』

「神は愛なのです」

『愛なんて要らない。愛なんて存在しない。』


 心にも無い言葉を紡ぐ口。

誰も救えない説教。

誰も救おうとしない神。


 物乞いをする為座り込んでいる人々が、水分を失った死体の様に見える。罵声を飛ばす人々の顔が、鬼の様に見える。

霧月に向かって投げ付けられる石が、火の玉に変わり、異界の迷路を彷徨う様な錯覚を起こし始めて居た。

 ここは地獄だ。霧月の目に映るモノが全てモノクロになり、罵声が雷鳴に代わる。


 遠くなる。遠く。

そして、何も見えなくなる。


「大丈夫?」

 聞き覚えの無い声。


霧月が意識を取り戻した時には、見知らぬ場所に横たわっていた。

 藁と土埃の匂いが充満して、壊れかけた窓枠が風でギイギイ鳴っている小屋だった。

薄暗い空気に包まれ、壊れかけた壁の隙間から日差しが差し込んで来る。何本かの光から映し出される砂埃を見れば、小屋の汚さを理解するのに時間は掛からなかった。

「街で倒れたから。」

 ぶっきら棒に告げる声に、やはり聞き覚えは無い。

 声の相手を探すように視線を向けると、汚れたワンピースを着た、ロングヘアーの少女の後ろ姿が見えた。振り返ると、彼女は霧月と同じ位の年齢にみえた。

手には枯葉で作ったカップが握られていて、霧月の前に差し出された。

「雨水だけど。」

「え?ああ…有難う。」

 霧月の前の壊れた農具に腰を下ろした少女は、ぼろぼろのワンピースの解れた裾の糸を弄りながら、霧月をちらちら見ていた。

 枯葉のカップは、脇から水が零れて行く。しかし、霧月は自分に何が起こったのか整理出来ず、零れた水をシスターの服に染み込ませて行く。

「零れてるよ。」

「あ、御免なさい。」

 枯葉のカップは、少女の分は無い。目の前に居る霧月にだけ渡された。

 水は貴重だ。霧月は葉のカップの水を飲み干した。土の味がする水だった。喉に詰まり咽そうになりながら、無理に飲み込んで頬を緩めた。

「有難う。助かりました。」

 少し声が擦れたが、少女に気付かれずに済んだ様だった。

「あの、助けてくれて本当に有難う。少し人酔いしたみたいで。もう平気よ。」

 少女は、ワンピースの裾から手を離し、何か言いたげにしていた。少女の前髪の奥に、長く

て綺麗にカールした睫毛が見える。綺麗な服を着て、健全な生活を送れていたなら、美しい少

女だろうと霧月は思った。


「あの…。」

「え?」

「教会の人…だよね?」

「ええ。まぁ。」


 『教会』と言う響きで身構えてしまう。

街の人々が教会に対し、嫌悪感を抱いている事は、霧月が一番体感している。

しかし、少女は黒瞳を輝かせ、身を乗り出した。

「私にも説いて下さい!」

 思いもよらない申し出に、霧月は唖然とした。

「駄目ですか?…やっぱり孤児じゃ、神様に寄り添えないですよね。」

 少女の純粋な眼差しが、霧月には眩い。しかし、取り繕う事は出来る。

「そんな事はありませんよ。神様の前では人は全て平等です。」

「じゃあ、私にも神様の事、教えてくれますか?」

「ええ勿論。」

 少女は詩絵という名で、両親の顔も知らない孤児だった。最近まで、孤児の仲間と生活して

きたが、病で命を落とし、盗みに失敗し警察に捕まり、今は一人なのだと語った。

 詩絵は霧月より3才年上であったが、孤児である境遇からか、実年齢より幼く見える。


 その日を境に、霧月は教会の仕事が無い時間を使い、詩絵を連れて瞳の家を訪れる。

 そして、詩絵と瞳に神の話を説いた。二人は、幸せそうに霧月の説教に耳を傾けた。しかし

霧月は、神の話を説けば説く程、神への憎悪を増していく。


 そんな霧月の手を瞳が優しく撫でて来た。

「昨日ね、お隣の叔母様がお亡くなりになったの。ご葬儀をしたいのだけれど、牧師様はお忙

しいのかしら?」


 瞳は霧月の顔をじっと見つめて、呟いた。

 霧月は居た堪れない感情を抑えつけても、瞳に即答出来ない。

牧師は見返りの無い仕事は受けない。例え瞳の叔母が、地主の家柄でも、今は違う。何の見

返りも得られない。故に、神の祝福を受ける価値は無いのだ。


「霧月ちゃん、聞いている?」

「え?ああ…はい。最近は貴族階級の仕事が忙しくて。でも、私で宜しければ、式を執り行い

ますが、それで、宜しいでしょうか?」

「本当?嬉しい。有難う。」


 瞳は知らない。式を挙げる事の問題を。

 道端に転がる死体を見ても、誰も驚かないこの街で、目立つ事をすれば嫌がらせを受ける事

は目に見えて明らかだ。人の死を悲しむ行事等、このご時世では誰もしない。

この地に、死が余りにも身近過ぎた。

 何よりも、村人達は既に神の存在を信じていない。

人の死を尊ぶ精神が欠落したこの村で、葬儀を執り行う事の恐ろしさを瞳は知らないのだ。

「お叔母様に、ご家族は?」

「いいえ。叔母様は一人暮らしでしたが、私を娘みたいに可愛がってくれて。だから、せめて

神様の祝福をと思って。」


 霧月は少し胸を撫で下ろした。

一人暮らしなら、密葬する事も可能だろう。霧月は葬儀の段取りを簡単に瞳に話し、三人で

見送ろうと提案した。

 それが、この地で出来る唯一の善行である。瞳は綺麗な涙を流し喜んだ。眩しいその涙が、

霧月の苦しみを増長させている事を、瞳自身は気付いて居ないのだろう。


 瞳の家からの帰り道、沈む夕日に向かって背中に伸びる影に後ろ髪を引かれる様に、詩絵と

霧月は二人で荒れた道を歩く。


「霧月さんは、神様を本当に信じてる?」


 突然、予想していなかった質問を詩絵から投げかけられ、霧月は動揺した。

胸が詰まり、普段なら簡単に出てくる偽善的な常套句が出てこない。

 詩絵の透明な眼差しの奥に映る霧月の姿は、醜く戸惑っている己を突き付けてくるようだっ

た。


「霧月さん…は、何か疑ってるみたい。」

「そんな事は…。」

「そして、嘘がとっても下手。」


 言葉が出ない。こんなにも的を得ていると、人は全ての思考を停止させるのだろう。


「一人で生活しているとね、誰が信じられる人で、誰が信じられない人かを見抜く力が何より

大切なの。それが生きる術だから。霧月さんは、嘘、ついてる。だけど、私は貴女が信じられ

る人だと思うから、声を掛けた。人は一人じゃ生きられないから。」


 霧月は自分には無い強さを、詩絵に感じた。 漠然とある恐れから、逃げ憎み、嘘を付く

自分より、詩絵という人間が数倍強く思えた。


「霧月さん。私の知り合いにも説教を説いて欲しいのだけれど、いいかな?」

「え?でも今…?」

「彼女も信じていないの、神様の事。だけど、私は神様を信じたいから。」


 詩絵の黒瞳が余りにも眩しくて、霧月は視線を逸らした。それでも、彼女の前では嘘は言え

ない。


「御免なさい。私は、神なんて大嫌いです。誰も助けたりしない。私達は、所詮働き蟻と同じ

なのよ。誰が何処で死んでも構わない…じゃない…。」


 霧月はなるべく詩絵の顔を見ない様に、自分の中に眠るドス黒いモノを吐き出した。

例え、詩絵に嫌われても良いとさえ思えた。


 所詮自分は、その程度の偽善者。 シスターの仮想を纏った、共犯者。喋り出したら止まら

ない。

 しかし。

「泣きそうな顔しているよ?はい!」

 詩絵は煤けた手を霧月に差し出す。

牧師の娘である自分は、汚れ無い白い手をしている。満腹には成らなくても、一日に一回の食事は出来る。土の味がする水も飲んだことは無い。

 やせ細り、沢山の苦労を味わってきたであろう掌の半分も解らない、自分の綺麗な手を霧月は見つめた。

 それでも神を信じると言う詩絵の、澄んだ表情と見比べた。

「はい。」

 詩絵はただ、霧月の前に手を差し出す。

 霧月は黙ったまま、その手を取り握り返した。詩絵の手が想像より暖かくて、何故かホッと

した。

 霧月は、瞳の冷たい手の感触しか知らなかった。何かが霧月の中で弾けて、ジワリと染み出

てくる。詩絵の純粋な感情が、穢れた自分に染み込んでくる。浄化されて行く気分がした。そ

れが錯覚でも、彼女と居る自分は教会に居る自分より好きに成れる様な気もした。


「行こう。今なら、まだ仕事して無い筈だから。」

「仕事って?」

「さっき話した子。夜になると仕事しちゃうから。」

「夜の…仕事?」


 この街に仕事らしい仕事は殆ど無い。だから、夜の仕事と言えば、一つしかない。非合法で

あり、大きな神への冒涜とされる行為。今だからこそ珍しくないが、街が盛んな頃は、悪魔や

魔女として忌み嫌われ、街のはぐれ者として扱われた仕事だ。


「待って、あの今日は…私。」


 自分が牧師の娘で、神に仕える身である認識を持った事は無いが、霧月は詩絵の手を振り切

って、後ろに伸びた影に引っ張られる様に駆け出していた。


 身体を売る女たちを軽蔑していた訳では無い。勿論、神への冒涜だと思ってもない。ただ、怖かったのだ。自分の知らない世界を知ってしまう事が。だから、詩絵の暖かい手を自ら離してしまった。しかも最悪な方法で。 それがもう二度と得られない温もりだったとしても、これ以上、霧月は背負う事が出来ない。

否、背負える自信が無かった。


 何も見えない状態のまま、教会まで足早に帰ると、貴族の馬車が外に停まっていた。毛並みの綺麗な栗毛の馬。アンティークな彫で飾られた車。曇り一つ無く磨かれた窓ガラス。

全てがこの地には不釣合いで、まるで拒絶されて居る様だった。


 教会の戸を開けると、中にはこの村で一番の地位の座を誇る貴族の一家が、祈りを捧げていた。

 その姿は余りにも滑稽に見えた。自分達の救いの道だけを神に祈り、村の状況を全く無視して、馬車を堂々と外に止めている。彼らに何の願いがあると言うのか?


「悔い改めよ。」

『貴方達がね!』

「神は善良なる行為を見ておられます。」

『誰がいつ善良な行為をした?』

「神の御心のままに。」

『神の御心がこの現状?ふざけている!』


 聖水という名の綺麗な水で足を清め、清潔な白い絹の布で滴を拭う。

 贅沢なその行為を見つめながら、詩絵にもらった土の味がする雨水を思い出す。

 彼女が身に纏ったワンピースは煤けていて、裾が解けていた。

 この人達からすれば、この意味の無い行為に使われ、一瞬で仕事を終える物さえ、詩絵は手に入れる事が出来ない。


『これが神の御心なのか?』


 しかし、自分もこちら側の人間だと霧月は感じた。

 無意味としか思えない贅沢な儀式が終わり、父親の牧師は憎らしい程に、清々しい貴族達と握手を交わしていた。霧月は意識が遠きそうになる中、突然誰かに引き戻された。


「こんにちは。僕は珂翠と申します。貴女がシスター霧月ですね?初めまして。ずっとご挨拶したいと思っていました。」


 貴族特有の匂いを漂わせた青年は、霧月の前で満面の笑みを浮かべ立っていた。

 霧月は目の前の青年の事より、彼の肩越しから自分を睨み付ける父親の影が気になった。父親は、霧月が貴族と関わる事を好まない。だから、貴族達が教会に足を運ぶ時間に、街頭の説教等を命じていた。

 牧師である父親の視線は、常に背中の刻印を疼かせる。


「あの、少しお話を伺わせて頂いても宜しいですか?」


 それでも青年は場違いな微笑みで、霧月と牧師の間の壁になった。


「私も忙しいので…申し訳ありませんが。」

「少しで良いのです。少しだけ、僕に時間を下さいませんか?」


 貴族にしては腰が低い青年は、捨て犬の様な視線で霧月を見上げた。

 霧月は、こういう表情をする人間に弱い。何故か、瞳や詩絵と重なる。しかし、それは明らかなる勘違いだ。蘇って来る詩絵の汚れた手と、瞳の純粋な眼差し。この貴族の青年とは、似ても似つかない。

それでも霧月は覚悟を決め、青年の申し出を受け入れる事にした。牧師の逆鱗に触れる行為だとしても、それを拒む事はどうしても出来なかった。


「…では、少しだけなら。」

「良かった。」


 珂翠と名乗る貴族の青年は、無邪気に喜び、霧月が寄り掛かっていた扉に手を伸ばす。

 霧月は身構えつつも促されるまま、外に出た。牧師からの無言の威圧感を刻印に焼き付けながら。


 珂翠と霧月は教会の中庭まで行き、中央にあるベンチに霧月を座らせ、水の無い噴水の淵に自分は腰を下ろした。

 先手を取ったのは、霧月の方であった。余計な事を言わせたく無かった。

「こんな所まで連れて来て、一体何の御用でしょうか?」

 自分の領域への、勝手な侵入は防ぐべきだった。しかし、珂翠は知ってか知らずか、霧月の引いた一線を一気に飛び越えた。


「教えて欲しいのです!今の村の現状を、出来るだけ正確に、詳しく!」


 霧月は冷静だった。

貴族の正義感は、常に見せ掛けだけの偽善であるからだ。そして、霧月が知っている現実がどれだけ浅いかを。


「現状とは?どういう事でしょうか?」

 霧月の冷静な対応にも、珂翠は怯む事なく詰め寄った。

「貴女は街頭で説教を説いて居るのでしょ?そこで見た村の現状を教えて欲しい。」

「知ってどうなさるのですか?」

「もし、僕に何か出来る事があるのなら…。」

「ありません!」


 この青年は悪くない。ただ、貴族として生まれ育ったそれだけの事だ。

 そして霧月自身も、教会に生まれあの父親の庇護の元に育った。ただ、それだけの事だ。

 しかし、その立場を利用し、全てを持ち得無い者に対し、偽善的な同情を向ける事は許せない。それは霧月が己に与えた、戒律でもあった。


「失礼致します。」

「待って!やってみなければ何も変わらない。例えそれが無意味と思えても、やらないよりや

った方が良い事だってあるでしょ?

人それぞれ与えられた立場は違う。だから、するべき仕事も違う。僕が貴族として、今出来

る事を知りたい。それが神の御心かと僕は思ったのです。」

「それは、貴方の仕事なのでしょう?では、貴方が勝手にやれば良い事です。

私も暇ではありませんので、失礼いたします。」


 神に仕える教会の者として、あるまじき事を言っている事は、十分承知していた。しかし、

貴族の青年と自分は大きく違うのだ。ただ、彼は、何も知らない。無知とは時として、大きな

罪だと霧月は感じる。

 神の救いを信じ行動を起こし、報われずに死んでいく者がどれだけ居たかを知らない。

それは、霧月が彼に示す事では無い。


 霧月は珂翠の言葉を無視して、教会の中へ戻った。

 貴族と言葉を交わし二人きりになった重罪に対し、牧師から受ける過剰な制裁を覚悟して。


 善人の仮面を被り貴族を見送り、教会の頑丈な門に施錠し帰って来る牧師は、狂気な父貌す

る。


 その昔、悪魔や魔女に制裁を加える為に設計された、拷問器具が保管されている地下室があ

る。牧師はそこに霧月を連れ込み、非道な折檻を強いる。

 それが、善人であり続けなければならない牧師という血の呪縛と、救いの無い未来への絶望

を、霧月へ当たり散らかしているに過ぎない行為だとしてもだ。

 死に絶えた土地は生命を絶望の底に沈め、澱んだ水は生命を侵し、汚染された大気は残され

た全てを奪っていく。この現実を目の当たりにしながら、『神』への信仰を説き続ける事に誰も

が限界を感じていた。

それは、霧月の父でさえも…。

「貴族のボンボンと何を話していた!」

「何も…。」

「そんな訳あるはず無い!この阿婆擦れが!俺の知らない所であのガキと逢引していたのか?そうなのか?」

「違います!お父様!」

「あいつらは、この町を捨て隣国に亡命する気なのだ!お前も誘われたのか?そうだろう!」

「違います!お父様。どうか信じて…。」

「お前も母親そっくりだ!あの阿婆擦れは、貴族の男に取り入って隣国に亡命した。だが、何

処に行っても、救いなんて無いのだ!

この世は、愚かな人間共の手で滅ぶ!全てが滅び行く!真っ黒に焦げて、消えていく未来し

かないのだ!しかしだ、お前のその穢れた魂では神の逆鱗に触れる。お前の様な娘を育てた、俺までもが、神に見放されてしまう。

だから、悔い改めるのだ!神の御心のままに、悔い改め穢れた身体を清めよ!」

 父親は怒り狂い、霧月の背中に鞭を振り下す。何度も何度も。

血が滲み、悲鳴が枯れても摂関は終わらない。熱を持った痛みは、霧月の意識を食い散らか

し、幻覚を見せる。

 自分を置いて逃げて行く母親の背中。

 長く伸びた影だけを追いかけ、影を掴み引き戻そうとした幼い自分。

 親に見捨てられ、路頭に迷う子供たちの黄ばんだ眼差し。自分に石を投げ、罵声を浴びせる

人々の血走った眼差し。


 そして、瞳の冷たい手と優しい笑顔。詩絵のワンピースの裾と暖かい手。


 罪深き己を戒める鞭の制裁は、朝まで続いた。


 いつ意識を失ったのか覚えて居ないが、最後に瞼の裏に見えた映像は、珂翠という名の貴族

の青年の真摯な眼差しだった。


『私に何が出来るというの?こんな罪深き私に…。』



 珂翠が両親と共に城に戻ると、沢山の使用人達に盛大に出迎えられる。

 使用人達は、代々貴族階級の使用人をしている者達ばかりで、城の一角で生活をする。村の

現状を知る者は少ないだろうが、明らかに自分が幼い頃とは、使用人達の風貌や様子が変わっ

ている認識は珂翠にもあった。

 瘦細り、服も常に汚れている。貴族である自分達だけが今も変わらない生活を送っていた。何十人もの大人に、深々とお辞儀をされる。珂翠はそんな状況に、いつも違和感を覚えてい

た。貴族の家系に生を受けた、唯それだけの理由で、自分は此処に居る。

 大広間に行くと夕食の仕度が整っていた。目の前に並べられた食事と、揺れる蝋燭の火を見

つめ、溜息を落とす。教会で会ったシスターの冷たい眼差しを思い出し、貴族である自分の甘

さを噛締めた。

 結局、自分は貴族である立場を利用し、全てが手に入ると信じて居たのだ。

 時間になれば、勝手にならぶ夕食。

暗くなれば蝋燭には火が点り、教会に行くと伝えれば、自ずと馬車が用意される。

だから珂翠は当たり前の様に、シスターに話しかけてしまった。

『解らなければ聞けば良い。知りたい事は教えて貰える。』と。


 無意識の内にそう考えていた自分が、愚かしい。


『このままでは駄目だ。貴族である僕に出来る事をとは?このままこの環境に溺れてはいけな

い。』


 そして、珂翠は決心した。

 自分の目で、もう一度見に行こうと。

 珂翠は使用人の目を盗む様に、綺麗に並べられた夕食を布巾に包み、自分の部屋に帰った。

 貴族階級の人間が、教会以外の場所に降りる事は許されて居ない。だから、城が寝静まった後、門番の目を盗んで外に出る。

 

珂翠は、教会で解かれる『神の御心』と『愛』を信じていた。


 珂翠は村で身分がばれない様にと、ベッドシーツにインクの染みを付け、庭の土を刷り込んだ。それは、馬車の窓から見た、物乞いをする人々が羽織っていた、薄汚れた布を再現した。そのシーツで絹のシャツを隠した。


 月も星も見えない暗黒の空の下、部屋から持ってきた一本の蝋燭だけが頼りだった。

 舗装されて無い砂利道は、大小様々の石が転がっている。靴を履いていても、足の裏に刺さる程である。


 街に近づいて行くと、薄っすらと明かりが点在して見えた。

 城からでは見えない程の弱い光だった。少し歩幅を広げ、その明かりに近付いて行くと、意外にも沢山の人々が往来していた。

 珂翠は、目立たない様に壊れかけた店の影に身を潜め、様子を伺う事にした。


 口髭を生やした、人間というより獣に近い男達が何か不明な奇声を発しながら、笑い転げている。その横には、殆ど裸に近い状態の若い娘が、数人肩を寄せ合い座り込んでいた。

 珂翠は、初めて女性の全裸を見た。

 しかし、何も感じなかった。

 何故なら、女達は骨が浮き出ていて、お世辞にも美しくは無かった。女性特有の肉付きも、柔らかくキメの細かい肌も、彼女達からは程遠い話であった。

 此処で行われている事が、どういう事なのか、珂翠には理解できなかった。女性達の生気の無い表情が、悲惨さを十分に感じさせた。

 だから、この場に居る者達の為にも、早く立ち去るべきだと察した。しかし、珂翠の身体は固まったまま動かない。自分は知り得ない世界は、衝撃だった。

珂翠は混乱に陥った。

 知るという事に、自分は何の覚悟も無かった。安易過ぎた。しかし、此処まで来た以上、引き返す事は出来ない。


 暗闇を見据えても、脳裏に焼き付いた女性達の悲しい姿が過る。痩せているのに垂れ下がった乳房。骨に皮を乗せた様な鎖骨。手入れのされていない髪の隙間から除く血走った眼差し。

 どれも、美しく着飾った自分の母親と同じ生物には見え無かった。


 悲しみや同情よりも、驚きが強い。

 そして、不安が込み上げる。自分に出来る事が、本当にあるのかと。

 足早にこの場を離れたいが、緊張した身体に足場の悪さがそれを阻み、前に進めない。


 珂翠は道に無残に転がっていた何かに足を取られ、転んだ。シーツからはみ出した皮膚にその何かが触れている。石や木ではなく、腐った果物の様な感触。

 恐る恐る足元に、蝋燭の火を近付けると、束子の様なモサモサした硬い物の影から、眼球らしき物が除いていた。


「うわ!」


 黒目が白く澱んだ眼球に、蝋燭の火が揺れていた。余りの恐ろしさに、珂翠は我を忘れたように走り出した。胃酸が込み上げてくるのを無理矢理飲み下し、とにかく早くその場から出来るだけ遠くに逃げたい一心だった。


 死体を見るのは初めてではない。珂翠の祖父母は、既に他界している。

 しかし、葬式で見た祖父母は、まるで眠っているかの様に美しく、人は亡くなる事によりこの世から旅立つと教わって来た。遺体は全て丁寧に扱われ、墓地に埋葬されるものだと信じて疑わなかった。だから、死体が道に腐りかけた状態で転がっている事が、珂翠の許容範囲を大きく超える現実であった。


余りにも無残すぎる。


 必死に冷静さを取り戻そうと、珂翠は深呼吸を繰り返す。あの遺体に対し、自分が出来る事は一つもない。神にあの人の旅立ちを祝福して下さる様に祈る。それだけしか無い。


 『絶望』の二文字が珂翠の脳裏を過る。


「だからシスターは、僕には何も出来ないと言ったのか。」


 無意識の内に涙が零れる。そして丘の上で、沢山の木材を燃やした火で照らされている、自分が住む城を見上げた。


「何故。こんなにも違う!何が違うのだ!神様。教えて下さい。教えて下さい!」


 珂翠は胸に手を沿え、跪き神に問う。 

 その時だった。


「どこか痛いの?」


 どの位の時間、神に祈りを捧げていたか解らないが、突然後ろから甘い少女の声が聞こえ、珂翠はシーツで涙を拭って振り返った。

 そこには、小奇麗な少女が立っていた。

 服自体は古いのだろう。所々布が擦り切れてはいたが、目立った汚れは無い。少女の可愛らしいクリクリの目や、スッとした鼻筋がはっきりと見えた。少女は余りにもこの街にミスマッチだった。

 少女は、頭の高い所で二つに結んだ髪の一方を触りながら、微笑んだ。

 天然パーマなのか、髪の毛をクリクリに巻かれていて、まるで陶器の人形の様に見えた。


「ねぇ、お兄ちゃん。ここに居たら、きっと危ないよ。」

「え?」


 少女は、妙に甘えた声と口調で、笑顔を浮かべた。

 今一つ、言葉の意味が理解できない。『危ない』という言葉と、彼女の笑顔が余りにも対照的過ぎて、暫く時が止まった。

視線が絡み合ったままで居ると、どこからともなく、男達の怒声が耳に届いてきた。


「貴族が居るぞ!俺は見たぞ!」

「探し出して、いたぶってやろうぜ!」


 珂翠が我に返ると、声はどんどん近付いて来る。その時、少女が珂翠の手を掴み、満面の笑みを浮かべ首を傾けた。


「こっちだよ。」


 珂翠の頭一つ分位小さい少女は、珂翠を引っ張って走り出す。その容姿からは想像出来無い程に強い力だった。足場の悪い、細い路地に入り込み、珂翠を振り回す様にして、路地裏を走って行く。

 少女はまるで自分の庭の様に、入り組んだ道を躊躇する事なく突き進む。

 珂翠は普段から乗馬や弓等を嗜み、体力には自信はあったが、現状と精神面の負担もあり、自分より小さく華奢な少女の速さに付いていけなかった。


「ちょっ…ちょっと待って!少し、少しだけ休まない?」

「なんだ~?貴族の坊ちゃまは体力ないなぁ。まぁ、もうそろそろ平気かな。おっちゃん達は

もっと体力も忍耐力もないからね。諦めてるかなぁ~。」


 珂翠はその場にへたり込んでしまった。

此処が何処であろうと構わない。貴族のプライド等邪魔になる位に、疲れ果てていた。息を整えようとしている珂翠を全く気にしていない少女は、路地の壁の隙間から外の様子を伺っていた。

 その後姿を見ながら、珂翠は改めて思う。

 この少女は、一体何者なのだろうかと。

 痩せてはいるが、小奇麗な容姿。今時分に貴族階級の中でも、こんな無邪気な表情を見せる少女を見た事がない。

 この街に住む人々は、少なからず未来への不安を抱えて生きている。

 しかし、この少女にはその影が見えない。そんな事を考えて居ると、少女が珂翠の元に戻って来た。


「あ~あ、疲れちゃた。お兄ちゃんのせいで、お腹すいちゃったよ~。」

「え?それは、ごめん。ああ、もし良ければ、これ冷めちゃったけど、食べる?」


 ズボンのポケットにしまっておいた夕食を包んだ布巾を出すと、走ったせいもあり、崩れて居た。


「ああ…ごめん、崩れちゃった…ね。」

「いいの?くれるの?有難う!」


 珂翠の手から布巾を取り、少女は嬉しそうにそれを食べ始めた。

 崩れたパンは、殆どパン屑だったが、少女は全く気にしていない。口の周りにパンの粉を沢山つけて、美味しいと笑うその顔を見ると、胸を締め付けられる。城では、こんな状態になった食べ物は捨てられる。しかしこの少女には、美味しいご馳走になるのだ。

 少女が余りにも無邪気に笑うので、珂翠はつい、少女の頬に付いたパン屑に手を伸ばした。それは可愛い妹の世話をする様な感覚で、自然と身体が動いただけだった。

「ダメ!」

「え?」

「それ捨てちゃダメ。まだ食べれるよ?」

 少女は上目遣いに口を尖らせ、珂翠の手にあったパンの粉を、珂翠の指ごと口に入れた。

初めての出来事に珂翠は驚き、思わず腰が引けてしまった。


「美味しい。」


 この少女は一体誰なのか。

 何故、自分を助けてくれたのか。

 何故、こんなに無邪気なのか。

 そして、こんな夜中に何をしているのか。


「あの、君は…」

「そうだ、ダメでしょ~。夜の街は、昼より危ないんだから。そんなぁ高級そうな布纏って、

高級な蝋燭なんて持って歩いてたら、どうぞ~僕を殺して下さい~って言ってる様なもんでし

ょう?」

「そうなの?あ、有難う。ところで君は…。」

「そういえば、何で貴族なのにこんな所に居るの?アハハ~変なの~。」

「あの…」

「あ!いけない、私もうそろそろ行かなきゃ。ご飯、ご馳走様でした。すっごく美味しかった

です。お兄ちゃんみたいな人っていつもあんな美味しいの食べてるの?いいなぁ~羨ましい。

あたし、これからお仕事だから、お兄ちゃんはこのまま真っ直ぐ行けば、お城から出てる下水

の入り口があるから、そこから帰れるよ。ここからは一人で行ってねん。」

「え?あ、有難う。」

「じゃっ!気を付けてね。蝋燭の火は点けない方が良いよ。そんなの、貴族の人か教会にしか

ない代物だから、ね。」


 少女は、無邪気に自分の言いたい事だけを早口に並べ立て、珂翠は圧倒され口を挟む隙も無

かった。しかし、このまま少女を行かせてしまったら、もう二度と会えない。

珂翠は咄嗟に少女の華奢な手首を掴んだ。


「そうなんだ…あの、助けてくれて有難う。で、君は一体?」


 少女は今までの無邪気な笑顔とは一変して、大人っぽい妖艶な微笑みを珂翠に投げかけ、自

分の手首に掛かっている珂翠の手を、握られていない方の手で、ゆっくりと引き剥がしながら

言った。


「貴方は貴族のお坊ちゃま。私は通りすがりの売春婦。ただ、それだけでしょ?」


 さっきまでの少女は何処に消えたのか。

口の周りにパンの粉をつけて笑顔で『お兄ちゃん』と言っていた少女は、錯覚だったのか。

まるで別人の表情だった。


「え?あの…名前、名前だけでも教えてくれないか?僕は…珂翠。君は?」

 少女は来た道を戻って行く様に歩き始めた。


「ねぇ!ちょと!」


 珂翠は、少女を追いかけようと勢いよく立ち上がる。そうすると少女は振り向き、口の前に

人差し指を置いて「しー」と言いながら、ウィンクして見せた。


「大きい声出しちゃだめでしょ?見つかっちゃうよ。亜理紗。私の名前は亜理紗だよ。珂翠お

兄ちゃん!」


 無邪気な笑顔でそれだけを告げると、少女は走り出した。そして後姿を見送る珂翠に対し、

背を向けたまま、頭の上で大きく手を振って走り去って行った。


「亜理紗ちゃん…かぁ。」


 街の現状を知る為に、城を抜け出して来た珂翠であったが、無知である己を目の当たりにし

てしまった以上は、このまま引き返す他、道は無かった。インクと泥で汚したシーツも、此処

では唯の貴族である証に過ぎない。走っている間に消えてしまった蝋燭を見つめながら、奥歯

を噛締め壁を伝って歩き始めた。

 亜理紗の言う通り、路地裏を真っ直ぐ進むと、そこには自分が住む城の裏手部分に出る事が

出来た。懐かしい自分の領域を珂翠は恋しく思い、走り出した。

 悲しい事に、あの豪勢な城こそが自分の居場所だと痛感する。壁を乗り越え、自分の部屋に

戻ると、安堵の気持ちで涙が止まらなかった。

 ふかふかのベッドに飛び乗り、その温もりに吸い込まれる様に目を閉じる。

 浮かんでくるのは、獣のような風情をした男達の薄暗い中、光る黄色い歯や、転がっていた

遺体の無残な姿であった。


 身体の震えを誤魔化すかの様に、両腕で己の身体を抱え込む。恐ろしかった。怖かった。虚

しかった。底なし沼に足を取られもがき苦しむ部外者だった。足の裏に残るゴツゴツした感触

も、肌を撫でてくる粘つく空気も、目の前に広がる闇の世界も、今でもはっきりと蘇る。

 もしあの時、亜理紗に出会えなかったら、自分はどうなっていたのか。


『夜の街は、昼より危ないんだから。』

 亜理紗の無邪気な声が耳に残っている。

「夜しか城を出られなかったんだ。あんな場所だとは知らなかったんだ。」


 無理矢理声を絞り出し、誰も居ない部屋で叫ぶ。


『なんだ~?貴族の坊ちゃまは体力ないな』

 甘えた口調と声だけが暗闇から聞こえてくる。

「違う!違う!僕は、お坊ちゃまなんかじゃ無い。お坊ちゃまなんか…じゃ…。」

 枕を壁に投げると、壁に掛かっていた絵画の額で破け、羽が飛び散った。

白くフワフワした水鳥の羽だ。頭を乗せる為だけに、何羽の水鳥が死んだのか。

 重力を失った様に飛び回る大量の羽は、まるで、自由になった事を喜んでいる様だった。

 珂翠は白い羽に包まれながら、17歳の自分に当てがわれた広い部屋を見渡す。

 綺麗な彫刻を全ての脚に施されている机に椅子。全身を映してもまだ余りある鏡。広いクロ

ーゼット。ビロードで出来た高級なカーテン。床には糸屑一つ見当たらない。

綺麗に掃除されている高級な絨毯。

 そして、街から帰った自分を受け止めてくれたダブルベッド。


「違わない。僕は、お坊ちゃまだ…。街の人に恨まれても仕方無い、お坊ちゃまだ。」


 一気に肩の力が抜けていく。当たり前の様にそこにある物が、自分の感覚を鈍らせていたのだと気付いた。

 珂翠はベッドから降りると、枕の羽を一枚ずつ拾い始めた。開発企画以降、街の湖に水鳥は来なくなった。この羽枕がどれだけ高価な物だったのかさえ、考えた事もしなかった。

 今の自分に出来る事なんて、ある筈もない。


 自分の無知さと惨めさに、腹が立つ。またそれと同時に、珂翠は冷静にもなれた。ふと疑問

が湧いてくる。貴族は教会以外で村に足を運ぶ事は無し、農民に顔を見せた事も無い。では何

故、亜理紗は自分を知っていたのか。街の貴族はそれぞれの階級により、城を所有している。貴族階級であれば、シーツや蝋燭は当たり前に使用している。

では何故、亜理紗は珂翠の階級を知り、珂翠が住む城へ抜ける道を教えてくれたのか。そし

て庶民に恨まれている貴族を、何故、彼女は助けてくれたのか。


 謎に満ちた一夜の冒険は、珂翠に沢山の課題を残した。


『このままではいけない…。』と。

 亜理紗は自分を売春婦だと言った。

まだ、幼いあの少女が?


『人は、人としての尊厳を守られなければならない。』


 珂翠に残された希望は、亜理沙と言う少女と、教会で会ったシスター霧月であった。

そして、この出会いが珂翠の運命を大きく左右していく事を、珂翠自身はまだ知る由も無かった。



 珂翠が人知れず決意を固めた頃、教会では何時もと変らない朝を迎えていた。

 父からの制裁を受けた身体を引きずりながら、霧月は朝の一般礼拝を執り行う。

 日に日に参列者は減っているが、最後の救いは、神で在ると信じる者も居る。

 人々は『救い』と言う言葉に目を潤ませ、『神の愛』と言う言葉に心躍らせ、教会に明日のパンをお布施として置いて帰る。

 それが牧師の朝食として、一口で消えていくとも知らずに。

 霧月は自分の分を半分残し、食事の出来ない人々へ日替わりで分け与えていた。

 しかし、それを良く思わない牧師は、日に日に霧月の食事を減らしていった。

 礼拝が終わり、お布施を頂いていると牧師が小声で「今日は一段と少ないな。罰当たりな奴等だ。」と言って、奥に引っ込んだ。霧月は無表情のままそれを受け流した。礼拝者を見送り、教会の中を見回すと左奥の端の席に、まだ一人残って居た。胸に手を当て、眉間には皺を寄せ祈り続ける女性だった。


「何か、お力になれる事はありますか?」


 霧月が声を掛けると、それまで気が付かなかったのか驚きながら席を立ち、慌てて帰ろうとした。

「すみません。お布施も出来ないのに…長い時間居て。直ぐ帰りますから。」

「いいえ、大丈夫ですよ。お布施は御心です。神は御布施の有無には拘りません。何か、私に

出来る事が在ればと思いまして?どうぞ、お座り下さい。」


 霧月は優しく微笑み、隣の席に腰を掛けた。

 ショートヘアーが似合うその若い女性は、この町に一軒しかない美容室の娘であった。村の

者なら誰でも知っている。両親は腕の立つ美容師であったが、次々に職を失う村の人々は明日

の食物も危ぶまれ、美容室に来る客は減って行き、娘を置いて両親は出稼ぎに出たのだ。両親

が出稼ぎに出てから五年間、娘は一人で客の来ない美容室を守っている。それは並大抵の事で

は無い。しかし、彼女はその苦労を全く見せない程、明るく身嗜みも整えて居た。


「毎日礼拝には来られて居ますよね?」

「はい。両親が家を出てからずっと…。それ迄は、一度も来た事が無いのに調子が良いですよ

ね。」


 彼女は幼い頃から自立していた為か、大人びた顔立ちをしているが、おどけて笑った顔は年相応で、まだ若い十代後半の青臭さを滲ませた。しかし、彼女の傍らにいつもあるビニール製の薄汚れた人形が余りにも不釣合いで、霧月の目を引いた。毎日の礼拝には必ず持ってきて、自分の隣に座らせ祈りを捧げる。何か特別な理由がある事は一目瞭然である。霧月は好奇心に負け、少女に訊ねた。


「あの、もし差障りが無ければお聞きしたいのですが、そちらのお人形はどうなさったの

ですか?いつもお持ちなので、とても大切な物なのでしょう?」


 少女は恥ずかしそうに人形に目を落とす。そして、一息置くとゆっくり話し始めた。

「これは、妹…身代え人形です。」


 霧月は押し黙り、言葉が出なかった。


 大飢饉に襲われた時に、貧困を極めた家庭では、口減らしの為に幼い子供を沼に沈めた。そ

して、親たちは己の罪を償う為に『肩代え人形』。つまり犠牲になった子供の肩代わりの人形を

大切に扱う事で、自分の罪を償い浄化されると信じたのだ。


 勿論、神への冒涜である。

 教会はその行為を認めていない。


「…聞いてはいけない事を。」

「いえ。こちらこそ、御免なさい。今更こんな物を持ち込んで。

今迄、教会に来られなかったのに、こうやって通って来たりして…。せめて、妹の肩代え人

形にも神様の祝福を等と考えて。こんな神聖な場所に、肩代え人形なんて不吉な物を持って来たりして、本当に御免なさい。」

「いえ、そんな事はありませんよ。貴女の想いは、きっと妹さんに届いていますよ。」


 霧月は彼女の真摯な姿を見て、嘘で飾らない本心の言葉を彼女に掛ける事が出来た。

「では、貴女と妹さんに祝福がある様に、共に祈りましょう。」

「いいのですか?有難うございます!」

「そうだ、あの、お名前を伺っていませんでしたね。伺っても宜しいですか?」

「はい!私は眞留美です。シスター。」

「眞留美さん。素敵なお名前ですね。私もシスターではなく霧月と呼んで下さい。眞留美

さん。それに、私の方が年下ですし、そんな気を使わないで下さい。」

「…有難う。じゃあ…霧月ちゃん。」

 優しい眞留美の眼差しが、霧月を包み込む。それはシスターとしてでは無く、一人の人間

としての霧月に掛けられた一言に感謝した。


そして霧月は、神に問う。


『もし、本当にいらっしゃるのなら。もし、本当に創造主であるのなら。神の御心を信じ

る彼女に、祝福を。

私は、どうなっても構わない。ただ、神を信じて疑わない者達にだけでも、祝福を…。』


目を閉じ胸に手を当て、自分の鼓動を掌に感じながら、霧月は瞳と詩絵の事を思い出してい

た。

手を振り切って帰ってしまった自分を、詩絵はどう思って居るのか。

 詩絵がそれを瞳に話していたら、瞳はどう思うだろうか。

 神聖なる祈りを捧げている振りをして、雑念を抱く、己が、恥ずかしい。

目を開けると、沢山の蝋燭が小刻みに揺れていた。

 眞留美は一所懸命に祈りを捧げていた。そして、目からは涙が数滴零れ落ちた。


 霧月は、神を信じ続ける力が欲しかった。

 神の審判と愛を信じ、疑う事を知らない眞留美の涙が眩しくて、神を疑い雑念に捕らわれて居る自分が、醜い生き物の様に思えてならなかった。


「眞留美さん、お食事はされましたか?」

「え?いや…最近はお客さんも減っていて、その…。」

「もし宜しければ、少し此処で待っていて下さいませんか?」

「そう?もし迷惑でなければ、もう少しお祈りさせて貰いたいので。」


 眞留美は笑顔でそう答えると、また目を閉じ胸に手を当てた。

 最近の街では、闇市も行われなくなったと聞く。闇市があった頃は、家にあるモーフや服等で、食物を買う事が出来た。しかし、僅かに生きていた土地も減少し、闇市を開催する事も困難になったのだ。

 そうなると一番に被害を受けるのは、食物の生産ではない商売をしている、眞留美の様な境遇の職人である。霧月はそれを思い、今日の朝食を眞留美に分ける事に決めた。


 教会の奥には寂れたキッチンがあった。最近は、キッチンを使い料理をする事は殆ど無い。蛇口を捻っても水は出ない。裏庭にある井戸から水を汲み置く瓶が主に使われるだけで、必要の無いガラクタばかりが埃を被っていた。

牧師は既に朝食を終え、自室に帰って居た。

 キッチンの中央にある古ぼけたテーブルの上に、お布施で頂いた食べ物が置いてあった。

 量はかなり少ない。

 霧月は溜息を洩らし、それをハンカチに包み眞留美の元に戻って行った。


「お待たせ致しました。これ持って帰って下さいませ。」

 霧月は眞留美の前に、ハンカチに包んだ自分の朝食を差し出した。

 眞留美は目を丸くし、首を横に振る。

「ダメよ。これは、霧月ちゃんのでしょ?絶対ダメ。受け取れない!」

「良いのです。これが神の御心です。」

「ダメ。今の時代、幾ら教会のシスターでも食べ物は大切でしょ。これは頂けない!」


 眞留美は頑なに、霧月の行為を受け入れなかった。恐らく、眞留美は霧月よりも食糧難の深

刻さを体感している。故に、自分よりもまだ幼いシスターから、食べ物を奪う様な事は出来な

かった。

 

「じゃあ、こうしましょう。私はすっかり髪が長くなって困っているので、眞留美さんにカッ

トして頂きたいのですが、神に仕える私には手持ちがございません。ですから、このパンと引

き換えにカットをお願いしても宜しいでしょうか?」


 眞留美は眉間に皺を寄せながら、右手で頭を掻き、しぶしぶ霧月の顔を見た。

「仕方ないな。頑固なシスターさんに負けて、じゃあ半分頂くわ。半分でカットする。その

代わり一つ条件がある。」

「何でしょう?」

「髪型は、私に任せてくれる?」

「ええ。お任せいたしますわ。」


 二人は、肩を並べて教会を出た。


「ねぇ、霧月ちゃんの髪は、どの位なの?」

「そうですね、太もも位でしょうか…?」

「ええ!それは伸び過ぎでしょう。洗う時とか、寝る時とか面倒じゃない?」

「ええ、まぁ。」

「そうだ、気になっていたんだけど、私も聞いても良い?」

「何でしょう?」

「背中、大丈夫?」


 突然の質問に、霧月は真っ白になり歩みを止めた。


「ごめん、やっぱり良いや。言いたくない事とか、知られたくない事ってあるもんね。でも、

もし…私なんかで力になれるなら言ってよ?」

「どうしてですか?」

「ん?」

「背中って…あの…。」

「ああ、さっき椅子に座る時にね。一応接客業だから、色んなお客さん見てると、解るんだよ

ね。家庭内暴力とか受けている人の動きとか?別に、霧月ちゃんの事では無くて、でも、もし

怪我とかなら手当てしなきゃいけないと思って。」

 眞留美は優しく微笑んだ。霧月の状況に気付いて居る様子だった。


 今のご時世、家庭内暴力は珍しい事じゃ無い。しかし、それが教会の牧師となると大問題で

ある。霧月は、眞留美の包み込んでくれる様な、懐の大きさにそのまま甘えてしまいたい気分

になったが、あと一歩踏み出す事が出来なかった。


「火傷です。教会の蝋燭を引っ掛けてしまって…でも、大丈夫です。有難うございます。」

 我ながら下手な嘘だった。

 何故かこの時は上手く嘘がつけなかった。

「大変ね、シスターも。」

「眞留美さんも大変でしょ?」

「まあね、でも気軽だから。最後の時が訪れたら、後は神様の御心のままになればいいと思う

し。私達は、割と楽だよ。シスターに比べたら。自分の事だけを考えていれば良いから。」


 孤独な彼女は神に祈りを捧げる。そして今日初めて言葉を交わした霧月にも、壁を感じさせ

ずに、接してくれた。

 それは『孤独に対する恐怖』を紛らわせる為であり、彼女なりの強がりなのだろう。

 霧月は、詩絵や瞳に対する後ろめたさを、眞留美には感じる事が無かった。



 不要になった物が転がるくたびれた道は、既に物乞いの人々で溢れていた。

 いつもなら、彼らに食べ物を分け与える霧月は、今日持ち合わせが無い事に罪悪感を抱きな

がら、彼らの目の前を足早に通り過ぎて行く。

 眞留美は特に気にしてない様にいたが、眉間の皺が切ない気持ちを物語たっていた。


二人が、裏路地に入る。


「もう直ぐだから」


 人一人通るのがやっとの路地を抜けて、少し広めの道に出ると、遠くの方から犬の鳴き声が

聞こえて来た。

人が生き延びるのも厳しい現状で、余りにも珍しい声に霧月は驚いた。そして同時にキンキ

ンした声が響いた。


「眞留美おねーちゃーん!」


 犬の声とは別に、なんと表現してよいのか悩む明るい不思議なトーンの声。この街にも時代

にそぐわない、明らかな異質感。


「またあいつ!」


 眞留美はまた眉間に皺を寄せたが、とても柔らかい表情に見えた。

犬と声の主は、どんどん眞留美に近付いてくる。

 声の主は、ヒラヒラの高価な洋服を身に纏い、高めに結んだツインテールが大きく跳ね上がる程、全身を使って眞留美に迫って抱きついた。


「ひゃっほ~亜理紗登場!」


 犬は少女と眞留美の周りを回りながら、少女と同じように飛び跳ね喜んでいた。

 霧月は、何が起こっているのかまったく理解出来なかった。

この悲壮感溢れる地には、不釣合いな少女と犬。そして、このテンション。ビックリ箱をひっくり返したかの様な、煩さに呆気に取られた。


「煩い!ったく。早く来て!」


 眞留美は慣れた手つきで少女を自分の身体から引き離し、霧月の手を取ると急いで店に入った。その後を、当たり前の様に少女と犬も入って来る。

「ああ、もう。あんたは朝っぱらから、何してんのよ!いい加減に犬はもっと隠せと言ってるでしょうが!飢えている人に見つかって、犬鍋にされても知らないわよ!」

「え~!犬鍋だって、怖いねぇ?太郎。」

 少女は、霧月の事を全く気にしていない。太郎という犬を撫で、顔を舐めさせ幸せそうに笑っていた。


「ああ、ごめん。行き成りで驚いたでしょ?」

 気を使ったのは眞留美の方であった。苦笑しながら、少女を優しい眼差しで見つめている。


「この子は、亜理紗って言うの。近くに住んでるんだけど、まぁ簡単に言えば、数少ない家の

お客さんの一人ね。」

「お客さん?」

 確かにこの少女は今のご時世にしては、綺麗過ぎる。そのクルンと巻かれた髪も綺麗で艶が

あった。しかし、どう見ても10歳そこそこの少女が、美容院に通う?そこが腑に落ちない。


「こんにちは。」


 霧月は、亜理紗にシスターの仮面を被った笑顔で、優しく挨拶をした。

 その霧月の表情を見る亜理紗の視線は、さっきまで眞留美や犬の太郎にしていた顔とは全く違い、10歳そこそこの無邪気な少女でもなく、クールでどこか探りを入れてくる様な大人の女性の目へと変容した。

 霧月は、鳥肌が立った。少女が何を考えているのか、読めないのだ。

 シスターである偽善的な笑顔も、この少女の前では『通用しない』。そう言われている様な冷たい表情だった。

何故か、霧月は亜理紗を『怖い』と感じた。

 しかし、次の瞬間。


「こんにちは~どうもです。可愛いお洋服ですね~?いいなぁ、亜理沙もそんなワンピース着

たいな~。」


 一瞬にして、表情も目の色も変わり無邪気な少女に戻っていた。しかし、霧月は一瞬の亜理

紗の豹変を見逃す事は出来なかった。

それは、明らかに自分を装い生きる人間の目だ。

霧月には解る。何故なら、自分と同じ生き方を選んだ者だけがする表情だからだ。


 霧月と亜理沙の探り合いを静止させるかの様に、眞留美が口を挟んだ。

「あんたね。これはシスターの制服なの。あんたみたいな、神様を信じてない人間は絶対着ら

れないのよ。解った?」

「な~んだ。ケチだな~神様って。じゃあ、いいもんね~。」


 亜理沙は口を膨らませ、自由気ままに太郎と遊び始めた。


「ごめんね、騒がしくて…。じゃあ、カット始めようか。」

「ええ。」


 霧月は亜理紗の事が気になった。

 殺風景な美容室の片隅で、古いカーラーを転がし太郎に持って来させ、何が楽しいのか一人

で笑っている。

 霧月は眞留美に促されるまま、椅子に腰をかけ修道帽を外すが、視線は曇った鏡に映ってい

る亜理紗に注視してしまう。


「本当に髪が長いわね。」

「え?ああ…そうですね。」


 眞留美が声を掛けてきたので、素知らぬ顔で取り繕い、作り笑顔で返事を返した。

「勿体無いな、こんなに綺麗なストレートヘアーなのに、いつも帽子で隠れいてるじゃない?そうだな、毛先を揃えてこのロングヘアーを生かす方向でスタイリングしても構わない?」

「ええ、眞留美さんにお任せします。」

「いいな~。」


 眞留美と霧月が話をしていると、いつの間にか亜理紗が霧月の横に座り込んで、霧月を見上

げるような格好をしていた。その先の読めない行動に、霧月は少し怪訝そうに返事を返す。

「何がでしょう?」

「ストレートヘアーって憧れちゃうよね。亜理沙は髪の毛クルクルだから、まぁそれはそれで

可愛いから気に入ってるけど~、やっぱりロングヘアーって憧れちゃうなぁ。」

「そうですか。」


 霧月は、なるべくこの少女と会話をしたく無いと思っていた。

 先の読めない行動も成り立たない会話もその全てが偽者で、得体の知れない恐怖を感じさせる。

「亜理沙。あんたは、黙って待てなさい。」

「は~い。」

「今日は家に帰ったの?」

「まだ。」

「じゃあ一回帰りなさいよ。どうせ、また夕方まで居る気なんでしょう?」

「そうだよ。」

「迷惑。」

「どうして?」

「業務妨害よ。」

「お客さんなんて来た事無いじゃん。」

「今、接客中でしょ?見えないの?」

「んん?そうなんだ、お客さんなんだ。」

「お客さん以外になんだって言うの?」

「お友達かなって。」

「お友達でも、お客さんはお客さんなの!とにかく、今日は家に帰って、ちゃんと寝てから夕

方に来なさい。どうせ、寝癖作って直さなきゃいけないでしょ?」


 亜理沙は少し寂しそな表情を浮かべて、太郎を撫でながら座り込んでいた。

「太郎は、居ても良い?」

「いつも断り無く置いてく癖に、よく言う。」

「有難う。じゃあ、これ太郎とそっちのお友達と一緒に食べて。あ!太郎は来ちゃダメ!

じゃあね~。」

 戸に近付くと、亜里沙についてくる太郎を中に押しやり、亜理沙はさっきとは全く違う満面

の笑みを残して、外に駆け出して行った。

 美容院は台風が去った後の様に、静まり返った。

亜理紗が残した真っ白な布が、差し込む日差しを受けて反射していた。眞留美がそれを手に

取ると、太郎が鼻を鳴らした。


「もう、あいつ…。」


 さっきまでの慌しさが嘘の様で、空気が変わり霧月は居たたまれず声を掛けた。


「どうなされたのですか?」


 眞留美は手にした布の包みを解き、溜息を一つ落とした。


「こんな事を、シスターである霧月ちゃんに言うのも何だけど。あの子、夜の仕事をね、させ

られているの。」

「え?」


 霧月は息を呑む。知りたくなかった現実を、目の前に突きつけられ、膝の関節が悲鳴を上

げガタガタ震えだした。


「亜理沙はまだ12歳なの。でも、両親はあの子に売春を強要して。たまに殴られたり…する

みたいで、どうにかして上げたいのだけど、私には何も出来ない。自分の無力さを感じるよ。

だからまるで何も無かったみたいに接して上げて、あの子の大切な太郎をこうして預かるの。

そんな事しかできなくて…、たまに惨めになるんだ。」


 霧月は掛ける言葉を必死に探した。

 シスターとして、何を言って上げるべきか、持ち合わせていない言葉のピースを、即興で繋

ぎ合わせる。しかし出てこない。亜理紗の大人びた表情には、どんな言葉も当て嵌まらない。


「娼婦の方って、初めて、お会いしましたけど…あの、御綺麗ですね…。」

 霧月は気の利いた言葉どころか、無知である自分をさらけ出してしまった。

 シスターとしてではなく、当たり障りのない言葉を選んだつもりが、無残な形となって床に

落ちて行った。全く響かない言葉の残骸だ。霧月の方が惨めな気持ちになった。


「ふっ、フフフ…。」


 眞留美は呆れた様な、力が抜けた様な笑いを零しつつ霧月を見た。

「もっと、断然シスター的発言を返すのかと思ったら意外な所付くのね。なんか笑える。」


 眞留美に笑われた事よりも、霧月には亜理紗の売春の話で笑ってしまう、眞留美の感覚に驚

き、言葉が続かなかった。

我ながら、自分も気の利かない事を口走ってしまったが、『売春』は悲しい事ではあっても、

重い罪では既に無い。霧月には、それが一番悲しかった。


「亜理沙はね、貴族に気に入られているのよ。だから、両親は必死なの。あの子を可愛くし

ておく事にね。」

「貴族…?」

「貴族といっても、下級貴族だけどね。」

「そう。」

「霧月ちゃんは知らないだろうけど、そこまで落ちてるのよ。今の世の中は…ね。」

「そこまでって?」

「『売春』は日常茶飯事、プライドの塊である貴族も平気で娼婦を買う。どうしてだか解る?

この世界の何処にも、救いはないから。隣国に出稼ぎに出ても、何処も変わりは無い。だか

ら、貴族までが落ちていくの。亜理沙は、きっと…その証明よね…。たまにこうやって、食事を私に持ってきてくれたりするけど、私は結局、あの子に何もしてあげられない。あの子が、毎晩どんな思いで居るのかさえ、知らない。それが、現実…。」


 霧月が避けて来た現実を、眞留美は簡単に言ってのけた。

 誰もが知っているのに、認めない事実。眞留美の両親が、出稼ぎから5年も帰って来ない事

実。


「…眞留美さんは、毎日何を神に祈っていらっしゃるのですか?ご両親が無事に戻って来る事

です…か…?」

「ん?ああ、そうね。最初の頃はそうだった。一人で居るのが寂しくて、この人形になった妹

と同じで、私も捨てられたなんて信じたくなくて。今でも、どっかで期待はしていたりする。

帰ってくるって…でも、今はその事より、亜理紗の事かな。」

「亜理沙さんの事?」

「そう。あの子にどんな辛い事があっても、笑っていられます様にって。私の妹が、まだ生き

ていたら、丁度亜理紗と同じ12歳なの。

だからかなぁ、気になっちゃって。それを毎日祈っているの。あの子は、神様の事なんて全

然信じてないけどね。だから私が代わりに、あの子の分まで祈りを捧げるの。あの子が犯して

いる罪を、どうか許して下さいって…。あの子をどうか、御救い下さいって…。

ごめんね。なんか。変な話しちゃって。

よし!じゃあ、始めようか。カット!」


 霧月は眞留美の姿勢が羨ましく思えた。

言葉では現わせないオーラが、眞留美を包み込んでいた。

それに対して霧月は、常に逃げ腰だった。悲惨なモノは知りたくなかった。神を恨む事で、逃げ道を作ってきた。父親から。街の現実から。瞳や詩絵から。


 立ち向かう勇気がなかった。だから、亜理紗が怖かった。

 底の浅い自分を見透かされている様で、怖かったのだ。


 眞留美が手際良くカットをしている間、二人は一言も言葉を交わさなかった。

 しかし、眞留美の指先は霧月に語りかけてくる。

 背中に刻まれた烙印を忘れさせてくれる。

 魔法にかけられていく様だった。


「眞留美さん。」

「ん?」

「これが終わったら、付き合って頂けませんか?」

「ん?」

「友人の叔母様の葬儀なのですが、お見送りの人が少ないので、お付合い頂けますか?」

「うん。良いよ。」


 眞留美は鏡越しに、霧月を覗き込んだ。

 綺麗な黒髪にアクセントの切込みが入り、今まで見た事がない様な、斬新で可愛らしい髪型

に変身していた。

いつも下を向きながら生きてきた霧月は初めて、自分の姿を真正面から見る事が出来た。


「これが私…?」

「女の子は、綺麗で居なくちゃ!霧月ちゃんは、顔立ちもスッキリした美人さんだから。」


 眞留美は嬉しそうだった。

 亜理紗以外、誰も訪れない美容室。

両親が捨てていった美容室。

眞留美は決して強い訳ではない。

彼女は入り口の壊れかけた椅子に座らせた、肩代え人形に視線を投げた。その事に、霧月は

気付いていない。

 亜理沙は、自分を姉の様に慕ってくれる。しかし自分は、亜理沙が持ってきてくれる食料で

食いつないでいる身。それは霧月に対しても言える事だった。シスターである霧月からの施し

を受けてしまっては、自分が感じていた壁を越える事が出来ない。だから、霧月を美容室に誘

い、亜理紗の話を告白したのだ。

眞留美なりのやり方で、現実を受け入れる為に。

 そして確認したかった。

亜理紗が笑っていられるのは、自分という居場所が在るからだという事を。

 そして、美しく変身していく霧月を見て確信できた。現実を受け入れ、踏み出す事の大切さ

を。それと同時に、変えられない自分の一部が確実にそこにある事を。


「霧月ちゃん。有難う。」

「こちらこそ。可愛らしくして頂いて。」

「いえいえ!久々にカット出来て私も楽しかった。本当に有難うねぇ。そうだ…あの、その葬

儀に、亜理紗も呼んでもいいかな?」

「はい。でも、宜しいのですか?さっきは家に帰るようにと。」

「ああ、あれはね、一回は家に顔を出さないと、両親が怒るから。両親からしたら亜理沙だけ

が頼みの綱だから、必死なのよ。でも、亜理沙の居場所は、此処にしかないから。」

「そうですか。」


 霧月には、居場所の無い生活の苦しさが痛い程解る。だから、亜理沙の異質さもなんとなく

理解する事は出来た。

 

「あれ~霧月ちゃんすっごい可愛い。いいなやっぱり、サラサラロングヘアーは憧れるぅ。」


 亜理沙はそう言いながら、霧月の周りを跳ね回っていた。

 霧月は、始めて会った時の異質感を亜理紗に感じなくなっていた。そして、3人と1匹は瞳

の家に向かった。他人がどう思うではなく、自分達が出来る事をしようと強く思ったのだ。修

道帽を被らないで歩いていると、いつもより道が広く感じる。

 長い髪をしまって、前髪で視界を遮り、今までやり過ごしてきた。その前髪は短い。

神と言う重荷は、眞留美の力を借りて美容室に置いてきた。霧月はそんな開放感に酔いしれ

ていた。

 生まれて始めて感じる自由を、全身に浴びながら霧月は颯爽と歩く。

 亜理紗の音痴な歌声と、それに合わせるような太郎の遠吠えが、背中を押してくれる。


「亜理沙!声でかい。近所迷惑でしょうが。」

「そうかな~だって、みんな、なんか暗い顔してるんだもん。元気付けなきゃ~。」

「誰も、あんたに元気付けて欲しいとは思ってないわよ。それに、これからご葬儀!しんみりするものなの!」

「明日は~晴れますように♪」

「なんだそりゃ…!つうか、聞いてるのか?」


 亜理沙と眞留美の何気ない掛け合いが、羨ましく思えた。

『亜理沙の居場所は、ここにしかないから。』と言った時の眞留美の顔が愛おしくて、霧月は自然と口を緩めてしまった。


「あ!今、霧月ちゃんが笑った~。笑った!笑った、笑った。あははは。笑った~。」


 亜理紗が嬉しそうにスキップをしながら、同じ所をクルクル回り続ける。

 眞留美は、眉間に皺を寄せながら呆れ顔。

 太郎は亜理紗を追い駆けながら、亜理紗のお尻に前足の肉球でスタンプを押していた。

 


 瞳は何度も何度も鋏で布を切り直し、針に糸を通す。

「お裁縫はとっても得意なのよ。大丈夫よ、任せて!」

 その言葉を信じてしまった自分を、詩絵は少し反省した。

「やっぱり良いよ。瞳。」

 詩絵は、瞳に借りたシーツを全身に被り溜息を落とした。


「大丈夫。もう少しだから。ね?詩絵ちゃんは可愛い女の子なのだもの。お洒落しないと。そ

れに、私にはもう着られない服だから。勿体無いでしょ?」


 詩絵には、切り刻んで駄目にする方が余程勿体無いように思えるのだが、瞳の一生懸命な表

情を見ていると、口に出来なかった。

 詩絵には帰る家も、共に過ごす仲間も居ない。瞳には帰る家はあるが、待っている人が居な

い。だから、瞳の提案で詩絵は瞳の家で暮らす事になった。

 瞳は神の導きを感謝し歓迎してくれるのだが、詩絵は、環境に今一慣れない戸惑いを覚えて

いた。自分の居場所を上手く見付けられ無いでいた。誰かと一緒に暮らす事に慣れて居ない詩

絵にとっては、何もかもが不慣れなのだ。挙句寝たきりの瞳は、自分の事を己でする事すら間

々ならない。

何かある度に詩絵にお願いをするのだが、詩絵は家に住んだ事がない為、瞳の願いを上手く

汲み取る事が出来ず、失敗をする度に詩絵は口数を減らしていった。

 そんな詩絵の姿を見て、瞳は詩絵に服を仕立てて上げる事にした。

 瞳が幼い頃に母が縫ってくれたワンピースを、昨夜から詩絵のサイズに直そうとしていた。


「折角、叔母様の式に参列してくれるから。」


 指に何度も針を刺しながら、瞳は必死に縫ってくれていた。身体が怠い筈なのに、瞳は一言も弱音を吐かずに手を進めている。


「ねぇ、どうして?」

「どうして?って…何が?」

 瞳は目を細め、猫口の端を引き上げた。

「ん~?理由なんて必要かしら?」

「…解らない。」


 詩絵はシーツの端を弄りながら、床の板の木目を指で謎っていた。


「どうしても理由が必要なら、こうして詩絵ちゃんが私の傍に居てくれる事が答えかな。」


 詩絵にとっては、最も嬉しい言葉であったが、瞳を完全に理解する事は出来ない。

生きる為に磨いてきた詩絵の鋭い勘も、何故か瞳には通用しない。

「瞳は神様みたいだね。」

「え?」

「信じたいと願うのに、理解が出来ない。掴みたいと思って必死に追い掛けても、すり抜けて

行く。私にはそんな感じがする。でも、霧月シスターは違って…。」


 瞳は縫い物の手を休め、詩絵の手を握り締めた。

「私は神様では無いわ。残念だけど。神様の御心は人間では想像も出来ない程に大きくて、き

っと誰も知る事は出来ない。私はそんな偉大な存在にはなれない。でもね、神ではなく、私達

にしか出来ない事もあるのよ。それが、『家族』だと私は思うの。もし、詩絵ちゃんが私の気持

ちが解らないと言うのなら、それは、『お母さん』の立場に近いからじゃないかしら?」

「お母さん?」

「そう。神の『愛』母の『愛』父の『愛』兄弟の『愛』親友の『愛』恋人の『愛』、そして自分

への『愛』。どれ一つとして同じものは無いから。私はそう思うの。だから、まだ解らなくても

良いのよ。これから『家族』の『愛』を知って行きましょうね。」


 瞳はそう告げると、縫物を始め、針を刺す。

 詩絵は、呆然としていた。瞳が言っている事が全く解らない訳でもなかった。

 自分に与えられなかった『家族』の愛が、こんなに暖かく優しいとは知らなかった。

そして、こんなに恐ろしいとは、想像して無かった。知ってしまった安らぎと、今までの自

分とのギャップ。それを失う事を恐れる感情。知らなければ感じない恐怖だった。しかし、知

ってしまった以上は手放せ無い。手放したく無い。詩絵は、身体を包むシーツに顔を埋め、声

を殺す様に泣いた。

 詩絵が泣いている事に瞳は気付いていたが、気付かない振りをしてくれた。


「詩絵ちゃん。私が幼い頃に母がよく歌ってくれた子守唄があるの。私が病気で、お外で遊べ

ないから、駄々をこねると必ず歌って慰めてくれたの。」


 詩絵はシーツに顔を埋めたまま、反応しないでいた。

 しかし瞳は全く気にせずに、ゆっくり目を閉じ清々しく透明な声で歌いだした。


「白い雲が空を滑って 緑の草が騒ぎだした。

河の水が太陽を眺め 黒い土が支えてくれた。


桃色の花弁が風に流され飛んでいく。

 

 明日は何処に居るのかな。

 明日は何が起こるかな。

 明日は誰にもわからない。

 

 明日もきっと晴れるから。

 明日のカタチを描いて進もう。

 明日のカタチを夢見て眠ろう。」


 瞳は同じ歌を何度も何度も繰り返し歌った。

 20年程前まで、貴族も地主も農民も隔たり無くこの歌を子守唄にしていた。

人々は多くを望まず、今ある幸福を大切に、生きていた。

 しかし、流れサーカス団に隣国の繫栄の話を聞きつけた貴族達は、隣国と同じ様に開発を我

が土地でもと始めた。

大量の農場や畑は売却され、沢山の農民達が建設に借り出され、村は変貌していった。誰も

が開発の成功と、村の繫栄を疑わなかった。

 しかし、流れのサーカス団が村を離れると開発地から湧き出る汚染物質により、水は腐り、

空気は濁り、農作物は育たなくなり、動物にも人間にも疫病が流行り始めたのだ。


 それから20年。

 村はすっかり退廃し、白い雲も新緑も、澄みきった川も、綺麗な花を咲かせてくれる土も死

に絶えた。

 だから、人々はこの子守唄をもう歌わない。

 明日を描き、夢見ることを忘れてしまった人間達は、子供の頃に歌ったこの歌さえ忘れてし

まった。


 瞳は今年で22歳。

 詩絵は17歳。

 一番退廃が進む悲劇の中で生まれ、そして捨てられてしまった詩絵。

 幼い目に、その悲劇を映しながら育ち、何とか生き延びてきた瞳。

 瞳はこの歌を忘れた事はない。母が死ぬその時まで、歌ってくれていた。

 育ちの違いを乗り越えて、生まれた少しの差で変わってしまう運命を乗り越えて、神様が演

出してくださった出会いを、瞳は瞳なりに信じたかった。

 瞳は、服が出来上がるまで歌い続けた。最後の一刺しを終える頃、詩絵の方を見ると既誤魔

化せない程、肩を揺らし泣いていた。


「明日は何処に居るのかな。

 明日は何が起こるかな。

 明日は誰にもわからない。

 

 明日もきっと晴れるから。

 明日のカタチを描いて進もう。

 明日のカタチを夢見て眠ろう。」


 瞳は詩絵の隣に腰を下ろし、詩絵の肩に頭を乗せた。

「疲れちゃった。」

 瞳は小さい声でそう言うと、目を閉じる。

 詩絵が瞳の顔を覗くと、瞳は寝息を立てていた。

 涙で、くしゃくしゃになった顔を腕で拭い、詩絵は瞳にシーツを掛ける。

 二人で肩を並べて、伝わってくる体温を心地良く分け合った。


「明日もきっと晴れるから。

 明日のカタチを描いて進もう。

 明日のカタチを夢見て眠ろう。」


 詩絵も口ずさみ目を閉じた。明日が来る事を恐れて、一人泣いていた昨日より、瞳と温もり

を分かち合う今日の方が幸せ。

 霧月に拒絶された今日より、きっと明日は、良い事があるはず。

 瞳は、霧月が明日葬儀を執り行う為に訪れると、信じて疑わなかった。

 詩絵は瞳のその想いと、自分が感じた霧月を信じようと強く願った。


 詩絵はゆっくり唇を噛締めた。

 あの時、霧月を助けなければ、居場所を与えられる事は無かった。

 霧月が導いてくれたこの絆を、疑っていた自分を恥て、神に祈りを捧げる。

 詩絵と瞳は神を信じ、同じように霧月を信じていた。



 霧月と眞留美と亜理沙と一匹の犬が、瞳の家の前に着く頃には、すっかり昼になって居た。霧月の朝食と亜理沙からの差し入れを、お供えに取っておいた3人は、重い脚を一歩一歩ゆ

っくり進め、瞳の家が見える丘までやって来た。

 生命を失った広大な土地は干からびて、それぞれの足を引っ張るように絡みつき、余計な体力を奪って行く様だった。

 瞳の家に隣接している叔母の家を遠目に見ると、霧月は胸に手を当てた。

 あの家で一人、息を引き取った瞳の叔母は、今もあの家にとり残されているのだろう。

だからといって、この生命を失った土地に叔母を埋める事が、果たして叔母の望みなのか?

霧月の迷いは消えない。

教会が管理する墓地は、貴族階級の人間しか埋葬されない。

この不条理を嘆いても、現状は少しも変わらない。ならば、この枯れて汚染された土地に埋葬するしかない。

 霧月は自分の無力さを感じながら、まだ見ぬ瞳の叔母に謝罪の気持ちを込めて、彼女が眠る家を見つめた。


 瞳の家をノックすると、瞳の返事より先に扉が開いた。通常ならば、瞳の返事を聞き霧月が扉を開け中に入るのだが、今日は詩絵が開けてくれた。

 昨日の事を気にしていた霧月は、正面から詩絵の顔を見る事が出来なかった。

 そんな時、後ろから勢いある声に引っ張られ、霧月達は部屋の中に雪崩れ込んだ。


「あれ~詩絵ちゃんだ!久しぶりじゃない。」

「亜理沙!何で、此処に?」

「霧月ちゃんに連れて来て貰ったの。」

「そうなんだ。」


 霧月がそれでも詩絵の顔を見られないでいると、詩絵の方から霧月に声を掛けてきた。


「有難う霧月ちゃん。ねえ、これ見て?」


 『霧月ちゃん』という聞きなれない詩絵の呼びかけに驚いて、ゆっくり顔を上げると、詩絵は綺麗な水色のミニスカートのワンピースを身に纏い、長い髪を一つに纏めて、すっきりした笑顔を浮かべていた。


「それは…。」

「私が、詩絵ちゃんに作って上げたの。何回かやり直しをしたら、スカートの裾が短くなっち

ゃって…でも、可愛いでしょ?詩絵ちゃんには、透き通るように綺麗な水の色が絶対似合うと

思って。」


 霧月は瞬時に察した。

 詩絵が今着ているワンピースは、瞳の母親が亡くなるその時まで縫っていた形見のワンピー

スであった。

瞳は何を市場に売りに出そうとも、このワンピースだけは絶対に売りに出さなかった。それ

どころか、自分がこの世を旅立つ時には、このワンピースを着せて欲しいと言っていた。それなのに、瞳は詩絵にこのワンピースを譲ったのだ。


 霧月はちっぽけだった自分に、無性に腹が立った。そんな霧月に詩絵が声を掛けて来た。

「霧月ちゃん。昨日話した知り合いって、亜理紗の事だったの。なんか、奇遇というか…運命

みたいだね。」

 詩絵のその言葉が、詩絵の微笑が、霧月の心に浸透していく。

 詩絵が清清しく笑うと、瞳も笑う。

亜理紗が駆け回りながら、眞留美を引っ張り回して紹介していた。そこはまるで同窓会の様

な雰囲気を醸し出し、これから行われる葬儀の事も、始めて顔を合わせしたメンバー達との関

係も、何の違和感も覚えなかった。


 そして…。

「お帰り。霧月ちゃん。」

 瞳が猫口をクイッと両端に引き上げ、目を細めた。

 何故か、涙が溢れてきた。

霧月は人前で涙を流した事は無かった。しかし、張り詰めていた何かが勢いよく弾け飛び、

卵が孵化する様に崩れ落ちた。


 亜理紗の己の影を包み隠す微笑が、瞳の恐怖を乗り越えた清清しい表情が、詩絵の純粋な優

しさが、眞留美の等身大の自分を受け入れる強さが、羨ましく愛おしく暖かく、そして何より

も安心できた。


「もし、神様が居るのなら…。」


 霧月は崩れ落ちた膝を涙で濡らしながら、一言、一言を丁寧に紡ぐように並べていく。


「もし、創造主の御心が託されたのなら…。」


 俯いた霧月の瞳には映る筈のない、皆の顔が見える様な錯覚を抱きながら続ける。


「私も…信じてみたい…です。…ただいま…。」


 『信じてみたい』それは、此処に居る皆が思っている事だった。

 不動である『何か』を、霧月は信じられる人間になりたいと願い、初めて『ただいま』という言葉を口に出した。


 瞳は霧月をゆっくり抱き締めた。

霧月を、幼い頃から妹のように見守ってきた瞳ではあったが、牧師による虐待を庇う事は出来ないでいた。そんな自分を責める様に、瞳は霧月の背中を撫でた。

詩絵と眞留美は、霧月の告白に目を潤ませた。誰だって恐怖を抱えて生きている。シスターという立場が、どれ程彼女を苦しめ、傷つけてきたのか。二人には想像さえ出来ない事だ。しかし、霧月に救われたからこそ、二人は今こうして此処に居られる。在りのままの霧月を受け止め、理解する努力を怠らない事が、霧月にして上げられる唯一の恩返しだと感じていた。

 一方で、亜理沙は混乱していた。

霧月の言葉は重かった。

 亜理沙は、自分の感情を麻痺させて来たのだ。霧月も同種類の人間だと思っていたのに、霧月は急に輝きを放ち、遠くに行ってしまった気がした。

 一人取り残されてしまった亜理沙は、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべた。

 12歳の少女が背負ったモノは、霧月にも計り知れない程の『欲望』という悪夢なのだ。

しかし、亜理沙は『神』を信じている振りを仕様ともしなかった。

霧月には解るのだ。信仰まで嘘で塗り固めてしまったら、もう二度と戻れない。

 自分の居場所を失いたく無いと必死にもがく少女が、霧月の涙には痛々しく映るのだった。


「さて。瞳さんの叔母様の見送りの準備に取り掛かろうか。実は私、凄いお腹が空いてるんだ

よね。」

 眞留美が場を和ませる様に、話を切り替えた。

その一言で、窒息しそうになっていた亜理沙の心は救われた。



 5人と1匹により、葬儀は滞りなく執り行われた。

 死後数日たっていた瞳の叔母は、異臭を放ち始めていたが、街に点在する遺体に比べれば綺麗な状態だった。

 叔母の所有する土地の一角に小さな墓を掘り、旅立ちの祝福を捧げながら弔った。全てを終えると、備えていた食べ物を少しずつ分け、やっと食事にありついた。

 パン屑とチーズとシナシナに萎えてしまった野菜を、5人と1匹で分けると一人一口ずつしか回らない。それでも、この一口の貴重さをそれぞれ噛締めていた。


「ちょっと、亜理沙!自分の分はちゃんと食べなさい!」


 眞留美は、亜理紗が太郎に自分の分の食事を与えているのを指差し、亜理紗の頭を拳で軽く押した。

「だって、太郎が欲しいって。」

「自分の分はちゃんと食べる!食べられる時に食べておかないとダメだって!」

「何で?」

「何でって…あんたね、人間は食べなきゃ生きていけないのよ!」

「太郎だって生きていけないもんね~。」

「だから、太郎にも上げてるでしょう?」

「太郎がもっと食べたいって、言ってるんだもん。」

「いつもそう言って!」


 眞留美は溜息を洩らし、自分の分を亜理沙の口に押し付けた。


「いらない!」

「食べなさい!!」


 亜理紗は立ち上がり、逃げ回る。

 眞留美は亜理紗を捕まえ様と、追い回す。

 太郎が、遊んでいるのだと勘違いし、2人を追いかける。

 圧倒されている詩絵と霧月の顔を瞳が覗き込み、亜理沙達と見比べ噴出して笑う。

 病弱で生気を失った瞳からは、想像もしなかった笑声に、その場にいた少女たちは唖然として、時間が止まった。

 犬の太郎も黙った、静かな部屋の中でも瞳の笑いは収まらなかった。


「あ~あ…お腹が痛いわ…。私、生まれて始めてこんなに笑った。」

「何がそんなに、面白いのよ。」

 眞留美が眉間に皺を寄せながら、瞳を怪訝そうに睨むと、瞳は黒目がちな目をクリクリさせて、猫口をクイッと上げた。


「羨ましくて。眞留美ちゃんと亜理沙ちゃんは本当の姉妹みたい。」

「え…?」

 眞留美は愕然とした。

 自分は、亜理沙の居場所で居たいと思ってはいたが、亜理紗を亡くした実妹と重ねていたのでは無いか?と、頭をよぎったからだ。

瞳の『妹』という言葉で疑問が沸いてきたのだ。

 眞留美は咄嗟に、亜理紗の後ろ姿を見て、違和感を覚えた。今まで感じた事のない感覚だった。

 振り向けば、手を伸ばせば手に入る筈の亜理紗の笑顔。

 自分は亜理沙と言う少女を、肩代え人形と同じ様に扱ってきたのか?

掻き消して白紙にしてしまいたい想いが、何度も頭を過ぎる。眞留美は手にした自分の分の食べ物を見つめた。それはチーズだった。チーズは高級品である。亜理紗が相手にしている貴族でも、所有出来る代物ではないと亜理沙が自分で言っていたはず。いつも亜理紗が持ってくる食事よりグレードの高い食事に、絹の布巾。

何故気付かなかったのか。

眞留美は亜理紗を見るのが怖かった。ちゃんと、真正面から亜理紗を見る事が出来ない気がした。


「ねぇ亜理沙。この食事、誰に貰ったの?これ、いつもの貴族じゃないよ…ね…?」


 事情を詳しく知らない瞳は、さっきまでの爆笑を収め、一転した状況に目をパチクリさせるしかなかった。


「亜理沙!」


 亜理紗は目の前にお座りしている太郎を、人差し指と中指で撫でると、勢いよく振り向き、後ろに手を回して、肩を内側に傾け眞留美の顔を覗き込んだ。


「なぁに?あ!もうそろそろお仕事に行かなきゃだから、亜理紗の分は皆で分けてね。そうだ

明日は、いつもより多く貰ってくるから、此処でみんなで食べようねぇ。」

「亜理紗!」

「何で怒ってるの?それは、亜理紗が悪いの?」


 眞留美は、亜理紗の視線を真っ向から受け止める事が出来ない自分にイラついていた。

 亜理沙に当たろうとしている自分が、情けなくて何も言えない。

 亜理紗が悪い訳ではない。

 勿論、眞留美が悪い訳でもない。

 全てはこの時代が、この環境が彼女達を崖っぷちに追い込んだのだ。


「…亜理沙、いつも気にしてくれて有難う。」


 眞留美を庇う様に、詩絵が沈黙を破った。


「でも、もう辞めない?亜理紗を誰も攻めてないよ。私がこうして生きているのも、亜理紗が

くれる食料のお陰でもあるから。私は亜理沙に感謝してる。そして、亜理沙一人に背負わせて

御免ね。

でも、亜理沙一人で背負う事は無いよ。

皆が、違う形で違う罪を背負って、後ろめたさを持って生きているんだから。私ね、密かに小さな畑を耕しているの。まだ、芽を出してくれないけど、そこからやり直せないかなって思っているんだ。

だから、皆にも手伝って欲しい。沢山の力で耕せば、食物が育つかもしれない…よね?」

「そうなの?素敵ね。もし良かったら、私の土地でも試したらどうかしら?最近は耕していな

かったけれど、やってみる価値はあるかもしれないわ。」

「瞳ちゃん、本当に?有難う!」

 瞳と詩絵は、霧月の顔色を伺っていた。

それに気付き、霧月も笑顔で頷く。ただ、眞留美と亜理紗の時間は、動かない。詩絵の言う

正論を理解する事は出来ても、希望は見えない。

 土地の再生研究は何度も進められた。しかし、畑の持ち主はそれを独占し物価は上昇した。

挙句、金は何の役にも立たなくなり、闇市では物々交換で取引されていた。

しかし、その闇市さえ行われなくなった最近の状況をみれば、殆どの畑が生き延びる事は無かったと想像できる。

 そして、誰もが希望を持つ事を諦めた。


 それがこの村なのだ。否、この世界なのだ。


「そっか、それは凄いね。」

 亜理紗は太郎に手を舐めさせながら呟いた。


「でも、育つまでの時間どうやって食料を手に入れるの?最近は貴族のゴミを使用人が食

べちゃうから手に入らないって、詩絵ちゃんが言ってたんじゃない?

どうやって生きていくの?綺麗ごとだけじゃ、生きていけないよ。解ってる筈じゃない。

詩絵ちゃんなら、尚更…。」

 決して声を張り上げる訳ではなく、鼻に掛ける訳でもなく、淡々と話す亜理紗の心は誰

にも解らない。


「解るよ。親に捨てられて、本当だったら死んでたかもしれないから。でもさ、今のままじゃ

何も変わらないって、何の意味も無いって、私は霧月ちゃんの説教を聴いて、瞳ちゃんの愛に

触れて、そう感じたの!だから…ね…。」

「良かったね。」

「亜理沙…?」

「生きる希望が出来たんでしょ?良かったよ。でも、それは、詩絵ちゃんの生きる道でしょ。私の道じゃないもの。私には、見えないもの。

私に見えるのは、皆が笑ってくれるその笑顔だけだもん。」


 そう言い切ると、亜理紗は瞳の家を飛び出して行った。

 亜理紗は、誰かに笑って貰う為に、喜んで貰う為に、己の身体を売り続けている。幼い

亜理紗には、それだけが生きる目標であった。笑顔の仮面が少し剥がれた瞬間、垣間見え

たのは、誰にも嫌われない様に、誰かの傍に居られる様に、健気に道化を演じる、まだ幼

い少女の姿であった。


「眞留美さん?」


 霧月は眞留美の硬く握られた拳が痛くて、そっとその手を両手で包んだ。

 床に広がる埃まみれの絨毯に、眞留美の零す涙で水玉模様が出来ていた。


 親の帰らない美容院に篭り、二度と会えない妹に焦れ、肩代え人形の後ろめたさで心を澱ませる日々に、散々眞留美は痛感させられた。

「眞留美ちゃん。」

 瞳が事情を察して、眞留美にシーツの切れ端で作ったハンカチを渡した。しかし、今の眞留美に掛ける言葉を、誰も持ち合わせていなかった。

 無理矢理説得をして亜理沙に売春を辞めさせた所で、この先を生き抜く道は何処にも無い。誰かを庇う余力を誰も持ち合わせていない。それぞれの思いが駆け巡る中、瞳が口を開いた。


「霧月ちゃん。お祈りしましょう?」

「え?何に?」

「畑が成功するように。」


『祈る』


 霧月は幼い頃から、散々祈りを捧げてきた。

 しかし、結果は変わらなかった。その度に、独りで涙を飲んだ。


「そうね。行動を起こさなきゃ、何も始まらないわね。」


 詩絵が立ち上がった。

 現実を理解し、確実な道を歩む為に自分を捨てた亜理沙と、現実を理解しているが故に、堅実な一歩を進もうとする詩絵。

 『諦めるか?』

『諦めないか?』

目の前に立ち塞がる2つの別れ道。


 選択を迫られた霧月が、今まで歩んできたのは、確実な道だったはず。後ろめたさや、罪悪感を抱えても、見ない振りをして生きてきたのだ。

それが霧月には、最善な方法だったから。しかし、不意を突いて、あの貴族の少年の事を思い出していた。


『やってみなければ何も変わらない。例えそれが無意味な行動でも、やらないよりやった方が良い事だってきっとあると思うんだ。人それぞれ与えられた立場は違う。だから、するべき仕事も違う。僕が貴族として今出来ることを知りたい。きっと、それが神の御心だと。』


「やってみなければ、何も変わらない。」


 霧月は少年の熱苦しい程の熱意を思い出し笑った。

 瞳と詩絵が不振な顔をしている事にも気付かない程、少年の残像は色濃く霧月を混乱させていた。


「この間、最上位の貴族の青年が言ってました。町の状況を知りたいと。自分に出来る事が在

るかを知りたいって。…やってみなければ、何も変わらないって。それを思い出したら、笑え

てきて。

何も知らない裕福なお坊ちゃんが、綺麗ごと並べて偽善者ぶって、聖人ごっこでもするつもりかと思ったのです。あの時は。でも、少しも変わらない事に気付きました。私も彼も。知らない事が悪いのでは無い。知った時に何もしない事が悪いのですよね。

神に願いを押し付けて、叶えてくれないから嫌いではいけない。自分で努力して結果を残してから、評価を求めるべきなのよね。

私…。十四年間も何をしてきたのかしら…。そう思ったら、笑えて来て…。」


 霧月は眞留美の手を自分の頬に当てた。

 指先が冷たい職人の手。

 女性にしてはゴツゴツしている眞留美の手は、痩せているからと言うより、鋏で出来たタコの硬さであった。お客の来ない美容室で、腕が落ちない様に毎日練習している、眞留美の姿が想像出来た。この小さな手で、何を守ってきたのか。


「眞留美さんは頑張っています。神はきっと、眞留美さんの生き様を見守って下さっています

よ。」


 霧月の口からは、まるで湧き水が毀れ落ちるかの様に、祝福の言葉が溢れ出した。

 眞留美は俯いたまま、数回頭を縦に振っただけだった。


「畑を耕しても、植える種が無ければ意味がないでしょ?どうするの?」

 眞留美は眉を引き上げて言った。

「それなら平気。私の寝床は元農家の納屋だから種とかあるの。」

 詩絵は自信を持って答えたが、眞留美的には問題は山積みであった。

 案の定、詩絵と霧月を従えて眞留美が納屋に行ってみると、そこにはカラカラに乾ききった使い物にならない種や、カビだらけで触る事さえ躊躇する様な肥料の山だらけだった。この肥料でこの種を植えても、土以前の問題だった。

 そして、詩絵が造った畑を見に行くと、全く耕されて居なかった。土地に囲いを刺しただけであった。眞留美は、大きな溜息を落とした。

「何か私、自信無くすわ。」

「どうして?」

 無邪気に目をパチクリさせる詩絵の瞳に、肩を落とした眞留美の姿が映っている。

 死んだ土地を復活させる事自体が無謀な試みではあるが、それ以前に、この無知な仲間の指導からのスタートだった。

「もういい!乗りかけた船だ。とことん付き合うわよ!作りましょう!」

眞留美は全く知識の無い詩絵と霧月に、土集めをさせる事にした。太郎に穴を掘らせ、良さ

そうな土をバケツに入れて集めさせた。そして、太郎の糞を肥料に使った。

 その間に眞留美は、畑を作るのに適した場所を探した。

 体力の無い瞳は自分の家に残っているガラクタをかき集め、畑の囲いや耕す道具を作る役を担った。村人達全員が諦めた希望を、彼女達は信じる力のみで、その歯車を回し始めたのだ。



 その頃、城でも一人の少年が動き始めていた。

 珂翠は幼い頃から兄の様に慕っていた、使用人の聖に会いに行った。

 両親よりも過ごす時間が多かった聖とも、十五歳を過ぎた頃から会う事を禁じられた。


 離れにある使用人用の長屋に久しぶりに訪れた珂翠は、余りの活気の無さに驚いた。どの水瓶も空っぽで、壁も崩れ掛けていて、ガラスはひび割れている。

村の人々よりは、優遇されている貴族の使用人の生活まで、脅かされていた。

 珂翠はこんな身近に、迫って来ている飢餓の恐怖を見ようとせずに、シスターに詰め寄った己を恥じた。

「お坊ちゃま!こんな所で、何をされているのですか?」

 呆然と立ち尽くした珂翠の背後から、聞き覚えのある声がした。声を掛けてきたのは、幼い頃、珂翠の乳母をしていた由美だった。昔は、黒髪とクッキリとした二重が綺麗な女性だったが、今は白髪交じりの髪を一つに纏ね、目じりや眉間には深く刻まれた皺が目立ち、美しく澄んでいた瞳は淀んでいた。


「由美?由美なのか…久しぶりだね…。変わったな。」


 幼い頃は、由美の弾力のある胸に顔を埋めると安心できた。暖かくて、優しくて、柔らかかった由美が、今では木の枝の様に窶れ、折れてしまいそうで抱きつけなかった。

「坊ちゃんは大きくなられて。どうなされたのですか?こんな所で…。」

「聖に会いたくて来たんだが、でも、由美に会えて凄く嬉しいよ。」

「そうですか。聖も喜びますよ。坊ちゃんに会いたがっておりましたから。」

 由美が枯れ枝の様な腕を差し出し、珂翠を長屋の奥の方へ促した。

「坊ちゃま、こちらに来る事を旦那様はご存知なのですか?」

「いや…。」

「そうですか。そうでしょうね…。」

 その返事に対し、由美は意外にも無反応だった。昔なら、両親の許可が無い事をすると、スカートを捲り上げて、凄い剣幕で怒って走って来たものを、今はこうして歩く事がやっとの様だった。

「怒らないの?」

「怒って欲しいのですか?」

「そういう訳では無いけど。」

「申し訳ありません。私にはもうその権限も体力も無いのですよ。」


 由美の肩が細い。

由美の声が擦れている。

由美はもう、珂翠の知っている由美では無かった。


「ごめんね。由美…。」


 勝手に溢れてくる涙が零れ落ちる。

「どうなされたのですか?泣かないで良いですよ。お坊ちゃまは、本当に小さい頃から泣き虫のままで。男の子は簡単に泣いちゃダメですよ。」

 由美は珂翠が幼い頃、よくしてくれた様に珂翠を抱き締めた。何か嫌な事がある度に、由美の胸で涙を流し、『男の子は簡単に泣いちゃダメ』と何度も言われた。あの頃と変わらない、由美の匂いがした。

珂翠は何度も何度も『ごめん』と繰り返した。視野の狭かった自分が、ぬくぬくと何不自由ない生活を送るそのすぐ近くで、あの綺麗な由美がこんなにも窶れ果ててしまっていた事。両親よりも深く自分を愛し、育ててくれた由美。いつも優しく流した涙を止めてくれた由美。何故、由美に会う事を禁じられたのか。何故、その理由を考えなかったのか。何故、今まで会いたいと思わなかったのか。

 珂翠の感覚を麻痺させていたのは、正しく『贅沢』と言う目隠しであった。


「坊ちゃん。また泣いているの?」

 珂翠が泣きはらした顔を上げると、聞き覚えのある声の主が目の前に立っていた。

 鼻に掛けて笑う、その独特の喋り方で確信できた。珂翠が兄として慕っていた、聖である。

「聖!会いたかった…聖に会いに来たんだ。」

「シッ!声でかい。見つかっちまうぞ!早くこっちへ来い!」


 聖は珂翠と由美の腕を掴むと、勢いよく壊れかけた長屋の一室に連れ込んだ。

部屋の中には、脚が3本しか無いテーブルと、壊れかけたソファー、そしてこの部屋には似つかわしくない、金色に輝く縦笛が煤けた壁に飾ってあった。


「これ…。まだ、持ってくれてたんだ。」


 縦笛は毎日綺麗に磨いている様で、傷一つ無く眩しく輝いていた。薄暗い闇を照らす満月のように、開いたドアから差し込む光を反射させていた。

 これは幼い頃、珂翠が両親に買ってもらった物だが、珂翠は上手く吹く事が出来なかった。その為、直ぐに吹きこなした聖に珂翠が上げたのだ。


「当たり前だろ。こんな高価な物、一度手放したら二度と手に入らないからな。テーブルの

脚より大切にしてるよ。」

「聖…。」

「何だ、その顔は?勿論、お前に貰った物だからな。」

「俺…俺は…。」


 珂翠は何年来の忘れ物を、拾い集めて行く。


「で?坊ちゃんがわざわざこんな所まで、何の用で?」

「こら聖!私達に会いに来て下さったのよ。ね?お坊ちゃま。」

「へぇ~そう。こりゃまた、本当に珍しい事もあるもんだ。」

「聖!止めなさい!」

「だって、今更だろ?」

「仕方無いでしょ!お坊ちゃまと私等では立場が違うの。自分の立場を弁えろと何度も言って

るでしょ!」


「由美いいよ。聖の言う通りだ。俺は、二人の事を忘れていた。勝手に、良い思い出にして、

自分の心の奥底に仕舞い込んでいたんだ。確かに、今更な話だ。ごめん!申し訳ない。

俺は、愚かで視野が狭くて、自己中で、最悪な人間だ!本当に、本当に、ほんと~に」

 珂翠が深々と頭を下げた。

「もう良いよ!」

砂利だらけの床に頭が付くか付かないかの所で、聖が声を掛けた。珂翠は幼い頃から変わらない。珂翠が投げてくる言葉はいつも直球で、受け手が何らかの返答を投げ返すまで、何処までも追い続けてくる。

 良い言い方をすれば『素直で正直』、悪い言い方をすれば『しつこくて空気が読めない』性格だ。

聖はそんな珂翠が、時に鬱陶しくもあり、愛おしくもあった。

 珂翠の人生が『平和』であるが故に、保たれているその性格が、聖には愛おしく思える。

「珂翠は、本当に変わらないな。熱っ苦しい。周りの事はお構いなしだ。そうやって、誰彼構

わずに、黙らせる所が本当に変わらない。」

「へ?」

 聖が珂翠を呼び捨てで呼んだ。

聖は二人きりで遊んでいる時以外は『珂翠お坊ちゃん』と呼んでいたが、珂翠の両親に禁止されていた、木登りや砂遊び等をしている時は必ず呼び捨てで呼び合い、本当の兄弟の様に接してくれた。

「怒ってないよ。俺たちは、兄弟だろ?」

「聖!立場を弁えろと言っているでしょ!」

 由美は相変わらずだ。いつも二人で遊んでいると、『お坊ちゃまを危険な目に合わせるんじゃない!立場を弁えなさい!』と言って聖を追いかけ回し、珂翠にも『自分の立場を弁えた行動をしなさい』と言って雷を落とした。

 由美は珂翠にとって、まるで本当の母親の様だった。

 珂翠は、目を細め頬と口の端を引き上げ、涙を零した。

「でたよ!珂翠の十八番。泣き笑いだよ。」

「泣いてない!」

「泣いてるし。」

「泣いてないって!」

 聖は、珂翠を弄って遊ぶ。

由美は呆れた様に、二人の顔を見比べる。珂翠は必死に涙を拭いながら、聖に顔を寄せる。しかし、現実は何も埋め合わせられていない事を、三人はよく解って居た。

 少なくとも珂翠は、一秒でも長く現実を認識したくなかった。この長屋の静けさや、聖の部屋の質素さを目の当たりにしたままでは、言い辛い部分が大きかった。

「で?何しに来たの?そうやって誤魔化して居たい程、言いにくい事?」

 聖は固いレンガに、煤けたモーフを掛けたベッドに珂翠を座るよう促しつつ、話を本題へとリードしてくれた。

「あの。」

「うん。」

「その。」

「何だよ?」

「うん…。」

「何だよ?!珂翠らしくないな。よし、じゃあ俺が久しぶりに、笛を吹いてやるから、その間

に言いたい事を整理しろよ。」


 聖は壁に飾られた縦笛を手に取り、吹き始めた。

 この村に昔から伝わる子守唄で、聖は珂翠を宥める時に、言葉より先にこの曲を吹いてくれた。

 珂翠の隣には由美が座り、珂翠の白く綺麗な手を骨ばった染みだらけの手で包んでくれた。冷やりと伝わる由美の存在。優しく語り掛けてくる聖の笛の音。

贅沢な事と知りながら、珂翠はその贅沢さに涙を零した。

 そして、シスター霧月の厳しい視線や、亜理沙と言う少女のどこか乾いたあの笑顔が、遥か遠い場所に消えて行く様だった。

自分は、あの二人と同じ土俵の上にさえ乗れて居ないのだと、それどころか、由美と聖の間にもこんなにも深い溝があるのだ。

 珂翠を慰めてくれるこの縦笛だって、珂翠が『要らない』と言ってしまえば、捨てられてしまう運命の代物だった。もし、それを聖が吹かなければ、この高級品もただのガラクタになっていただろう。

 しかし、そう考えれば考える程、耳に届く音楽が鼓膜を刺激し、由美の手が氷みたいに硬く感じる。

「そんな顔して聞くなよ。」

「え?」

「お前は、本当に解り易いな?お前が貴族のお坊ちゃまでも、俺達がお前をこんな風に招き入

れた理由を、ちゃんと理解しろよ?」

「どういう事?」

 聖は珂翠の眉間の皺を察し、縦笛を唇から離し溜息を落とした。

 由美は珂翠の手をより強く握り締め、ゆっくりと話し始めた。


「お坊ちゃま。この長屋も半分以上が空家なのです。理由は様々ですが、代々貴族の御世話を

させて頂いた一族で残っているのは、私と聖と貴族の皆様に直接接する御用達の者のみ。既に

聖のご両親は他界しました。」

「そんな、聖。俺は、何も知らないで…。」

「仕方ないだろ。使用人達は、珂翠の両親から口止めされていたし、お前は、俺と会う事を禁

止されていた訳だし。」

「…ごめん。」

「お坊ちゃま。何故ご両親が、私達とお坊ちゃまとの交流を恐れたかお分かりですか?」

「‥‥。」

 珂翠も薄々は気付いていた。

両親から会う事を禁止された当時は毎日泣いて過ごしていたが、その埋め合わせに、両親から勉強や乗馬を教え込まれると、いつも間にか、二人の事を思い出の一ページに追いやった。

 そして、真実より、絆より、目の前に並べられた『贅沢』という甘い蜜を、自分は選んで生きてきたのだ。

 由美が重い口を開いた。

「村は酷く物不足が進み、通常の市は廃止になりました。闇市も行われ無くなり、今や餓死す

る人々が多い状態です。村は既に死んでいます。貴族は、民を守り政治を執り行う代わりに、

税を徴収し生活していました。

戦争になれば兵を纏め、策を練り、村を活性化させる為に、常に良い政治を行う事が求められるが為、勉学や人格に長けた人間でなければなりません。大変言い難い事では在りますが、今の貴族階級は民を蝕み、人類を滅亡へと誘う存在となっております。

貴族階級の贅沢も、もう底を突いて来ております。私は、坊ちゃんの事をご両親よりもよく知っているつもりです。貴方ならば、必ずやこの世界を救えると私は信じて居ました。ですから、私はこの地を離れる事が出来ませんでした。それは、聖も同じ事。この世に求められているのは、貴方なのです。

この村で、唯一その権利と能力を持ち合わせているのは、貴方しか居ないのです!」


 由美は幼子を諭す様に、ゆっくりと珂翠に言い聞かせるのだった。弱虫で頼りない、次期皇子であっても、生まれ持ったその誠実さと優しさは、誰にも負け無いと由美は知っていたからだ。 そしてそれは、珂翠がこうして使用人の長屋に姿を現した事で、由美の中で確信に固まった。


「由美。有難う!俺ね、俺…知りたいって思ったんだ。今更だけど村の現状を、正確に知るべ

きだって思ったんだ。それで、昨夜一人で町に降りた。」

「え?」

 聖は持って居た縦笛を思わずレンガのベッドに落した。慌てて縦笛に傷はついて無いか確認をし、珂翠を問いただす。

「おいおい…お前。」

「村の現状を知りたくて、シスターに聞いたんだけど、教えて貰えなくて。自分の目で見よう

かと…思って…でも本当に危なかったよ。で、聖の手を借りようかと…。」

「俺だって、夜の村になんて怖くて、一人じゃ絶対に行かないぞ!」

「そうなの?」

「はぁ…。怖い物知らずは、これだから…。」

「そっか…。でも、あのな、今夜、もう一回行きたいんだ!」

「はぁ?」

「昨日、僕を助けてくれた女の子が居て、もう一度その子に会いたいんだ!」

「…何だ、女かよ…。」

「そう、凄く可愛い女の子で、亜理紗ちゃんって言うんだけど、知らないよね?」

「知るかよ。」

「売春婦をしているらしいんだけど。」


 無邪気に話す珂翠を横目に、唖然とする二人の姿は説明するまでも無い。



 その頃、亜理紗はやり切れない思いを胸に抱きながら、一人夕日に向かって重い足を進めていた。

 家に帰れば、何も言わずに亜理紗の前に手を差し出して来る両親が待って居る。食料を持って帰らなければ、その手で引っ叩かれる。持って帰ったとしても、その手の上に食べ物を置く事で、殴られずに済むが、声を掛けて貰えるどころか視線さえ合わせてもらえない。

 亜理紗は、両親の背中しか思い出せない。


 あの日から、両親と言葉を交わさなくなり、まるで汚れ物でも扱うように敬遠される様になった。


 初めて親に売られた日の事を、今でも亜理紗は忘れられない。

 物乞いをしながら母親と大通りを歩いていると、少し羽振りの良さそうな男に声を掛けられた。男は、母親の耳元で何やら囁くと、何本かの指を折って交渉し始め、母親は醜く笑うと、亜理紗の手を男に押し付けた。そのまま振り返る事無く、足早に去って行く母親の姿を亜理沙は黙って見送った。

 亜理紗に何の説明も無いまま、母親は男に亜理紗を売り渡したのだ。

 白髪交じりのゴワゴワな髪を一纏めにして、その髪を左右に大きく揺らしながら帰っていく母親の後姿を、亜理紗は今でも克明に覚えている。


 この残酷な運命は、あの日から始まったのだ。


 独りになると、思い出したく無い過去が蘇る。亜理紗は、夕焼けの空が一番嫌いだった。夜の闇に包まれると、亜理紗は魂をなくした人形になれた。

 陽が昇れば、自分を必要としてくれる居場所に帰って行ける。

 しかし夕焼けは、どちらでも無い、本来の姿を露にしてしまう気がするのだ。

あの日の夕日は特に綺麗だった。

母親の背中が夕日に吸い込まれていく様に消えて行き、全てが始まった。その瞬間から、亜理紗にとって、夕空は地獄の炎へとなった。

 幼い少女は、愛らしい笑顔を刻みつけ、感じた事と反対の事を口に出して言う癖をつけた。理由なんて必要なかった。夜の街には同じ境遇の者達で溢れかえる。亜理紗にとって、理由はそれだけで十分なのだ。


皆がやっている事だから、そう納得させた。

人形になろうと努めた。

 そうしなければ潰れてしまう。

脆く崩れそうな、繊細な心が軋むから。

 両親も知らない。

亜理紗は涙を流さない子供だと言う事を。

 眞留美や詩絵も知らない。血が滲むほど奥歯を食い縛りながら、亜理紗が笑っている事を。

だから、亜理紗は今日も独りで夕日に向かって歩いて行く。それが、地獄への入り口だと知りつつも、夕日に飲み込まれて行く。

 闇のベールに包まれた舞台の幕が開けば、操り人形として舞台に上がる。恐らく今日も、貴族の客が亜理紗を迎えにやって来るだろう。亜理紗はそれを受け入れ、鉄の味がする口内に貴族の食べ残しを詰め込むのだ。


 だから亜理紗の小さな足は、なかなか前に進まない。

 眞留美や詩絵や太郎と楽しい時間を過ごせば過ごす程、亜理紗の足枷は重くなる。


 渋々ではあるが、聖と由美は珂翠の話に耳を傾けていた。

「娼婦の少女なんて沢山居るからな…。」

「んん。そうなんだろうけど、とっても可愛らしい子で、洋服とかも割りと綺麗で、貴族階級

を知っている娼婦の娘だよ?そんなに居るかな…?」

「で?何でそんなに会いたいの?もしかして…恋しちゃった?」

「いや、そうじゃなくて…なんか、異質な女の子だったから。それに、貴族の俺を助けてくれ

たし。きっと、村で貴族を助けるなんて、命がけの行為だと思うんだよ。」

「何だ、やっと実情の認識が出来る様になれたのか。」

「うん。」

「でも、まだ解って無いよな…。俺を夜の街に付き合せるなんてよ~。」

「え?来てなんて言ってないし…ただ、洋服を貸して欲しい。後、何処に行けば会えるか教え

て欲しいんだ。」

「馬鹿だろお前?お前痛いな世間知らずを、一人でそんな危険な所に行かせられるか!それで

何かあったら、絶対に俺がどやされるわ!」

「ああ…そっか…。ごめん。俺って…やっぱり…あの…。」

「いちいち、鬱になるな!鬱陶しい!」


 聖は小言を言いつつ、昔の様に珂翠が自分の事を頼ってくれている事が、嬉しかった。

聖もまた、由美と同じ様に最後の砦として珂翠を信じて居るのだから。



 陽が落ちて行くに連れて、異様な風貌の輩が沸き出て来る。

 大体の輩は腰や首の部分が曲がっていて、顔と首の境目がない程に汚れていた。見ているだけなのに、鼻を突く鋭い臭いに襲われた。無意識に眉間に皺が寄る。

珂翠は聖から年期の入っている服を借り、顔も手も村の外れの腐った土で汚し、今回は完璧に成り切った筈だが、実際の輩を目の前にすると、不安が背中を這い回り、冷や汗が流れてくる。


「そんな青い顔をしていると、如何にも怪しいぞ。」

「あ…ああ…。」


 聖の顔色が少しも変わらない一方で、珂翠は聖の背中にへばり付いたままだった。

「大丈夫かよ?そんなんで?」

「うん…大丈夫。自分で言い出した事だし…。」

「良かったな。俺が居て!」

「うん。有難う。」

「素直過ぎるのも、反応に困るな…。」

 聖は顔を俯いたままの珂翠の腕を取り、闇と共に侵食し続ける輩の脇をすり抜けていく。目指しているのは、聖の父親が自暴自棄になるとよく出向いた、高級娼婦を買う事が出来るヴィイラ橋だった。

そこは、低級貴族や、貴族の世話役階級を相手にする高級娼婦が集まる場所であった。ヴィイラ橋の娼婦の殆どは、元貴族階級の姫や、世話役のメイドが出稼ぎの様な形で働きに来ていた。もし、珂翠が探している娼婦の少女が、ヴィイラ橋の娼婦であるのなら、そのどちらかの可能性が高いと聖は思っていた。しかし、珂翠の引き攣った声が示す方に視線を投げると、貴族や世話役階級の鼻に付く態度は微塵も見て取れない、小さな少女が橋の手すりに腰を掛けていた。貴族や世話役であれば、大体の顔を聖は知っていたが、その少女は知らなかった。


「あの子だ!あの子に間違いない!」


 珂翠が少女に駆け寄ろうとする。

聖は強引に引き戻す。

「どうしたんだよ。」

 珂翠は少し怪訝そうな顔をして、聖を睨み付けた。

「見てみろよ。」

 聖が顎をしゃくって見せた。

珂翠が目を向けると、橋の入り口に小太りの顔見知りが並んで居た。

 珂翠の両親の腰巾着の低級貴族とその使用人達が、黄ばんだ歯を剥き出して近付いて来る。

 今、この場で一番会いたくない連中だった。聖は珂翠の腕を強引に引っ張り、橋の下に身を

隠した。そこからならば、橋の手すりに腰を掛けている少女が見える。


「あいつら、こんな所で!」


 娼婦遊びをするより、彼らにはしなければならない事が沢山あるはずだ。

「やあ、亜理沙。」

 珂翠が人知れず湧き上がる怒りと戦っている最中、頭上からもっとも聞きたくない声が聞こえて来た。

 彼には妻子が居て、愛人も居るという噂まである獣だ。


「珂翠!見ろよ。野口の野郎だよ。」

 聖が珂翠の耳元で、奴の名前を口にした。

 亜理紗の表情は見えない。ただ、二つに結わいたクリクリの髪の毛だけが、スキップをする様に跳ねているだけだった。


「これで解ったな。お前が会ったっていうあの子の客は野口なんだ。貴族階級の話を枕話にあの子にしているのだろう。だからあの子はお前の階級を知っていた訳だ。珂翠もう良いだろ?これ以上、此処に居ても悲しくなるだけだ。帰ろう。」


 珂翠は、元は川であった泥沼に足が埋まっていくのをただ見つめていた。このまま、深く埋まってしまえば、何も知らずに居た頃の自分に戻れるのか。


『今、自分の真上で行われている事が、無かった事になるのか?』


 亜理紗は言った。


「貴方は貴族のお坊ちゃま。私は通りすがりの売春婦。ただ、それだけでしょ?」


『本当に…ただ、それだけ?』


 珂翠は泥沼から足を思いっきり引き抜き、靴を置き去りにしたまま走り出した。

 咄嗟に暴挙に出た珂翠に聖は戸惑いながらも、ただ後を付いて行った。


 野口が亜理紗の肩に腕を回したその時、珂翠が野口の手首を取り、亜理沙から野口を引き剥がした。


「何をするんだ!」


 野口が凄んで振り向いたが、余りにも予想外の相手に戸惑い、顎をカクカク鳴らしながら直ぐに凍りついた。


「お久しぶりです。野口さん。貴方が自分の娘さんより幼い少女趣味があるとは知りませんで

したよ。」


 珂翠は出来る限りの冷静さを保ちつつ、野口に対して微笑を浮かべた。

 しかし、野口も直ぐに平静を取り繕い対抗して来た。

「これは、珂翠坊ちゃまではないですか。貴方程のお方が、こんな所に?ご両親はご存知なのですか?いや、私こそ驚きましたよ。お坊ちゃんのお立場で、こんな小汚い女共を買うとは。

あれ?それとも、そういった御用では無かったのですかね?」

 野口の饒舌な舌は、憎たらしく腫れぼったい目とは逆に、表現豊かに回り始めた。そして、断固として亜理紗を放す気が無い事を伺わせた。

 すると、後ろからすかさず聖が援護射撃を出してくれた。

「野口様。坊ちゃまは、村の視察にご両親の命で来られたのですよ。で?野口様こそ沢山の使用人を連れて、まさか、ご視察でいらっしゃいますか?しかし、野口様。少し意見させて頂きますと、ご視察ならば、もう少し連れの者を控えた方が良いかと。こんなに目立ってはご視察になりませんよ。何より、そのような豪勢な御召し物では危険です。どうぞ、ご検討を。」


 聖は片頬を吊り上げ、ゆっくり頭を下げて見せた。野口はまた顎をカタカタ鳴らすと、黙ったまま連れの者達に目で合図を送り、亜理紗から数歩離れて、珂翠に会釈をした。


「そうですね、次回は十分気をつけて参ります。では、お坊ちゃまもお気を付けて、ご視察下さいませ。それでは私共は失礼致します!」


 如何にも不服そうな顔をして、野口は使用人達を引き連れ去って行った。

 珂翠は溜息を一つ落とし、聖に縋る様な視線を送り、互いに胸を撫でおろした。


 しかしその一方で、亜理紗は目を吊り上げていた。

「ちょっと!一体何なのよ~!」

 珂翠が慌てて視線を戻すと、亜理紗がホッペを膨らませ、珂翠を睨みつけていた。


「あの、覚えてる?僕だよ!昨日会ったよね…珂翠だよ。」

「だから?」

「だからって…。昨日助けてくれたから、そのお礼に…。」

「はぁ?何言ってるの?人のお客を帰しちゃって!すっごい上客だったのに!」

「え?あの…でも…。」

「言ったよね?私は売春婦なの!お坊ちゃんとは、生きている世界が違うの!」


 亜理紗は綺麗にカールした睫毛を何度も羽ばたかせながら、珂翠を見上げて居た。

しかし、亜理紗の透き通る瞳には、どこか安堵の影が見え隠れしている様にも感じられた。だから珂翠は、思わず亜理紗の強く握られた拳を両手で包み込み、亜理紗の瞳に映る自分を確認して口を開いた。

「じゃあ、僕が、今夜一晩、君を買うよ!それで、許してくれないかなぁ?」

「珂翠!お前、何言ってるんだよ!」

 その珂翠の行動に一番動揺したのは、亜理紗ではなく珂翠の背中越しに様子を伺っていた聖の方だった。

「僕がお客さんになれば良いだろ?今晩、僕が君の時間を買うよ!それでどうかな?」

 珂翠が何を言っても、亜理沙は全く動じなかった。珂翠からの視線を逸らす訳でも無く、口を挟みもしない。

「ダメかな?」

踏み出してしまった一歩を、今更引けない。それは貴族としてといよりは一人の男として。

 亜理紗の曇った瞳を覗く事しか出来ない。 その光景を見かねた聖が、珂翠の肩に手を

かけたその時、止まっていた時間が動き始めた。


「良いよ。上客を帰されたし、それより上等な物をくれるなら。」

 亜理紗はいつもと変わらぬ笑顔を返す。

作り物の御人形は、誰に拾われても拒まない。何をされても受け入れる。それが夜の亜理紗

が選んだ道だった。


 亜理紗がいつも使う寝屋は、壊れかけた古い納屋だった。亜理紗はいつもの様に、そこに珂翠と聖を連れて行き、服のボタンに手を掛けた。


「何をしてるの!」


 珂翠は、亜理紗の細い手首を掴んだ。

 聖は小屋の入り口に立ったまま、何も言わずにその光景を見ていた。

 亜理紗は、藁と布で作ったベッドの上に座ったまま、珂翠に掴まれた手首を見つめた。


「あの、僕はそういうつもりじゃ…。ただ、話がしたいだけなんだ。

僕は貴族として、この村の改善をしていきたいと思っているんだ。その為には、君の力が必

要だと感じたんだ!」

「何で?」

「え?」

 亜理紗は首を傾げる。

可愛らしい態度と甘い声とは対照的に、その人形の様なガラスの眼球は変わらなかった。


「何でって…。あの…。」


 目を逸らせば、二度とチャンスは訪れない。しかし、次の言葉が見付らない。


『訂正はさせない。あるのは、この瞬間にのみ。』 亜理紗からの無言の圧が伝わって来る。


その沈黙に窒息してしまう前に、白旗をあげるのも悪くは無い。珂翠は覚悟を決めたように話し始めた。


「僕には、君が助けを求めているみたいに見えたから。

僕を君が助けてくれた様に、君も助けて欲しいと思っている様に感じだんだ。この小さな手

からそう感じた気がした。この小さな手で、僕を守ってくれたあの時、それは反対に君かのSOSにも、僕には感じたんだ。だから…。」


 珂翠は懇親の思いを亜理沙にぶつけた。

シスター霧月の冷たい目が忘れられない様に、亜理紗のどこか次元の違うテンションが、珂翠の中に流れ込んで消えない。

それは、珂翠がついて行けない程の速さで、狭い路地裏を走りぬける、亜理沙とシンクロして見えてくる。

 一人では決して抜け出せない袋小路を、この小さな身体で一生懸命走り抜ける亜理紗。その小さな光は、共に逃げてくれる存在だったのではないかと、錯覚してしまう。


「プッ!アハハハ~面白いお兄ちゃんだな~本当に!」


 亜理紗は、小動物に近い動きをしながら、藁をマットレス代わりにしたベッドの上に寝転んで足をバタつかせていた。貴族階級が使う絹のシーツが亜理紗の動きと共に、クシャクシャになって行く。それは薄汚れて使い込まれいるが、珂翠が見慣れているブランドのマークが付いていた。


 亜理紗は笑い転げたままだった。


「何がそんなに可笑しいの?僕は真剣だ!」

「ウフフフ、ああそう…。アハハハ~真剣に、そんな臭い事……?プッアハハ~。」

「ちょっと…亜理紗ちゃん!」

「何でって?…ねぇ可笑しくないの~?そこの、入り口のお兄さんも笑ったら良いのに~。」


 亜理紗は笑い転げながら、聖の方に手を叩いてみせた。

 聖はそんな亜理紗を、無表情で受け流す事に徹していた。

 貴族の息子を笑いもにする小汚い娼婦を見て、気分が良い世話役は居ない。それも、弟の様に思って居る珂翠となれば、尚の事である。

 しかし、聖は敢えて何も言わなかった。

貴族で在ろうが、娼婦で在ろうが、世話役で在ろうが、珂翠にとっては何の違いも無い、同じ人間なのだ。だからこそ、聖は珂翠を信じる事が出来た。

そしてまた、聖には解っていた。この亜理沙と言う少女が、自分と同じ様に珂翠を試している事に。

 亜理紗は一通り笑い終えると、珂翠に背を向ける形で、少しよれたツインテールを振るいながらベッドに座った。


「ねぇ。何で怒らないの?私、貴方の事、バカにしてるんだよ?」

「うん解ってる。僕、バカだから。」

そして続けた。

「僕はバカだから、今まで、自分の力で何一つやり遂げたモノが無い。

貴族として生まれただけで、それ以外何もない。だけど、もし、その貴族である事が、何かに使えるのなら、その何かを知りたい。僕は貴族を鼻にかけて君の身体を求める気は無いし、君達を見下したり、同情したりする気もない。僕は、君達と共にこの村で、生きて行きたいんだ!笑われても仕方ないと思っている。貴族の戯言に聞こえても、それでも僕は…!」

「黙って!」


 亜理紗は両耳を塞ぎ、頭を左右に強く振った。


「亜理紗ちゃん?」

「ごめんね…お兄ちゃん。お代は要らないから帰ってくれるかな?」

「あの、食べ物なら持って来て…。」

「要らない!」


 亜理紗は背中を向いたまま、ヒステリックに叫んだが、その後は甘えた声に代わった。


「亜理沙はねぇ、身体を売ってるんだよ。お仕事しないで貰っちゃったら、ただの施しじゃな

い。だから、そんなの、要らない。」

「でも僕は君に、そんな事をして欲しくないから!」

「お兄ちゃん。そういう事を何て言うか知ってる?同情っていうんだよ。哀れんで見下して…

善意顔した同情だって事、知ってた?」


 それでも、亜理紗の声は甘かった。


「お兄ちゃんさぁ…。滅茶苦茶、人を見下しちゃってるよ?亜理沙ね~そういう人が大っ嫌い

なんだ。だから、ごめんね。他の子を当たってよ。亜理紗じゃ無くても良いんだからさ。」


 悲しくなる程可愛い声で、振り返りながら、切なくなる程の笑顔で、亜理紗は珂翠の顔を覗き込んだ。


「…でも、じゃあどうして昨日は僕を助けてくれたの?」

「ただの気まぐれだよ。…なんとなく、暇だったからだよ。」


 亜理紗の笑顔の仮面は、決して剥がれない。

珂翠は、自分が感じた何かを、疑いたくなった。

 やはり、『ただ、それだけ』なのか。自分が吐く全てはやはり綺麗ごとの戯言で、自分が貴族として『ただ、それだけ』の事をしているのか。

 その時、聖が入り口から、亜理紗に向かって声を掛けた。

「ちょっと良いかな?…君のやり方、俺は好きじゃないな。でも、そこの坊ちゃんよりは、君

に立場が近いと思うから、敢えて一言言わせて貰いたい。これは、助言として聞いて欲しい。

この村は後一年と持たないだろう。それは、貴族も含めての話だ。

貴族が終わる時には、村人なんて一人として残らない筈だ。必ず訪れる死をそうやって惨めに待つよりは、直球しか投げられないこの坊ちゃんに、賭けてみるのも悪く無いとは思わないか?

君の様な生活をしていたら、もう解っているだろ?俺もこいつが言っている様に、君が他の奴らと一緒には見えないけど…。こいつがここまで言うのなら…どうだろうね?

僕達と手を組まないか?

もし俺達が信じられなければ、途中で裏切れば良い。俺達が欲しいのは情報だけだ。村の本当の現状を知りたい。それだけだから、取引をしないか?」


 亜理紗は笑顔のまま聖の話を聞いていた。

 そして、ゆっくりと立ち上がると、服に付いた砂埃を軽く払い、聖の元にヒョコヒョコ歩いて行った。


「情報が欲しいなら、良い仲間を紹介してあげる。付いて来て。」


 亜理紗はそう言うと納屋を出て行った。

 聖と珂翠は思わず視線を絡ませ、亜理紗の後を追って慌てて納屋を出て亜理紗の後をついて行く。

 真っ暗闇で足元も悪い道を、スイスイ歩く亜理紗に対し、靴を泥沼に置き去りにしてきてしまった珂翠は、足を引きずり躓きながら歩くのに必死だった。

 そんな珂翠の姿を気にしながら、亜理紗も進んで行く。

恐らく、亜理紗が普通に歩いたらもっと早いだろう。珂翠本人は気付いて居ないが、聖は亜理紗の優しさを垣間見た。

もっと通りやすい道を通れば、必ず徘徊している村人に見つかってしまう。夜の村では、どんな犯罪も闇の中に飲み込まれてしまう。まして、こんな平和ボケしているお坊ちゃまであれば、良いカモになってしまう。そして、もう少し端を歩けば、当たり前の様に死体が転がっている。鼻を突くこの死臭がその事を示していた。

 歩く事に一所懸命な珂翠を横目に見ながら、聖はこの掴み所のない少女の後姿を観察していた。 


 まだ10歳そこそこの少女が、こんなにも己を偽らなければならない理由とはなんだ?


「こっちこっち~!早く~!」

「こっちって、まさか…。」


 聖は此処を知っていた。


 亜理紗は、畑に沿った小道の行き止まりにある小屋の前で歩みを止めた。窓からは、薄明かりが漏れている為、中に生きている人が居る事が伺えた。

 聖がまだ幼い頃、よく一緒に遊んだ初恋の少女が住んでいる小屋だった。ここの畑は、次々に土地が死に絶えて行く中、最後まで美しい緑を育んでくれていた。

この土地が教会を通じて、貴族との共同財産になった途端、植物は枯れ始め、農作物が育たない死んだ土地へと姿を変えてしまった。

それを境に、聖はこの土地に訪れていなかった。世話役の立場として、初恋のあの子に合わせる顔が無い気がして、後ろめたさから足が遠のいたままだったのだ。

「どうした?」

 珂翠が聖の震える肩に手を乗せた。

珂翠の瞳には、小屋から漏れて来る薄明かりが反射していた。何も知らないこの少年が、時に天使の様に聖には見える。

 この目に映っている間は、まだ大丈夫だと思える。だから、珂翠と会えない2年間は、聖にとってまるで地獄だった。でも今は違う。


珂翠が聖の顔を覗きこむ。

一方亜理紗は振り返らず、真っ直ぐ小屋に向かって行く。


「いや、大丈夫だ。…行こう!」


 聖は真っ直ぐ先を見据える事が出来た。

珂翠と一緒なら、彼女に会える気がした。会いたいと思えた。そして一言、今まで顔を出せ

なかった事を謝ろうと、素直に思えた。


 亜理紗が古びた木製の扉を開けた。

「ひゃっほ~おこんばんは~!お客さん連れて来ちゃったよん!」


 小屋の中では、主である瞳を初めとする畑計画のメンバーが、小さな焚き火を囲んで会議をしていた。

 案の定、突然の事に、詩絵と眞留美は目を丸くし、奥から覗き込んだ霧月は目を白黒させ、意外な来訪者の登場に動揺を隠せずに居た。しかし、瞳は変わらぬ笑顔で3人を迎え入れてくれた。


「あら~亜理紗ちゃん。お帰りなさい。…あら?もしかして、聖さん?お久しぶりです!お元

気でした?あら?そちらの方は始めましてですね。まぁ、どうぞどうぞ、汚い所ですがお入り

になって。」

「…ああ、久しぶり。瞳…あの…。」

 聖は、久々に会った少女が健康そうでは無いが、大人っぽく成長している姿に戸惑いながら答えた。その横でから亜理紗がひょっこり顔を出す。

「な~んだ知り合いだったの?凄いねぇ?偶然だね~。」

「ああ…。」

 聖は心に決めていた言葉を、思わず飲み込んだ。

 瞳は余りにも変わり無い、澄んだ笑顔を聖に投げかけてくる。

初めて恋をしたあの頃と、風貌は変わっていても、彼女の透き通る笑顔は変わらない。それは、薄暗い焚き火の明かりしかないこの部屋でも、十分な輝きを放っていた。


「貴方……。」

 続いて霧月が珂翠を見つめ口を開いた。

綺麗にクリーニングされた服を身にまとい、サラサラの髪の毛をなびかせた、色白な貴族のお坊ちゃまとは到底思えない、今の容姿が何より霧月の度肝を抜いたのだ。


「どうされたのですか?その格好。フフフ…物乞いの中でも、最下層の様な風貌されて。」


 思わず笑いが毀れる。

 彫刻の馬車が似合う王子が、物乞いの格好をして足から痛々しい出血をさせて現れた。それを可哀想と思うより先に、貴族風情を嫌と言う程見てきた霧月からすると、滑稽に見えた。


「いやぁ…そんなに、酷いかな?シスター。これ…?」

「ええ、とっても。でも、似合ってますよ。」


 霧月だって本心でそう思っている訳では無いが、ジョークを言いたくなった。

貴族としての珂翠ではなく、一人の人間として、此処に居るのだという意思表示を汲み取る事は十分に出来た。


「亜理沙。一体どういう事よ。」


 戸惑いを隠せないのは、眞留美だけだった。夕方あんな形で亜理沙と別れてしまい、二人の間に溝が出来たままの状態で、イレギュラーな登場をされて戸惑っていた。それと同じく、詩絵もまた居心地の悪さを感じていた。詩絵は、男性が特に苦手だったのだ。

 定住できる家も、頼れる家族も持たない詩絵にとって、男性は恐怖の対象だった。無意識の内に背中を猫背にして、心なしか身を隠す様にした。


一方亜理紗は、眞留美達が発する拒絶の空気を一切汲み取る事なく、表情も声色も変えずに、自分の言いたい事だけを並べて来た。

「この人達、村の状況を変えたいって思ってるんだってぇ。きっとお姉ちゃん達と同じじゃ

ない?だから仲良くして上げてねぇ。」

「ちょ…?」

「そういう事だから、私はこれ~にて~!」

「ちょっと!」


 眞留美は今日一日で、一番深い皺を眉間に刻んで、亜理紗を睨んだ。

「ん?何?…瞳ちゃんと霧月ちゃんはこの二人を知ってるんでしょ?

じゃあ、問題ないでしょ!亜理紗はそう思う~!だから、後はよろしくね。」

「問題あるだろ!あんたが勝手に連れて来て、それに…。」

「でもぉ~あたし、お仕事の途中だから。もう行かないといけないの。」


 亜理紗は手を顎に添えると、ツインテールを左右に揺らしながら道化を演じ続けた。

しかし眞留美も、一歩も引かずに亜理紗に詰め寄る。眞留美の目に浮かぶ力の源は、怒りと

いうより哀願に近いものがあった。


「じゃあ、お兄ちゃん達。後は、皆から色々聞いちゃって下さいな。それでは、亜理紗は

再び~これにて~。」

 

亜理紗はその場をやり過ごす様にして、来た道を帰って行こうとした次の瞬間。悲鳴に限り

なく近い声で、眞留美が叫んだ。


「亜理紗!行かないで!」


 それは、穏やかな微笑で周りを和ませ、しっかりした意思を持ち、神に祈りを捧げ、落ちぶ

れた美容院を細腕で守り続ける健気な眞留美の姿からは、誰もが想像出来ない悲鳴だった。

 霧月は、我が耳と目を疑う気持ちになった。霧月が眞留美と言葉を交わしたのは、今日が初

めてであったが、それでも来る日も来る日も祈りを捧げる姿からは、今の眞留美を想像する事

は全く出来ない。


「お願い…亜理沙…行かないで!もう、これ以上、あんただけが汚れて行くなんて、嫌だよ。

だから、お願い…お願い!」

 しかし、搾り出す様な眞留美の魂の声に、亜理紗は反応しなかった。

 振り返る事なく、ツインテールを軽やかに躍らせながら一言残して、闇に呑まれて行く。


「大丈夫だよ。私には…神様なんて居ないから。」


 残された者達は、暫く何の反応も出来ないで居た。目の前に残された2人の男を見れば、今起こった事が現実である事は確認する事は出来た。

しかし、開け放たれた扉の奥に広がる闇夜のブラックホールに目を向けると、その奥は静まり返っていた。


 眞留美は、己の無力さに絶望を覚えて居た。そして霧月は、現実を上手く整理する事に戸惑いを覚えていた。詩絵も許容範囲を大きく越えた現実を受け入れるのに、大分時間を要する状況だった。

何より、置き去りにされた世間知らずの男2人は、肩身が狭く入り口近くに佇んで居た。


「あの。お2人共、どうぞお入りになって。何も無いけれど、足の手当て位は出来ると思うから、どうぞこちらに。」


 凍りついた空気を沈めたのは、家主である瞳であった。

促されるままに、珂翠と聖は遠慮がちに部屋の一番奥の瞳の近くに移動した。

俯いたまま顔を上げず固まったままの、眞留美の前を横切る時や、猫背に震える詩絵の前を跨ぐ時は、明らかな疎外感を覚えた。


「どうぞ、こちらに座っていて下さい。」


 瞳は愛想よく振舞ったが、その笑顔は亜理沙とは大きく違う。

 瞳は、ただ優しく微笑みながら珂翠の泥と血がこびり付いた足を、雨水を溜めた瓶から水を持ってきて、ぼろ布で拭い始めた。

「それにしても、本当にお久しぶりですね、聖さん。もう何年になるかしら?10年?…15年?やだ、私ったら、時間の感覚が全く無くて。フフフフ…。」

「瞳、あの…ごめん。ずっと顔出せなくて。」

「良いのですよ。誰もが大変な時期ですもの。お元気そうで良かったです。良かった。」

「瞳こそ…元気…そうで、何よりだよ。」

「ええ、何とか生きてまるよ。ウフ…で、こちらの方は?」

「ああ、紹介するよ。俺が仕えている貴族の跡継ぎで、珂翠って言うんだ。話した事あったよ

ね?」

「ええ、覚えていますよ。弟みたいに可愛い御曹司さんって。確かあの頃はまだ生まれたばか

りでしたよね。そうですか…こんなに大きくなられたのですね。」

「あの、どうも、始めまして。」

「ああ珂翠、彼女は村一の地主の娘さんで、俺の幼馴染の瞳。ずっと…会ってなくて…。」

「こんばんは。始めまして瞳です。でも、聖さん?家はもう地主じゃないですよ。フフ…。」

「ああ…ごめん。」

「そんな謝らないで下さいよ。そうだ、こちらも紹介しなくちゃよね。

えっと、さっきご挨拶していらしたから、もうご存知でしょうけど、こちらはシスターの霧

月ちゃん。で、そちらが、村で唯一の美容院をやっている眞留美ちゃん。で、こちらが、今私と一緒に暮している詩絵ちゃんです。あと…この子が、亜理紗ちゃんのお友達のワンちゃんの太郎ちゃんです。

今日は皆で、畑を復活させたくて、その活動の話をしていたの。

で、あのぅ…お二人は、亜理沙ちゃんとはどういうご関係なのかしら?」


 瞳は不器用な手つきで、珂翠の足に乾いた軟膏を塗りながら、ざっと話を終わらせた。


「あ、あの…では、始めまして!僕は、珂翠と言います!どうぞ宜しくお願い致します。」


 珂翠は勢いよく立ち上がり、思いっきり腰を直角に折り曲げた。足の裏の痛みよりも、周り

の空気の方が痛かった。瞳は自分達を受け入れる姿勢を見せてくれたが、他のメンバーとの隔

たりは拭いきれない。

 いつまでも頭を上げ様としない珂翠に、助け舟を出してくれたのは、意外にもシスター霧月であった。


「さっきお話した、貴族ってこの方なのです。あの、どうぞ珂翠さんも頭を上げて下さい。」

珂翠は霧月の声がする方に、腰を曲げたまま、顔だけを上げた。

「シスター…。」

「あら、そうなの?偶然ねぇ。」

 瞳は両手を軽く叩いて笑った。

「でも…まさか、貴方が此処までするとは思いませんでした。少し…いえ、大分見直しました

わ。」

 珂翠の目に映っている霧月は、以前教会の枯れた噴水の前で話した時とは、全くの別人だっ

た。

「あの…僕は、シスターに謝らなければいけないですね。僕は、本当に無知でした。先日は本

当に申し訳ありませんでした。」

「何故、謝るのですか?私こそ、言い過ぎました。申し訳ありませんでした。」

 珂翠は柔らかい表情で、言葉を交わす霧月に見入ってしまった。

 今の霧月はシスター帽を脱いで居るからか、この薄明かりの中でもはっきりと綺麗な顔立ち

が伺えた。

長くまっすぐ伸びた睫毛が目尻に流れ、黒目を動かす度、流し目の様に見える。

 珂翠が霧月から目を離せないで居る事に気付いた聖は、軽く珂翠を突いた。

「お前、何やらかしたんだよ。」

「え?ああ、この前教会に行った時、シスターに村の状況を教えて欲しいとお願いして。

俺…やっぱり心の何処かで、他人事みたいに考えていたんだ。それでシスターに怒られて、

その日の夜に村に下りた。そこで、道で腐りかけた死体や、ガリガリに痩せ衰えた女性達や…その…色々なモノを目の当たりにして、やっと気付けた。

これは、他人事では無いって。」

「それで、あの子と?」

「うん。村の人達に見付っちゃって。絶体絶命だった所を亜理紗ちゃんに助けて貰って。」


 亜理沙と言う名前を耳にして、眞留美が心なしか肩をビクつかせた。


「そうだ、みんなお腹空いて無い?

もし良かったら、これ皆で食べて。本当は亜理沙ちゃんにと思ったんだけど、断られちゃっ

て。お近づきの印に…。」


 珂翠はポケットから食事の包みを出し、瞳に渡した。


「まぁ、良いのですか?嬉しい!有難うございます。」


 その包みを見て、少女達は気が付いた。それは、今日亜理紗が皆に配ってくれた食事を包ん

であった、布巾と同じ質の布巾だったのだ。


「そう、貴方でしたの。眞留美ちゃんこれ、頂いちゃったわ。」


 眞留美は微かに頭を横に揺らしたが、それ以上の反応はしなかった。

「では、遠慮無く頂きますわ。」


 瞳が包みを開け、静かに蹲っている太郎の分を含めた人数分に分け始めた。


「あの…それで僕は、もう一度亜理紗ちゃんに、お礼をしたくて。また村に下りたんです。で

も、また失礼な事をしてしまったみたで。」

「失礼な事?」

 瞳は不器用に動く手から目を離す事なく、珂翠の言葉に反応する。

聖は、瞳の不器用な手の動きが気になり、思わず瞳の指から零れ落ちたパンを受け止めた。

「あら、ごめんなさい聖さん。」

「いや。」

 余りの不器用さを見かねて、瞳から布巾を取り上げた聖は、起用に料理をとりわけ始めた。

詩絵はそんな二人の指の動きを、黙ったまま視線だけで追いかけていた。

 一方珂翠は、話の途中で中断されたまま聖と瞳に視線を投げかけ、その二人を黙ってみてい

る詩絵の方が気になり始めていた。

大きな二重の皺が、計算しつくされた折り紙の様に収納されていく、その美しい瞼の動きに珂翠は釘付けだった。そして、もし出来る事なら、あの形の良い眼が、自分の存在を捉えてくれる事を密に望んでいた。


「珂翠さん?」


 瞳が黙ったままの珂翠に声を掛ける。

その拍子に、詩絵も珂翠に視線を送った。

俯き加減の為、前髪に隠されて直接見る事は出来なかったが、その潤んだ眼差しに珂翠は高揚した。


「はい?ああ、はい…そう…あの…。」


 珂翠の視線を辿り、状況を把握できた聖は、食事を分ける手を止める事なく、助け舟を出

してくれた。


「実は、亜理紗ちゃんの常連客が知り合いの貴族でね、そいつらから彼女を奪って、挙句一晩

買うから話がしたいって持ちかけたんだ。そうしたら、彼女、それは自分を見下している行為

だって怒ってね。仕事もしないで施しを受ける事は出来ないって。まぁ、そういう事…。」

 聖には亜理紗の思考が理解は出来た。

とてもデリケートな問題で、人によって考え方は大きく分かれる。出来る事なら触れたくな

い問題だ。

それでも、引き返す訳には行かない。例えそれが、同情から始まった施しであったにしろ、例えそれが貴族の横暴な行為であったにしろ、この一歩がなければ、両者に未来は無いのだ。


「これ。大体、均等に分けられたよ。回して貰っても良いかな?」


 聖は瞳の目の前に、取り分けられた食事を差し出した。

 亜理紗が施しは受けないと拒絶した、食事を目の前に差し出された。

流石の瞳も、顔を強張らせていた。

しかし、聖は引かなかった。

 珂翠は聖の前にあった布巾を取り上げ、何の躊躇いもなく、自分の横にいた眞留美に手渡そ

うとした。


「どうぞ、食べてください。」

「……。」


 眞留美の眉間の皺は、より深く刻まれた。どんどん深くなる皺を見て、珂翠もその尋常では

ない雰囲気に、手を引っ込めた。


「えっと…皆さん?食べないのですか?」


 珂翠の弱々しい声が、静まり返った小屋に悲しく響いた。


「貴方、どれだけ鈍感なの?この状況が解らない?」


 眞留美は一気に火が付いた様に、珂翠を睨み付けた。

目の前にいる純粋で穢れのない眼差しと、当たり前の様に差し出された高級食材。そして何

より、亜理沙の事を考えると、眞留美はこの少年に敵意を持つ事でしか、自分の感情を抑える事がどうしても出来なかった。眞留美が毒を吐いてしまう前に、眞留美の前に坐っていた霧月が眞留美を収める様に、穏やかに口を開いた。


「眞留美さん落ち着いて下さい。珂翠さん、御免なさいね。でも、ご理解頂きたいのです。亜

理沙さんがおっしゃった事を、もう一度良く考えて下さい。私は教会で明日の食事も間々なら

ない方々から、御布施を頂いて生活しています。神の名の下、何の苦労もせずに、貧しい人々

から食料を奪っていると言っても、過言ではありません。」

「それは違いますよ!」

「珂翠さん。そうなのですよ!

私も、罪の意識に苛まれています。でも、私は生きる為にそれを食べています。

この食べ物が、一体どういう物か?貧しい者に分け与える事は、確かに善行ですが、相手の気持ちを考えた事はありますか?

貴方には、この食事が無くても明日になれば、また食事が用意されるのでしょう。

それを少し分け与える事で、救われる命もあるでしょう。でも、それだけでは亜理沙さんがおっしゃっていた言葉を、なんら理解していない行為だと私も思うのです。

貴方が貴族だから悪いのではないし、食事が出来る事が悪いのでもありません。

その食事をどういうつもりで、分けてくださるのかが大切なのです。

貴方ならきっと解るでしょう。だから、私はこの御食事を、心から感謝して頂こうと思います。私も、貴方に近付きたいから。それが、歩み寄るという事だと私は思います。

皆様も、どうぞそれぞれにお考えになって、頂きましょう。」


 珂翠は霧月の言葉を噛締めながら、やはり亜理紗の事を思い浮かべていた。


『お兄ちゃん。そういう事を何ていうか知ってる?同情っていうんだよ。哀れんで見下して…善意ぶった同情だって事、知ってた?』


 亜理紗の固まった、悲しい笑顔が蘇る。

 自分はあの幼い少女のプライドを、土足で踏みにじってしまったのかもしれない。


 珂翠は胸が締め付けられる思いで、言葉が出なかった。

 夜の村に初めて降り立った時、あの美しい少女が、この荒みきり、野蛮な輩の中で懸命に生きる姿に、哀れみを覚えたのは事実である。

 珂翠はどこを見るでもなく視線を浮遊させたまま、溢れ出る涙を制御できずに零し続けた。哀れみではなく、同情ではなく、悲しみでもなく、それは怒りの涙だった。

 

 珂翠の姿は、一切の戸惑いを隠さず、絶望に打ちひしがれている惨めな青年だった。


「ほら折角ですので、頂きましょう。」

 重苦しい沈黙は、瞳の笑顔で破られた。取り分けられた食事を隣にいた霧月に渡し、その奥の詩絵にも渡した。

「勿論、太郎ちゃんにも上げるからね!太郎ちゃん~?こっちにおいで。太郎ちゃんは、本当

に御行儀の良いワンちゃんでね、どんなにお腹が空いていても、ちゃんと待てが出来る子なの

よ。賢いわよね。」


 瞳は亜理紗を追って扉付近でお座りをしたままの太郎を呼び寄せ、太郎の頭を撫でながら太

郎の分の食事を差し出した。


 それぞれの思いを胸に、ゆっくりと取り分けられた少量の食事を口に運んでいく。

 珂翠の横に坐っている眞留美は、案の定、一切食事に手を付けようとしなかった。


 珂翠が無意識を装いつつ詩絵に視線を送ると、眞留美同様に食事に手を付けていなかった。

それも仕方の無い事だと、珂翠はゆっくり視線を聖の方に向けた。

 これ以上、この場に自分達が居座る事が果たして最善なのか。

この空間で珂翠と聖の存在は、明らかに異質であり、邪魔者でしかない事は明白である。

 

「それじゃあ、あの、僕らはもう帰る事にしますね。」


 珂翠に残された道は、もうそれしかなかった。少なくとも今は、一秒でも早くこの場から抜け出したい気持ちで溢れた。


「あら、もうですか?でも、まだ外は暗いですし、夜は危ないですから、せめてもう少し明る

くなってからでも宜しいのでは無いですか?それに、亜理紗ちゃんがお連れになったお客様で

すしね。」

 瞳の声はとても優しかった。それが例え、社交辞令であったとしても、珂翠はほんの少しだけ、救われた様な気分がして、恥かしそうに涙の後を拭った。

 既に、珂翠の心はボロボロだった。この小屋にいて、窒息しそうな気分に耐える位なら、暗闇に潜む獣達に脅えながら城に帰る方が良いと思えた。

 冷静さを欠いている珂翠には、聖の思考さえ解らない。

 今になって、聖との空白の時間が重く圧し掛かる。自分の知らない聖が、少なくともこの瞳との間には存在したのだ。兄弟のように共に育ったとはいえ、聖は珂翠より広い世界を知っている。珂翠の知らない苦しみも、知人も、自由も、想像出来ない沢山の事を。

 今は、聖の存在さえ遠くに感じ、珂翠は孤独に震える思いだった。

 自分の知らない聖が、瞳との空白の数年間を埋める様に、寄り添い合っていた。


 珂翠の両親が言っていた。

『農民と貴族がお互いに理解し合う事など、絶対に不可能なのだ』と。

 

縋る様に聖を見つめた。

それは哀願に近いものであった。

『共に帰ると言って欲しい。』

 珂翠には、その思いしかなかった。


「折角だけど、瞳。俺たちは一旦帰るよ。いきなり訪問して、迷惑かけちゃったみたいだし。今度は明るい時に、ゆっくりと来ることにするよ。」

「…そう、ですか…。」

 瞳の表情が少しだけ曇る。

「珂翠、じゃあ、帰ろうか。」

 聖が珂翠の思いを汲み取り、受け入れ立ち上がる。


 その後を、珂翠はまるで逃げる様にして少女達の間をすり抜けて、小屋を出る。

少女達にろくな挨拶もしないまま、暗闇を二人で手探りのまま歩いて行く。

 

 珂翠が住む城が目の前に現れた時、松明で照らされている城を見て、珂翠は身震いを起こした。薪が減っている為明かりを最小限に抑えていたが、今までの暗闇に比べれば眩し過ぎる。珂翠は思わず溜息をついた。


「眩しい…ね。」


 珂翠がポツリと漏らしたその言葉を、聖は聞き逃さなかった。


「なぁ聖。この城は空っぽだよ。外見だけの、食べられないお菓子の家さ。防腐剤まみれで、

誰も食べられない。なぁ聖。俺はいつから防腐剤漬けになっていたのかなぁ…解るか?」

「カス…」

「ずっとだよ!」

「そんな事…」

「僕は!防腐剤まみれの、ただの愚か者だ!クソ――!」

 珂翠は砂利の上に崩れ落ちた。

 暗闇の中、珂翠の悲痛な叫び声が響いた。

 これだけ騒げば、その内、見張りの兵士が珂翠と聖は見付かるだろう。

そうなれば珂翠はともかく、聖は貴族の皇子を夜の村に連れ出した罪に問われるだろう。そ

れでも、聖は珂翠の絶叫を止めようとはしなかった。

 この腐りきった世界を、心の底から愁い、涙を流すこのちっぽけな皇子様を、誰に止める権

利があるというのか。



聖はただ、叫び続ける珂翠を見守る事しかしなかった。



アリア預言の書 第十二章百四十三節


『泣きたいだけ泣くが良い。

思う存分に後悔をするが良い。

枯れるまで涙を流し、こびり付いた垢を綺麗に洗い流すのだ。

 無力である事を恥じる事は無い。

人は皆、無力である。

だからこそ、美しい。

だからこそ、優しくなれる。

無力から始まる先にこそ、無限の可能性が存在する。』




第2章 運命の輪―WHEEL OF FORTUNE―


あの晩から、亜理紗は眞留美達の前に姿を現さなくなった。

眞留美が亜理紗の家を訪ねても、人の気配はするが返答はない。しかし、毎朝瞳の家の前に、

布巾に包まれた食料が置かれる様になった。


「いっその事、ヴィイラ橋に行ってみる?」


眞留美の落ち込みようは酷く、詩絵は居たたまれずにそう投げかけた。

食事を運んで来るという事は、確実に客を取って居るという事になる。そうなれば、仕事場に

押しかけるのが一番確実な方法だ。

 しかし、眞留美は頭を垂れたまま、ゆっくり横に振る事しか出来ない。

「それは無理だよ。」

「どうして?心配なんでしょ?」

「会って何て言うのよ!身体を売るのは辞めて、とでも言えって言うの?それじゃあ、同じ事

の繰り返しじゃない!」


毎日決まって同じ時間に瞳の家に集り、亜理紗が運んでくれる食料を食べ、畑再生の為に試行

錯誤を繰り返す日々は続いているが、一向に進展は見られない。

新鮮な種も、汚染されていない土も、栄養のある肥料も何一つ手に入ら無い。何の成果も出せ

ないままで、亜理紗に見せる顔が無い。

少女達の中で、現実を生きているのは、亜理沙ただ一人だけ様に感じられた。自分たちは、夢

を追い駆けているだけで、現実逃避しているのではないかという、脅迫観念が拭いきれない現

実だった。

 


「霧月ちゃん遅いわね…」 

体調の優れない瞳は、横になりながら天井を眺め、誰に言うでもなく独り呟く。


その頃、教会にも終焉の時が迫って来ていた。

教会に集まる人々は日に日に少なくなり、遂に誰も説教を聴きに来なくなった。


誰も訪れない寂れた礼拝堂に、霧月は佇んでいた。

教会の倉庫に保管されていた蝋燭の在庫も底を尽いた為、明かり一つない教会には、埃まみ

れのステンドグラスが、床に鮮やかな影を落としている。

霧月がまだ幼かった頃、このステンドグラスの輝きが眩しくて、床に映った天使の絵柄に寄

り添う様に昼寝をして、母親によく怒られたものだった。霧月は、中心に描かれている女神よりも、この世界の創造主よりも、その周りで自由に翼を広げた天使の姿が好きだった。


霧月はステンドグラスを見上げた。

いつから自分は、礼拝堂の中心に飾られているステンドグラスから、目を逸らす様になった

のだろうか。

変り行く時代の中で、霧月の回りも大きく変化し続けてきた。

実母と貴族の駆け落ちに始まり、瞳の病気とご両親の他界。実父である牧師からの暴力。そして、村の変貌。その全てが急速に進み、救いを見出す事は不可能だと思っていた。そしていつからか、この世が滅亡するのならば、貴族も農民も母親も父親も、皆纏めて消えて無くな

るのなら、それで良いとさえ考え始める様になっていた。

霧月は、大切な何かを置き去りにする事を余儀なくされてきた。だから、麻痺してしまって

いた。美しさを感じる心も、哀愁に心震わせる感情も、ステンドグラスの中の物語に思いを馳せる事も。


霧月はステンドグラスが映る床に跪き、創造主の頬を撫でた。


「私は、天使で在りたいのです。誰かを支え、導く事の出来る天使で。

そして世の中には、貴方が必要なのです。指揮を取りこの世を変えていく存在が…彼なら、

もしかしたら…。」


その時、礼拝堂の大きな扉が勢いよく開いた。霧月が顔を上げると、沢山の腕章をつけた兵

達が、乱暴に礼拝堂の中に入って来た。


「何ですか貴方達は!ここは神聖なる神の領域ですよ!」


霧月の声どころか、存在さえ無視して、兵達は礼拝堂の中にある物を、色々な工具を使って壊し始めた。目に付く物は構わず分解し、外に運び出す。その統制の取れた動きに、霧月は唖然とした。


「何を…してるの…?何が…起こっているの??」


霧月が止めようと一人の兵の腕を掴むと、その倍以上の力で払いのけられ、ステンドグラスの映る床に霧月は倒れ込んだ。


「一体、何のつもりですか!」


霧月はそれでも怯まず声を上げると、指揮官らしき男が霧月の前にやってきた。

「牧師は居るか?」

その余りにも横柄な態度に、霧月は怒りを感じ、黙ったままその男を睨み付けた。男は、返事をしようとしない霧月の襟を掴み上げ、唾が掛かる程、顔を近付けると怒鳴り出した。

「牧師は何処に居るかと聞いている!」

霧月は、それでも睨み返すだけだった。

「良い度胸をしているな。余り俺を怒らせると…その綺麗な顔に傷が付くぞ?」


「何をしている!」

指揮官の男が霧月の頬を掴み、撫で回している時、異常な音を聞きつけた牧師が自室から駆け出してきた。

男は、牧師の姿を確認すると、舌打ちをして霧月を突き飛ばした。


「一体これは何の騒ぎだ!」

牧師は早足に指揮官の男に詰め寄って行くと、男は牧師の目の前に貴族の紋章が入っている一枚の紙を見せ付けた。


「没収命令が出ているので、速やかに運び出させて貰う。」

「没収命令だと?そんな馬鹿な、何かの間違いだ!」

「間違いじゃ無い。」

「此処に在る物は、神の授かり物、神の祝福だ。お前達の様な野蛮人が、触れて良い物では無

い!」

「残念だが命令だ。」

「命令?そんな事、在る訳…神の教えを私は、彼らに説いて…」

「口では何とでも言える。この世の中、弱肉強食で出来ている。口先だけで崇められる時代は

終った。よし、お前らここに有る物全て運び出せ1」


「ヤメロ!ヤメテクレ…止めろ!」


慌ててふためく牧師は無様だった。

兵士に掴みかかれば投げ飛ばされ、駆け寄ろうとすれば足元に転がる兵士達が持ち込んだ工

具で躓き、聖水を溜めている水瓶を取り戻そうと引っ張れば、聖水を浴びた挙句、そのまま倒れこんで水瓶を割ってしまった。

霧月は、そんな父親をただ見ていた。

父親が余りにも滑稽で、どこか清清しい気分さえした。


「あれどうしますか?取るのはなかなか大変そうですよ?」


声のする方に視線を送ると、一人の兵が天使のステンドグラスを指差していた。


「…だめ、やめて…それだけは…。」


霧月は虫の鳴くような声で呟く。


「そうだな、何かの原料にはなるかもしれないから、砕け!」


残酷な指揮官の言葉に心が凍る。しかし、それを阻止する力を、霧月には無い。


運び込まれた、巨大な鉄の玉が天使達を襲う。

ステンドグラスは、悲鳴を上げながら崩れて行く。何度も何度も、鉄の玉はステンドグラス

を殴りつけた。その度に、天使達の悲鳴が教会に響いた。


霧月を包み込む色鮮やかな影が、崩れて行く。

女神の手が掛け、次に創造主の上半身が全て消え去った。天使の翼には黒い忌々しい線が入

り、崩れ去るのも時間の問題だった。

床に映った色鮮やかな影を、細い指でなぞっていた霧月は、天使の羽に刻まれたひびが蜘蛛

の巣の様に広がった瞬間、時が止まった様だった。


色彩豊かなガラスが、虹色の雨の様に降り注いで消えていく。


「ああ…さようなら…天使さん…。」


霧月は胸に手を当て、残酷な運命を辿った天使達に祈りを捧げた。その光景は、いつか訪れ

る、自分達の運命を髣髴とさせた。だから霧月は、涙を流しはしなかった。


嵐の様な一時が幕を下ろした後の教会は、無残で、終焉の時に相応しい姿を晒していた。


神を崇める十字架はおろか、床の板まで剥がされ、土台が丸出しになってしまった。

雨風は凌げても、人間が生活する空間では無い。ただ一つ、救いがあるとすれば、兵達が地下室を見逃した事だ。

牧師が地下室に保管していた、今では何の役にも立たない金や、保存の利く食べ物は難を逃

れる事が出来た。ただ皮肉な事に、霧月を虐待する為に使っている道具一式も、見付かる事無く牧師の手元に残ってしまった。


牧師は狂った様に、土台だけになった教会中を往復して、頭を掻き毟って叫んでいた。


「貴族の奴らめ…ふざけやがって。腐った豚共が!ぶっ殺してやる!」


牧師は常に貴族に尽くして来た。高級品が手に入った頃は貴族に贈呈し、貧困層の村人の為

にと譲渡された土地も、貴族に横流しして機嫌を取ってきたのに。

しかし現実は余りにも酷だった。貴族連中は我が身可愛さに、教会を切り捨てる判断を下し

たのだ。


 いつか、こんな日が訪れると霧月は思っていた。

 報いを受ける時が、遂に来たのだ。

霧月は何故か、安らかな気分だった。

 教会のシスターとして、信じられなくなった神を説き続ける日々がやっと終わる。

 これでやっと詩絵と眞留美と瞳、そして亜理紗と肩を並べて歩ける気がした。


それが、霧月は嬉しかった。


「何を…笑ってる…?そんなに可笑しいか?」


 牧師が鬼の形相で立っていた。


「違います。そんな…。」


 牧師は霧月の言葉を遮り、この先の見えない恐怖と怒りを、ただ霧月を殴る事で発散する為

に霧月を殴りつけた。


「お前、さっきの兵士に色目使ったんだな?ええ?綺麗な娘だって言われていたな!」


 霧月の前髪を掴み、白い頬を強くつねりながら牧師は声を荒げた。


「お前が、綺麗で居られるのは誰のお陰だ?俺が、お前に住む場所と飯と、最大限考慮してや

ったお陰だろ。なのに、お前は俺の教会を壊す連中に、色目を使ってたんだな!」

 霧月は、力いっぱい顔を横に振ろうとするが、霧月が力を入れれば入れる程、牧師は顔を抓

り上げた。


「もう終わりだ。私達はこれで破滅だ!あの貴族のクソ坊主に色目使って…自分だけ貴族に取

り入ろうって魂胆なのか?

この阿婆擦れ!そうはさせるか!お前のその顔を、滅茶苦茶にしてやる。そうすれば、あの

クソ坊主だってお前なんて相手にしないぞ!来い!」


 牧師は、霧月の前髪と頬を離した換わりに、長い後ろ髪を掴んで引っ張って行く。


 牧師は、霧月が幼い頃から癇癪持ちで、嫉妬深い男だった。教会で説教を説く時は、偽善的

な笑みを披露し、村人達を騙し、家庭に入ると横暴で、傲慢な父親に変貌した。母親が居る頃

は、その矢先は全て母親に向けられた。男と言葉を交わした。視線を合わせた。色々な理由を

付けては暴力を振るっていた。

 霧月の母親は異邦人の踊り子で、とても美しく、誰もがその妖艶な流し目に心を奪われ、彼

女の虜になった。牧師は、そんな彼女を射止める為、異教徒であった彼女に無理矢理清めの儀

式を施し、彼女を妻に娶ったのだ。


 母は父への憎しみを、幼い霧月に刷り込んだ。


『貴方の父親は、私を騙したのよ。清めの儀式と偽り、私を犯した。可哀想な娘、霧月。

神に祝福されない子。だから、忘れないで…神が貴方を見捨てても、貴方の事は、あの方が

見捨てないで下さるわ。*+¥#&%$様は…。』


『誰?』


 どうしても思い出せない。

母親が崇拝していた、異教徒の神の名。

 でも、それを確認する事はもう出来ない。

母親は霧月を置き去りにして、貴族の男と駆け落ちしてしまったのだから。


 霧月は地下室の天井に鎖で吊るされ、ただ母親の事を思い出していた。

 鞭が背中を這いずり回る度、電気ショックを受けた様な痛みが襲ってくる。母親も、同

じ様な目に毎晩合わされていた。その度に、『*+¥#&%$様』と呟いていた。

 それを、魔女狩りの拷問器具の下に身を潜め、涙で滲む母親の残像と、耳に突き刺す鞭の撓

る音を聞いていたはずなのに…。


「思いだ…せない…。」


 霧月は気を失いかけながら、必死に母親の事を思い出そうとしていた。

 何故、今更思い出そうとしているのか、霧月にも全く理解出来ない。自分を捨てた母親は、自分を愛してくれていたのか?

 ステンドグラスの天使に寄り添い寝転ぶ霧月を怒る時の顔は、子供を注意する母親の顔では無かった気がする。


神を憎み、天使を嫌っていた母親。


「おかあ…さんは…?」


 霧月が無意識に口走った言葉を、牧師は聞き逃さなかった。

 顔を真っ赤に腫らせて、大きく鞭を振り上げる。


「このクソアマ!」


 牧師は鞭を床に叩き付けると、近くにあった石を叩き、藁に火を付けた。

 霧月は母親にそっくりだった。容姿も、雰囲気も、仕草も、何より折檻されている時のその姿が余りにも似ていた。

 男を狂わせる魔性の女。それが、霧月の母親であり、牧師が愛し過ぎてしまった妻だった。

 

「霧月。知っているか?その昔、魔女狩りが行われていた頃、ここで捕まえてきた魔女を拷問

したんだ。自分が魔女である事を認めさせ、仲間の名前を吐かせた。魔女が、その後どうされ

るか…知ってるか?」


 藁に燃え移った火は、どんどん強くなって行く。


「魔女はな。火炙りにされて、灰になる迄、燃やされるんだ。」


 牧師は炎を持ち上げ、霧月の顔に近付ける。

「あいつは魔女だった。お前の母親は…魔女だったんだよ!」


 牧師の顔が炎によって真っ赤に見える。

 まるで地獄の業火で燃やされるのを待つ、罪人の様な情けない顔が、炎の向こうに映し出さ

れた。


「お前の母親は、男を魅了し惑わし狂わせ…骨の髄までしゃぶり尽くす、魔女だったよ。」


 どこか悲しそうで苦しいその視線から、霧月は逃れる事が出来なかった。


「だから、霧月。お前も魔女なんだよ。」


 霧月は自分の瞳に映る父親の姿を想像した。炎の中で、苦痛を凌ぐ悲しいその姿。


「さぁ、もう終わりにしよう!あいつの呪縛から、解き放たれよう。」


 霧月はゆっくりと首を横に振る。しかし霧月には、唯父親が狂ってしまったのだとは、思え

なかった。母親に鞭を振り下ろす父親の姿を、ずっと見てきた霧月には解っていた。


 彼がどれだけ彼女を愛していたのか。

そして、憎んでいるか。

 

「ダメ…私は、此処で終れない。私は、お母さんじゃない…私は、お母さんじゃないよ!お父

さん!」


 霧月が出した答えは、父親である牧師の耳には届かない。


「ああ、俺には出来ない。お前の美しい顔を焼くなんて…ああああ…すまない!」


「お父さん!」


 霧月は精一杯の声を振り絞った。

実の父親を、初めて『お父さん』と呼んだ。

 しかし、牧師の耳に霧月の声が届く事は無い。

「終わりにするんだ。もう終わりだ…終わりだ…終わり…オワリ…だ。」


 牧師は狂った様に、地下室のあちこちに火を付け始めた。古く乾いた木材で出来た拷問器具

や床や柱は、あっという間に炎の海と化していった。教会で行われた不道徳な行為、その全て

を塵に戻すかの様な勢いで燃え上がった。

 牧師はその光景を見ながら、笑い転げた。意味不明な言葉を叫びながら、自ら火の海へと飛

び込んで行き、火達磨になって転げ回った。


 鎖に繋がれた霧月は、身動きが取れない。実の父親が焼け死ぬ光景を、ただ見つめる事しか

できなかった。しかし、干渉に耽る暇も無い。

炎の波は、霧月の足元まで押し寄せてきていた。

両手は鎖に繋がれている。

脱出は殆ど不可能な状態だった。


 霧月が死を覚悟したその時、目の前に広がる赤く黄色く橙色に輝く光が、創造主を称えるス

テンドグラスの後光に見えてきたのだ。


 太陽の光に照らされたステンドグラスの影が、霧月を包み込んでくれた、暖かな日々。

その横には何時も瞳が居てくれた。


 つまらない教会の説教を聴きながら、天使の影を観ていた幼い霧月の手を優しく握ってくれたのは、何時も瞳だった。


「つまらないね…これが終ったら、中庭に行こうか?」


 瞳はつまらなそうにしている幼すぎる霧月に、いつも優しくそう耳打ちしてくれた。


 身体の弱かった瞳は、中庭のベンチに座って、霧月を優しく見守ってくれた。

霧月はそれだけで十分幸せだった。両親からは、決して得られない暖かさを、瞳は惜しみなくくれる唯一の存在だった。

 しかし、暖かい日々はそう長くは続かなかった。

 瞳が体調を崩し、彼女の両親が疫病に侵された時、自分は何もして上げられなかった。

 それでも瞳は優しく微笑み、弱音一つ吐かずに、ただ傍にいてくれた。


 燃え盛る炎の中に走馬灯が移る。それは、瞳との掛け替えのない思い出だった。


 この世界に生きる総てのモノが滅びるのなら、それでも良いと思っていた。

 でも霧月は、瞳だけは救いたいと願った。


 両手を拘束している鎖が軋む。天井に回った炎が、鎖の留め金を熱し始めた。


 激しい炎からは、白と黒の煙が立ち上り、霧月の呼吸を止めにかかる。

 息苦しさの中、民衆の冷たい眼差しを思い出した。


 霧月に石を投げ付け罵倒した、あの冷たい視線。道で教えを説く時は、常に息苦しさを感じていた。窒息しそうな思いをしながら、神の名を唱え続けた。

 まさに、生き地獄のような日々。

 あそこから、霧月を救い出してくれたのは詩絵だった。


 口数が少なく照れ屋な詩絵だが、霧月を真っ直ぐ見るあの強い眼差しは、どんな言葉よりも多くを語っていた。そして、自分の傲慢さを気付かせてくれた。大切な、大切な友人。


 霧月は、自分の頬に涙が染み込むのを感じた。

それは、煙のせいではない。込み上がる熱い涙だった。


 眞留美は自分を受け入れる、強さと弱さを教えてくれた人だった。

 初めて言葉を交わしたあの時から、包み隠さず人を受け入れる姿勢を見せてくれた。その優しさと、明るさに勇気を貰った気がする。


 そして亜理紗は、怖かった。

 亜理紗こそが現実だった。霧月が避け続けてきた現実が、目の前に現れた気がした。

 だからこそ、受け止めたいと思った。亜理紗の闇と、真っ向から向き合いたいと霧月は思い始めていた。


 霧月の頬をつたう涙は、より暖かく溢れ出て止まらない。


「…タス…タスケ……助けて…!」


 鎖がどんどん軋み始める。炎は霧月の目前に迫っていた。


「誰か、助けて!」


 霧月は残された力を振り絞って叫んだ。我を忘れ、叫びながら身体を左右に大きく振った。


「助けて助けて!助けて!!」


 手首に鉄の鎖が食い込む。服に火が燃え移った。もう既に、煙で出口は見えない。

 それでも、叫び続けた。


「タスケテ――――!」


 その時だった。

 頭の中を珂翠の笑顔が過ぎった。それと同時に、鎖は根元から解け落ちて、霧月は床に崩れ落ちた。

 人はこれを奇跡と呼ぶのであろう。霧月は、両手にぶら下がった頑丈な鎖を見つめた。

もはや火達磨になり、炎の海へと溶け込んでしまった牧師の姿を確認する事はできない。

霧月も、かろうじて出来た炎の隙間に入り込んでいるだけの状態だった。それでも、何故か恐怖は感じ無かった。


 真っ白な思考の中で、霧月はポツリと漏らした。


「…あり…が……とぉ…。」


 その後、どうやって教会から脱出したのか、霧月は覚えていなかった。無我夢中に、炎の中を走り抜けた気もするし、そんな事はしていない気もする。ただ確かな事は、霧月は炎の中から、無事に生還していたという事だけだった。


 霧月の意識がはっきりとした時には、燃え盛る教会の前に座り込んでいたのだ。


 炎に包まれた教会は美しかった。火柱は、祝福を与える女神の様に暖かく、今にも崩れ落ちそうな教会の姿は、厳しさをもった創造主の様で、夕焼け空に立ち上る煙は、自由に翼を広げた天使に見えた。


「…キレイ…。」


 霧月は、教会が全て焼け落ちて灰になるまで、そのまま座り込んでいた。

 父親と母親と教会という枷から開放され、新しい運命が回り始める、まさにその祝福の時であった。



アリア預言の書 第九章十八節


『悪なるものは塵へと返るであろう。

 善なるものは光の元へと導かれるであろう。

 迷ってはならない。己の信じる道を偽ってはならない。

 偽りこそ、大いなる悪の道へと誘う力となる。』



 丘の上で燃え盛る教会を、村人達はただ見上げているだけだった。

 天国に近い存在の教会が、地獄の業火に燃え落ちる様を、神から見捨てられ、腐った土地に犇めき合う人々はただ見つめていた。憎むべきは教会では無い。しかし、贅沢な生活を送っている牧師達に、同情する気も無い。そして、いつ我が身に降り掛かる災いに脅えつつ、今回は難を逃れた事に、喜びと優越感を覚えるのであった。


「教会が燃えてるってよ。」

「何で?」

「貴族から、見捨てられたんでしょ。」

「ざまぁないな。」

「で、火元は?」

「さぁ。」


 村人達のヒソヒソ声が、亜理紗の耳に届いた。

 亜理紗は教会がある高台を見た。

 夕焼け空に、黒鉛が立ち昇っている。

 まず亜理紗の頭に浮かんだのは、眞留美達はこの事実を知っているのかという事と、霧月は無事なのかという事だった。

 しかし亜理紗の左手は、客である貴族の男にガッチリと握られていた。


「ねえ、あの…亜理沙ね、ちょっと用事を思い出しちゃったんだけど…。」


 亜理紗はお決まりの上目使いで、貴族の男に甘え始める。


「直ぐ戻るから、ちょっと…だけ、待ってて貰えないかな?」

「ダメだ!生意気な事を言うな!」

「ホントに直ぐ戻るから。ね?」

「ふざけるな。商売女の分際で、客にたてつくな!」


 貴族の男は、掴んでいた手を思いっきり引き寄せ、空いている方の手で亜理紗の頬を引っ叩いた。

「キャ!」

 亜理紗はよろめいた。しかし、男は亜理紗の左手を軸に振り回し、腰を担ぎ上げた。そのまま路地裏まで連れて行くと、何のまえぶれもなく、強引に亜理紗を地面に叩き落し服を破き始めた。


「ヤメ!ヤダ!!嫌だ!!」


 亜理紗が両腕で抵抗をすると、男は亜理紗の顔に何度も平手打ちを食らわした。こういう行為をする客は、決して珍しい訳では無い。しかしこの時程、亜理紗は自分を惨めに思う事はなかった。普段ならば、自分に不利な事はしない主義だ。でも、今日ばかりは、必死に暴れた。暴力を振るう客に抵抗するのは無意味だし、反対に挑発してしまう事を誰よりも亜理紗は理解している。己の力を誇示したい相手に対して拒絶は、逆効果だ。

 しかし惨めで情けない唯の娼婦だとしても、亜理紗には捨てられない大切なモノがあった。それは、自分を必要としてくれる仲間、そして唯一の居場所だった。


「イヤ――――!」


 目の前に、教会の残像がちらつく。

 する筈のない焦げ臭い匂いを感じる。

 喉が詰まる…。目に沁みる…苦しい!

苦しい!

 炎の中に人影が揺らいで居る。


 男の手が亜理紗の首に回された。

亜理紗は、その手を思いっきり引っ掻いた。


「ダメ…助けなきゃ!霧月ちゃんがまだ、まだ残ってる…残ってるの!知らせなきゃ!お姉ち

ゃん達に知らせなきゃ…!」


 亜理紗は叫んだ。

 届く筈もない眞留美に、助けを求める様にもがき、男の腕をすり抜け様と試みた。

 今は行かなきゃいけない!

 もし、教会が燃えている事に気付いていなかったら。

もし、霧月があの中に取り残されていたら。亜理紗の生きる理由が無くなってしまう。


 その時、思いもよらない方向から、強い衝撃を受けた。

 亜理紗の柔らかいホッペに、黒い塊に見える、筋ばった拳が突き刺さったのだ。口の中は鉄の様な味が充満し、唾液以外のもが溢れてきて思わず吐き出した。


 痛みよりも、恐怖に負けそうになる。

 ショックで涙が止まらない。


『私、一体、何してるんだろう…?』


 人形は意思を持ってはいけない。もし意思を持ってしまったら、必ず痛い目に合う。

 人形は親しい人を作ってはいけない。必ずお互いを苦しめてしまうから。


『でもね、亜理紗は…。』


 亜理紗の視界は、一気に生気を失った。


『もう、何も見えない…。』


 抵抗する事を一切止め、されるがままの人形に形を変えた。

 これでもう傷つかないで居られる。

『デモネ、アリサモ…。』


 男の異臭を放つ息が、亜理紗の全身を包む。もう、逃げる事はできない。

 亜理紗は男が興奮すればする程、冷めて行く。


『デモ、ネ、アリサ、モ、ホントウハ、ニンゲンデ、イタインダヨ。』



 畑再建のメンバーは、大きな問題の解決を見出せないで居た。村中を回って集めた種も、土も、何一つ効果は見られなかった。

そして何より、農作物を作る知識が彼女達には欠けていた。

 何度意見を交換しても、試しに植えてみても、何も上手く行かなかった。

 そして、もっと最悪な事に、瞳の病気は日々悪化して、呼吸をするだけで精一杯な状態になっていた。最近では瞳の看病が大変になり、詩絵だけの手には負えず、眞留美に泊まって貰う日が続いて居た。


 眞留美と詩絵は、教会で起こっている事も、亜理紗の身に起こっている事も、何一つ知らずにただ死んだ土地を眺めていた。

「霧月ちゃん。今日は来ないのかな?」

 詩絵は腐りかけの柵に座って、膝に頬杖を付いていた。

「んん…。」

 眞留美は、その横で柵に寄りかかり、広大な土地をただ眺めていた。

「あの…さぁ。」

 詩絵は眞留美の顔色を伺う様に、身体を乗り出し眞留美の方を見た。

「んん?」

 眞留美は相変わらず、詩絵の方を見ようとはしない。

「亜理紗の事だけど…。」

「ああ、あの、この間はごめんね。つい、感情的になっちゃって。」

「あ、ううん。全然気にしてないから大丈夫。そうじゃなくてね…。」


 眞留美は、言葉につまった詩絵を伺うように顔を傾けると、真っ直ぐな詩絵の視線と眞留美

の迷いに包まれた視線が絡み合う。

「亜理紗に対して、後ろめたい気持ちは持たないで上げて欲しいの。」

「え?」

 余りにも唐突な言葉に眞留美は困惑し、眉間に深い皺を浮かべた。

「感謝…して上げて欲しいの。それが、亜理紗の望みだと、私は思う。」

「……。」

 

 眞留美は近所に住んで居た亜理紗の事を、幼い頃から可愛がってきたが、自分と亜理紗の間

には、何か大きな食い違いがあった様に感じる。それを、修復出来なかった自分が、歯痒くて

仕方がなかった。そして、何よりも惨めに思えた。


 そんな眞留美の思いを知ってか、詩絵は言葉を続けた。


「私は、生まれも育ちも路上だったから、亜理紗とは立場も感覚も違うとは思う。私には、本

当に失うモノなんて何一つ無かったから。その代わり、守るものも無かった。でも亜理紗は、

色々なモノを背負っていた気がする。」


 詩絵の真っ直ぐな言葉が、痛い。


「でもね、亜理紗って、同業の仕事をしている仲間とは絶対に連るまない一匹狼だったの。

私は盗みやスリが主で、亜理紗は身売りだったから、そんなに接点は無かったけど、ある事

件をきっかけに仲良くなったの。」


 眞留美の眉間の皺が、少しずつ和らいでいった。


「私の仲間の一人が盗みにしくじって、皆で逃げている途中にね、他の仲間も捕まってしまっ

たの。私も兵に追い詰められちゃって、絶体絶命って時にね、亜理紗が私を助けてくれたの。その私を追い詰めていた兵士は、亜理紗の顧客だったらしくて、今回は見逃すよう口を利い

てくれたんだ。…あの時の亜理紗は、凄く…嬉しそうだった。私には解らないいけど、亜理紗

がどんな取引をしたのか…。顔も失らない私の為に。それから、たまに…食事を分けに来てく

れたりするようになった。」


 詩絵の眼差しが、少し曇った様に見えた。


「多分亜理紗はね、誰かの役に立つ事で、生きる希望を見出しているんだと思う。

亜理紗は強い精神の持ち主だけど、それは眞留美ちゃんが居るから強く居られるだけで、貴

女を失ってしまったら、彼女は壊れてしまうと、私は思う。亜理紗から両親の話は聞いたことないけれど、お姉ちゃんが居るって楽しそうに話してくれた事はよくあったから。」

「私にどうしろって言うの?」


 眞留美の眉間に再び深い皺が刻まれた。

二人の間に沈黙の時間が流れる。


「どうもしないで良い。唯、そのままで居て上げて欲しい。」


 眞留美は困惑した。それは、亜理沙にと言うよりは、路上生活を強いられ、命の危険を常に

感じながら生きた、詩絵という少女に対してだった。

 

眞留美にとっては、詩絵と亜理紗が似ているように見えた。常に誰かの事を考えて生きてい

る。そして嫌味でも、押し付けでも、優越感でもなく、ただ純粋な優しさに溢れて居る。


「詩絵。あんたもね…あんたも、人の事ばっか気にしてないで、自分を大切にしなよ。よく解

んないけど、詩絵は、綺麗過ぎるよ。もっと人間らしく生きても良いんじゃないかな。」


 眞留美自身、何故そんな事を言ったのか解らなかった。しかし、言い終えた後で何とも言え

ない満足感を覚えていた。自分の意思で言ったのか、そうでは無いのか、その言葉が、これか

らの自分達に、とても重要な事だと思えたのだ。


『人間らしく生きる。』


 詩絵は満面の笑みを浮かべ、眞留美の手を握った。


「アリア預言の書 第五十章二節だね。

『人は欠けた生き物である。故に愚かな間違いを犯す。しかし人は優れた生き物である。共に欠けた部分を補い、許し合い、受け入れることが出来る。人は人らしく生きるべきである。助け合い…』後、何だっけ?忘れちゃった。」


 眞留美はただ微笑み返した。

 『こんな関係が、本当の姉妹なのかな…』と思えた。

 何気ない事で気持ちを通じ合わせ、お互いの欠点を指摘し補い合い、最後は何事も無かった

った様に笑い合えば、元通りに戻れる関係。

 詩絵と居ると、少なくとも相手の心内を探ろうとは思わない。

素直な気持ちで受け入れられた。


「詩絵…ちゃ…」

「詩絵でいいよ。さっきもそう呼んでくれたじゃない?詩絵って呼んで。」


 詩絵は頬を赤らめ、照れる様に答えた。


「詩絵。やっぱり、今まで通りなんて、私には出来ないよ。だって、今まで通りにしたら、亜

理紗に無理をさせる事になっちゃうから。それじゃあ…家族…には慣れないじゃない?

『人は人らしく生きるべきである。助け合い、互いを思い合う。それを、家族と呼ぶ。家族の

愛は、偉大なり。』アリア預言の書 第五十章二節の続きだよ。」


 詩絵の透き通る瞳が、大きくなって、眞留美の真剣な顔を映し出した。

 眞留美は、詩絵の肩に優しく手を掛け、真っ直ぐ詩絵を見つめ、こう続けた。


「じゃあ、私達はもう家族じゃない?同じ目標に向けて助け合って生きて行く。これを家族と

言っても良いんじゃない?」


 詩絵は眞留美の顔を見つめながら、綺麗な顔をクシャっと崩した。眞留美は詩絵が涙を流す

前に、詩絵を強く抱きしめた。

 華奢で頭の小さな詩絵は、力を入れたら簡単に壊れてしまいそうだったが、出来るだけ強く

抱きしめた。それは、詩絵の涙を見てしまったら、眞留美自身も泣きそうだったから。

 

 両親が出稼ぎに行く朝、二人はこうして眞留美を抱きしめてくれた。

 それと同時に、眞留美は気付いてしまった。眞留美は亜理紗を抱きしめて上げた事が無い。

詩絵がそうであったように、亜理紗も人の優しい温もりを知らずに居るのだ。

詩絵の温もりが余りにも愛おしくて、眞留美も声を上げて詩絵に縋りつく様に泣いた。


 瞳は古ぼけた小屋の中で、窓越しに映る詩絵と眞留美の姿を眺めながら横になっていた。頭

痛が、日増しに強くなっていく。そして、身体を起こす事もままならない。

瞳の精神を確実に蝕み始めていた。

 子供の頃に両親を疫病で失った時も、誰も助けてはくれなかった。瞳は、重い身体に鞭

打って、両親を一週間かけて埋葬した。

 幼い頃は仲良くしていた聖も、いつの間にか来なくなり、霧月の母親は失踪し、父親からの

折檻に耐えながら、自分を気遣ってくれる。

 本来ならば、救いの手を貰う側である幼い少女に救われている罪悪感。

だから今更、外を自由に歩いて、畑を作る事に夢を馳せる少女達を羨ましいとは思わない。それよりも、何の役にもたたない自分が、此処に居る事の嫌悪感の方が強くなっていった。

 しかし、瞳は決してそれを表には出さない。自分の存在が、誰かの重荷になる位なら、この

世から消えてしまいたいとさえ思う。その代わり、瞳は少女達が幸せそうに笑ってくれるのな

ら、苦しくても生きて居たいとも思う。

だから、瞳は窓の内側から少女達をただ見守って居た。

 曇りガラスの向こうの世界に憧れを抱きながら、2人の姿を指でなぞる。


二人の姿を見失わない様に…。


 その時、瞳の長い髪を誰かが撫でた。

 瞳はゆっくりと顔を横に向けると、曇りガラスのこっちの世界に居てくれる仲間が居た。

それは亜理紗が残してくれた、犬の太郎だった。


「あら、太郎ちゃん。貴方もこっちの世界に迷い込んでしまったの?」

 太郎は鼻をクゥクゥ鳴らしながら、瞳の髪を舐めた。

「貴方は優しいワンちゃんね。私、ずっと、こちらの世界で生きて来たのよ。この曇りガラス

の向こうの世界にはすっかり行かなくなって。忘れそうになっていたわ。

だからこうして、向こうの世界に居る二人を見失わない様に見ているの。ウフフ…。

変でしょ?」


 太郎は髪を舐めるのを止め、瞳の顔の横に身体を横たえて、上目使いに瞳を見上げた。

「まぁ、側にいてくれるの?太郎ちゃんは、本当に優しい子ね…。」

 瞳は、もう一度曇りガラスを人差し指で撫でた。

「カラスがね…飛んでいたの。可笑しいでしょ?鳥なんて、もう居ないのに。私はカラスを見

たのよ。叔母様の家の直ぐ上に…。それで、叔母様の死を知ったの。だってね、私の両親が亡

くなる直前にも、同じ様にカラスの姿を見たの。

そして、ほら…最近、カラスがまた姿を現したの。次は私の番だって、言っているみたいで

しょ?」


 瞳はガラス越しに広がる、灰色の雲の先を指差して、薄く微笑んだ。

「どうしましょう…。私、このまま終ってしまうのかしらね?まるでこの灰色の空の様にね。

白にもなれない。黒にもなれない。薄汚い…まま?」


 瞳は言葉を飲み込むように唇を振るわせた。犬の太郎しか居ないこの部屋で、何かに脅える

様に肩を震わせ、突然咳き込み始めた。

 口を押さえた瞳の掌の脇からは、鮮やかな鮮血か零れ落ちる。

 瞳は、両手から零れ落ちる血を見て、唇を噛んだ。両親の血がこびり付いた床を拭く昔の自

分を思い出した。


「本当はね…私、平気なんかでは無かったのよ。血が怖かった。独りぼっちが怖かった。

でも…私、言えない。こんな役立たずが、何を求められるの?」


 瞳は、鉛のように重い身体を引き起こし、手にこびり付いた血を、黄ばんだガーゼで擦り落

とした。


「だって何と無く解るもの。聖君はね、私みたいな庶民と仲良くして良い人じゃなかった。霧

月ちゃんは私より年下の子供だった。私も…ただの…。」

 太郎は瞳の汚れた掌を、鼻を鳴らしながら舐めた。

「太郎ちゃんは優しい子ね。ダメね、私…。皆に心配掛けちゃうね。もう、どうしましょう…

えへへ。こんな気持ちもっちゃダメなのに…。ダメなのに…死にたく…ないよ。皆と居たいよ

太郎ちゃん!」


 太郎は瞳の膝に両足を乗せ、瞳の頬を舐め上げた。

瞳は太郎の短い毛に、顔を埋めた。


 本当は、聖にまた会えた事が嬉しかった。

 本当は、詩絵が家で共に暮らしてくれる事が嬉しかった。

 本当は、今こうして皆と同じ時間を共有出来る事が嬉かった。

 でも瞳には、常に置いてきぼりにされる恐怖が付きまとう。


 いつか来る、死を待つ様に…。


 瞳と太郎の止まった時間は、扉の開く音でゆっくりと動き始めた。


「あれ?瞳ちゃん…どうしたの?また具合悪くなった?」


 優しく駆け寄る詩絵と、真っ赤な目を恥かしそうに擦りながら後を歩いてくる眞留美が、対

照的な姿を見せ、狭い部屋をもっと狭くする。でも心地良い。


「何でもないのよ。ちょっと吐血しちゃって、エヘヘヘ」

「ちょっと!エヘヘヘじゃないでしょ!」


 眞留美は詩絵を押しのけて、上体を上げていた瞳を床に寝かせ、額に手を当てた。

「熱が上がってる!まだ雨水あったよね?額を冷やした方が良いわ!」

 眞留美は泣き腫らした顔を隠す様に、よく動いた。

 そんな後姿を見ながら、瞳と詩絵は視線を合わせ、クスクスと笑い合った。


「ちょっ、何を笑ってるのよ!」


 眞留美は眉間に皺を寄せながら、怪訝に二人を睨みつける。それが眞留美の照れ隠しなのは

一目瞭然だった。

 瞳はゆっくりと胸に手を当て、弱く刻まれる自分の心音を確かめた。


『もう少し…このまま動き続けて…この幸せな時間が終る、その時まで。』


 瞳は大げさに振舞った。


「アハッハハ~可笑しいわぁ~眞留美ちゃんたら。ホントに~もう、可笑し過ぎて、涙が出て

きちゃう~。」

「何、人の事をバカにして!」

「だって~眞留美ちゃんって…フフ~何でもな~い」

「はぁ?人が、真面目に心配しているのに!」

「有難う!凄く嬉しいですぅ。ああ…でもウフフ…ゲホホゲホホ。やだぁ~また吐血しちゃっ

た。エヘヘ。」

「ちょっと!だから!エヘヘじゃないっつうの!」


 詩絵の心配そうな顔も、眞留美の手際の良い動きも、全てを吹き飛ばしてしまう位に瞳は笑

い、溢れ出る本当の涙を誤魔化した。

 しかし、口を押さえていない左手は、眞留美達から見えない様に、シーツの中で硬く握られ

ている事には、誰も気付かなかった。


 瞳の胸の苦しみが和らいだ時に、初めて瞳はさっきまで隣に蹲っていた太郎の姿が無い事に

気付いた。


「あら?太郎ちゃん?…どうしたの?太郎ちゃん。」


 太郎は玄関の前に座ったり立ったりを繰り返し、鼻を鳴らしていた。


「どうしたの。太郎。」


 眞留美が太郎の近くに寄って行くと、太郎は行き成り扉に体当たりを始めた。


「ちょっと何?え?どうしたの!」


 激しい太郎の体当たりを止め様と、眞留美が宥めるが治まらない。

 太郎は両足を起用に使って、戸を自力でこじ開け、外に駆け出して行った。


「え?太郎!コラ待ちなさい!」

「眞留美ちゃん!」

「詩絵!瞳ちゃんの事お願い出来る?私、太郎を捕まえて来る。あれが居なくなったら、亜理

紗が煩いんだ…。」


 村人に見付れば太郎は食べられてしまう危険がる。それより何より眞留美にとって太郎は、

亜理紗と自分を繋ぐ、大切な架け橋でもある。亜理紗が姿を見せなくなった今、眞留美は太郎

を失う訳には行かなかった。



 繁華街の路地裏では、魂の抜けた人形に成り果てた亜理紗が、沢山の男達の慰み者にされて

居た。食べ物を失い、明日の保証もない人々は、それぞれに心を病み、その場の欲求に忠実に

行動する屍だった。

 亜理紗は貴族にめちゃくちゃにされた後、そんな屍共の餌食にされて居たのだ。

 もう動く気力も体力も無かった。

 喉は張り付き、声も出せなかった。

 ただ、目の前には教会が炎に包まれていく幻想がチラついていた。

 両手を伸ばしても熱くない、真っ赤な炎が教会を覆い隠していく。

 亜理紗は、教会が大嫌いだった。オママゴトをしている偽善者が、憎くて仕方がなかった。

いつか、自分の手で燃やしてやりたいとさえ思っていた。

だから、霧月を始めて会った時は、戸惑ってしまった。

 霧月の偽善的な笑みのその奥に、人間らしさを見てしまったから。

 そんな憎みたいのに憎みきれない教会の娘を、亜理紗はさっきまで助け様と必死だった。しかし、所詮亜理紗はただの娼婦でしかない。


「モエテル~キレイ~~モ、エ、テル…。」


 嫌いだった教会が燃えているのに、変な気分がする。

 教会を包む炎に、鬼の形相が浮かび上がっている。

亜理紗の身体を玩ぶ、屍の群れが見える。亜理紗は、胸を掻き毟りたい衝動に駆られ、全身

を痙攣させながら大きく黒目を動かした。

 目の前に現れたのは、憎い教会でも鬼の顔をした炎でもなく、自分の身体に貪りつく死霊だ

った。


「…い…や……いや…やだ!もう…こんな事したくない…助けて…助けて助けて!誰か…お姉

ちゃん!たす…け…て!!」


 両目をきつく閉じ、何度も何度も呪文の様に言葉を繰り返す。

『眞留美おねちゃん助けて』と…。

 その時だった。

 自分の身体に絡みつく如何わしい感触が、一本また一本と剥がされていく。


 ガルルルゥ!


 聞き覚えのない、闘争心丸出しの唸り声。


 亜理紗はゆっくりと目を開く。


「た…ろぅ…?」

 太郎は、黒い獣風情の男の片腕に噛み付いたまま、身体ごと振り回されていた。


「やめ…!私の太郎ちゃんを、いじめないで!」


 亜理紗はぼろ布と化した自分の服を引きちぎり、男の首に引っ掛け、男の動きを止めた。しかし、残りの男達が亜理紗の腕を取り、連れて行こうとする。

 太郎はすかさず男の腕から牙を抜き、亜理紗を引っ張る男の方に飛び掛った。

 その勢いで、亜理紗は地面に勢いよく叩きつけられた。

 痛みはもう感じなかった。

ただ、そこに太郎が居る事が嬉しくて、亜理紗は太郎を庇い走り出す。


「太郎!逃げよぅ!」


 亜理紗は裸に近い状況であったが、近くに落ちていた服の切れ端を掴み、振り向くと太郎は沢山の男達に囲まれ、石や腐った棒切れで殴られていた。

 あちこちから血を流している太郎は、血が滲んで黄色く見える牙をむき出しにして、男達を威嚇している。

何処でそんなに怪我をしたのか、亜理紗には想像も付かなかったが、明らかに此処に来る迄の間に、何者かに襲われた事は確かであった。

 亜理紗は、太郎に気をとられている男の股間を思い切り蹴り上げると、男は膝から崩れ落ちて、奥歯を噛締めた鈍い音を漏らした。

その隙に、太郎と亜理紗は男達の群れから逃げ出した。

 路地裏の細い道に入ってしまえば、そこは亜理紗の領域だ。

 誰も入れない逃げ道を知っておく事が、無力な少女に出来る、唯一の保険なのだ亜理紗は足場の悪い道に入って行った。

 足の裏に、石や腐った木材が刺さる。

しかし、亜理紗の後を、よれよれになりながらも必死に付いて来る太郎の方が心配だった。

 既に太郎を抱き上げ歩く力は、亜理紗にも残っていない。

少しでも遠くに逃げる事。早く身を潜める場所に辿り着く事が先決であった。


 村を衰退させた、開発現場の下に伸びている下水管の入り口には、錆びて使い物にならない機械が山になっている。その中の一つに腰を下ろし、亜理紗は太郎を抱き上げた。太郎は身体中の至る所から血を流し、酷い部分は毛が剥がれ中の肉や骨まで露になっていた。


 クゥゥゥゥン…。


 太郎は少し垂れた目尻をいつもより下げ、亜理紗の腕の中に顔を埋めた。


「太郎…ごめん…ね…私。どうしよう?ねぇ太郎…どうしたら良いの?」


 太郎の身体から流れている血は、一向に止まらない。

 亜理紗は、身体に巻いてきてぼろ布を太郎に巻きつけ、血を止め様と必死だった。


「ねぇ、太郎?ダメだよ!絶対ダメ!やだー太郎!亜理紗を置いていかないでよ…太郎ちゃん

が居ないと亜理紗はダメな子だよ?」


 亜理紗は、だんだん動きが鈍くなっていく太郎をきつく抱き締め、大きく揺らした。


「亜理紗は…太郎ちゃんが居ないと…ダメなんだってば…太郎ちゃんが居ないと…亜理紗…泣

いちゃう…んだ…から…ねぇ…?」


 亜理紗の頬に暖かい涙の線が、何本も何本も零れ落ちて行く。


 亜理紗は、幼い頃から泣かない子供だった訳では無い。

 亜理紗は、泣く事を諦めた子供なのだ。

 親に売られて、男に買われて、全てを諦める事から亜理紗の人生は始まった。だから、亜理

紗は涙を封じた。

涙は何も解決してくれないから。


「太郎…亜理紗ね…太郎に会うまで、凄い泣き虫だったんだよ…覚えてる?」


 太郎は渾身の力で、亜理紗の頬に流れる涙の一粒を舐め取った。


「えへへ…そう。太郎は強い子だよね。

亜理紗は泣いてばかりの弱い子で、亜理紗は、それが、と~っても恥かしくて、太郎みたい

な強い子になろうって決めたのに。

でも…ずっと前に、こうやって泣いちゃって、その時も、太郎がこんな風に舐めてくれたよね。亜理紗ね、本当はね、知ってるんだよ?太郎が、沼の近くのおじさん家のワンちゃんの子供だった事。水鳥のハンターさんだったんでしょ?

でもぉ~、水鳥が居なくなって、おじさんが、太郎の家族を…食べちゃったんでしょ?

両親も、兄弟も食べられちゃって、それで逃げてきたんだよね?

今まで、知らない振りしててごめんね。何か言い難かったの。太郎は、亜理紗の大切な大切な…たいせつ…な…た~~いせつな、お友達だから…。だから、亜理紗が、太郎ちゃんを守

ろうって、誓ったのに…。

誰にも、食べられない様に、誰にも虐められない様に、亜理紗が、守るって…。」


 亜理紗は太郎の頭に涙の滴を落として行く。

 太郎は薄目を開けて、亜理紗の顔を瞳に焼き付ける。


「亜理紗…太郎が居なくなっちゃったら…どうすれば良い??太郎が居なくなったら…亜理紗

また泣き虫に戻っちゃうよ?ねぇ…太郎!太郎!!」


 太郎はゆっくりと目を閉じ、そして動かなくなった。

 亜理紗は太郎を抱き締め、声を出して泣き始めた。


 幼い頃、涙を拭ってくれた太郎は、亜理紗の胸の中でだんだん冷たく硬くなってく。いつも亜理紗の傍に居て、亜理紗を愛してくれた太郎は、もう亜理紗を見てはくれない。

恐らく、本当の亜理紗の姿を知って居る、唯一の存在である太郎を胸に抱き、亜理紗は今まで溜めてきた涙を、一気に押し流した。

 その涙を止めてくれる存在は、もう居ない。亜理紗は太郎を全身で抱き留め、崩れ落ちる様に機械の上に横たわった。

 

もう指一本動かない。

 太郎を抱える事しか出来ない。

「ごめんね…ゴメン…ご、め…。」

 亜理紗の嗚咽は、静まり返った下水道の中で、悲しく響き渡った。


アリア預言の書  第三十八章 七節


『失くして気付く愛情より、深く美しいモノは無い。

 失くさずに気付く事が出来た優しさ程、尊いモノは無い。

 偽りの微笑み程、罪深いものは無い。

 偽らざる涙程、愛おしいものは無い。

 その総てに、気付ける事程、誇らしいモノは無い。』



「カラスが…消えた…。」


 瞳は、曇りガラスの向こう側に目を凝らして、独り言のように漏らした。


「え?カラス?そんなの、居ないけど?」

 詩絵は、瞳の弱弱しい手を強く握って座って居た。


「居たの。カラスが。でも…私じゃなかったって事?私じゃ…?」

「瞳?」

「まさか…太郎ちゃん…?そんな…。」

「え…どうしたの…?」

「詩絵ちゃん。私は大丈夫だから、眞留美ちゃんと太郎ちゃんを探しに行って。お願い。」


 詩絵は瞳の顔を凝視した。

 今まで見てきた沢山の人々のどの表情にも重ならない、瞳の白とも黒とも付かない不思議な色のオーラが、詩絵を混乱させる。

 このまま瞳を置いて行ってしまったら、霧の様に姿を消してしまいそうな、そんな気さえする。

 詩絵はゆっくり頭を左右に振った。

 

「今日は私が、瞳のお母さんになるから。ゆっくり…眠って良いよ。子守唄は、まだ歌えない

けど、こうして傍に居るから。」

「詩絵ちゃん?」

 詩絵は、瞳の髪を指先で抄い、空いている方の手で瞳のおでこを撫でた。


「私には親は居ないけど、小さい頃、落ちていた本で見た事があるの。お母さんって、こうや

って優しく撫でてくれたりするの。いつか、子守唄も覚えるからさ。今日はこれだけで良いか

な?」


「ありが…とう…。充分よ。」

 瞳は、髪を撫でてくれていた詩絵の手を、握り返した。

 

 狭い小屋の壁には、固く握られた二人の手が、一本の橋を架けた影を作り出した。



アリア預言の書 第三十章 三節

『二人を繋ぐ小さな橋を、恐れる事は無い。

 三人で繋ぐ小さな塔を、他と比べる事は無い。

 四人で繋ぐ小さな世界を、誇りに思うべきである。

 五人で紡ぐその五芒星は、揺るがざる真実となる。』



 眞留美は夕日に背を向け、村中を歩いた。

 思った以上に太郎の足は速く、瞳の家を出て直ぐに見失ってしまったのだ。しかし、このまま帰る訳には行かない。

 

 誰かに助けを求めた事がない亜理紗が、勇気を振り絞って眞留美にお願いした事。その願いが、この小さな生き物の命をかくまって欲しいという、純粋な優しさであった。

 あれから何年もの月日が過ぎ、村の状況は悪化の一途を辿っていった。

 それでも、自分と太郎が生きてこられたのは、あの小さな亜理紗が居てくれたからだ。だから眞留美なりには、精一杯の感謝を亜理紗に送っているつもりだった。

でも口から零れ落ちる言葉は、小言ばかりで、そんな自分が嫌だった。だからせめて太郎だけは、守り通したかった。


「私って…ホント…バカ!」


 自分に対しての怒りが思わず口に出る。

 村の雰囲気は、すっかり夜の光景へと移り変わって居た。

 

 眞留美は自然と歩みが早くなる。


『こんな事で負けてたまるか。亜理紗は毎晩この世界を生きているんだ。

私が負けてたまるか!』


 気を強く持とうと必死になっている内に、よく通った教会へ続く道を進んでいる自分に気付

いた。


「やだ、私ったら、来慣れた道を無意識に。」


 両親が出稼ぎに出てから、毎日欠かさずこの道を歩いて来た。霧月と仲良くなり、瞳の家で

説教が聞ける様になる最近までは、この道を歩いている時だけが、自分の信仰の深さを試され

ている様で、自己陶酔する事が出来た。


「そうやって、良い子ぶって…何も見ない振りして。カッコ悪い。そう言えば、この道を肩代

え人形を持たずに歩くの、始めてかも…。」


 月も星もない薄汚れた暗闇の中、眞留美は生き物の気配さえ感じない暗闇を歩いた。身体に

染み付いた記憶だけを頼りに前に進んだ。


「あと少しで、教会だな。霧月ちゃん…居るかな?」


 見える筈の教会の十字架が見当たらない。

暗闇を纏っていても、変だ!


「あれ?まさか、間違えた?そんな訳…何?この臭い!!」


 眞留美は異様な臭いに、顔をしかめる。

 想像したくはない、最悪な状況が頭を過ぎった。


「え…まさか!」


 眞留美は勢いよく、最後の坂を駆け上った。

 そこには、無機質な黒い物体が小さな山を作っているだけで、在る筈の厳かな教会が、何処

にも見当たらない。

 冷たい風が眞留美の頬をチクチクと刺して行く。


「……嘘…!」


 眞留美は、余りの驚きと絶望に、絶句した。

『どうして…私は、今日、霧月ちゃんが姿を現さなかった時に、教会へ来なかったの…。

これじゃあ‥手遅れ…じゃない!』


 眞留美は流れ落ちる涙を拭こうとはせず、乾ききった暗闇の中に零し続けた。

 ただの黒い物体と化してしまった教会の残骸を前に、眞留美は立ちすくんだ。

『…これは、現実?』


 霧月が閉じ込められて居るかもしれない。

 でも…。


『手遅れ…?もう無理…?諦める?』


「ダメ!もう…諦めたくないんだってば!」


 眞留美は、黒いだけの炭と化した教会の残骸に飛び込んだ。そして、素手で所構わず掘

り起こし始めた。


「もう諦めたくない!仕方ないなんて…言いたくない!見て見ぬ振りなんて、絶対にゴメンな

んだから!」


 眞留美は溢れ出る涙をそのままに、両手で引っかき回した。


 眞留美は、知っていた。

 両親が、自分の妹を沼に静める時に涙を流していた事を。けれど納得できなかった。


『仕方が無いの。ゴメンね…どうしようもない…の…。』


 そう言いながら両親が流していた涙は、妹に向けられた涙では無かった。

 「仕方ない」という言葉で片付けられてしまう妹の命よりも、我が子を沈める自分の為に両

親は泣いていたのだ。


「もう、仕方なくはない!仕方ない訳じゃない!それは、諦めているだけ。何してんだ!

眞留美!あんたは、また…また…見殺しにする気だったのかよ!こん畜生!」

 脳裏に『手遅れ』という言葉を浮かべてしまった自分が、恨めしくて大嫌いだった。

 眞留美は爪が剥がれそうになっても手を休めなかった。


「霧月ちゃん!霧月ちゃん!生きていて…死なせない!今、いま…助けるから!」


 眞留美は、沼の横に佇む幼い自分の姿を、今の自分に投影していた。

 あの時に犯した罪を、拭い去れると思っては無い。ただ、同じ過ちは二度と繰り返さな

い。


 目の前で沈められていく赤ん坊。

顔が沈んだ瞬間は、小さな泡が沢山上がって、水面に水玉模様が出来た。しかし、その数が

段々減って行き、最後に小さな粒が弾けた後には、何も無かった。

静かな底の見えない沼に戻ってしまった。

 その余りのあっけなさに、罪悪感はだんだん薄れていった。

 だが、手元に残された肩代え人形を見ると、沼に描かれた小さな水玉模様が思い浮かぶ。


『あの時、自分には何も出来なかった。自分は子供だったから、仕方がなかった。』


 眞留美は何度もそう思う事で、居た堪れない罪悪感をやり過ごそうと努力してきた。

 だから、亜理紗の事も、仕方が無いと心のどこかで片付けて、結局は自分だけを守る結

果になってしまったのだ。


『結局、亜理紗は都合の良い肩代え人形と同じ。償いをするという自己陶酔に付き合ってくれ

る御飾りでしかない。本当に妹だと思うのなら、何故売春をする事を止めなかった?

それは…仕方がなかったから。

それは…自分も子供だから。

それは…どうせ、他人だから?』


「ちがう!!」


 眞留美は頭を抱えるようにしてしゃがみこんだ。

 

「誰か教えてよ…神さ…ま…教えて、下さい。お願い…許して…。ダレ…か…私を許し…。」


 眞留美は蹲ったまま、手元にあった瓦礫をきつく握り締めた。手に硬い木屑が刺さる。

暗くて確認する事は出来ないが、痛みからして、血が流れている様だった。


「眞留美…さん?」


 眞留美は、我に返り、周りを見渡すが、暗闇に包まれていて何も見えなかった。


「私ったら…空耳?」


 眞留美は、視線を自分の傷ついた掌に落とし、キレイな十字に刻まれた傷口を見つめた。

その時、後からまた同じ声が聞こえた。


「眞留美さん?」

「霧月……ちゃん?居るの?何処…?」

「此処です!」


 眞留美の背中を霧月はゆっくりと擦った。

 眞留美は瓦礫の下敷きになって居ると思っていた霧月が現れた事に驚き、じわじわと染み出

る喜びを感じた。


「良かった……心配した…よ…。」

「ごめんなさい…。」

「…ぅぅぅううう!!」


 眞留美は霧月のヨレヨレになった服の端を掴み、頭を垂らした状態で泣き出した。


「眞留美さん。私…嬉しかったです。」

「…何…が?」

「眞留美さんが、私を必死に探して下さったった事。」

「当たり前じゃない!」

「当たり前な事なんて、ありません。」


 霧月は暗闇の中でも眞留美に見えるように、顔を眞留美に近づけて微笑んだ。


「眞留美さん。私も、沢山の事を諦めて生きてきましたよ。でも、死を感じた時、どうしても

諦められませんでした。そして、人では無い誰かの力を少し借りて、私は生き残りました。あ

れは、そう、何かの力が働いたのだと、感じました。」


 霧月は眞留美の掌に刻まれた十字の傷をゆっくりと撫で、剥がれかけた爪にキスをした。


「眞留美さん。貴女が居てくださったから、私は助かったのですよ。ほんの少しでも、神を信

じたいと思えたから。有難う…本当に…有難うございます!」


 眞留美は焼け焦げて居るのに、綺麗に笑う霧月に見惚れる様な気分だった。


「それは…違うよ。シスター霧月。貴女が、神に選ばれし人だから、助かったんだよ。」

「もし、そうだとしても、私は眞留美さんに感謝致します。神は、貴女の事を既に許されてい

ます。ほら、この十字架がその印です。」


 霧月は眞留美の掌の十字傷に、そっと口づけた。

 霧月と眞留美は、夜が明けるまで教会の瓦礫の上で過ごす事にした。

 夜の村を歩く危険と、既に瓦礫と化してしまった教会に、別れを告げる時間が欲しかったか

らだ。

 この教会が再建される事はない。

 そして、恐らく朝になってしまえば、焼け跡から使えるものを運び出そうと、村人たちが集って来るだろう。

 二人が、この教会の残像を拝めるのは、今の瞬間を逃せば二度と来ない。

「これだけ暗いと、太郎ちゃんも身を隠せますわ。」

 そんな霧月の慰めも、心地よく眞留美は受け入れる事が出来た。

「そうね。太郎はもしかしたら、もう亜理紗の所に戻ったかもしれないし…。太郎は、どんな

に遠くからでも亜理紗の事が解るから。」


 眞留美の眉間に皺は無かった。

「それだけ、愛されていらっしゃるのですね。亜理紗さんは。」

「そうね。多分、本当の亜理紗を知っているのは、太郎だけなのかもしれないね。」


 二人は心地の良い空虚感を楽しむ様に、会話を転がしていた。


「ねぇ、霧月ちゃん。もしかして…霧月ちゃんのお父さん…は?」

「はい。残念ながら。」

「そう。なんて言えばいいか…、本当に、ご愁傷様だね。」


 眞留美は眉間の皺を戻し、自ら現実を引き寄せた。


「そうでもないですよ。私は、この教会の地下で、実の父に折檻をされておりました。」

「そう…かぁ…。」

「やはり、ご存知でしたか。」

「何となく…」

「眞留美さんは悪くありませんよ。」

「違う。私は、いつだって見て見ぬ振りをしちゃう、嫌な奴だよ。」

「悔しいものですが、人とは皆そうですよ。」

「でも…あいつは違ったじゃない。」

「あいつ?」

「あの…貴族の…。」

「珂翠…さん、ですか?」

「そうね。私ね悔しかったの。本当に、悔しくて…何も言えなった。」


 霧月は、隣に座っている眞留美の顔を覗きこんだ。しかし、眞留美は真っ直ぐ貴族の城の方角を見た。


「私達だけじゃ、知識が足りない。」

「え?」

「畑だよ。私は農家に携わった事が無いから、畑のメカニズムに詳しい訳では無いし、詩絵も

そうでしょう。」

「そうですね。」

「もし、出来る事なら、貴族が所有している文献とかが手に入ったら。」

「眞留美さん…?」

「…なんて、来る訳ないかぁ?でも、ちょっとだけ、本当にちょとだけ、信じてみたいと、思

うよ。何で…だろう…。」

「亜理紗さんが、彼を連れて来たからでは無いですか?」

「……?」

「私も信じています。いえ…信じてみたいと思っています。同じですね。」

「フフフ、そうだね。亜理紗はね、滅多に人を信じないし、頼らない子なの。だから、ちょっ

とだけ、それも悔しかった。」

「亜理紗さんは、眞留美さんを充分に必要としていますよ。」

「そう、だと思う。でも、私の方は、それに対して何も還せていない。最低だね。いつも自分

の事ばかりで、誰の事にも気付かない。」

「眞留美さんは、私を助けてくれました。もう、諦めたりはしませんよ。絶対に!」


 眞留美は強がる姿を見せる事で、自分を表現してきた。でも、何故か霧月には素直に成

れた。


「そうだね。そうで在りたい…ううん!そうなれるよう、努力するよ。」

「はい!」


 霧月と眞留美は、お互いに背負っていた重荷をやっと下ろす事が出来た。

霧月は、シスターと言う肩書きと背中の刻印を、眞留美は両親と肩代え人形を。


「ねぇ、霧月ちゃん。その縮れた毛酷いね…。瞳ちゃんの家に帰ったら、カットするね。」

「本当ですか?じゃあ…お願いします。あ!っでも、そんなに短くしないで下さいね。」

「なんで?良いじゃないイメージチェンジしちゃえば~。ショートとか?」

「嫌です。」

「なんで?」

「私、ロングヘアーが似合うので。」

「…あっそぅ…!」


 二人は他愛もない話をしては、笑い合った。

 二人が見つめる先には、炎によって照らし出される、珂翠の城が浮かび上がっていた。



アリア預言の書 第五章 九節


『神は信じるモノだけを救いはしない。

 天使は信じるモノだけを導きはしない。

 善行が行き着く先は一つではない。

 悪行が行き着く先は人の数程ある。

 汝、己の道を信じよ。

 汝、己の善意を信じよ。

 汝、弱い心で世界を見よ。

 人よ優しくあれ。まず己に、そして他者に、この世に生きる総ての生き物に。』



 珂翠は、自室での謹慎を両親に命じられていた。それを受け入れる事によって、聖への面会

禁止のみで、聖本人への厳罰を免れる約束を取り付けた。

 無断外出が見つかり聖と共に両親の前に連行された際、両親は珂翠の価値観を全否定した。


「お前は現実を知らなすぎる。

下民を同じ人間だと思う必要は無い!この村の大改革を、貴族会議で検討している最中だ。

外の連中と接触があるなんて知れたら、私の立場はどうなる?汚らわしい者との接触は、今後一切許さない。」


 その時、珂翠は生まれて初めて両親に反抗した。


「僕達貴族が、開発事業に失敗した。だから元は、我らの過ちでは無いですか?

彼らは、犠牲者ですよ。何故、解らないのですか?」


 父親は激怒し、母親は慌てふためき、息子の機嫌を取る為に、聖への厳罰を回避する提案をし、夫と息子の対立を制した。

 

 勿論、珂翠は知ってしまった事実を、そのままにしておくつもりは全く無かった。

 部屋で勉強をすると執事に申し出て、図書館への出入りの許可を貰い、盛んであった頃の農

業に関する文献を読破する為に、睡眠時間を削り自分に出来る事を漁る日々を過ごした。

 貴族である自分に出来る事とは?自分にしか出来ない事が在る筈であると信じて疑わなかっ

た。それと同時に、二度と会えないかもしれない、聖の事が何よりも心配だった。

 自分の愚かさと弱さから、兄と慕う聖を危険に晒してしまったのだ。


「聖…本当に大丈夫かな…?」


 自室の窓を開け聖や由美が暮らす使用人用の長屋を見下ろして、溜息をつく毎日が続いた。

 知識を付けた後、どうやって聖や由美に接触をするか。そして、どうやってあの少女達の住

む小屋まで出向くか。珂翠には越えなければならない壁が山積みだった。


「ハァ……。」

 溜息の数は、日を増すごとに増えて行く。


 ある朝、珂翠がいつもの様に書籍を漁っていると、城の門の辺りが騒がしかった。

 窓から見下ろすと、いつも珂翠の見張りをしている使用人や、庭師、コック長までが、軍服

を身に纏い、見慣れない工具の準備をしていた。


「一体、何をしているのだ?」


 大きなハンマーや、見た事もない、使い方が解らない工具等が次々に姿を現していく。

 それが、物騒なものである事は一目瞭然であった。


「あれじゃあ、城の使用人は全て借り出されているなぁ…。待てよ!って事は!」


 これだけの人数が出払えば、城で働く使用人は居ないに等しい筈である。そうとなれば、自

分の行動を見張る使用人も居ない筈だ。


 珂翠は外の音が静まり返るのを待ち、自室を出た。


「一体何が起こっているんだ?」


 尋常ではない事が起こりつつある不安を抱えながらも、珂翠は城を抜け出し、聖が住む長屋

に直行した。

 城前に集合していたメンバーの中に、聖と由美の姿は見られなかった。

もし、母親が約束を守ってくれているのなら、聖は長屋で謹慎して居るはずだ。


「聖!居るか?」


 誰の姿も見えない長屋で、珂翠は聖の部屋の戸を勢いよく開け、声を掛けた。しかし、中は

もぬけの殻で、一本足のかけたテーブルも、固いだけのベッドも無かった。

 そして、聖が何よりも大切にしていた、縦笛も無い。


「そんな…馬鹿なぁ…!」


 珂翠は自分の軽々しい行動の数々を呪い、自分の身分を恨んだ。


「珂翠坊ちゃん!やっぱり!こっちです!来て下さい!」

「……由美?」

「シッ!」


 由美は険しい顔で珂翠の腕を取り、細腕ながら力強く引っ張っぱられた。無言のまま、由美に促され着いて行くと、城の裏口にある下水道への入り口に出た。そこまでたどり着くと、由美は珂翠の方に向き直った。それと同時に、あの地獄の様な夜の事を思い出した。


『ここは…そうか、始めて外に出た時に、亜理紗ちゃんに教わった下水だ。夜だったから、雰

囲気は違うけれど…、俺、こんな汚い所から這い出て来たのか…。』


「坊ちゃま良いですか?此処に入ります!」

「ああ…うん!大丈夫だよ。」


 今の由美が、とても逞しく見える。だからか珂翠は多くを話さず、ただ由美の言う事に従った。由美と共に、真っ暗な下水道を早足で進んで十分位たった所で、視界が急に広がった。


「ここ…は?」


「ようこそ!俺の新居へ。」


 反響した聖の声が、何処からか降ってくる。


「聖?どこ?」


 聖は、珂翠の斜め後に垂れさがっていた縄梯子を、ゆっくり降りて来た。


「来ると思っていたよ。」

「え?」

「今日は使用人が、フル出動で出て行ったからね。教会の取り壊し決行日さ。使用人全員で出動している。」

「ちょ…っ、なんだって!」


 珂翠はまず何に驚くべきか悩みながら、中途半端なリアクションをしてしまって、少し恥かしそうにモジモジしていた。


「坊ちゃま。まずは、順を追って説明致しますので。」


 由美からは、さっきまでの逞しさが消えて、優しい乳母の顔に戻っていた。

 そして聖が、煤けた作業着のまま珂翠のもとにやって来た。

「そうだな。まずは…此処。かの有名な開発事業の地下管理室だよ。

元々は貴族の御偉い方が、制御室として利用する予定で造られた。だからああやって、天井が高く吹き抜けになって、洒落たデザインをしている。でも、残念な事に、吹き抜けの部分のガラスは、持っていったからすでに無いけどな。

で、次に俺達。まぁ、お前は悪くないから、そんな顔はするな。

御妃様が口を利いてくれて、ちゃんと長屋に住む許可は出ていた。だが、使用人の中から、

色々と声が上がって居られなくなった。それだけだ。

そして、お前が一番気にしている事。教会。

教会は、信者の御布施で成り立っている事は知っているだろう?村がこうなる前までは、教会へ何を寄付したかが、貴族連中の一種のステイタスだった。

故に、貴族連中は考えた。あそこにあるものは、元は自分達の物だった。返してもらおうではないか~。ってね。おまけに、祈りを捧げても改善されないのなら、あの教会は偽物だという疑いまで浮上した。」

「そんな…?」

「教会にある金目の物、食料は、強制的に没収される。」

「シスターは…シスターはどうなるの?」

「命までは奪わないだろうよ。彼女は、ただの民になるだけ…だ。」


 珂翠は、聖の軽い口調から、また自分だけが蚊帳の外にされて行われてきた、悲惨な出来事

が、どれだけ根深い問題であったのか想像する事ができた。事が重ければ重い程、聖は珂翠の

為に、何でもない事の様に話してくれるのだ。

それが、聖らしかった。


「俺、また…何も知らないで…。」

「坊ちゃん。しっかりなさい!」

 由美の強い口調に、珂翠は呆気にとられ、目と口を丸くした。

「貴方にしか出来ない事があるでしょ。そろそろ解りなさい!」

「…ああ…はい…。」

「で?貴方は何故、私達に会いに来たのですか?まさか、謹慎されている間、何もしなかった

訳では無いでしょ?」

「え?ああ…そう!畑の栽培の勉強をしたんだ!彼女達を…この間会った彼女達を、助ける為

に。畑を復活させる研究をしたい!

それで…僕は手を貸したいし、もしよければ二人にも手を貸して欲しい。」


 聖と由美は、ただ視線を絡ませた後、クスクスと笑った。


「…駄目かな?そりゃ、貴族階級が作物製造に関しては、莫大な資金を投入して研究して、そ

れでも失敗した事は僕も知っている。でも、誰かがやって、無理だから不可能だと思いたくな

い。諦めたくは無いんだ!何か、方法はある筈って思う。僕が勉強した中では、やはり土なん

だ!で、その土を作る為に、大切なのは…ダニが必要で、今の生態系が…。」

「もう良いよ…珂翠。」

「聖!良くないんだよ!本当なんだよ。」

「解ったって言ったんだ。」

「え?」

「俺達は、お前を全面的に信じてサポートする。お前が、ダニが欲しいというのなら、肥溜め

でも井戸の中でも何処にでもついて行ってやるよ。何万分の一ミリの可能性でも、一緒に信じ

てやるよ!」

「聖…。」


 珂翠は、思わず聖に抱きついた。

 言葉では語りつくせない思いが、溢れた。

 ただ、『何かをしなければならない』から『誰とそれをしたい』かに換わって行く瞬間、人は

大きな何かを得る事が出来るのかもしれない。


「『人よ優しくあれ。まず己に、そして他者に、この世に生きる総ての生き物に。』いざ、汝の

思うがままに、だ!」


 珂翠は胸を張って豪語した。それを見て、由美がくすっと笑いながら答える。

「まぁ、坊ちゃまがアリア預言の書を抜粋するなんて、随分と成長なされて…。」

 聖はそんな二人を見ながら茶化すように笑った。

「たまたま覚えていただけだって。」

 珂翠は失った時間を一気に取り戻す様に、聖とじゃれ合った。

言葉では埋められない感情を、互いに確かめるように、くだらない冗談を交わし合った。


 珂翠と聖と由美は、工場の管理室を研究室にして、動き始める事を決め、珂翠は、自室や図

書館から目ぼしい研究資料を運び込み、部屋に閉じ篭って勉強している振りをしながら研究室

に来られる様、自室のトイレに縄の梯子を作り隠す事にした。

 教会を崩壊させて使用人達が戻って来るまでの間に、やらねばならない事は山住だったが、

目標という二文字が見えて居るだけで、三人のフットワークは一気に軽くなった。


 そんな中、聖は瞳の事を考えていた。

 聖は、不器用な手つきで縄を編み、梯子を拵え様としている珂翠に声を掛けた。


「なぁ、珂翠。」

「ん?何?聖。」

「ん?ああ…あの、お前この間の子達に会いに行くだろ。」

「うん。勿論!」

「あの…俺の知り合いの、瞳なんだけど。」

「ああ、あの家主の美人さんね。」

「あいつ…小さい頃から身体が弱くて、今は流行りの疫病に感染しているんだ。」

「え?」

「もう、発症して大分経つし…永くないと思う。」

「え…?でも、あんな元気そうに笑っていたのに…そんな!」

「間違いない。たまにこっそりと除きに行っていたから解る。…何も出来なかったけど。

あのさぁ、あの…、無理なのは承知で聞くけど、疫病用の薬って…もう無いのかな?」


 貴族には、貴族専用の薬剤庫が用意されていた。それが使用できるのは、貴族の中でもエリ

ートの世継ぎレベルだけで、ランク外の貴族も使用する事は許されず、一般市民と同じ様に、

ただ死ぬのを待つだけであった。


「薬…かぁ…僕にも何処に保管されているのか解らないんだ。もう製造中止になって大分経つ

し…そもそも、まだ残って居るのかさえ…。」

「そっか。いや、良いんだ。悪い…変な事聞いて…。」

「なぁ、聖。」

「なんだ?」

「あの…さぁ。なんで、瞳さんと会わなくなったの?」

「何で…かぁ…。」

「それって、やっぱり俺のせい…?」

「関係ない!」

「そう?」

「…ああ。」

「でも、やっぱり…。」

「ああ!もううるせえなぁ!解ったよ!言えばいいんだろ?

俺が…、俺が瞳を見ているのが辛かったからだ。瞳はさ、幼い頃から身体は弱かったんだ。

村が徐々に衰退していくと、瞳の両親は自分の土地を教会との共有財産にして、貧しい人々

を救って上げようとした。でも、畑は教会との共有財産ではなく、お前の家の物になり…芽を出さなくなった。俺は、瞳の家の畑を殺してしまった貴族の家の使用人で、その息子の親友だった。瞳は恨み言なんて何も言わない。それでも、それが…辛かった!

最後に瞳に会ったのは…瞳が疫病に掛かった事を知った時だった。その残酷すぎる運命を、

俺は呪ったよ。俺は、瞳が好きだったから…。

その後にご両親が先に亡くなったって事を聞いても、恥かしくて合わせる顔がなかった。」

「ごめ…」

「謝るな!もう、二度と謝るな!これは、俺の問題だ!」


 二人の間を沈黙の時間が流れて行った。


「ねぁ、二人とも。ちょっと凄いものを見つけたんだけれど、来てくれない?」


 由美は、城と繋がっている下水では無い、封鎖され使われて居なかった下水の方から、ひょっこりと顔を出し手招きしていた。

 二人は沈黙を引きずったまま、由美の元に駆け寄った。


 由美の案内で暗がりの洞窟の奥地へと進んで行くと、そこには使われずに投棄されたと思われる、大型の機械が山積みになっていた。


「ここは行き止まりだとばかり思っていたけれど、どうもこの機械の山で先が見えなくなって

いるだけみたいなのよ。分解すれば、レンズとかガラスとか、鉄を取り出す事が出来るかもし

れないわ!」


 テンションが高まっている由美とは対照的に、珂翠と聖は、純粋に目の前の宝の山を見る事

が出来ないで居た。


「何しているの?二人とも。ほら、手を貸してよ。」


 由美が引き起こそうと手を掛けるが、大きな機械はびくともしない。積み重なって居る部分

が、お互いに噛み合わさり、長年放置されたせいで、結合してしまっている。

「由美さん。今日は無理だよ。もうそろそろ、教会に向かった使用人達も仕事を終えて帰って

来る頃だし、珂翠はひとまず城に戻った方が良い。」


 聖は、重苦しい気持ちを引きずったまま口を開いた。


「そうね、じゃあこれは明日にしましょう。」


 珂翠は何も言わずに、明日も監視が緩い時間を見計らって、トイレから城を脱出し、此処に

来る約束をして、聖に背を向けた。


 瞳と聖が空白の時間を埋められない様に、珂翠と聖の間にも、確実に埋まらない何かが横た

わっていた。

 

「珂翠!明日…待ってる!」


 聖は、珂翠の背中に声を掛けた。


『過去の埋まらない軋轢より、明日』。』


 珂翠はゆっくり目を閉じ、勢いよく振り返り、しっかりと目を開い答える。


「勿論さ!明日な!」



アリア預言の書 第五章 八節


『羊と山羊、どちらかを選べと言われたら、両方を助けると答えなさい。

 壊せない壁があるのなら、一生掛けても壊しなさい。

 誰かが決めたルールより、己のルールに従いなさい。

 過去の軋轢に心を投げだすより、明日の希望に夢を膨らませなさい。』




第3章  正義―JUSTICE―


 それから数日間、珂翠は部屋に篭り自分の愚かな行為を反省する良き息子を演じながら、聖達と共に、地下に残された僅かな希望を掘り起こす日々を送った。

 教会から持ち出された、高価な品々や貴族階級が城に集いよからぬ相談をしている現場を目の当たりにしても、素知らぬ顔で、両親を安心させるように努めた。そうす事で、聖達との行動がし易くなった。

 それどころか、両親達は息子の自分を監視する暇も余裕も無いようだった。


 地下道で由美が見つけた古い機械の山を少しずつ解体して行く珂翠と聖は、ここ数日全く会話を交わさなかった。珂翠の爪は割れ、指先は角質化して罅が入る。珂翠は自身は、貴族のプライド等意識してこなかったが、己の気付かない内に培われた傲慢さを痛感させられた。


「くそぉ…!」


 力を入れてもびくともしない鉄の塊に、蹴りを入れた。

 暗闇に聳え立つ、人間が作り出した有害で無意味な壁。その前に佇む、ちっぽけな自分。権力の象徴である城の最上階から眺める景色と、此処は全く違う。


「珂翠、ちょっと退いてろ。」


 聖が大きな鉄の棒を下げて声を掛けてきた。

 暗闇の中では、貴族である自分より聖の方が役に立つ。珂翠と聖の間に出来た埋まらない溝は、深くなる一方だった。


「これは大きいな。よし、お前も手伝え!」


 聖は、呆然と立ち尽くす珂翠に声を掛ける。

 珂翠がただ突っ立っている横で、聖は長い棒の先を機械の底の部分にねじ込んでいた。


「珂翠、何やっているんだ?お前が教えてくれた、何だっけ?…何ちゃらの原理って奴だ。

ほら、俺の後ろで一緒に押してくれ!」


 幼い頃、聖が魔法を見せてくれると言って、大きな荷物を梃子の原理を使って持ち上げて見

せてくれた事があった。その時、珂翠は大笑いをして言い返した。


『聖。それは魔法じゃないよ。列記とした原理だ!誰にでも出来るよ。』


 聖は生まれた時から、城の召使いだった。

 字の読み書きが出来ない聖に、珂翠は読み書きから、算数まで先生になった気分で教えた。

 今になって珂翠は気付く。年上の聖が、年下の珂翠に字を習い、無知だと笑いものにされて

どう思っていたのだろうかと。

 珂翠は、今まで聖を大切な友人だと、時には兄貴だと思っていた。

否、思っているつもりになっていただけなのかもしれない。


「おい、珂翠?手伝えってば!」


 珂翠は聖に対する謝罪の言葉と、自分への叱責をぐっと唾と共に飲み込んで答えた。


「ああ解った。色々と教えてくれよな。聖!」

「何だよ、急に、気持ち悪い奴だなぁ。」


 二人は、鉄の棒をしっかりと握り締め全体重を乗せた。この機械を動かせば、その先には希

望に満ち溢れた未来が待っている気がした。


「せーの!」


 機械は少しずつ傾き始めた。

 もう少し。

 珂翠は、掌に出来た肉刺を潰す様にあえて力を入れる。

 綺麗な手には、既に何の価値も無い。

痛々しい傷を負ってこそ見えてくる未来が欲しかった。


「珂翠!もっと体重を掛けろ!」

「ああ!」


 息が詰まりそうになる。腕の関節が軋む。その時だった。

 大きな音と共に、道を塞いでいた鉄の塊が倒れていく。


「珂翠!逃げろ!」


 聖が珂翠の腕を掴み、地下道の脇に逃げ込んだ。それは一瞬だった。

 砂埃が舞う狭い地下通路の中で見つけた、細やかな二人で見つけた幸福の戸が開く瞬間。


「すげーな…ゲホゲホ!」

 聖は、手をパタパタさせながら、倒れこんでいる珂翠に手を貸す。

「ホント…なんつうか、臭い。」

 珂翠が聖の手を掴んだ。

「それはさっきからだろうが。変な奴だな。」


 聖が珂翠の額を軽くこついた。


「ああ、でも…今気付いたんだ。」

「やっぱり変な奴だな。」


 二人は煤けたお互いの顔を見合って、大声で笑った。時間はきっと埋め合うものでは無い。築き上げていくものなのだ。


「なんだよ珂翠、泣いてんのか?」

「違うよ!砂埃が目に沁みてるんだって…!」

「ハァい、そういう事にしておいてやるよ。」


 聖はゆっくりと珂翠の頭を腕で引き寄せた。

 言葉を交わさなくても、聖には珂翠の考えがよく解る。珂翠が何を考えていようが、どう思

って居ようが、聖にとって珂翠は兄弟の様な存在に他ならない。

だから、時には喧嘩もするし、ギクシャクすることもある。それでも切れない絆があった。


「良いか?弟!」

 聖はそっと呟いた。

「良いよ。兄貴!」

 珂翠も小さく頷いた。

 二人は、力を合わせて切り開いた細い道を、ゆっくりと足元を確かめるように進んで行く。



 霧月と眞留美は、日の出と共に教会に別れを告げた。

 太郎と亜理紗を探しながら、夜の残像を残す寂れた商店街を歩いて行った。眞留美の美容院

にも、亜理紗の家にも寄ってはみたが、太郎も亜理紗も居なかった。


「仕方が無いですわ。瞳さんの家に戻りましょう?」


 霧月は疲れ果てていた。

 父親からの折檻に火事からの脱出、それから一睡もしていない。

「そうね、ごめん。疲れてるよね。戻ろう。」

 二人は重い足を引きずり、瞳の家を目指した。道の脇には、飢え死にしたであろう遺体が無

残に転がっていた。

「悲しいですね。」

 霧月は、通り過ぎる度に軽く手を合わせた。

「そうね。」

 二人は多くを語らなかった。語り合う言葉も無ければ、体力も残って居なかった。


 瞳の家に付くと、まず玄関の扉の前に何も置かれていない事を確認する。


「亜理紗、来なかったんだ。」

「詩絵さんが、持って行ったのでは?」

 二人は、軽くノックをして中に入った。

「おかえり。」

 詩絵は、青白い顔をして苦しそうな瞳の手を握ったまま迎えてくれた。

「霧月ちゃん。どうしたの?その姿!」

 霧月の焼け焦げた服や、所々縮れた髪の毛を見て詩絵は驚いていた。

「私は、大丈夫です。それより瞳さんは?」

「明け方から、体調が凄く悪くなったみたいで、ずっとうなされているの。」

 三人は顔を見合わせて、刻々と迫り来る絶望へのカウントダウンに唾を飲む。

「亜理紗、今日は来なかったみたいだね。」

 眞留美が呟く。

「…うん。私、ずっと起きていたから…来なかった。太郎も、見付らなかったのね。」

 詩絵は、長い睫毛をゆっくりと下げた。

「餓死なさる方も、日に日に増えているようですし…。」

 霧月が瞳の横に腰を下ろした。


 眞留美は、ゆっくりと拳を握り締め、一呼吸置くと勢いよく二人を見た。

「何、辛気臭くなってるの?耕すわよ!霧月は、昨日の火事で大変だったから、夕方まで寝て

鋭気を養って。詩絵は動ける?とにかく、今はやる事をやるの。沈むのはその後!

その前に、瞳ちゃんに水は飲ませた?」

「え…ううん。」

「駄目よ!目を覚まさなくても、これだけ汗をかいていたら脱水症状を起こしてしまうわ。

まだ雨水が樽に残っていた筈ね、私とってくるから!」


 眞留美は作り笑顔を浮かべてで歩き始めて、一旦足を止め、勢いよく振り返ると大きく手を

叩いた。


「な~にしてるの?霧月は寝る!詩絵は畑の準備!ハイハイ、動く!」


 二人は圧倒され、慌てて動き始めた。

「は、はい!」

「解りました…。」


 誰もが空腹と疲労を感じて、この世の中に絶望している。しかし、その絶望に飲み込まれ、

ただ死んで逝く事を受け入れる人間にはなりたくない。だから、彼女達はこの場所に集ったの

だ。

 空腹で動けなくなるまで、畑を耕していたい。

 絶望に捕らわれていても、他者の死に対し尊厳を持っていたい。

 そして、愛する者を信じていたい。

 だから、眞留美は微笑みと勢いを忘れずに、霧月は慈愛を持ち続け、詩絵は尊敬の念を示す

のだった。

瞳が自分達にそうしてくれた様に、亜理紗が身を削って自分達を守ってくれた様に。


 霧月、眞留美、詩絵の三人は、それから毎日、畑を作るために勤しんだ。瞳の体調は、日を

追う毎に悪化の一途だった。それでも三人を励ますように、優しい微笑を見せてくれた。


 亜理紗が姿を見せなくなって、食料も途絶え保存してあった僅かな食料も底を突き始めた。気持ちでは補えない体力の衰えと、明らかなる瞳の衰弱ぶりが、三人の心を萎えさせる。


「あいつ…来ないね…。」

「あいつって?」


 眞留美が独り言のように言った言葉を、詩絵拾って投げ返す。


「あの、貴族のボンボンだよ。」

「ああ…。」

「専門書とか、貴族の図書館にならあると思うんだよなぁ。」

「そう、なんだ…。」


 眞留美と詩絵は二人で共に過ごす時間が増えていった。だが敢えて、瞳の死期や、亜理紗の事には触れようとはしなかった。しかし、たまに夜に突然訪れた、あの貴族の話は少しずつするようになっていった。


「また、来るって…言ったのにね…。」

「……うん。」



 その頃、珂翠と聖は地下の作業を続けていた。

 暗闇の地下道に、細い一本の光の線が差し込んでいた。


「聖!どこかから光が漏れている。」


 乱雑に横たわり、珂翠の足を取ろうとする瓦礫には構わず、ただその光の照らす方へ珂翠が進んで行く。


 そこには、白くて柔らかい、まるで天使の人形のようなモノが丸まった状態で横たわって居た。


「え?!天使…?」


 珂翠は駆け出した。


 一糸纏わぬ姿は、女性特有の美しい曲線を描き、光に照らされ背骨のラインは綺麗に浮き上がっていた。珂翠は目が放せなかった。それはまるで教会に飾られていた、ステンドグラスの天使が、羽を無くし落ちてきてしまったかの様に美しかった。


「…あ…りさ…ちゃん?」


 そこに横たわっているのは、珂翠を助けてくれたあの亜理紗であった。

 亜理紗背中を丸めて、何か茶色い毛を包み込むように抱きしめていた。その周りには、どす黒く固まった血の痕が残されている。その茶色い生き物は、既に絶命している事は明らかであった。


「聖!ちょっとこっちに来て!亜理紗ちゃんが…!」


 珂翠は軽いパニックを起こしながら、自分が羽織っていた薄汚れた作業着を脱ぎ、亜理紗に被せた。

 この時点では、亜理紗が生きているかどうかは定かでは無かったが、暗闇を照らすその一本の光が、亜理紗を守って居るかの様で、この神聖な光景をただ無意識に信じたい気持ちで溢れていた。


「大丈夫さ…。」


 珂翠は光の先を眩しそうに見上げた。


「まだ、間に合うから。」



 亜理紗は光に包まれ、溶けて融合し溺れていたく様だった。

 幼い頃の自分は、物静かで目立つ事を嫌うタイプだった。

 一番幼い頃の記憶は、仲良くしていた近所の友達が突然姿を消し、誰に聞いてもそんな子は居なかったと言われた事だった。


『じゃあ、私はお化けを見ていたの?』


 日に日に減っていく周りの子供達。

 亜理紗はいつしか、己の目に映る全てを信じなくなった。


『私も、いつか消されてしまう。だから、私は透明な空気みたいな子で居よう。』


 誰にも嫌われない様に笑顔で、でも目立たない様に誰にも関わらない様に。

昼は太陽の光に溶け込み、夜は闇に姿を隠す。そんな頃、眞留美に出会った。

 初めて、亜理紗を亜理紗として認識してくれた人。

亜理紗の前から消えないで居てくれる人。そして眞留美はどうして近所の友達が消えてしまったのかを、亜理紗に教えてくれた、初めての人だった。

 その現実は余りにも酷だったが、知らないでいるよりは、幾分かましだと亜理紗は思った。

「子供達は口減らしの為に、沼に沈められたのよ。もっと酷い場合は、殺されて食べられる。悲しいけど、どちらにしても、もうこの世には居ないの。」

 そう言った眞留美の頬を伝う涙が、亜理紗の枯渇した心を潤してくれた。


『でも、亜理紗はやっぱり独りだと思った。この人は、亜理紗とは違う世界の人だから。亜理紗には眩し過ぎる人だから。』


 暖かい光が亜理紗の頬を撫でていく。それとは対照的に冷たく硬く無機質になっていく太郎の身体を、亜理紗は暖め続けた。


『亜理紗には太郎ちゃんしか居なかった。亜理紗は、ただ、誰かの一番になりたかった。』


 〝痛み〟を亜理紗は感じた事が無い。

肉体的な痛みを感じる余裕なんて無かった。

 しかし今は、心が痛くて仕方が無い。太郎を失う時は、自分も終る時だと思って居た。


『あ~あ。亜理紗って本当に駄目な子。太郎ちゃんだけは亜理紗が守って上げたかったのに。亜理紗なんかの為に、太郎ちゃんが死んじゃうなんて…。でも…もう、良いかな。亜理紗、疲れちゃった。疲れちゃったよ…。

太郎と一緒に、このまま眠ってしまえるなら、それでも良いかな…。

おねえちゃん達、大丈夫かな…?』



「…あ…りさ…ちゃん?」


『…だれ?…』


「‥‥。」


『しずかにして…あたし、もう、ねむりたいの。このまま、たろうといっしょなら、それでい

いから…。』


「大丈夫さ!」


『…もう…おそいよ。』


「まだ、間に合うから。」



 珂翠は亜理紗を抱き上げ、亜理紗の両腕から引き剥がした太郎を、聖が自分の服に包んで由美が待つ地下室へと持ち帰った。

 亜理紗が太郎を守る様に、余りにも強く抱きしめていた為、二人は息絶えた犬の太郎だけを取り残して行く事が出来なかったのだ。

 亜理紗のか細い息が途絶えてしまわない事を、珂翠はひたすら祈り続けた。

 太郎が、いつから血を流していたのか定かでは無いが、そのどす黒く固まった血を見ただけで、数日間は亜理紗と太郎があそこに居た事は一目瞭然であった。


「亜理紗ちゃん!しっかりするんだ!」


亜理紗の安らかな顔に、珂翠は不安を感じた。このまま、呼吸を止めてしまうのではないかと。


「絶対駄目だ!一緒に、畑を成功させよう。そうしたら、君は二度と身売りをしなくてもよく

なるんだ。もう、二度とあんな…寂しく笑う必要も…無くなるんだ。」

「ぼっちゃん。落ち着いてください。」

「由美、でも…。」

「騒いでいても、どうにもなりません。ここに必要な物を書き出しました。

どうかこれを、城から持って来て貰えませんか?

もう無い物もあるかもしれませんが、城の者には気付かれない様、どうぞお願いします!」

「ああ。行ってくる!亜理紗ちゃん、すぐ戻って来るから、待っててね。」


 珂翠は慌てて走り出し、地下通路から持ち出してきた物に何度かぶつかりながら、駆け出し

て行った。


「おいおい、あいつ大丈夫かよ…。」


 聖が珂翠の背中を見送りながら呟く。


 太郎は腐りかけて異臭を放ち始めていた。聖は、早く葬ってやる事を提案したが、亜理紗が

目覚めるまでこのままにしておくと、珂翠が言い張った。


由美は亜理紗の隣に腰を下ろし、傷つき汚れている亜理紗の身体をぼろ布で拭ってやった。


「まだ、こんなに小さいのにね。」


 由美の寂しそうなその表情に、聖は少し違和感を覚えた。


「ああ、そうだね。でも、このご時世では、そんなに珍しい事では無いよ。」

「そう、それが悲しいのよ。」

「まぁね。」


 聖は手持ち無沙汰に、置きっ放しになっていた機械の残骸を弄り始めた。

「私もね、幼い頃はそういう仕事をやらされていたのよ。」

「え?」


 由美の突然の告白に、聖は持っていた金属の欠片を落とした。


「私が乳母としてお城に入れたのは、旦那様に気に入って貰えたから。私は乳母で乳を坊ちゃ

んに飲ませていたのに、私に子供は居ない。」

「……!」

「私は、酷い母親なのよ。」

「この村では、仕方がない事だよ。」

「仕方が無い…?」

「え?…あの…。」

「私の親も、私を橋に立たせて客を取らせていた。時には、そう、子供が出来る事もあった。産んでは沼に沈める。その繰り返し…。ある時、子供を身ごもったまま、旦那様と橋で出会

った。」

「ちょ…橋でって?」

「そうよ、珍しい事ではないのよ。昔からね。」

「由美…さん?」

「私はね、旦那様が好きだった。私のお腹に赤ん坊が居ると知って、旦那様は私を乳母として

城に迎えてくれた。でも、お腹の子供は…もう居ない。」


 由美は、亜理紗の絡んだ癖毛を解きながら続けた。


「だから、珂翠坊ちゃんが可愛くてね。でもね、まるで罪滅ぼしの様で…苦しかった。」


 聖には返す言葉が見付らなかった。

 だから、ただ、由美が満足するまで聞き役に徹する事を選んだ。


「でも、お坊ちゃまは良い子に育ったわね。この子の命が救われたその奇跡を、私は信じたい

と思う。」


 聖は、太郎から漂う異臭に嫌悪感を抱いてしまった己を恥じた。


「大丈夫だよ。この子は。だって、あいつを助けてくれた…天使なんだから。」

 聖は唇を強く噛締め、ゆっくりと続けた。

「闇に飲まれも…優しい子なんだ。珂翠みたいにね。」



 そこは暗闇の世界だった。

ただ、ひたすら太郎の姿を探していた。

 沢山の腕が追いかけてくる。掴まれる。そしてまた、犯される…。

 でも、太郎はいつも嬉しそうに駆け寄ってきた。そしてこの穢れた唇を、手を、足を、頬を舐めてくれる。

 太郎が居てくれれば、笑顔で居る事が出来た。涙を流さずに居られた。

 なのに、茶色い毛並みの太郎が、ドス黒い赤に姿を変え、腕から零れ落ちていく。


『亜理紗は、強い子なんかじゃないさ。オレは知ってるんだぜ。亜理紗は、俺の一番だから。俺はいつまでも亜理紗の一番だから。

泣いて良いんだよ。亜理紗がまた、独りで笑っていたら、俺が必ず傍に行ってやるから。俺

が絶対、また暖めてやるから。約束だぞ。俺が、絶対に助けてやるからな!亜理紗!』


「た…ろう?」


『俺にとって亜理紗は、一番だから。どんな事があっても、一番だから!有難うな。俺の大切

な、亜理紗…。』


「行かないで!お願い…亜理紗は弱虫なんだから…独りにしないでよ!お願い、太郎ちゃん。亜理紗も連れて行って!」


『違うよ亜理紗。亜理紗は独りじゃない。悔しいけど、もう亜理紗は独りじゃないよ。

だから、俺は行くよ。安心しろ。約束だ。亜理紗は、俺の一番だからな!忘れんなよ。』


 太郎の身体が崩れ落ち、底のない深い闇に消えて行く。


 光と闇は平行線を辿っている。ただ長い平行線を、太郎と亜理紗は歩いている様だった。一

歩踏み外せば、光も闇も手に入る別れ道に亜理紗は立っていた。


 遠くの方で聞こえる。

「ありさちゃ…ん!」

『誰?』

「亜理…沙…ちゃん!」

『どうして私を呼ぶの?』

「亜理紗ちゃん!しっかり!」


 亜理紗はゆっくりと目を開けた。


「亜理紗ちゃん、解る?僕だよ、珂翠だよ!良かった!」

「…た…タロウ…は?」

「え?」


 亜理紗は意識を凍結したまま、ただ自分の目に勝手に映りこんでくる誰かを映し、頭の中に

勝手に湧いてくる単語を口にした。


「ああ、君の抱いていた犬の事だね。残念だけど…。」

「どこ?どこに居るの…?」

「あそこに。」


 珂翠が、指で太郎の亡骸を指すと、亜理紗は勢いよく飛び起き太郎を抱きしめた。

 身体中にあった傷は塞がれ、毛にこびり付いた血液も綺麗に洗われていた。


「聖がね、可哀想だからって、傷を縫って、身体を清めてくれたんだ。葬ってしまう前に、君

もお別れを言いかと思って。」


 珂翠は、壁の方を向いて太郎を隠して座り込む亜理紗に、声を掛け続けた。


「やっぱりぶかぶかだったね…それ、僕のパジャマなんだけど。あっ!着替えは全部由美がし

てくれたから大丈夫だよ。」


 亜理紗は何も答えない。


「嫌かもしれないけれど、何か食べた方が良いと思って。これ…。」


 珂翠は亜理紗の近くにお盆を置いて、その上に自分の昼食を乗せた。


「僕が居ると食べにくいだろうから、僕は作業に戻るよ。落ち着いたら、君を送って行くね。僕達も彼女達と、もう一度ちゃんと会って話そうと思って準備していた所だったし…。

でも、今は…ゆっくりして、ね。そうだ、後…。」

「独りに…して…。」


 亜理紗は少しも動かずに、小さな声で呟いた。


 その背中は、全身で珂翠を拒絶していた。

 小さな肩に掛かるクルクルの髪も、まだ幼さの残る腰周りも、何より亜理紗から漂ってくる空気が、この現実を全て拒絶していた。

 言葉では埋めることの出来ない絶望をまだ知らない珂翠には、手の施しようもない事なのかもしれない。それでも、珂翠は亜理紗を放っておく事が出来なかった。

 恐らく今まで、誰もが彼女に対してそうして来たであろう事が解るから。そして、彼女は、その孤独を独りで背負って生きてきたのだろうから。

 珂翠はあえて言葉を紡ぎ続けた。


「君に似合う服がどうにも見付らなくて、可笑しいかもしれないけれど、昔使っていた使用人

用の服を持って来たんだ。もし良かったら着てよ。君が好きそうな、フワフワな服で…。」


「独りにしてって言ってるでしょ!」


 亜理紗はヒステリックな声を上げて、か細く頼りない肩を震わせた。

「そうだよ。そうやって、叫んでよ。僕を殴ってくれても構わない…。僕はそれだけ君に失礼

な事をしてきたから。」

「…。」

「身体の傷はたいした事は無かったみたいだよ。」

「…キエ……た…カッタ…。」

「え?」

「きえて、しまえばよかった…ノニ。」


「消えるって…?」


 彼女を受け止めるだけの器を持ち合わせていない自分が、歯痒くて、情けなくて、涙が零れ

そうだったのだ。


「君を、見つけた時…本当に美しくて、天使様の様だったよ。お願いだから食事と着替えをし

てね。君に、その…可愛いメイド服を…着て欲しい…から。」

「……。」

「僕、一応男だからさ…。君にそんな姿で居られると、恥かしくてね?じゃあ、行くね。」



 地下道に横たわる廃棄された機械の中から、使えるものをかき集め、ある程度の物は出来上

がりそうであった。後は、死に絶えた土を運び込み、具体的な実験を進めようという段階まで

来ていた。

 由美と聖は、殆ど睡眠時間を取らずに作業を重ね、珂翠も深夜に城が寝静まってから抜け出

して来て作業を手伝った。


「これで、瞳に顔を見せられるな。」


 聖がポツリと本音を零した。


「そう。そんなに魅力的な娘なのね~へぇ。」


 由美が聖のわき腹をこついた。


「そんなんじゃないよ!」

「じゃあ、どんなのよ?」

「何の話?」


 珂翠は二人の間に顔を突っ込み、顔を見比べるようにして、聞き返した。


「坊ちゃん?」

「だから、何を!」

「恋ですよ。コ~イ。」

「…コイ。…聖は、瞳さんに恋してたの?」

「だから何だよ!」

「恋をしている相手って事は、恋人じゃないか!そうだったの?そっかぁ…。」


 由美と聖は、顔を突き合わせ、込み上げてくる笑をそれぞれ収める努力をしていた。


「あの、坊ちゃん。恋をしていると、恋人は違いますよ。」

「へ?でも、恋している人なのだから、恋人でしょ…?」

「違いますよ。恋人は、お互いをお互いが思い合っている、好き合って居る関係の異性の事を

言うのであって、こちらが好きでいる事は、片思いとか言うのですよ。

で?聖は…どっちなの?」


 由美は目を細め、ゆっくりと聖の答えを待っていたが、聖はムスッとしたままだった。

「そう…そういう関係ね…。」

「どういう?」

 珂翠の空気の読めない返答に、由美も聖も口を摘んだ。

 その時、意外な所から意外な声が地下室に響き渡った。


「ず~っと会っていなかった相手に、片思いも何もないですよねぇ~?ホント、男って都合良

いんだからぁ!」


 三人は一斉に、声の主の方に視線を投げた。高くてどこか甘えた言い回しが独特で、誰であ

るかはすぐに解った。

 亜理紗は、珂翠が用意してくれたメイド服を身に纏い、太郎を抱きしめたまま、戸の横からひょっこり現れた。


「えへへ?このメイド服、凄い可愛くて、早く見せて上げたかったから着ちゃった。可愛い?

亜理紗こういうの、凄い~似合うんだよね~!」


 まるで、別人のような亜理紗の無邪気さに、誰もが目を奪われたが、いつものわざとらしく

て、痛々しい感じは少し薄れて見えた。


「亜理紗ちゃん!うん。凄く可愛いよ。それ、カチューシャもあるんだけど…。」

「そうなのぉ?するする!絶対したい~。どこどこ?」


 珂翠は微笑む事で軽く返事をして、使わないと思って端に避けていたカチューシャを亜理紗

に手渡した。

 亜理紗は、太郎の亡骸を下ろそうとはせず、バランス悪く抱きかかえたまま、カチューシャ

を空ている方の手で頭につけた。

「どう?」

 珂翠はにっこりと笑って素直に答える。

「可愛いよ。」

 亜理紗は、聖と由美の方にも視線を移し、満面の笑みを浮かべながら首を傾けポーズをとっ

て見せた。


「ああ、とても似合うね。」

 聖は、机に軽く体重をかけたまま笑い返した。


「とても、可愛いわね。」

 由美は複雑な思いを胸に抱えたまま、作り笑いを浮かべていた。

 聖はそんな由美の詰まる思いを汲んでか、割り込むように話し始めた。

「もう、体調は良いの?」

「うん。有難う。」

「そっか…食事は食べた?」

「うん。少し…ね。あの、あのね!」

 亜理紗は、それぞれの顔を伺うように見つめてから、ゆっくりと話し始めた。


「私、どの位寝ていたか解らないけど、今までずっとね、おねえちゃん達にね、食料を届けて

いたの。それが、今回行けなくて、多分困ってると思うの。だから…ね?」

「何だって…そうか、そうだったのか!それはいけない!直ぐにでも、行かなきゃ!」

 珂翠は、慌てるようにカバンに持って行けるものを詰め込み始めた。そして、自分の視野の狭さを愚痴る様に、独り険しい顔をしながら、数回頭をかいていた。


「俺は、ホント馬鹿だ…そうか、そうだよな。ったく!」


 荒々しく動きながら、亜理紗の方に顔をチラチラ向けながら話し始めた。

「君を見つけて、もう2日は経っているし、君が倒れてからも恐らく、4・5日は過ぎていた筈なんだ。そうなると、かなりの期間食事が出来ていない事になる。聖!僕は城に帰って、キッチンを覗いて食料を少し多めに取ってくるよ。」

「あ?ああ…。」

「こっちの出発の準備、頼むな!」

 珂翠はそれだけ告げると、勢い良く亜理紗の横をすり抜けて行った。

 亜理紗は、珂翠を見送る様に珂翠の後姿を見つめていた。


「信じてみようかなって、思えた?」


 珂翠の後姿をいつまでも眺めている亜理紗に向けて、聖は声を掛けた。亜理紗は、ゆっくりと聖の方を向きなおし、太郎を両手で抱き直した。


「あたしは…、太郎を、ちゃんと葬って上げたかったから。それだけ。」


 亜理紗は、囁いた。

 

 全く痛みが解らないでもないからこそ、掛ける言葉がより慎重になってしまう。

その場に残された難しい三人の関係は、どんどん空気を重くして行った。

 しかし、その空気を一番に打ち破ったのは、意外なことに亜理紗本人だった。


「太郎ちゃんを綺麗にしてくれて、どうも有難う。太郎ちゃんが、喜んでる。」


 亜理紗の優しい微笑みに、つられて二人の表情も少し緩んだ。


「犬を飼っていたなんて驚きね。よく、村の連中に捕まらないで居られたわね。」

 由美が、亜理紗の傍に行き、亜理紗の目線で話をするようにしゃがんだ。しかし、亜理紗は何も返事をしなかった。

実年齢より大分幼く見える童顔な少女だけれど、その瞳に映る世界は、確かに薄汚れた大人の世界だったのであろう。

 由美は、珂翠に出会う前の自分を見ている様な錯覚に捕らわれ、慌てて亜理紗の傍から離れた。

「で、珂翠はどう?」

 聖は、マイペースに亜理紗に探りを入れる。

 目の前に居る少女は、紛れも無くあの売春をしていた少女なのだ。

 橋の上で客に取り、珂翠の前で自ら服に手を掛け、哀れみは受けないと拒絶し、嘘と偽りだけを身に纏った、正体不明の少女なのだ。

 いくらそれが、犬の命を愛おしく思う少女でも、珂翠を助けてくれた少女でも、正体不明で在る事に変わりはない事実だ。

「ねぇ?…あの人。ウフフ…空気読めない系だね。」

亜理紗は薄く笑った。

 笑顔ではなく、悲しい顔でもなく、その複雑な微笑みに、亜理紗らしさは見えなかったが、聖を安心させるのには、一番の返答だった。

「そうだな。あいつに空気を読めって言う方が、無謀だな。そんな所に立ってないで、ここに座りなよ。まだ身体が辛いだろう。」

「いい!…よ。」

 亜理紗は、太郎の亡骸を見つめながら強く言った。

 珂翠達の希望で漲るこの部屋に踏み入ってしまう事を恐れてか、それとも太郎の亡骸から漂う異臭を気にしてか、それとも全く違う理由だったのか、聖たちには察しが付かない。

 それでも、聖は珂翠を真似て続けた。

「太郎君の臭いなんて気にしないよ。ここ数日、君が目覚めるまでに、大分慣らされたか

らな。」

 聖は片頬を上げて、亜理紗にウィンクして見せた。

 珂翠の様な、鈍感で空気が読めない風には行かないが、聖らしく、わざと空気を読まない手法は意外にも成功した。

 亜理紗は俯いたまましばらく沈黙していたが、勢い良く顔を上げ満面の笑みで答えた。


「私、今気付いたの!裸足だった☆これじゃあ、メイドさんっぽくないや、アハハハハ。」


 両腕でしっかりと太郎を抱きしめたまま、由美の隣に置いてある椅子を通り過ぎ、聖の傍にある椅子に座った。由美は少しの安堵感と、少しの嫌悪感に目を細めていた。

「亜理紗は、聖さんの事嫌いじゃないから、座ってあげる。」

「何で、俺の名前?」

「だって、珂翠おにいちゃんが何度も何度も呼んでいたじゃない。亜理紗はね、こう見えて記

憶力が凄くいいの。特に人の名前は、一回聞けば覚えるの。男の人って、名前を覚えてもらう

と、喜ぶもの。」

「ああ、そっか…。」

 亜理紗と聖は、初めてちゃんとお互いに視線を合わせて会話をしていた。

珂翠というクッションが無ければ繋がる事のなかった二人だ。

 その一方で、由美は居心地の悪さを感じていた。

「私、向こうを整理してくるわね。」


 作り笑いを浮かべながら去って行こうとする由美を、亜理紗は呼び止めた。


「由美さんも!有難うございました。」


 昔の自分を重ねてしまう痛々しい少女が、影のない笑みを浮かべていた。

 だから由美は、引き攣る顔を強張らせて言うしかなかった。


「良いのよ。でも…もう、これで断ち切って…ね。」

「え?」


 由美は強張る頬を無理に引き上げ、涙を零さぬ様にして去って行った。

 聖は、由美の後姿を見送ってしばらくしてから、亜理紗の瞳に映る自分を確認して口を開い

た。


「俺は、傷口に塩を塗りたくる気も無ければ、舐め合う気もない。君が、どうしてあそこに倒

れていたのか、君の仕事を考えれば何と無くだが解る。だから、もう辞めてくれ。自分の身体

を傷つけて、自分の大切な者を傷つけて…それで得られるモノに、幸福は無い。きっと、あの

二人じゃ言えないだろうから、俺が言うよ。君を助けたのは、君を苦しめたいからじゃない。君を救いたかったからだ。甘えさせてくれる他人が居るなら、今は甘えれば良いんだ。君の

様な、小さな子供は、甘えて、我侭言って育つものだ。

ヤバイな。なんか、らしくないなぁ。まぁ、今は、あの頼りない珂翠に、甘えてやってくれ

よ。珂翠は、我儘を言われた方が、喜ぶ奴だ。」


 亜理紗は曇ったガラスのような瞳で、聖の言葉を受け止めていた。


「ホント…らしくない。聖さんには似合わない言葉ばっかだね。」

「ああ。そうだな。」

「でも、許す。」

「ありがと。でも…なんで?」

「太郎が、太郎ちゃんが、聖さんは良い人だって言ってるから。」

「そっか。…じゃあ…。ありがとな。…太郎!」

 聖は、亜理紗が両手で抱えている太郎の頭を軽く撫でた。

 亜理紗は少しピクリと肩を震わせたが、とても嬉しそうに笑った。


 珂翠と聖は由美を地下に残して、亜理紗を連れて村に上がる事にした。

亜理紗の案内で地下を通っていった為、村人に見付る事無く、思っていたよりも大分早く、

瞳の家の近くまで来る事が出来た。

 亜理紗の両足を包む、マスコット付きの可愛いブーツが、暗い地下道を踊っていた。

出発前に、珂翠は亜理紗に子供用の可愛いブーツをプレゼントした。

 予想外にも、亜理紗はそれを喜んで受け取ってくれた。珂翠は、不思議そうに聖を見たが、

聖はただ微笑み返してくるだけだった。


「亜理紗ね、太郎を畑の隅に埋めて上げたいと思っているの。だってぇ太郎は、凄く良い子だ

から、亜理紗の代わりに畑を作るのを、手伝っていたと思うの。それに太郎は、元々猟犬だか

ら、広い大地を走り回りたかった筈だし…ね。」


 亜理紗は、太郎を両腕に抱えながら、重い足取りとは対照的に、よく話しよく笑った。

 珂翠と聖はそれに対し、相槌を打ちながら亜理紗の後を歩いて行くだけだった。瞳の家の前

に広がる畑の脇を囲む、壊れかけた柵が見えた時、亜理紗は歩みを止めた。


「亜理紗ちゃん。どうしたの?」


 珂翠がそっと亜理紗の肩に手を乗せた。


「お姉ちゃん、心配してくれてたかなぁ。」

「当たり前だよ!」


 珂翠は何の躊躇も見せずに答えた。

 今までの亜理紗なら、それが憎くて仕方が無かっただろう。しかし亜理沙と言う少女は、そ

れを、可愛らしく笑って、憎しみを愛嬌へとすり替えて、誤魔化していたのだろう。

まるでそれが、生存本能かの様に。

だから今は、亜理紗は笑わない。

 愛された事しかない少年に、愛される事を知らない少女は、等身大の自分を曝け出すかの様

に、無表情で答えた。


「当たり前じゃない人も居るんだよ。心配されない…独りぼっちの人も、居るよ。」

「そうだね、居るかもしれない。居るかもしれないけれど、その人は、とてもとても悲しい人

だ。でもそれは、亜理紗ちゃんじゃない。

絶対に!」

「この世に、絶対は無いよ。」

「僕が居るから絶対さ。僕は君を心配した。君がそれをどう思うかではなく、僕は、君をとて

も心配してた!きっと、お姉さん達も心配していると思う。それは、絶対では無いけれど、君

が去ったあの夜、僕は彼女達と向き合って、初めて気付いた。己の愚かさ、無知さ、無力さ。そして、君の偉大さをね。」


 珂翠は、そっと亜理紗の頬を撫でた。


「君が居なければ、僕は今、ここには居ない。あの夜、愚かな貴族の死体が一つ、村の片隅に

転がる事になっただけだろう。でも、君が僕を救ってくれた。だから、僕は君を救えた。

感謝している。とても…。」


 亜理紗のガラスのように透き通った瞳に、太陽の光が反射し、一瞬だが潤んでいるかの様に

見えた。


「残念でしたぁ~!亜理紗は、こう見えて、プレイガールよ!そんなくっさぁ~い落とし文句

には、乗りません~よ~。エヘヘヘ。」


 亜理紗は、珂翠の横をすり抜けて、太郎を小脇に抱えたままバランス悪く、走り出した。


「なぁ~に、もたもたしてんの?早くぅ~!置いて行くよう~?」


 亜理紗が勢いよく振り返ったその姿は、逆光で顔が影になり表情は見えなかったが、薄っす

らと頬を伝う一本の光が、美しく光った様にも見えた。

珂翠は、眩しげに目を細め、呟くのだった。


「やっぱり、天使様みたいだね。」


 クルクルの癖毛を遊ばせるように駆けていく、亜理紗の後姿が導く先には、古ぼけた小さな小屋が太陽を後光にして聳え立っていた。


「聖!世界はまだ終っていない。これから始まるんだ。僕らが切り開いて行く、正義の力

でさ。」

 聖は薄っすらと唇を開き、頷いた。

 聖は幼い頃、珂翠のお付を任される時に、執事に言われた言葉を思い出していた。


『何故子供が純粋だと言われるか、お前は解るか?子供は何も知らない、無知だから純粋なの

さ。貴族はそれで良いんだ。純粋で、綺麗な、子供の様で。

お前も子供の内は、お坊ちゃまの良き友人で居られる。お前が、知識を得てしまったら、お

前はその任から外される。

それだけは、忘れるな。純粋とは、愚か者と同意語なのさ。』


 聖は由美のように、珂翠を選ばれ者だとは思っていなかった。共に同じ年頃を過ごして来た

彼は、ただ純粋なだけの子供ではなかったからだ。

 だが、今なら聖にも思える気がした。

 珂翠は、知識を得た今でも純粋な思考の持ち主であると。


「純粋と愚か者は、決して同意語ではないよ。彼は、純粋な開拓者さ。」


 聖は思わず誰かに確認する様に、口に出して言ってしまった。


「お前の幼稚な正義とやらを、見せてもらおうじゃないか!」


 太陽は眩しくて、とても暖かかった。


 亜理紗は小屋の前で、大きな深呼吸をしている振りをしながら、珂翠と聖の到着を待ってい

た。


「珂翠お兄ちゃんから入って。」

「何で?」

「良いからぁ!」


 珂翠は亜理紗の小さなお尻で突かれた。

 珂翠は、大きく深呼吸をした。あの夜の事が脳裏に浮かんできた。重たい空気と、針の筵に

されてしまいそうな少女達からの視線。

そして、睫毛が長くカールしていた伏した視線をこちらに向けてくれなかった、あの美少女

の横顔。

 あの無口な少女の顔が、蘇る。


 珂翠が戸を叩く事を躊躇していると、横から紅葉のような小さな手が伸びてきて、珂翠の手

を戸に押しやった。


「あ…亜理紗ちゃん。」

「なに?」


 全く悪びれない大きな目とは対象的に、口の端がクリンと上がり、企みが垣間見えた。

 珂翠があたふたしているその向こう側では、数人の女の子達の声が聞こえている。確実に、今の一回のノック音に気付いて、足音がこちらに近付いてくる。


 珂翠は、あの夜の自分の過ちに対する後悔を。

 亜理紗は、信じ切れていない自分に対する恐れを。

 聖は、瞳とちゃんと向き合うための決心を。

 それぞれの胸に、強く焼き付ける瞬間だった。


 ガチャ。


 ゆっくりと扉が開く。

 珂翠は、勢いよく腰の付け根から体を九十度に曲げた。


「皆さん、こんにちは!お久しぶりです。すみません!また来てしまいました!」


 ここまで積み上げてきた緊張は、全く役にたたず、苦い後味と重苦しい空気だけが漂っていた。顔を上げようにも、何の反応もない周りに、そのチャンスを見出せないでいた。


「亜理紗!」


 奥の方で、大きな声と迫ってくる足音がする。

 珂翠はゆっくりと頭だけを持ち上げると、目の前には、ショートヘアーの少女が迫ってきていた。

 珂翠は思わず体をねじり、彼女に場所を譲る様に戸の端に背中を打ちつけた。


「亜理紗!」


 眞留美には、亜理紗の姿しか目に入らなかった。亜理紗と会えなくなってから、まともに寝る事も出来なかった。それでも、朝方、亜理紗が瞳の家の戸の前に食料を置きに来る時、太郎が静かに姿を消し、亜理紗が外で少しの間、太郎を可愛がるその息遣いと、小さな足音を聞くだけで、心が休まる想いだった。

 しかし、戸に耳をつけて、この薄い板の向こうに居る亜理紗に声を掛ける事も、顔を見せる勇気もない自分が情けなくて、誰にも言えなかった。

 だから尚更、亜理紗が来なくなった時、後悔に苛まれ、心が壊れそうだった。

 自分は唯の人形を妹代わりに見立て、これ以上、己が傷つかない様に、壁を造って生きていただけなのだと思ったから。本当に大切なものを見失いそうになった時、初めて気付かされた事だった。

 眞留美は、溢れてくる想いを全身で表現するかの様に、走り出し、亜理紗をきつく抱き締めた。もう二度と離さない様に。


「亜理紗…亜理紗!どこ行ってたのよ。心配したんだから!」


 自分でも制御しきれない想いが、両目から涙として溢れ出して止らなかった。

 小さくて華奢な身体を、めいっぱい抱きとめた。

 その一方で、亜理紗は、太郎を抱えたまま立ち尽くしていた。


「…ありさ…もう、何処にも行かないで…。」


 眞留美が、亜理紗の耳元で優しく囁いた。


「お願い。お姉ちゃんが、もっとしっかりするから。」


 亜理紗はただ目をパチクリさせていた。

 眞留美は亜理紗を抱き締めたまま、膝から崩れるように蹲った。

 亜理紗は眞留美の顔を覗きこみ、優しく微笑みかけた。


「お姉ちゃん。ただいま。」

「お帰り…おか…えりぃ‥‥。で?どうしたのよ。その格好?」

「流石お姉ちゃん!これ、可愛いでしょう~?珂翠お兄ちゃんに貰ったの。憧れのメイド服だよ?」

「メイドもどうかと思うけど…そのブーツ…は、何?子供用じゃないの?変なぬいぐるみがつ

いてる。」

「亜理紗は、まだ子供だもん~!」


 亜理紗は鼻歌交じりにメイド服を自慢しながら、部屋の中に当たり前の様に入って行った。

 それはとても亜理紗らしくて、でも、どこか違う雰囲気を纏って居た。


 入り口に残された、珂翠と聖はまた居た堪れない気持ちで取り残されていた。


「…あのぉ…。」


 珂翠が背中を摩りながら身を乗り出すと、扉を開けてくれた詩絵が、相変わらず伏し目がち

に佇んでいた。


「あ、あのぅ…。」


 陽の光に照らされている詩絵の顔は、夜に見た時よりもはっきりとしていて、珂翠は思わず

目が離せなかった。


「珂翠お兄ちゃん~??なぁ~にいやらしい目で、詩絵ちゃんを見つめちゃって!いやらしぃ

~!ぼうっとしてないで、入っておいでよ!こっち、こっち。」


 亜理紗は奥の方で、珂翠と聖に手招きをしていた。


「いやらしいって…そんな、僕は…そのう。」

「どうぞ。お入りになって。」


 亜理紗の傍で黒ずんだシーツに身を委ねた瞳が、窓から差し込む陽の光に包まれながら、二

人を優しく受け入れてくれた。


 珂翠と聖は、一呼吸置いてから、今回は胸を張って彼女達が暮らす小屋の中に足を踏み入れ

た。

 窓から差し込む太陽光が眩しい小さな部屋が、それぞれの思いを優しく浄化してくれる。

アリア預言の書 末章 第2項


『最善を尽くせ。

 最善だと信じる気持ちを忘れるな。


 最良にとらわれるな。

 最良が最善であると言いきれない



 抱いた信念に幸ある事を。』




第3章 太陽―THE SUN―


 珂翠達を含めて瞳を囲う様に座り込み、それぞれが切り出し方に戸惑っている時に、亜理紗が声を上げた。

「霧月ちゃん無事だったんだね。良かったぁ。す~ごぃ心配してたんだ!」

「…まぁ、有難う御座います。私は、何とか助かりました。でも…父…いえ、牧師は、自ら命を絶ちました。」

 珂翠はなるべく声に出さない様に努力はしたが、その驚きは隠しきれるものではなかった。

「え…牧師さんがお亡くなりに…って!」

 自分の両親が教会を裏切った事により、牧師が亡くなった。珂翠はやり切れない思いに耽った。

 その一方で、霧月は会話を続けた。

「亜理紗さんは、御存知だったのですね?」

「うん。教会が燃えているのを感じて、なんでか解らないけどね。ただ、そう感じて、お客さんを断ろうとしたら、殴られちゃたの。

でもね、でも太郎が駆けつけてくれて、助けてくれたの。それで、亜理紗の代わりに死んじゃったの。」

 亜理紗の声には、抑揚はあるけれど、どこか淡々としていて、全く感情が無かった。

「でね、この珂翠お兄ちゃん達が、亜理紗の事を助けてくれたの。」

 亜理紗が珂翠の名を出すと、少女達は一斉に珂翠と聖に視線を向けた。

「いや、あの…僕は、大した事はしていません。あのう、今回は、是非皆さんのお力をお借りしたくて、また来てしまいました。

僕達と一緒に畑再生をしませんか?僕は、本気です。互いに、持ち合わせていない物を分け合って、もう一度、緑豊かな村を作り上げましょう。」


 この時の珂翠はまるで、夢見る少年の様だった。

無邪気で、純粋で、無知で、一所懸命。

少なくとも、聖の目にはそう映った。熱弁する珂翠の言葉に、うなずく者、不審を抱きながらも、口を出さないで聞く者。それぞれの表情は違うが、珂翠の言葉を遮る者は一人も居なかった。


珂翠は少女達に食べ物を分け、知識を与える。その代わりに少女達は総出で、畑の土を地下研究室に運び込み、土の再生を手伝う事に想っていたより簡単に決める事が出来た。


畑再生の話が一通り終る頃、亜理紗は再び口を開いた。

「あのね、亜理紗も…亜理紗も畑造りたい。」

「何を言ってるの?亜理紗は最初から仲間だよ。」

 眞留美が亜理紗の肩に手を回した。

「ううん。亜理紗は何もしてなかったよ亜理紗は。だけど、だから、太郎の代わりに…畑仕事をするの。そうしたいの。いい?」


 亜理紗にとっても過ぎ去った日々を無かった事にするのは簡単だった。

しかし、過去を引き連れて今を生きる事こそ大切な気がした。

「わかった。」

 眞留美は、俯き加減に答えた。

「それとね、太郎を畑に埋めて上げたいの。いい?」

「当たり前じゃない。太郎ちゃんは、勇敢なナイト様だもの。皆で弔ってあげなきゃ。」

 瞳がゆっくりと状態を上げながらそう微笑んだ。


 瞳には、薄々解って居た。

 あの日、カラスが見えていたから。

 カラスは太郎と共に、飛び去って行ったから。

 太郎は、亜理紗を救う為に、勇敢に戦ったのだろう。太郎は、瞳を舐めながら、己の運命を理解して居たのだろうか?

「太郎ちゃんは、きっと解って居たのね。」

 瞳は綺麗な涙の滴を零した。


 太郎の遺体は、聖と瞳が幼い頃に共に遊んだ、大木の跡地の腐れ掛けた切り株の麓に埋葬される事になった。聖が瞳に大木に綱を垂らして、ブランコを作って上げた。聖が来なくなってからも、瞳は一人でそのブランコに座って揺れていたが、いつ頃からか…、大木は腐り始め、ブランコは地に落ちた。瞳はあれから余り此処には来なかった。残り少ない自分の運命さえ、腐れ落ちないように。しかし、朽ち果てる前、此処は未来へと繋がる場所だった。

そこに勇者として散って行った太郎を、埋葬することを瞳は願ったのだ。


 霧月は勇敢に生を全うした太郎の為に、簡単な葬儀を執り行ってくれた。

その間、瞳と詩絵が涙を流しているのとは対象的に、亜理紗は涙を見せなかった。

 聖と珂翠の手によって、太郎が土に埋められた後、聖は亜理紗に声をかけた。

「君は、本当に…強いんだね。」

 亜理紗は呟くように答えた。

「どうして?」

「君だけ、涙を流していない。太郎の死を受け入れているからだろう。」

「亜理紗は、弱いよ。だから、泣けないの。」

「そっか…。」

 聖の目には、あの橋で会った少女と、今隣で微笑む亜理紗が違う人間に見えた。


 珂翠は霧月にどんな言葉を掛けるべきか、ずっと悩んでいた。

 しかし、霧月は優しく微笑みながら珂翠に言葉を掛けてくれた。

「貴方が、また来て下さると、信じておりました。」

「でもシスター、僕は…。」

「もう、シスターではございませんよ。…霧月で、良いですわ、珂翠さん。」

「うん!霧月ちゃん…。ありがとう。」


 珂翠は霧月に握手を求めた。

霧月は快くそれに応じた。



 畑の土再生作業は想像以上に、難航を極めた。やはりそう簡単に成しえる筈は無かった。

 太郎を埋葬した場所の横に柵を立て、畑を小さく区切り肥料の濃度を上げる等色んな知識を活用したが、そもそも眞留美と詩絵が集めた柔らかい黒土を、珂翠達が作った地下の研究室に運ぶ作業が上手く行かなかった。

 亜理紗が知っている地下道は、人一人が通るのがやっとで、大量の土を運ぶには余りにも時間が掛かりすぎる。

だからと言って、人通りの多い街中を運んで行く訳にもいかない。

そこで、太郎の糞などを地下研究室に持ち込み、退廃する前の知識を元に、土の生成は地上で行い、まずは濃厚な肥料製造に切り替えた。

そうする事で、直に土を浄化するよりも多少時間は掛かるが、土を浄化するよりも短い時間で作業できた。


 畑作りには主に珂翠と眞留美がそれぞれの立場で知識をぶつけ合い、決定していく。

 いつの間にか、亜理紗を介さなくても珂翠と眞留美は男女の垣根無く話せるような関係をあっという間に築いた。

「私もその文献を読みたいんだけど、持ち出せるかしら?」

「勿論さ。一人より、皆で知識を共有できた方が良い。」

珂翠は嬉しそうに身を乗り出す。たまにその珂翠の勢いに、圧倒されそうになるがそういう時には、必ず聖が助け船を出してくれた。

「ねぇ、眞留美ちゃん。この後、俺達と一緒に来る?珂翠はそろそろ戻らないとやばいけど、俺はこの後地下に帰るだけだし、もしそちらが良ければだけど。」

 聖がそう提案すると、眞留美は目を爛々に輝かせて詩絵に声をかけた。

「本当ですか?是非!詩絵も一緒に行こうよ。霧月は、まだ体調が万全では無いし、ね!」

 しかし、詩絵は首を横に振った。

「私は、文字が読めないから、行っても何も出来ない。」

「え…ああ、そう?」

 眞留美が残念そうにしていると、霧月が声をかけた。

「眞留美さん、私なら平気ですよ。ご一緒致します。」

「本当に?」

「ええ。二人で行きましょう。」

 聖からの申し出は、願ってもない事であったが、眞留美は一人で彼等の陣地に行く事に対しては、流石に気が引けた。

その気持ちを霧月は充分に理解できた。相手がどんなに腰を折って来ても、生まれてから数十年間の間に培われてきた、貴族とそうでない者の溝は深い。詩絵にもその気持ちを察することは出来たのだが、詩絵には越えられない壁があった。

詩絵はいつも最下層の人間として、扱われてきたから。

「今度、文字の読み書きを勉強できる本を持ってきましょうか。」

 珂翠は純粋な気持ちでそう微笑み返した。

 見下すつもりは毛頭ないし、その言葉が詩絵にどう取られるか心配しなかった訳でもない。

 この時の珂翠は、亜理紗に食べ物を与えようとした時とも、聖に縦笛を与えた時とも違う気持ちを持って居た。


 詩絵は、恐る恐る珂翠を見た。

 珂翠の純粋な優しさは解る。

詩絵は戸惑い、スカートの裾を指で探していた。

『そうだ、裾がほつれたスカートはもうないんだ。瞳が、新しいスカートをくれたから…』

 小さい頃からの癖であった、スカートのほつれを弄る事はもう出来ない。

「良かったわね。」

 瞳が優しく背中を押してくれる。

「本なんてケチくさいこと言わないで、教えてあげてよ。珂翠お兄ちゃん~。」

 亜理紗が追い立てるように、茶化してくる。

 詩絵がそれでも戸惑っていると、亜理紗が二人の間に更に入り込んで来た。

「ねぇねぇ、一緒に教えて貰おうよ。亜理紗も読み書き出来ないもん。」


 詩絵は一人、佇んだままだった。


 風の色が変わっていく気配を感じていた。

 貴族のこの少年が、明らかに異質な風を吹き込んで居る事が解った。

 亜理紗が戻って来た時、そして今、それは明らかな変化だった。

 だから。


「お願い…します。」

「え?」

 珂翠は込み上げてくる思いを必死に抑えて、詩絵の言葉を待った。


「読み書きを、教えて下さい。」

「う、うん!勿論だよ!」


 珂翠は飛び上がりそうになり、バランスを少し崩しながら詩絵に握手を求める様に手を差し出した。

「宜しくの握手だよ。」

 詩絵は貴族とは思えない程の角質化した珂翠の指先に目をやり、自分の枯れ枝のような指先と少し比べて、視線を泳がせた。


「は~いの!宜しくの握手ぅ~。」


 亜理紗が詩絵の手を取り、珂翠と握手させた。そしてその上に、紅葉の葉の様な小さな自分の手を乗せて、身を乗り出した。

「亜理紗も一緒だよ?」

「勿論だよ。」


 この日は、一先ず眞留美と霧月を連れて、聖達は地下道から研究室に行き、珂翠は城に帰る事になった。

 話を進めている間中、詩絵はカサカサになって居た、珂翠の手の感触を思い出していた。

 亜理紗と瞳と共に小屋の中に入るまで、詩絵は黙ったままだった。


「珂翠お兄ちゃんの事、考えてたでしょ?」

 亜理紗が詩絵の顔を覗きこみながら、声を掛けてきた。

「…あの人…手がカサカサだった。」

 瞳は、ゆっくりと床に横になりながら、詩絵の震える手を見つめていた。

「聖さんから、あの方の御話はよく聞かせてもらっていたの。」

「あの方って、珂翠お兄ちゃんの事?」

 亜理紗が目をランランにさせて、瞳の方に身を乗り出す。

「そう。とてもやんちゃで、弟みたいに可愛い、小さな王子様のお話。」

「珂翠お兄ちゃんは、王子様って感じじゃなかったよ。何か、どん臭い…でも眩しい人。」

「聖さんもそう言っていたわ。決して諦めない、優しい心を持った眩しい方に育ってくれたって。だから未来はきっと変わっていくはずだと。あの人が、政治を行うようになればきっと変わるって…。」

「亜理紗は、政治とか良く解んないけど、珂翠お兄ちゃんはそういうのじゃないの。何にも解んないのに、街に出て来て、何にも出来無いのに、何か出来るって信じてて…亜理紗は考えた事もない様な事を、考える人なの。だから、ずっとずっと信じてみたくなるの。」

 詩絵は玄関近くに佇んだまま、動かなかった。

「ただ、それだけだよ。ただ、それだけでも、何も無かった私達には、ただそれだけあれば、充分じゃない。」

 亜理紗はそう言って俯いた。

 瞳は、天井に出来た雨漏りの後の染みを見続けていた。


 ただ、それだけで充分。

 ただ、それだけの事にさえ、縋りつきたい思いなのだった。


「…あの人、私に…握手を求めてきた。」

 詩絵は珂翠と交わした握手した感覚を何度を確かめる。カサカサだったけれど、とても暖かった。



 その一方で、霧月と眞留美は希望に胸を膨らませていた。

 

「凄い!凄いよ…此処にある専門書。

ねぇ霧月ちゃん!」


 眞留美は積んである書籍を漁り始めた。

すると、デスクの奥の方に、見覚えのある人形が何体も置いてあった。それは、眞留美が肌身離さずに持ち歩いていた、あの肩代え人形にそっくりな物だった。

「…こんなに沢山…?」

 すると奥の方から、作業を終えて由美が出てきた。

「あら、聖、戻ったの?」

「ああ、由美さん。こちら、シスター霧月と亜理紗ちゃんのお姉さんの眞留美さんです。」

 聖は由美に二人を紹介していると、眞留美は人形から由美に視線を移動させた。

「あら、こんにちは。」

 由美は優しく迎え入れたが、眞留美は強張った表情を隠しきれないで居た。

「あの…これって。」

「あら!これは…御免なさい。散らかしっぱなしで」

 由美は肩代え人形を隠す様に、本を積み直し始めた。

「これ、貴女の肩代え人形ですか?」

 由美が硬直していると、眞留美は由美の手を取った。

「私、初めてです。肩代え人形を、ちゃんと忘れずに持っていてくれる大人を見るの。」

 由美は、思わず眞留美の顔を覗き込んだ。

 由美は罪悪感を抱きながら生きていた。珂翠や聖を可愛がる事で、心の痛みを癒している事はよく解って居た。しかし、子供を沈める時に必ず作った肩代え人形を、忘れる事も出来なかった。

「忘れる事なんて、出来ないわ。私は、5人もの子供を犠牲にしたの。」

「私も、肩代え人形を持っています。妹ですけど…。」

 眞留美は由美の手を包み込んだ。

「私の目の前で、私の妹は沈められました。亜理紗は、実の妹では無いんです。でも、私は亜理紗を妹として、肩代えのあの子とは違う、一人の妹として愛しています。貴方も、その5人を一人一人忘れずに、愛しているのなら…そんなに、後ろめたく思う必要は無いと、私は思います。」

 由美は意外な言葉を掛けられ、感極まった様に泣き崩れた。

 身体を売って生活をする亜理紗を目の当たりにして、自分の犯してきた罪を思い出した。 

そして、その姉だという少女から、最大の許しの言葉を貰えた。

 由美は、涙が溢れて止まらなかった。



 記念すべき作業を開始する日は、いつも以上に快晴であった。

 少女達も、珂翠も聖も、そして由美も、神が自分達を祝福してくださっていると、信じて疑わなかった。

 畑を耕す為に聖と由美が徹夜で作った工具達が、地下から地上へと持ち出された。

 なるべく細心の注意を払いながら、地下道を通って畑まで運び出すのには、時間も労力も必要となる。その作業は、珂翠と聖と眞留美と霧月と詩絵で行われ、肥料の原材料を天日に干す作業を亜理紗と由美が行った。

 瞳は本人の希望で体調をみながら亜理紗達の手伝いをする事になったが、実際は座っているだけで精一杯な状態だった。


「太陽がこんなに綺麗に輝いて見えるのは、何年ぶりかしらね。」


 それでも瞳は、眩しそうに手をかざしながら、喜びの声を上げた。


「太陽が、僕達を照らしてくれている限り、希望は消えない。」

 珂翠が、担いできた工具を肩から下ろしながらそう呟いた。

「何んだよ。そのキザな台詞は。」

 聖が額の汗を拭いながら、珂翠を冷やかした。

「どこかでそんな記述を読んだ気がする。太陽がこの大空に輝いている限り、神は僕達を見捨てはしないとね。」

 そういった後、珂翠は照れ臭そうに笑っていたが、その場に居た者達の心には、その言葉が深く刻まれるようだった。


『神は自分達を見捨ててはいないのだ』と、そう誰もが確信する位には…。



 それからの日々は、活気に溢れる時間が流れていった。


 畑再生に動き始めて、1週間を過ぎる頃には、ほんの少しではあったが肥料が出来て、畳一畳分くらいの畑を耕す事も出来た。

 また、珂翠の屋敷のキッチンから持ってきた玉蜀黍の種の数粒が、無事発芽したのだ。

 新しい黄緑色の芽を皆で輪になって祝福し、それを小さな畑に植えた。


 しかし、上手く物事が進んだのもその一週間だった。

 陽は照っていても、夜には寒気が訪れ、せっかく芽を出した玉蜀黍が全て枯れてしまったのだ。


 毎日畑仕事を続けていた為に、全員の掌には痛々しい血豆が出来ていた。


「なかなか上手く行かないね…。」

 詩絵は珂翠が持って来てくれた本のページを指で弄りながら、気紛れな外の強風に飛ばされる、耕したばかりの畑の土を見つめていた。

「簡単な事では無いよ。でも、由美と聖と眞留美ちゃんと霧月ちゃんが地下の研究室で、ビニールハウスの変わりになりそうなものを探してくれているから、僕らは勉強に集中しよう。」

 珂翠は優しくそう声をかけた。


 今日は天候が悪く、畑仕事が出来る状態ではなかった。その為に、詩絵と亜理紗は珂翠に勉強を習っていた。しかし、詩絵は畑が気になり勉強に身が入らず、珂翠の隣では、毎日の畑仕事に疲れ果て、本に顔を埋めて寝入っている亜理紗が居た。

「亜理紗ちゃんも頑張り過ぎて疲れちゃったのかな。最近は、瞳さんの体調も良くないしね、僕も頑張らないと!」

「…どうして?」

 詩絵が独り言の様な、小さな声で呟いた。

「え?どうして…って?何が?」

「貴方は貴族階級で、本当はこんな事しなくても、生きていけるのに。」

 詩絵は、珂翠と視線を合わせ様とはしなかった。

「本来貴族は、村を安全で住みやすく治める義務があるんだ。だから、僕がやっている事は当たり前のだよ。…本当は申し訳ないと思っている。僕たち貴族階級が不甲斐無いが為に、こんな貧富の差が出来て…。」

「貴方が、した事では無いでしょ…。」

「それでも、僕の責任でもあるよ。何も知らないという罪を犯して生きてきた。僕は、そう思って居る。」

「そう…なんだ…。」

 詩絵にとってその言葉は、ちっとも心に響いてこない言葉だった。

 『貴族』という豪勢な椅子に腰を掛けた少年の、形だけの謝罪の様だと思えた。

 輝かしいのは、彼が座っている椅子であって、彼自身では無い。


 一方珂翠は、心臓が破裂して仕舞いそうな緊張感を味わっていた。

 勉強を教える為に小屋に残ったのは良いものの、瞳と亜理紗は眠ってしまっている。

となると、この小屋には詩絵と二人きりだと言ってもいい状況になっている。


珂翠は詩絵に好意を持っていた。

 亜理紗に連れられて、この小屋を始めて訪れたあの時からずっと、珂翠は詩絵を意識して居た。だが詩絵は、珂翠と視線を合わせようとはしない。それどころか、滅多に珂翠と言葉を交わす事も無かった。だから珂翠は詩絵からの問いに、絵に描いた様な正論で返してしまった。

それは、等身大の珂翠では無い、貴族としての立場からの言葉だった。

「あの…詩絵ちゃん?」

 珂翠は舞い上がっていて、自分の犯した失敗に気づけては居なかった。

 もう少しで埋まりそうだった詩絵との溝が、大きく開いていくのが解る。しかし、珂翠にはどうする事も出来なかった。

「私、やっぱり畑が心配だから、見てくる。」

「え?でも…!」

「亜理紗と瞳を、よろしく!。」


 外は強風が吹いていた。

 珂翠はそれでも、詩絵を止めることが出来なかった。


 珂翠は一人取り残され、目の前に開かれたままの本を閉じた。


『お前は、何も知らない!』


 珂翠の思考が止まる。

 あれは昨晩の事。

 両親と臣下たちには、いい子を演じていた珂翠に知らされた『真実』。

 何故、両親達が珂翠の不審な行動に気がつかないのか?その真実。

 珂翠は、頭を抱えることしか出来なかった。

「…くそぅ…。」



「珂翠さん?」

 後ろから声をかけられ、珂翠は驚きながら勢いよく振り返った。

「え…ああ、瞳さん…!起きていらしたんですか…?」

「ええ。」

 瞳はクスクスと笑っていた。

「あの…何か飲みますか?」

「いえ、大丈夫ですわ。最近天気が良いのは良い事なのですが、雨が降りませんので、飲み水も貴重ですし。」

「え…ああ…!」

「畑にも大分お水を使いましたでしょ。」

「そう…でしたね…。すみません。僕、気がつかなくて。」

「珂翠さんは、そうやって直ぐに気付いて下さいます。」

「いえ、僕は鈍感なんです。」

「それはいけない事ですか?」

「え…あの…。」

「鈍感ってそんなに悪いことでしょうか?」

「そう…ですかね?」

 瞳はゆっくりと起き上がり、強風が拭き荒れる窓の外を眺めた。

 外では詩絵が、飛ばされないように肥料を掻き集めていた。

「私、ずっと此処から見守る事しか出来なくて…。本当は、凄く寂しかったです。だから、珂翠さんがよく私に声を掛けて下さっている事、とても感謝していました。」

「そんな、僕だけじゃないですよ。皆、瞳さんが元気になってくれる事を、願っています。」

「有難うございます。でも…それは、難しいです。」

「瞳さん?」

 瞳はボロ布の様になってしまった、シーツを握り締め、瞳の言葉に促される様に、安らかに寝息を立てて眠っている亜理紗の顔を見つめ、窓の外で強風に煽られながらも無駄とも思える作業を続ける詩絵を見た。


 珂翠も少女達の境遇を知っている。


 珂翠の両親が、自分の息子には見せたくなかった、隠したかった現実。

 それが、両親からの愛情で在ると感じた事は無かった。それもまた現実。


「私も、知りませんでした。」

 瞳は優しく言葉を続けた。

「私も、両親が疫病に倒れ亡くなるまでは、この命が後少しだと思うまでは、知りませんでした。周り近所の方々が優しくしてくださったのは、生きている畑を持っている地主だったからだなんて、知らなかったんです。」

 瞳は硬く握っていたシーツを離し、その骨ばった両手で顔を覆った。

「瞳さん…。」

 この曇りガラス越しに見る世界が、どんなに遠かったか。


 畑の作業をしている珂翠達を、このガラス越しに見て瞳はどんなに苦しかっただろうか。畑が出来あがるまで、生きていられるかも解らない自分が、どれだけ疎ましく思えただろうか。


 珂翠は、か弱い瞳の肩をそっと抱き締めた。


「泣いて下さい。みんなの前では泣けなくても、僕の前では泣いて下さい。怖がって良いですよ。このどうしようもない現実を。怖いですよね…絶対怖いと思います!」


 迫り来る死の恐怖。

周りの皆と共有できない、畑を耕す充実感。自分だけが解らない感情。

 珂翠には少しだけ解るその異質感を、二人は共有した。


「僕は、知ってしまったのです。何故、貴族達がこの死んだ村に固執して居るのか。

両親から聞きました。…もう何処にも…、何処にも逃げる場所は無いそうです。

僕たち人間が、安らかに住める場所は何処にも無いんです!」

 貴族階級の者達だけが共有している、最重要機密。それは、余りにも酷な現実だった。


 昨晩珂翠は両親達に、畑の再生を貴族階級の指導の下、試みてはどうかと提案した。

 小規模に始めたこの作業を、他の土地でも試す為には、両親の力が必要だと考えたのだ。 そして、まだ希望は残されていると信じていた。

 この村の何処かに、まだ生きている土地が残されている。

その土地の成分を分析できればと考えた。しかし、返答は想像を絶するものであった。


『お前は、何も知らない!』


『この村が最後の楽園。それを破壊してしまった人間達の末路。それが、現実である。』と。


 瞳は珂翠の胸に顔を埋めたまま言った。

「それは、いつ頃?」

「昨夜…知りました。本当は、初めて村に降りようと決意した位の頃から、両親の不穏な動きには気付いて居たのです。が、見ない振りをしていました。」

「貴方だけでは無いわ。」

 瞳が珂翠の顔を見上げた。

「誰もが、盲目で自分の立場からしか、物事を見る事が出来ない。」

 瞳の熱い視線が珂翠を貫く様だった。

「そんな、見つめないで下さい。照れます。」

 精一杯背伸びをして来た瞳の健気な姿を見て、思わず抱き締めたまでは良かったが、その後どうしたらいいのか解らず、珂翠は顔を赤らめ視線を逸らした。

「フフフ、そういう所を詩絵ちゃんに見せれば良いのに。」

「え?!何で…詩絵ちゃん…?」

 珂翠から離れながら、瞳は含み笑いを浮かべた。

「見え見えですもの、珂翠さんは。詩絵ちゃんに対して。とても初々しいです。」

「…あの…でも。」

「大丈夫です。珂翠さんはとても素敵な男性ですもの。

きっと、詩絵ちゃんにも伝わりますよ。」

「瞳さん…?」

「私は、少しだけ…詩絵ちゃんが、羨ましいです。ウフフ。」

「へ?」

「何でも無いです。」

「とにかく、この事を皆に伝えなきゃいけないんですが、何て言えばいいのか…。」

「それで、あんな珂翠さんらしくない言い方を、詩絵ちゃんにしてしまったのですね。」

「僕らしく…ない?」

「ええ。貴方は、太陽ですもの。雲の谷間からでも、眩しい光を照らす太陽みたいな方だと思っています。」

「そんな、大それた言い方されると、照れますよ。」

「太陽は、雨が降っていても、私達を照らしてくれるものです。ね?フフフ…外は、寒そうですよ。」

「え?」

 瞳が曇った窓に映る詩絵の姿を、細い指で擦って見せた。

「あの、僕、行って来ます!詩絵ちゃんに謝ってきます!」

 珂翠は勢いよく立ち上がると、飛び跳ねる様に外に駆け出して行った。

 その後姿を見つめながら、自分はもう二度とあんな風に動く事が出来ないのだと、珂翠に嫉妬している自分に瞳は苦笑した。

「こんな気持ちにさせられるなんて、何年ぶりかしら。」

 瞳もまた、諦める事で死までのカウントダウンを凌ごうとして居たのだ。


「私も、皆の仲間でいたい。私も、もっと…生きていたい。」

 瞳は珂翠の温もりを思い出し、我が身を抱き締めた。



「詩絵ちゃーん!!僕も手伝うよ!!」

 珂翠は両手を大きく振りながら、走っていった。

 強風に煽られ、肥料が目に口に飛び込んで来る。しかし、珂翠は涙を流しながら、口に入った肥料を拭い、詩絵に近付いて行った。そして、風でバランスを崩して転んだ。

足元には、皆で運んだ大きな石が転がっていた。

 元は畑で在った土地だが、耕す人間を失った土地は固く、石ころが混ざってしまった。それを一つ一つ取り除いて、土を耕して行った。その時の石が珂翠の膝に刺ってしまった。その瞬間、珂翠は不思議な感覚に襲われた。

 身体が宙に浮く様な、目の前に広がるありふれた景色が、今まで見た事無い様な色で彩られて行く。


『小石は神様の鼻くそなんだって。』


 聞き覚えのある、少年の声がする。


『へぇー。』


 聞いた事は無いのに、懐かしい少女の声がする。


『珂翠が読んでる絵本にそう書いてたんだ。汚いよな~鼻くそをあちこちに散らばせてるんだぜ?』

『私達が、神様の鼻の中で生活してるだけなのかもしれ無いよ?』

『何だそれ。』

『教会で神様の御話を聞いたけど、神様は人間が考えうる価値観では動いて居ないんだって。とにかく凄い人なんだよ。』

『俺、教会なんて行けないもん。』

『あら、どうして?教会は、どんな人でも行く権利が有るのよ。だって、神様はどんな身分の人にでも、分け隔てなく施しを下さるんだもの。』

『キレイ事だな。神様がどうかなんて知らないけど、教会は人間がやってる所だろ。俺達使用人は、行っちゃいけないんだもん。』

『そう。じゃあ、私が牧師さんの代わりに、ひぃちゃんに色々教えて上げる。』

『別にいいよ。』

『良くない!神様は、皆に祝福を下さる筈だもの。』

『俺は、瞳に何も上げられない。』

『ううん。私はひぃちゃんから、神様の鼻くそを貰ったよ。』

 少年と少女は笑っていた。

 笑いながら、二人で小石を集めた。

『神様の鼻くそは、植えた人の願いを叶えてくれるんだよ。』


二人で小石を集めて、大きな樹の根元に埋めた。

『ひぃちゃんは何を願ったの?』

『瞳の身体が、元気になりますようにって。瞳は?』

『恥かしいから内緒。』

『何だよ人のは聞いておいてーケチだなぁ』



 これは、聖と瞳がまだ仲が良かった頃の記憶。

 瞳が外に出て遊んでいた頃の、畑を耕していた頃の、聖が瞳に会いに来ていた頃の記憶。


 この土地が、この小石達が記憶していた思い出の欠片達。

 透き通る様な金色の髪が揺らぐ。少年の煤けた服とは違う、綺麗な白いワンピースが眩しかった。少年は、その背中に手を伸ばすが、その手を引っ込める。

 触ったら崩れてしまいそうで…。


「なんで?聖…?」

 珂翠は石ころを強く握り込んだまま、その場にしゃがみ込んでいた。


「畑に埋まっている小石は神様の鼻くそ…覚えてるよ。俺が昔読んだ神話の絵本にあった。」


「ちょっと、あんた、大丈夫?」

 珂翠が我に返ると、目の前には詩絵の顔があった。

「怪我したの?見せて。」

「鼻くそだよ!」

「…へ?」

 詩絵は明らかに不快な表情をしていたが、珂翠はそんな事お構い無しに、自分が尻で踏んでいた小石を拾い上げ詩絵に見せた。

「思い出したんだ。〝太陽が、僕達を照らしてくれている限り、希望は消えない。〟その記述があった神話に畑に埋まっていた小石は神様の鼻くそだって。神様の鼻くそを畑に植えて、畑を復活させたって話があったんだ!」

 珂翠は興奮して、詩絵に夢中で説明をした。

珂翠の余りの勢いに、詩絵は驚き、そのまま尻餅をついてしまった。

その上に、珂翠が乗り掛かる様な状態で止まった。

「あ…ごめん…俺!」

 珂翠は身体を戻し、自分の犯した失態を反省する様に俯いた。

 しかし、詩絵の反応は意外なものだった。

「クスクス…何?」

 珂翠は詩絵の方に、視線を移した。

「何って?」

「ハナ…くそって…何?ちょっと…可笑しいんだけど。」

 詩絵は尻餅をついたままの状態で、腹を抱えて苦しそうに笑い続けていた。

「可笑しい…?」

 詩絵は笑い泣きした涙を拭いながら、珂翠の方を真っ直ぐに見つめた。

「だって、鼻くそって、可笑しいでしょ?」

「でも、本当にそういう記述が…。」

 二人は見つめ合い、一瞬時が止まった。

 そして、同時に腹を抱えて笑い合った。


「あんたって…変だね。」

「そうかな?」

「うん。凄い変。だから、解らない。あんたをどう理解したら良いのか…解らない。」

 強風に吹かれていた為、大きな声で二人は会話を交わし合った。

「僕は、このままさ。このままだよ。」

 その時、風に飛ばされた肥料が丁度珂翠の口の中に大量に入り、珂翠は思いっきり咳き込んだ。

「ゲホゲホ!」

「アハハ…ハごめん、大丈夫?」

「ウゲ、ハイジョ…ヴ…ゲホゲホ!」

 珂翠は咽ながら立ち上がり、涙目を擦りながら詩絵の前に手を差し出した。

「小屋に、戻ろうか?」

 詩絵はその手を取って、満面の笑みでコクリと首を立てに振って見せた。


 小さな一歩が、大きな進歩となる事がある。

 珂翠には小さな一歩であったが、詩絵にとっては大きな一歩であった。

 〝偏見〟の眼差しを浴び続けたせいで、自分こそが珂翠に対し、〝偏見〟をもってしまったのだと気付く。珂翠は、貴族の御坊ちゃんだと思っていたが、その前に自分と同年代のただの少年であることを忘れて居たのだ。


 そして、珂翠も忘れていたのだ。純真であった幼い時代の自分を。



「小さい頃、聖と一緒に小石を集めて、花壇に植えたことがある。でも、あの頃は欲しいものは何でも手に入ったから願いがあった訳ではなく、ただ漠然とやってみたかっただけだった。だから、小石は小石のまま、変わらなかったんだ。」

「で?それを今さらやろうって言うの?」


 地下から帰って来た眞留美は、明らかに嫌な顔を見せた。

「それは、アリア預言の書を子供用に絵本にした物の中にあったかもしれませんが、よく覚えていらっしゃいましたね。私も、忘れておりましたのに。

詳しく説明すると、『神は軽く鼻を擦られた。すると小石が零れ落ちた。それは切なる願いを救う、種になるであろう』の部分だと思うんですけど。」

 霧月が優しくそう説明した。

「僕も忘れていたんだ!だけど、小石が記憶して居たんだよ!聖と瞳さんの記憶を!」

「まぁ、そりゃドラマティックです事。」

 眞留美は専門書から、視線を外さずにどうでも良さそうに返答した。

「え~なんでぇ~凄いドラマティックじゃない。」

 亜理紗は楽しそうに、腰を振ってはしゃいだ。

「どんな記憶ですか?」

 瞳は興味深そうに聞き返した。

「聖が瞳さんの身体が元気になるよう祈って小石を大木の根元に埋めたんだ。そうだよね?」

 どうでも良さそうに聞いていた聖の動きが止まり、珂翠の方を真顔で見た。

「小石に記憶が残っていた。」

 もし、例えそれが真実だったとしても、聖は心から喜ぶ事はできない。もし、小石が記憶して居たのなら、何故瞳を助けてくれなかったのか。

あの時、聖は毎日の様に、瞳の持病が良くなる事を神に願った。教会に行く事は出来なくても、本当に神の教えが真実ならば、願いを叶えてくれる筈だと信じていた。

「知らないな。お前の空想だろ。そんなの。」

 聖の願いは叶えられなかった。

 今の瞳は、誰の目にも、長く持ちそうに無い。

 だから、聖は嘘を付いた。

 あれは、思い出したくない思い出であった。瞳の華奢な肩を抱き寄せる勇気も無かった、幼すぎた自分に怒りしか感じない。


「瞳さんは?瞳さんも覚えていませんか?」

 珂翠は必死だった。

あの時感じた異質さが嘘では無いと、証明する術を探すかの様だった。

「勿論、覚えていますわ。」

 瞳の一言で、小屋の空気が一気に変わった。

「私はちゃんと覚えています。

あの時、私は、ずっとひぃちゃんとこうやって楽しく過ごせますようにって、願ったのですよ…聖…さん。私の願いは、ちゃんと叶ったみたい。」

「瞳…でも、それは!」

「叶ったわよ。こうやって、皆で過ごせて居るのだもの。ねぇ、もう一度、あの皆で作った畑に、小石の種を植えてみない?ねぇ…ひぃちゃん…もう一度あの頃みたいに。」

『ちょ…それ、ずるい…だろ…!』

聖は、一人でぼやいたが、反論する気は失せていた。


 眞留美や聖は渋々であったが、瞳の笑顔と珂翠の懇願に負け、皆で一粒ずつの小石を畑の端に植える事にした。

 

 風が止み始めた夕方。

沈む夕日が空をオレンジ色に染め上げる中、それぞれに気に入った石を選び、畑に集合する事にした。


「亜理紗ね、太郎のお墓の近くに在った石にするの。」

「あんた、それ、小石じゃないでしょ。陶器かなんかの破片でしょ。」

「でも、太郎ちゃんみたいな茶色してるから!可愛いでしょ?。」

「もう、好きにすれば。」

 亜理紗と眞留美は相変わらずだった。


「詩絵ちゃんはどれにするの?」

「これにしようかなって。」

「そう。どうして。」

「普通だから。大きくも無くて、色も普通で、目立たない、どこにでもある小石だから。」

「じゃあ、僕もこれにしよ。」

 珂翠はそう言うと、ただ足元に落ちていた小石を拾い上げた。

 詩絵は、何か言いたげに珂翠を見つめた。

「どれも同じじゃないからね。」

「何?」

「同じ様に見えるけど、どれも違う石だから。どれを拾っても特別だよ。」

 珂翠はキレイな白い歯を見せながら、笑った。

 詩絵は自分の手に握られた、普通に見える小石を見つめ直して居た。


 聖は瞳を負ぶって外に出た。

「何処が良い?」

「やっぱり、あの大木の近くが良いわ。」

「解った。」

「昔、聖さんが私にってあの樹にブランコを吊ってくれたのよね。二人でよく遊んだわね。」

「そうだな…。」

「また、聖さんとこうして会えて、私、凄く嬉しい。」

「俺もだよ。また、会いたいと…思ってた。」

「聖さんは、昔から優しいから。」

「優しくないよ。」

「ううん。優しい。貴方は、今でも優しい…ひぃちゃんよ。」

 瞳のか細い腕が、ずれ落ちないか心配だった。日に日に窶れ、眠っている時間が増え、起き上がれなくなっていく。こうやって、瞳を背負って外に出るもの最後になるかもしれない。

それでも、瞳は自分の手で、小石を埋めたいと言った。

 それは、自分の為にではなく、これからの為に。

 

 霧月は一人、亜理紗に教わった裏道を伝って、焼け焦げた教会に向かっていた。

 自分が生まれ育ち、そして生き残った土地で小石を見つけたいと思ったのだ。

「やっぱり、もう、何も残っていないわね。」


 焼け跡の瓦礫は、やはり教会の火事を見た村人達に寄って持ち去られていた。無残だった。黒焦げの土台がより物悲しく見えた。

 霧月は、黒焦げに焼けた教会の周りを歩き、黒い煤にまみれた小石を一粒拾い上げ、胸に手を当てながら祈りを捧げた。


「今一度、奇跡を!」


 由美は、子供を沈めた澱んだ沼に久しぶりに足を運んだ。

 もう二度と近付かないと決めていたのに、どうしてもそこしか思い当たらなかったのだ。

自分の犯してきた罪から目を背けるのではなく、真正面から見つめ、未来の子供達の為に力を請いたいと思った。

「どうぞ、神の御慈悲を。」

 由美は涙を流しながら、澱んだ沼に手を入れ、直ぐ手に取れる位置にあった小さな石を掴みあげた。


 それぞれがそれぞれの思いを胸に、畑に小石を植え、願いを込める。


 『どうぞ、この村を御救いください。人間達を、見捨てないで下さい。』

願いを込めて。


 その日の夜、珂翠は城には帰らずに、少女達に村の現状と、救いのない現実の話をした。

意外な事に、誰一人としてその事実に驚いた様子を見せなかった。ただ、眞留美だけは、哀しそうに言葉を漏らした。

「じゃあ、やっぱり…母さんと父さんは、もう、死んでるのかもしれないね。」


 眞留美の両親は、出稼ぎに行くと言って出て行った。1年したら必ずある程度の金を稼いで戻ってくると言って、眞留美に美容院を任せて出て行った。

 しかし、何年経っても戻ってくる事は無かった。


「私、捨てられたんじゃないのかも、しれないね。帰れなかったんだよね。きっと…。」


 それが喜ばしい事なのか、悲しむべき事なのか、この感情が上手く機能しない状況下では、眞留美自身よく解らなかった。それでも、零れ落ちる涙は止められなかった。

「今日は本当に帰らなくて良いのですか?」

 由美が、話題を変える様に珂翠に問いかける。

「ああ。両親は、もう僕の事に気をかけている暇なんてないんだ。最近は、重臣達も盗みや失踪する者も出てきたし。」

「そういう時にこそ、坊ちゃまがご両親を支えて差し上げなくては。」

「由美。僕は両親を思って居るよ。

思って居るから畑を再生させたいし、村を再興したいんだ。」


 珂翠の目には迷いが無かった。

 

「親…かぁ…。」

 亜理紗は一人、月も星も見えないどす黒い空を窓越しに見上げていた。

 今迄ならこの時間は、客の男と過ごしていたはずなのだ。あの冷たく凍るような感覚を忘れた訳ではない。しかし、今感じるこの優しい空気に慣れ始めている。

そして自分を見ようとしないのに、食事を渡さなければ殴りつけてくる両親の背中を。

 あの頃、亜理紗はあの状況から何故逃げ様としなかったのか。

〝両親は、自分の事を今どう思って居るのだろうか。ちゃんと食事は出来ているのだろうか。心配して居るだろうか…生きているだろうか。〟


「どうしたの?」

詩絵が亜理紗の横に腰を下ろした。

「ううん。」

「心配?」

「え?何が?」

「亜理紗は、ご両親が心配なんでしょ?」

 亜理紗が暴行を受けて太郎が殺され、自然と身売りをしなくなり、瞳の小屋に一緒に住み畑仕事をする様になってから、1ヶ月が経とうとしている。

両親は眞留美の存在は知っているが、それ以外の亜理紗の交友関係を一切知らない。探しているのか、それとも探さずに心配さえしていないのか、亜理紗には全く想像も付かない状況だった。

「心配なのかなぁ。」

「だって、ご両親の為に身売りを続けていたんでしょ?」

「解んない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」

「私には、眞留美ちゃんや亜理紗みたいに、心配したい相手が居ないから、解らないけど行ってみたら?私も一緒に行くよ?」


 例え温もりさえ教えてくれなかった家族でも、何かを守らなければならない、その〝何か〟を持っている事が、詩絵には少しだけ羨ましく思えた。

「じゃあ、明日行ってみようなぁ…。」

「そうだね。心配してくれてたら良いね。」


 亜理紗は何も答えずに、ただ笑っていた。

 詩絵は、自分の事の様に、願う。

『心配してくれていますように』と。


 翌朝、亜理紗と詩絵は亜理紗の実家に向かう事を皆に告げた。

 「私も行くよ!」と眞留美は言ったが、畑の作業の指揮を取っているのが眞留美と聖と由美である為、残る様亜理紗が説得すると、今度は珂翠が声を上げた。

「じゃあ僕が行くよ!村の現状も見てみたいし、逃げ道を良く知っている二人でも、女の子だけで行かせられないよ!」

 亜理紗はあっさりとその意思を受け入れて、3人は久々に裏道ではなく大通りを使って亜理紗の実家に向かった。


 瓦礫と化した家の中に漂う腐臭に、小虫がたかる光景を幾度となく見過ごして進んで行く。


 『この村が、最後の聖地?人は滅びの道しか残されて居ないのか?』


 珂翠は、哀しい事実を囁かれた感覚に捕らわれた。

 すると、亜理紗がいつもの甲高い声で珂翠に話しかけて来た。

「霧月ちゃんね、たまにお兄ちゃんから貰った食事を、村の物乞いの人達に分けに来たりしてるんだよ。」

「え?そうなの。」

「うん、そう。」

 詩絵は二人の一歩後ろを歩きながら、二人の会話を聞いていた。

「シスターの頃から、自分の食事を分けていたらしいし、偉いよね。」

「それを言うなら、亜理紗ちゃんだって…さ!」

「亜理紗は霧月ちゃんとは違うよ。」

「僕からしたら、亜理紗ちゃんも同じだよ。」

「解ってないなぁ~。まだまだだね、ねぇ詩絵ちゃん!」

 詩絵はただ微笑み返すだけに留めた。

 

珂翠に出会う前の自分達は、あの物乞いをする側の人間だった。

彼等も彼等なりに生きる術を見つけるべきだと、詩絵は思った。


「人は、生きる努力をするべきである。」

 詩絵は小さな声で囁いた。

「え?」

 珂翠が詩絵の方を向き直った。

「アリア預言の書に、あった。努力は希望になるって。」

 街頭で霧月が説き続けた言葉だった。

「霧月ちゃんの真似は出来ないけど、私達は、私達なりに伝えて行こう。…今はそうしたいかなって…。」

 詩絵の痛い程真っ直ぐな視線に、珂翠は戸惑いを感じた。

「う、うん!そうだね!」

 珂翠は詩絵の想いをしっかりと受け止めるが、亜理紗はそんな二人から少し距離を取る様に走り出した。

「こっちだよ。」

 亜理紗はマイペースである様に務めた。

「あそこ。」

 亜理紗が指を指した先は、窓に腐りかけのベニヤ板をはめ込んだ、みすぼらしいボロ屋だった。

「ご両親、いらっしゃるのかな?」

 珂翠は気を使うように、亜理紗に声をかけた。

「汚い家でしょ?」

 亜理紗は頬を両端に上げ、薄っすらと笑って見せた。

「じゃあ、亜理紗行って来るね。」

 珂翠は慌てて亜理紗の細い手首を掴み、引き止めた。

「僕も一緒に行こうか?」

「…大丈夫だよ。」

 亜理紗はよそよそしく笑って、珂翠の手を払いのけ家へと入っていった。


「本当に良かったのかな?」

 珂翠は心配そうにぼやいた。

「…ねぇ、あんたの両親って、どんな人?」

 初めて詩絵から声を掛けられた事に珂翠は少し驚いた。

「え?両親?そうだな。優しい人だよ。愛してくれていると思うし…。お父様は無口で怖かったけど、小さい頃窓を割っちゃった事が在って、怒られると思ったけど、怪我をしなかったかって心配してくれた事が嬉しかった。お母様は反対に心配性で、僕には甘くてさ…。」

「そうなんだ。」

「ねぇ…詩絵ちゃんは全然、覚えてないの?」

「覚えてない。」

「ずっと、独りだったの?」

「ううん。仲間が居た。」

「仲間?」

「そう。小さい時は、仲間が食べ物をくれた。大きくなってからは、一緒に盗みをした。でも皆、居なくなった。」

「どうして?」

「疫病で死んだ奴もいるし、警察に捕まった奴もいる。捕まれば、処刑される。だから、皆死んだ。」

 珂翠は言葉なく、ただ詩絵を見つめる事しか出来なかった。


「あ!」

 ガタン!


 詩絵の大きな声と同時に、何かが倒れる音がした。音がする方に視線を送ると、そこには地を這いずる亜理紗の姿があった。亜理紗の腕からは血が垂れていて、何かから必死に逃げていた。

 詩絵と珂翠は亜理紗に駆け寄る。

 珂翠が亜理紗を抱え上げようとした、その次の瞬間。


「ダメ!危ない!」


 亜理紗の悲痛な叫びが先か、後ろからの衝撃が先か、珂翠の脇腹に鋭い痛みが突き抜けた。


「…う!」

「キャア―!」

 真正面に居た詩絵は、事の詳細を鮮明に見ていた。

 亜理紗を抱き上げた珂翠を、後から出てきた、黒くモジャモジャした性別さえ解らない人間が、何か光る物で珂翠の脇腹を刺したのだ。

「いや…やめて…やめてよ!」

 亜理紗の叫び声だけが虚しく宙を舞う。

 珂翠はその場に崩れ落ちる。

 亜理紗は半狂乱になりながら、その小さな身体で珂翠を庇うように引き寄せた。

「やめ…やめて。お願い。おねがい…!」

 その性別不明の人が手に持った光る細い鉄のような凶器から、血をポタポタと零れる。

ゆっくりと腕が再び上がっていく。亜理紗は必死に珂翠を引き摺り、珂翠を庇う。


 ソレハ、何も言わずにただ口元だけを引き上げ、凶器を空高く振り上げた。


 その瞬間!

 ドガン!!

 鈍い音が響き、ソレが真横に倒された。

 詩絵が家の窓枠に填まっていた腐り掛けのベニヤ板を引き剥がし、おもいっきりソレを殴り倒したのだ。

 ベニヤ板は脆く砕け散ったがソレはよろめいていたが、完全に沈めるまでに至らなかった。

 すると詩絵は、戸の代わりに使われていたベニヤ板を珂翠の横において、その上に珂翠を転がした。

「亜理紗立って!これで珂翠を運ぶのよ!早く!」

 手負いの亜理紗と自分の力だけでは、珂翠を担いでいく事は難しい。しかし、板の上にのせて引き摺っていく事ならば出来る。それも、今まで詩絵が外の世界で生きている内に身に付けた処世術の一つであった。

「亜理紗!」

 亜理紗は泣きながらも立ち上がり、傷ついてない方の腕でベニヤ板を押し始めた。

詩絵は、渾身の力を振り絞り、ベニヤ板を引っ張るが、道が悪く思うようには進まない。しかし、そんな状況ではなかった。

ソレが体制を整えてゆっくりと姿勢を整え、追い掛けて来ようとしている。

 ベニヤ板の上では珂翠が苦痛に眉を寄せ、脇からは大量の血が流れ出ていた。

「珂翠!しっかりするのよ!」

 詩絵は我を忘れた様にそう声を掛け続けた。


 あの時、後ろから来る気配に珂翠は気付いていたはずなのだ。

亜理紗の腕を傷つけたソレが、凶器を持ったまま突進してくる姿を見て、珂翠は身を挺して亜理紗を庇った。


「しっかり!頑張って!死なないで!もう、誰も…誰も死なせたくないんだよ!」


 詩絵は、意識が朦朧としている珂翠に何度も声を掛けた。


 もう、二度と、誰も死なせたくはない。

 もう、誰も、失いたくない。


 後から追い掛けてくソレが、大きな奇声を発している。その声を聞く度、亜理紗は泣き叫んだ。


『オオオオオ―!』


「…やめ‥いや…!」


『マデエエエ――!』


「イヤ―!!」


 亜理紗はベニヤ板から手を放し、両耳を押さえ蹲ってしまう。

「亜理紗!立って!立つのよ!」

「もう、ダメ…。」

「亜理紗!立つの!諦めないで!逃げるな!彼を助けるのよ!太郎の為にも、珂翠を助けるのよ!それが出来るのは、亜理紗しか居ない?!しっかりしなさい!」

 亜理紗の視界は、涙でぼやけて行く。

 目の前に横たわる珂翠の姿も、必死に亜理紗を説得する詩絵の姿も。しかし、珂翠が流す血の色だけは鮮明に見えていた。


『また、私の為に誰かが死ぬの?』


―私なんかの為に?―


『どうして、私を庇ったりしたの?』


―私なんかの為に?―


『どうして…?』


―亜理紗は僕の一番だから。忘れないで。―


『…タ…ロウ…。』


「立ちなさい!」


 詩絵が朝日の逆光を浴びて、輝いて見える。

 自分に差し出されたこの手を取れば、今度こそ、この迫ってくる死を遠ざける事が出来るのかもしれない。

 ベニヤ板はすっかりどす黒い赤で染められていた。

 それでも亜理紗は詩絵の手を取り、立ち上がった。


「逃げたい。逃げたいよぉ…!」


 迫り来る〝死〟からの逃避。

 迫り来る〝現実〟からの脱出。


 二人は再び珂翠を乗せたベニヤ板を引き始めた。端からベニヤ板は壊れ始め、珂翠の出血は止まらず、顔は青染めていくばかり。


 それでも救いたい!


「詩絵ちゃん、そこの路地に入ると、地下通路がすぐ近くにある。」

「じゃあ、そこからは担いごう!」

「亜理紗がおとりになる。だから、詩絵ちゃんは、珂翠お兄ちゃんを担いで行って。」

「何…言ってるの!」

「路地に入るの見つかったら、困る。亜理紗は空になった板を押して、橋の方に出る。だから行って。」

「それじゃあ、亜理紗が危ないじゃない!」

「亜理紗は平気だよ。切られたのは腕だから走れる。それに、大人から逃げるのは得意だよ。それに…ね…アレ、亜理紗のお母さんだから…。」


 詩絵はそれ以上何も聞かなかった。

 亜理紗はメイド服のエプロンを取り、珂翠の傷口に押し付けて縛った。

詩絵は珂翠の腕を自分の肩に背負った。そして、亜理紗の腕を鷲掴みして引き寄せた。


「絶対!絶対に、帰って来るんだよ。」


 亜理紗は、頭をコクリと縦に振って、詩絵達から離れて行った。

 亜理紗は軽くなったベニヤ板を押しながら、振り返って笑顔を見せた。


「…約束だよ…亜理紗!」


 詩絵は肩に珂翠を担いで、ゆっくりと路地を曲がり、ネズミ以外は通らない小道を進み始めた。

「…ご…めん…。」

 珂翠がか細い声を上げる。

「意識は失わないで。意識飛ばすと…死ぬ!」

 詩絵は薄暗い前だけを見つめていた。

「…へへ…そ…なの?」

「仲間が皆そうだった。ここは城と違って、衛生的には最低だから。生きるか死ぬかは、自分次第なんだって!」

「そ…な、はなして…くれ…る、はじ…めてだね。」

「煩い!」

「うし…なわ…ないよ、なにか、話して…。」

 詩絵は、ずれ落ちてくる珂翠を引き上げて、ゆっくりと一歩ずつ歩みを進めていった。

「何かって、何も…思いつかないよ!」

「じゃぁ…。」

「あんまりしゃべるな!傷に良くない!」

 珂翠の青ざめた顔で、詩絵の二の腕に力なくすり寄ってきた。

「じゃあ、私の仲間の話。亜理紗と、出会うずっと前の話し。私、話すの上手く無いから…笑わないでよ?」

 珂翠は、口を少し開いて頭をもたげた。


 詩絵は、名無しだった頃に自分の名前を付けてくれた、亜紀の話を聴かせた。亜紀は自由気ままな流浪癖があったが、必ず詩絵の元に手土産を持って戻って来てくれた。

 しかし、亜紀は何ともない傷が原因で命を落とした。いつもの様に、戻ってきてご飯を分けてくれて、『疲れたから寝るね』と言い残し、二度と起きなかった。

 詩絵が、何度も身体を揺すって、見えた腕は血で真っ黒だった。何日間放置したのか解らないが、詩絵に食べ物を届ける為にだけ帰って来てくれたのだと知ったのと、これからは誰の守護も得られずに、求めずに生きぬかなければならない現実が怖かった。


 珂翠は渾身の力を込めて、詩絵の肩を強く抱いた。

「ぼくは…死なない!…から…。」

 脇腹の痛みだけで気を失いそうだが、懸命に笑顔を作った。

『絶対に死なない!』そう誓う。


「絶対に!」


 瞳の小屋までの道のりは長かった。

 詩絵の足は、そのか細い肩に圧し掛かる珂翠の重みで、だんだん動かなくなって行く。すると、珂翠は自ら詩絵から離れ、その場に座り込んだ。

「しえ…ちゃん。ぼくを、置いて…誰かよん、で、来て。」

 詩絵の限界を感じた珂翠は、詩絵に声をかけた。

「ダメ!!独りにしない。」

「だいじょうぶ、だから。」

「独りで、意識をなくしたら?もう、二度と目が覚めなかったら?さっき約束したでしょ?

絶対死なないって!」

「死なない…よ。約束は、守る!ぜったい!だから…行って。生きる為に。」

 ここは地下通路で、それこそ誰も通らない。だから、安全ではあった。しかし、陽の当たらない通路は冷え込む。これだけの出血をしている珂翠が、意識を失わずに居られる筈が無い。

「イヤ!連れて行く!」

「聖を…連れて来て…お願いだ。」

「小屋まで往復したら1時間掛かっちゃう。」

「だいじょう…ぶ。」

 無謀な賭けだった。珂翠自身も、意識を保てる自信は無い。それでも今出来る最善は、詩絵に救助を呼びに行かせる事だった。


「大丈夫って…亜紀も大丈夫って笑ってたのに、死んだ!

ケイもサキも皆、大丈夫だって笑ってたのに死んだ!」

「いまは、ひとりじゃない…みんないる。」

「でも…。」

「しえは、ひとりじゃない。行くんだ。」

 珂翠は血の付いた手の甲で、詩絵の頬をつたう涙を拭った。

「ヤクソク…。」

 珂翠はそのまま小指を詩絵の目の前に差し出した。詩絵は流れ落る涙を拭おうともせずに、珂翠の小指に自分の小指を絡め走り出した。

「珂翠…。」

「えへ?気付いてた?ナマエ…やっとしっかりよんでくれた。」

「バ…バカ…。」

「…もっと、ちゃんと、呼んで欲しい…から、約束する。」

 一分でも、一秒でも早く小屋に行って、仲間を呼んで帰って来る。

 でも、もし、誰かを連れて戻っても、珂翠が死んでしまっていたら。


 死んでしまっていたら?


『同じように見えるけど、どれも違う石だから。どれを拾っても特別だよ。』


 あの笑顔を、失いたくない。


「失いたくないの!」

 詩絵は、全速力で走った。


 小屋に駆け込んだ時、運よく聖と霧月と眞留美が、残り少なくなった玉蜀黍の粒を発芽させる準備をしている最中だった。


「助けて!珂翠が死んじゃう!」


 詩絵はそう叫びながら聖の腕に飛びついた。

「どうしたの?」

「珂翠が刺された、来て!助けて!」

 聖は血の気が引いていく音を聞くようだった。詩絵の頬に付いた血痕が、やけに生々しく現実だと知らせてくる。聖は、一息深呼吸をしてから詩絵の顔をまじまじと見つめた。

「どこにいるの?」

「地下通路!凄い出血で、私じゃあここまで運べなくて…だから来て!」

「霧月ちゃん、今ある水を全部持って!瞳、この家にある布を出来るだけ出して!」

「ええ、あの棚にまた服が何着か…。」

 霧月は残り少なくなった樽の中の水を、薄汚れたバケツへと移し、棚から数枚の服を出してきた。

「じゃあ、俺と霧月ちゃんで行こう。眞留美ちゃんはここに残って下さい。」

「…ねぇ、亜理紗…は?」

 眞留美の唇は震えて止まらなかった。珂翠が刺された?何故?

詩絵の頬や服に付いている血痕。それなのに、亜理紗の姿はどこにも見当たらない。

「亜理紗は、来る!こっちに絶対に戻ってくる。だから、眞留美ちゃんは亜理紗の帰りを待っていてあげて!」

「…亜理紗は…?」

「珂翠を逃がす為に、囮になってくれた!でも、絶対無事だから!」

 詩絵は、眞留美に視線を投げた。

 今は、そう納得するしかない状況なのだと説得する。


 詩絵を先頭に珂翠の救助へと向かう一行を見送り、眞留美は身体中に伝わる震えを、隠せないで居た。


「何が…あったの?」


 瞳も、眞留美も、それ以上何の会話も出来ないでいた。

「まただ!また…私は、待ってるだけ。なにも…出来ない!」

 眞留美は拳を震わせ、唇を震わせ、ただ立ち尽くしていた。


 瞳も無力な自分を呪う様に、天井に出来た染みを見つめ続けていた。

 珂翠を救出する事も、亜理紗を探しに行く事も、まして、眞留美になんて言葉を掛けたら良いのかさえ解らない。それでも、瞳は搾り出すようにして、眞留美に微笑みかけた。

「眞留美ちゃん。大丈夫よ…信じましょ。ねっ?」

 眞留美は枷が外れた様に、瞳のふとんに泣き崩れた。

「眞留美ちゃん。大丈夫。亜理紗ちゃんは、ちゃんと帰って来るわよ。此処が、亜理紗ちゃんのお家なのだもの。眞留美ちゃんが待っているお家ですもの。眞留美ちゃんこっちに来て?」

 瞳は眞留美の頭を優しく撫でた。

 まるで、母親が子供をあやすかのように、優しくゆっくりと撫でた。


 この小さくて古ぼけた小屋が、自分達の帰るべき家なのだ。


 それが、家族なのだと。


「一緒に、祈りましょう。珂翠さんと亜理紗ちゃんの無事を…。」


 二人は祈る。亜理紗と珂翠の無事を。

ただ、祈る。



 亜理紗は空になったベニヤ板を引き摺りながら、路地に入り込み、ベニヤ板を家と家の隙間に隠し通路に逃げ込んだ。

 たちの悪い客に追い掛けられて来た亜理紗にとって、人を撒く事など、朝めし前だった。

 ただ、いつもと違うのは、その相手が自分の実の母親で在る事。


 亜理紗一人がやっと通れる隙間に身を寄せ、顔を両手で覆いながら座り込んだ。


 息遣いがどんどん荒くなっていく。

 自分は一体、何を見たのだろうか?鮮明になっていく記憶が、自我を食い尽くそうとしてくる。亜理紗は胸焼けを覚え、その場に胃酸を吐き出した。

「ゲホゲホ…ううう!」

 両目からは涙しか出てこない。


 亜理紗が家に入った時、異様な臭いが奥の部屋から漂って来た。街中で嗅いだ事のある腐臭に近かった。

 あの時、引き返せばよかった。両親は死んだのだと理解して、家を出れば、知らずに済んだ事だった。

 亜理紗は見てしまった。


―父の死体を喰う、母親の姿を!―


 亜理紗はその光景を思い出し、再び胃酸を吐き出した。


『何?今更帰ってきたの?』

―お母さん?―

『あんたが遅いから。』

―ナニシテルの?―

『お父さん食べちゃったじゃない。』

―ナニ?して…?―


『あんたが帰ってこないから悪いのよ!もう、メンドクサイ。シニナサイヨ。アンタモタベルカラ。シニナサイヨ!』



「いやややっぁぁ!」



 珂翠は脇腹を抑えて、何とか止血を試みていたが、上手く手に力が入らない。

『これ、亜理紗ちゃんのメイド服のエプロン。汚しちゃった。悪いな…。城にまだ換えあったかなぁ。あれ、こんな事考えるなんて、おかしい。由美は怒るな…。聖ならバカだって笑ってくれるかな。詩絵ちゃん、カッコ良かったなぁ。俺、好きなのかもしれないな。

恋かぁ…へへへ。こんな状況で、こんな感情に気付いてもなぁ…。俺って…間抜け。

叶うなら…もう一度詩絵ちゃんと指きり約束…守り…。守らなきゃなぁ…。』


 身体から力が抜けていく。脇腹の痛みも薄れて行く。

 珂翠の呼吸が、弱くなって行く。



『亜理紗!!戻るんだ!!』

―声?誰の声?―

 亜理紗は顔をゆっくりと持ち上げた。

 そこには誰も居ない。居るはずも無い。

 だが、聞える。


『亜理紗!戻れ!』


 太くて硬い毛質が頬を刺す。

生ぬるく、少し臭うあの息遣いで、ペロペロと舐められた。

亜理紗を一番に慕い、温もりを強く感じる。


『戻れ!』


「戻…らなきゃ…!」


 亜理紗を庇って死んでいった太郎。

 だから、もう二度と誰かを死なせたくないと思った。自分のせいで、誰かが命を落とすなんて、悲しすぎるから。辛すぎるから。愛しすぎるから。

 亜理紗は、亜理紗しか通れない細い道に入っていった。そこを抜けるのが早道だった。

 詩絵が出たであろう地下通路に、なんとしても辿り着かなければ。その一身だった。

 先の方に出口の薄明かりが見えてきた。そこを抜ければ、後は小屋へと続く一本道。詩絵が迷っていなければ、この道の何処かで会える。

 亜理紗が勢いよく、駆け出るとそこには珂翠を引き摺って出来たとみえる、新鮮な血痕が残っていた。

「お兄ちゃん!お願い!生きていて!」

 珂翠が亜理紗にくれた子供用ブーツのマスコットが、キラキラと揺れていた。まるで、〝もう少しだよ〟と教えてくれている様だった。


「お兄ちゃん!起きて、寝ちゃダメ!」


 珂翠は薄暗い世界を見ていた。


 聖と無邪気に遊んだ時間。

 優しい由美の温もり。


「由美はお母様より、お母様みたいで、聖は僕のお兄ちゃん!そうなれば良いのに…。」


―あんたの両親って、どんな人?―


『僕の家族は…由美と聖だよ。』


―フフフ、そういう所を詩絵ちゃんに見せれば良いのに。―


『そうだ。また僕は、気取ったこと言って、詩絵ちゃんに本当のことを言えなかった。』


―僕は?―


「にい…ちゃん!目を開けて!」


 珂翠は脇腹の強烈な痛みで我に返った。

 亜理紗が、自分のメイド服の裾を噛み切って、珂翠の傷口に押し付け止血をしていた。

「あ…りさちゃん?」

「お兄ちゃん!」

 亜理紗は勢いよく珂翠の首を抱き締めた。

「…り…さちゃん、いたい!踏んでる!」

「え?!ごめん?」

「んん…。」

「でも良かった!生きてた!」


 顔も手もメイド服も薄汚れていて、自慢のツインテールがよれている亜理紗の姿を見て、珂翠は少し安心したように笑った。

「ひどい…かっ…こ。」

「えへへ。急いで来たから。」

「…り…がとぅ。」

 珂翠は優しく笑ったまま、目を閉じた。

「詩絵ちゃんが助けを呼んで来てくれるから、しっかり!」

「…ぅんん。」

 珂翠は酷い眠気に襲われていた。多量出血により意識が揺らぎ始める。すると、亜理紗はいつもより大きく甲高い声で、珂翠の傷口を強く抑えたまま、はしゃぐようにしゃべりだした。

「そうだ、お兄ちゃん!亜理紗、お礼しなきゃだよね。いっぱい、いっぱい、お礼しなきゃだよね。」

 珂翠は頬を少し動かし、溜息を漏らす。

「二回も命を助けられちゃったね。有難う。」

 珂翠は薄く目を開けて、一回頷いて見せた。

「それと、あの、私を買ってくれるって言ってくれた分も、有難う。」

 珂翠は潤んだ目を開けて、少し首を横に振った。

「亜理紗ね、お兄ちゃんの事、大好きだよ。だから、いっぱい、いっぱい、有難う。」

 亜理紗は鼻声で、目に溜まった涙を零さないように我慢しながら、明るくしゃべり続けた。

「それと、御免なさい。亜理紗の母さんが、こんな事して、本当に御免なさい。」

 亜理紗の目からは滝の様に涙が溢れ出していた。

 珂翠は、またゆっくりと首を横に振って、力なく亜理紗の頬を指で拭った。

 亜理紗は、幼子の様に泣きながら珂翠の胸に顔を埋めた。


 詩絵達が到着するまで、どの位の時間そうして居たか。珂翠の身体を温め様と亜理紗は珂翠に寄り添って、珂翠の意識がなくならないように、ただしゃべり続けた。


「珂翠!」

 聖の声を聞いた瞬間、一番安心したのは恐らく亜理紗だったであろう。

 亜理紗の細い肩に、珂翠の生死が掛かっていたのだ。それこそ、生きた心地のしない時間を過ごしていた。

「大丈夫か!」

 珂翠の顔は真っ青だったが、何とか自力で腕を挙げ、聖の声に反応する余力は残っていた。

 聖と詩絵と霧月は珂翠と亜理紗を囲み、聖がゆっくりと傷口を押さえている亜理紗の腕をどかした。

「こりゃ、酷いなぁ…。」

「ああ…ふかい。」

 珂翠は苦笑いを浮かべる。

「一先ず、水で傷口を消毒しよう。」

「ええ!」

 聖と霧月が応急処置の準備を始めると、詩絵が亜理紗の手を引き邪魔にならないように避けた。

 聖がポケットからナイフを出し、傷口付近の服を切り裂いた。そこに霧月が水を掛けると、珂翠は鋭い痛みに襲われ悶え苦しんだ。

 その姿を見て亜理紗は身を乗り出すが、それを詩絵が止める。

「任せよ。」

「…うん。」

 瞳から貰ってきた服は、あっという間にどす黒い血液で染められた。

「傷口は小さいから、少し縫えば大丈夫そうだけど、感染症が心配だな。」

 聖が止血した傷口を見ながら呟く。

 実際に刺された事が原因で死ぬよりも、そこからの感染症の方が危険だ。しかし、消毒薬はおろか、飲料用のアルコールすら無い。この不衛生な街では、命を落とすのは時間の問題だった。

「仕方ない。城に…連れて行こう。」

 聖は言った。

「それはダメだ!」

 珂翠は引き攣った叫び声を上げた。

 この状態で城に行けば、必ず聖と由美の身が危険に晒される。

 珂翠は貴族の皇子である。

「そんな事…した…ら、聖達は、処刑だぞ?」

「お前が死ぬよりはマシだ!」

「ダメだ!」

 珂翠は叫んだ後、あまりの苦痛に顔をしかめた。

「とにかく、だめ…だ!」

「珂翠!不衛生な此処では、治療出来ない!例え俺が罪に問われても、俺はお前を背負って城に行く!」

 聖はそう言い捨てると、珂翠の肩を掴み背負おうとした。

「聖…それじゃ、意味も、ないだろ。誰かが、犠牲に、ならなきゃ…いけない世界に…救いなんて無い。」

 珂翠は顔を歪ませながら、強い声を捻りだした。

「じゃあ、どうしろって言うんだよ!ふざけるな!」


「焼いてくれ!」


 沈黙が走る。


「傷を焼け。感染症も傷も塞がる。」

「…お前。」

「約束したんだ。詩絵ちゃんと、亜理紗ちゃんと…絶対に死なないって。だから、焼け。」

 

その場に立ちすくむメンバーは、混乱して何も言えなかった。


「彼女達には頼めない。聖…お前がやってくれ。お願いだ…自分じゃ、出来そうも、無い。」


「…お前って奴は…本当…ムカツクよ。いつも最悪な事を俺に押し付けて…!」

「昔からだろ?」

「…解ったよ。…君達は向こうに行って。」


 聖は、覚悟を決め霧月に言った。

 霧月は目礼をしてその場を離れ、亜理紗と詩絵を連れて、珂翠と聖から少し離れた。

 亜里沙は怯えて震えていた。詩絵もまた困惑を隠せないでいた。そんな二人の肩を霧月は抱えて、背を向けた。


 聖は足元にあった大きめの石を拾い、無言のまま叩き始めた。

 近くにあった老木の破片に、瞳の服を撒きつけ、そこに火を起こす。

「御免、聖。俺…お前に…ばかり、嫌な…。」

「火が…点いたら…喋るなよ。舌噛むぞ!」

「ハハハ…そうだな。」

 珂翠には恐怖はなかった。

 

 絶対に死なない。

 でも、城には帰れない。


 聖の手は振るえ、上手く火を点ける事が出来なかった。

「くそっ!」

 どんなに平然を装っても、珂翠の傷口を焼こうとして居るのだ。平然としていられる筈が無い。

 聖が震える指先を見つめていると、後ろからその手を支える様に、聖より小さく細い指先が伸びてきた。

「私が手伝いますわ。」

 それは、霧月だった。

「着火には慣れております。」

 言葉を交わしながら、珂翠から聖の表情を隠す様に身を乗り出してくれた。

 聖は、今にも泣き出しそうで必死に堪えていたのだ。

「ありが…とう。お願いするよ。」

 霧月も冷静な訳ではない。しかし、この場で一番適任なのは、自分だと理解し亜里沙と詩絵を置いて来た。


 カチカチ…。

 カチカチ…。


 地下道に響き渡る音が、迫ってくる恐怖を増幅させる。


「火が点きました。」


 霧月が火を聖に渡し、自分は亜理紗達の元へと戻った。

 聖は視線だけで、珂翠に確認を取る。


「ああ、いつでも良い。」


 聖は、目の前で燃え盛る炎を、歯を食いしばり見つめていた。

 

『これは正しいのか?これで良いのか?』


 葛藤は続く。


 珂翠もまた、恐怖と戦っていた。


『こうするしかない!』


 その時だった。

 珂翠がゆっくり目を閉じた瞬間、何か柔らかくて暖かいものが覆い被さって来た。

細い詩絵の声を聞こえた。


「聖さん。やって!」


 聖の躊躇と葛藤、珂翠の恐怖と決意が戦っている時、詩絵は二人の姿をしっかりと目に焼き付けて、動いた。

 詩絵は珂翠の上半身に抱きつき、珂翠の視線から炎を消し、激しい痛みで暴れるであろう珂翠を抑える事で、作業を速やかに終らせる事を願った。


「有難う…詩絵ちゃん。」


 珂翠は詩絵の背中に腕を回し、きつく抱き締めた。

 聖は、唇を噛締めたまま、炎が燃え尽きてしまう前に、傷口を焼き始めた。


「あああああ!!」


 内臓までが踊るような痛みに苛まれ、珂翠は悲鳴を上げる。

 詩絵はきつく珂翠を抱き締める。背中に回された珂翠の腕が詩絵を締め付ける。それでも、詩絵は珂翠を放そうとはしなかった。聖もまた、暴れる珂翠から炎を直ぐには放さなかった。

 苦しみは一度でいい。


 炎を珂翠の横腹につける瞬間、霧月は亜理紗を抱き締め、目を塞いだ。

「見てはいけません。」

 亜理紗は大人びていた。

 やる事も、言う事も、存在も。でも、亜理紗はまだ幼い少女なのだ。

 幼い割には、むごい現実を見過ぎてきた。だから、今はその目を塞いでやりたいと霧月は思った。

 亜理紗は霧月の胸に顔を埋めたまま、動けないでいた。

 恐らく、霧月が抱き締めてくれなければ、いつもと代わらずにこの現実を在りのままに受け入れ見つめたのだろう。でも、こうして温かい胸に包まれ、耳を塞がれる瞬間が少しだけ心地よく、優しく感じられた。それが、少しだけ心苦しかった。


 傷口を焼いた後、きつく布で固定し治療は終ったが、それぞれに直ぐに動く事は出来なかった。

 聖は珂翠の隣に蹲ったままで、詩絵は珂翠の息が整うまで珂翠を抱き締めていた。

 一番に動いたのは、霧月と亜理紗だった。

「水を、飲ませて差し上げましょう。」

 それは霧月というより、シスターに近い微笑だったが、その一言で止まっていた時間が勢いよく動き出した。


 聖が意識を失った珂翠を背負って、瞳達の待つ小屋へと帰り着いた頃には、すっかり陽が暮れていた。

 やつれて青白い顔をしたまま、深い眠りについている珂翠の姿を見た瞳は驚いていたが、腕に傷は負っているものの元気に帰ってきた亜理紗の姿を見た眞留美は、その場に泣き崩れてしまった。

 由美は研究室から、簡単な救急セットを持ってきて亜理紗の腕の治療をして、珂翠の腹のやけどの治療をした。


「何故、そんな危険な事をしたのですか!」


 由美は珂翠に泣きすがったが、それしか方法が思いつかなかったと珂翠が笑って見せると、ただ何も言えずに泣き続けるしか出来なかった。


「で、珂翠は誰に刺されたんだ?」


 聖が聞くと、珂翠は薄っすらと苦笑した。

「知らない人だよ。」


 詩絵も亜理紗も、ただ沈黙を守った。

 もう、その珂翠の優しさを偽善だとも、同情だとも思わなかった。

 

「この状態じゃ、城には帰れないなぁ。食料はどの位持つかな?」

「そうね、前に珂翠君が持ってきてくれた小麦があるから、1週間なら何とか。」

「そうかぁ…。」

 珂翠と眞留美の会話を聞いて由美は血相を変えた。

「まさか、一週間もお帰りにならないつもりですか?」

「あの人達は、気にしないさ。今はそれどころじゃないんだ。」

「ダメです!ちゃんと治療も出来ない状態ですし、ご両親に無許可で外泊を続けるなんて、私は反対です。」

 由美の言い分は解るが、珂翠は絶対に頭を縦には振らなかった。

 未来が大切で、だからこそ、この今という時を大切だった。


 その日の夜、奇跡的に雨が降った。

 珂翠の為に、飲み水を全て使い果たした彼女達には、正に恵みの雨となった。

 雨の中、動けるメンバー総出で桶やバケツや樽を外に並べ、水を集めた。

 その姿を珂翠は、ただ曇りガラス越しに見つめ、強く拳を握り締めた。


 その晩、疲れ果てた少女達は夢も見ない程ぐっすりと眠りに落ちた。ただ一人を除いては。


 眞留美は皆が寝静まった小屋を出て、雨が降る外へと出て行き、小屋の軒下で感慨に耽っていた。手には、肩代え人形が握られていた。


「眞留美ちゃん?」


 全く気配を感じなかった眞留美は、驚きながら振り返った。

「何…よ!寝てなさいよ!」

 そこに居たのは、珂翠だった。

「うん。ちょっと…腹が痛くて。」

「それでも、横になってなさいってば。」

「うん。」

 眞留美と珂翠は微妙な距離を保ったまま、軒下に佇んでいた。

「雨は、恵みのなんだね。」

 珂翠は、掌に屋根から零れ落ちてくる滴を受け止めた。

「そうだよ。雨が降らなきゃ水が無くなる。」

「僕、知らなかった。水をあつめるのがあんなに大変だ何て。」

「仕方ないでしょ。あんたは、貴族だから。」

 二人の間には、沈黙と言う名の壁が立ちはだかって居た。

 ただ、降り止まない雨の匂いが、二人を優しく包んでくれた。

「ねぇ。」

「何?」

「誰に、刺されたの。本当は、誰に刺されたの?」

「解らないんだ。」

「嘘付かないで!」

 眞留美が二人の間に出来た壁を、勢いよく破り倒した。

「嘘付き。亜理紗も詩絵も教えてくれないけど、亜理紗の親…でしょ?」

「…?」

「亜理紗を見てたら、解る。」

「…眞留美ちゃんの方が、苦しそうだね。」

「え?」

「眞留美ちゃんが、刺されたのかもしれないね。」

「何、言ってるの?」

 眞留美はただ珂翠を見つめた。言葉は喉に詰まったまま、出てこない。

「亜理紗ちゃんは、ちゃんと受け止めているよ。自分が肩代え人形の変わりだなんて、思っていないよ。本当のお姉ちゃんだと思って居る。だから心配させたく無かったんだよ。」

 眞留美は肩代え人形をきつく握り締め、喉に詰まったままだった言葉を無理矢理吐き出す。

「…んで、あんたが…解るの!あんたに解るのよ!」

「解らないよ。眞留美ちゃん程は。だから、教えて貰った。僕が刺されて、意識が飛びそうだった時に、亜理紗ちゃんが励まそうとして、色々と教えてくれたよ。そのほとんどが太郎と眞留美ちゃんの話だったよ。亜理紗ちゃんの世界には、この二人しかいなんだって感じたよ。」

 眞留美は目を潤ませたまま、真っ直ぐと珂翠の事を見つめた。

「眞留美ちゃん?」

 眞留美は視線を逸らし、雨を降らす空を見上げた。

「私は、雨が、嫌い。水は大切だけど、雨は嫌い。」

「どうして?」

「雨は…滲ませるから。真実を、滲ませる。」

「そうかな。雨は、流してくれるよ。埃まみれになった真実を、綺麗に流してくれる。僕は、そう思う。」

「あんた、キザ。」

「亜理紗ちゃんにも、そんな事言われた気がする。」

「…嫌い…。」

 眞留美は目をゆっくりと閉じて呟いた。


「…に、なれない…もう、嫌だ」


 その後、二人はただ雨空を見上げているだけで、何も話さなかった。



 翌日は前日の雨が嘘のように晴天だった。

 聖達はビニールハウスの製作に戻り、詩絵達は玉蜀黍の種を水につけ、太陽に当てていた。

 作業がひと段落付いた頃、眞留美が亜理紗に声を掛けた。

「亜理紗、ちょっと良いかな?」

「何ぃ~?」

 亜理紗は夜食用の小麦を練っていた。

「昨日、何があったの?」

「だぁ~かぁ~らぁ~」

「お姉ちゃんには…本当の事言って。」

 亜理紗はマイペースに小麦を捏ねて、丸め続けていた。

「亜理紗は、辛い事があった翌日は、絶対その鼻歌を歌ってるでしょ。」

「え?」

「子守唄の鼻歌。」

「…。」

「何があった?」

 亜理紗は手を止め視線を動かした。

 亜理紗の沈黙は苦しい。

 それでも、眞留美はただ待った。


「お母さんが…。」

「うん。」

「襲ってきた。」

「うん。」

「…。」

「それだけ?」

「お母さんがね…。」

「うん。」

「お母さん…が…お父さんを…食べてた。」

「?!」


 衝撃的な告白だった。

 眞留美は両腕を亜理紗の身体に巻きつけて、強く引き寄せた。


「一緒に居て上げられなくて…ごめん。」


 『もう二度と一人にはしないから。』心の中では、強く思うのに伝える事は出来なかった。出来ない約束をして変な期待を持たせられない。

眞留美の両親の様に、嘘になってしまったら、寂しくさせてしまうから。

 今は、ただ、きつく亜理紗を抱き締める事しか出来なかった。

 それに答える様に、亜理紗は眞留美の腕にそっと手をかけた。


「有難う。お姉ちゃん…。」


 今日はビニールハウスを退廃した村に残されたゴミと、地下の工場から寄せ集めた物で創り上げ作業を終了した。


「かんぱ~ぃ!!」


 その日の夜は、皆で昨日の雨水で乾杯をした。

 毎晩来る寒気と強風に強い、頑丈なビニールハウスが出来上がった。


「なかなか頑丈なのが出来上がったね?」

「あれなら、芽も飛ばされないし、肥料もきっと飛ばされないでしょう。」

「スゴイスゴイスゴイぃ~~~★」

「すごいですねぇ~♪」

「ああもう、あんたたち一々大げさすぎる。」

「良いではないですかぁ。」


 まるで収穫の日を迎えた様に、皆は喜んだ。

 小麦を捏ねて焼いただけの簡素なパンと、雨水で行われる、質素なパーティーであった。それでも誰もが心の底から喜び、笑い合い踊り始めた。昨日の恐ろしい出来事を封印する様に、皆で騒いだ。


 そして、太陽の祝福を受けて玉蜀黍を育ててくれた。



アリア預言の書 第二十章 七項


『この者たちに、幸あらん事を。

 この者たちに、祝福を。

 そして、絶望からの救済を。』




第4章  月―THE MOON―


一週間後、玉蜀黍の芽は数十センチくらいに伸びていた。

緑色というよりは、深い色合いの小さな芽は、少女達の愛情を一身に浴びてメキメキと育っていった。

その頃、聖と由美は玉蜀黍だけでなく、根菜類を育てるための土作りを始めていた。誰もが、この幸せが続くと信じて疑わなかった。

毎日が笑顔で、明日は芽がどれだけ伸びているか、雨は降ってくれるか、太陽はどれだけ出てくれるか等を考えて眠りに付いた。

それは、今までには考えられない事だった。

収穫までにはまだまだ時間が必要であったが、いつか来るその日を夢見て語り合うだけで、珂翠も少女達も自然と笑みがこぼれた。


「幸せって、こういう事を言うんだね。」


詩絵は満面の笑みを零しながら、珂翠に声を掛けた。

「そうかもね。」

珂翠は顔を真っ赤にした。


亜理紗はたまに太郎の墓の近くで、石を使っておままごとをして遊んだ。具合が少し良い時は瞳が相手をする事もあったが、大体は一人で遊んでいるか霧月が相手をしてくれた。すると、いつも畑仕事が忙しく、地下の研究室かビニールハウスの整備をしている眞留美が亜理紗に声を掛けて来た。

「ねぇ、亜理紗。」

「あ!眞留美お姉ちゃん!みて~これね、太郎なの。」

亜理紗は、丸に三角の耳を付けた土だんごを手の上に乗せていた。

「そうだね。」

誰でも幼い頃は、こういう遊びをして過ごすものだ。

しかし、亜理紗は幼い頃から娼婦として生きてきた。その反動なのか、十二歳にしては幼な過ぎる所がある。

「亜理紗。これ上げる。」

 眞留美は亜理紗の前に、自分の妹の肩代え人形を差し出した。

 世が世なだけに、子供用玩具はほぼ無い。この肩代え人形でさえ、簡易的に作られた安っぽい物だ。それでも、幼い子供にとっては、充分楽しめる玩具になるはずだ。

「え…?でも。」

「これは唯の、玩具だから。亜理紗に上げる。大切に遊んでね。」

「…うん!」

 亜理紗は嬉しそうに微笑み眞留美に貰った人形を抱えて、皆の所に自慢しに走って行った。

「見て見てぇお姉ちゃんに貰ったの!お人形を貰ったんだよぉ~!」

「亜理紗ったら…。」

 眞留美は、呆れた顔で亜理紗を嬉しそうに見つめていた。


「本当に良かったの?」

 亜理紗に自慢された由美は心配そうに、眞留美の所へとやって来た。

「良いんです。ただの人形ですから。亜理紗が喜んでくれるなら、それが一番です。」

「凄いわね。そんな風に、思えるなんて。」


 平穏な一週間は、〝幸せ〟な一時であった。

 しかし、一時は永遠には続かない。

「そろそろ、食べる物が無いのです。」


 台所を担当していた霧月が、そう言った。

 珂翠が城に戻れない今、食料が底を付いた。前に亜理紗が言った通りの問題が起こった。


 すると、詩絵が立ち上がった。

「私、私が何とかするよ。」

「何とかって?」

「任せてよ。」

「盗むのですか?」

 霧月が心配そうに詩絵の顔を覗く。

「今は、それしか無いでしょ。大丈夫。」

「盗む先なんてあるの?もう、闇市もやってないよ。」

 亜理紗が深刻な顔をした。

「貴族階級のキッチンに潜り込めば…まだ…。」

「待って!ちょっと待ってよ!」

 珂翠が痛む脇腹を押さえながら、話し合いに割って入った。


「ダメだよ!盗みなんて良くない!」


「じゃあ、どうすれば良いのよ!」

「それじゃあ、今までと代わらないだろ?僕達がしたい前進ではなくなってしまう?盗みは良くない!」

「珂翠だって、珂翠だって自分の家のキッチンから食べ物を勝手に持って来てたじゃない。」

「それは…。」

 詩絵は珂翠に厳しく詰め寄っていった。

「まぁまぁ、二人とも落ち着いて。」

 聖が二人の間に割って入ると、詩絵がプイッと顔を背けた。


「人間て、食べないと死んじゃうんだよね。面倒くさいよね。」

 亜理紗は他人事の様な言い方をした。

「亜理紗ちゃんも、もう少し真面目に考えないと。」

 聖が冗談めかして、亜理紗に話を振る。

 すると、亜理紗は少し寂しそうな眼差しを皆に向けた。

「亜理紗はね、例えお腹空いても皆を食べたりしないからね。」

眞留美はギョッとした表情で亜理紗を見たが、他の全員は何を言われているのか不思議な表情を浮かべていた。

「亜理紗のお母さんね、亜理紗が帰らなかったら、お父さんを殺して食べちゃんだって。亜理紗が悪いから、亜理紗も死んで食べられろって、言われて…何だろそれって。可笑しなって思って…。亜理紗は、お腹空いても、大好きな人を食べたりしないから。絶対…。」


 突然降ってきた壮絶な告白に、全員が息を飲んだ。


 誰も答えなんて持ち合わせていない。

 だから行き詰る。


 詩絵が盗みを働いた様に。

 亜理紗が身売りをした様に。

 霧月が神を信じなかった様に。

 眞留美が現実から目を逸らした様に。

 瞳がただ時を食い潰した様に。

 聖が瞳に会いに行かなかった様に。


 そして、珂翠が何も知らずに過ごして来た様に。


「そうだね。自分が良ければ、誰かを傷つけても良いなんて事はきっと無い!

だから、皆で話し合って乗り越えて行こう…?」


 珂翠は無心になって語った。

 余りにも、自分が目前にした狂気の在処が惨忍過ぎて、腹の傷が疼く。


「あの…では、皆さんで意見を言い合って、私たちの約束事を作りませんか?」

 霧月が柔らかくそう言うと、何と無く皆それで良いという事になった。


 そこで決まった事は、『盗みをしない』『身体を売らない』『嘘を付かない』『何かあったら、相談する』『単独行動をしない』という内容だった。


 そして、盗みはせずに、町へ降りて食物を調達する事をにした。

「あのそれですね…私、少しだけあてがあるのです。」

 霧月は教会の地下にあった保存食ならば、まだ残っているかもしれないと意見した。

火元は地下であったし、既に村人達によって盗まれている可能性もあったが、まず教会に行ってみる事にした。

 食料調達組は、そういう事に慣れている亜理紗と主の霧月が担当することになり、畑作業は眞留美と聖と由美が、そして瞳の面倒を詩絵と珂翠が見る事になった。


 最近、瞳の様態は悪くなる一方であったのだ。


 亜理紗と霧月、そして畑のメンバーが居なくなると、小屋の中は静まり返った。

 珂翠は、詩絵の事が気になって居た。しかし、話しかけ辛くもあった。

 そう思っていた時。瞳が酷く咳き込みながら、話し始めた。

「詩絵ちゴホホゴホゃんの、生きかたを…誰も否定なんてしていないわ…ゴホゴホ…。」

「え?」

「詩絵ちゃんは立派よ。十七年間も…立派に生きてきた。」

「…でも…。」

「私なんて、ゴホゴホゴホゴホ…私なんて、病気だからって、迷惑かけて。」

「瞳は、私に優しさを教えてくれたよ。お母さんみたいな、優しさを教えてくれたよ。」

「そう…有難う。そういう感覚を忘れないで。詩絵ちゃんにそう思ってもらえた、この感覚を私は、忘れないから。ゴホゴホゴホ…。」

 瞳の口からは真っ赤な鮮血が溢れ出していた。

詩絵は、それを涙ながらにふき取ってやった。

 瞳の顔色は、日を追うごとにどす黒くなっていく。

「ちょっと…つかれちゃった…。」

 そう言い残し、瞳は眠りへと落ちた。


 詩絵は、瞳の姿を見つめていた。

「さっきは、ごめんね。詩絵ちゃんを否定するつもりは、無かったんだ。」

 珂翠は、詩絵に声を掛けた。

「ううん。私こそ、珂翠に、あんな言い方して、ごめん!」

 その後、二人とも言葉が続かずにいる間、珂翠は今でもズキズキと痛む傷口を擦っていた。

「僕は、今の詩絵ちゃんを、信じてる。だから、もっと自分に優しくしてあげて。」


 この少年に言われるだけで、出来るような気がする。

 この少年に言われるだけで、首を縦に振りたくなる。

 詩絵は、珂翠の隣に身体を寄せ、ゆっくりと目を閉じた。

「緑に包まれた、丘が見える気がする。」

「ああ。」

「あの小さな畑が、目の前いっぱいに広がっていくの。」

「ああ!」

「そうしたら、私、今まで盗んできた人達に、謝りに行く。」

「その時は、僕も付き合うよ。」

「うん。有難う」

 瞑っている詩絵の目から、涙が溢れ出す。


 何が最善で、何が最悪なのか、まだ二人は明確に解らないでいた。



 霧月と亜理紗は、久しぶりに町の中を歩いていた。

 人通りは全く無かった。脇に横たわる生死不明の人間達が増えていた。


「亜理紗さんは、お強いですね。」

 先に話し始めたのは、霧月だった。

「どうしてぇ?」

 亜理紗は、相変わらずの調子だった。

 霧月の瞳に映る亜理紗の横顔は、初めてあった時感じた違和感がまるでない、普通の少女になっていた。

「私は、間違っておりました。」

「何が?」

「初めて珂翠さんにお会いした時、あの人には何も出来ないと私は言ったのです。間違っておりました。あの人にだから出来る事が、こんなに沢山あったのですのに。」

「そんな事、誰にも解らなかったよ。」

「そういえば、私、亜理紗さんにお聞きしたい事があったのですが宜しいでしょうか?」

「うん、何?」

「何故、珂翠さんを助けたのですか?」

「何故って?」

「最初から、珂翠さんが最高貴族階級の方だってご存知だったのでしょう。」

「亜理紗は珂翠お兄ちゃんだから助けた訳じゃないよ。ただ、狼の群れに迷い込んだ子羊を見つけたから。それだけだよ。な~んも考えて無かったなぁ。助けたら、お兄ちゃんだった。そんな感じかなぁ。」

「貴女のその純粋な考え方が、今の私達を支えてくれているのですね。あの頃も、今も…。」

 太陽に向かってスキップしてツインテールを揺らしている亜理紗の後姿が、そんなに遠くには感じられなかったからだ。

「いえ…私達、そんなに、遠くないのですね…。」

 霧月はそう呟いた。


「あっ!霧月ちゃん見てぇ~!」


 霧月は亜理紗が指差す方に視線を向けると、青空に薄っすらと浮かんでいる丸い物が見えていた。


「あれは。」

「月だよ!月!」

「何年振りでしょう、真昼の月。」


 姿を消した夜の月が、昼間に見えている。

 それは、何かを予兆しているような感じがした。


「綺麗だね。」

 亜理紗が屈託のない笑顔を見せた。

「そうですね。」

 霧月も整った顔を少し崩した。


「良い事がある気がする!」


 亜理紗は霧月の手を取り、軽いステップで歩き出した。

 霧月もそれに合わせて歩き出した。

二人は固く手を繋いだまま、教会へと向かった。


 教会の土台のコンクリートは、黒く炭の様に変わっていて、火の強さを物語っていた。霧月は、その中でもより黒く崩れ始めている場所を見つけ、地下の部屋への入り口を探し当てた。

「亜理紗が行くよ。」

「でも、危ないですよ?」

「体が小さい方が良いでしょ」

「しかし…。」

「ここは、慣れてる人に任せなさいって。」

「そうですか?では、地下の一番奥の部屋の床に保存庫があります。出火した部屋よりも奥の部屋なので、まだ焼けずに残っているかもしれません。お願いします。」

「了解!」

 亜理紗は、敬礼のポーズを取ってウィンクして見せた。

 亜理紗は四つんばいになり、地下の中へと入っ行った。

 亜理紗の腰につけたロープを手繰りながら、霧月は真昼の月を眺めていた。

「月…かぁ…。」


 幼い頃、母が家を出て行った時に、夜空には満月が輝いていた。

 昔から〝月〟の満ち欠けは〝移ろうもの〟の象徴とされた。霧月の母親は優しかったが、何か違和感を覚えた気がした。

 母は、常に何かを隠していた。

母は曖昧で、不安定な〝月〟が好きだとよく言っていた。


「曖昧で不安定で、移ろう月。これは、なんの予兆なのかしら…?」


「霧月ちゃん!あったぁ~!」

 亜理紗が潜って行った、地下の穴の奥から声が響いてくる。保存食は無事だったのだ。

霧月はホッと溜息を一つ落とす。


「考えすぎよね…。」


 教会に保存されていた保存食は、殆ど無傷に近い状態で残されていた。

 それを全部引っ張り出すには骨が折れたが、思いの他亜理紗の身体能力の高さを霧月は見た気がした。次々と運び出される缶詰等を大きな麻の袋に詰め込む。霧月が亜理紗は凄いと伝えると、いつも畑の片隅で積極的に動けずに、笑顔を強張らせていた亜理紗が、久々に満面の笑みを見せてくれた。

 己の親の惨状を目の当たりにして、庇ってくれた珂翠の命を失わない様に必死にもがき、あの残酷な治療の現場を見せてしまった。霧月は改めてあの時、亜理紗の目を耳を塞いであげられて良かったと感じた。

やっと、亜理紗の素顔を見られた気がした。


二人はホクホクな気分で戻る途中、珍しい光景を目にする。

 町の人々は殆ど集団行動を取らないのだが、広場で何か大きな声を上げて集会している姿が目に入ってきたのだ。

「ヤバイ。食料持ってる事に気付かれたら、後が怖いから、地下道を通って行こう。」

 亜理紗は霧月の服の端を掴んで、方向転換を促してきたが、霧月は彼等が一体何をしているのかが気になって仕方が無かった。

「何を…されてるのかしら?」

「たまにあるよ。反教の輩が集合するの。」

「そうなのですか?」

「多分。見つかったら危ないから!」

「そう…。」

 霧月は〝何か〟が気になる。

『真昼の月を見たからかしら…?』


 霧月と亜理紗は共に引き返し、安全な道で帰路に着く。

その晩は、久々に贅沢な夕食をとることが出来た。夕飯を食べながら、亜理紗は自慢げに

「真昼の月」を見た事を、大げさな手振りを入れながら話して聞かせた。

「これはきっと、いい兆候だよね?」

 亜理紗は楽しそうに話したが、霧月は何か喉に小骨が刺さった気分だった。


 それから数日間、水がなくなりそうになれば雨が降り、昼には晴天が続き、夜の強風も前ほど酷くなくなった。

玉蜀黍の芽は想像以上に早く育っていった。

「この玉蜀黍が実ったら、両親も重い腰を上げて、農作物の研究に手を貸してくれるかもしれない。」

 珂翠の目には、明らかに希望の光が見えた。

 玉蜀黍の背が伸びれば伸びる程、少女達は良く働き、珂翠の体調も良くなっていった。

 聖は渋い顔をして、貴族達に生き返った畑を知らせる危険性を促した。実際に、瞳の畑は奪い取られ、枯渇したのだ。しかし珂翠は「僕が、そんな事はさせない。」 と、意気揚々と宣言した。

 少女達は互いに視線を絡ませ、肩を寄せ合い嬉しそうに笑った。


 しかし、日を追うごとに瞳の体調は悪くなる一方だった。

「僕の体調が良くなったら、一回城に戻って、何とか薬を探してくる。」

 珂翠が瞳の華奢で今にも折れそうな手を握り、そう言うと瞳は薄っすらと笑いかけるだけだった。


 玉蜀黍を植えつけて二ヶ月が過ぎようとして居た。

 珂翠の容態は大分良くなり、畑仕事を手伝えるまでになって行った。


「見て!!実が…小さいけど出た。」

 眞留美が嬉しそうにそう言った。

 聖と由美が始めた土の洗浄化も進んでいた。

『奇跡じゃない。これは、みんなの努力で創り上げた成果だよね』そう、笑い合った。


 そんなある日の夜。

 事件は、静かに起こった。

 皆が寝静まった、真夜中の事。


 瞳がいつもの様に咳が酷く、目を覚ますと、外からかすかな人の声が聞えてきた。

―何、かしら?―

 窓を覗いて見ても、外は真っ暗で何も見えない。しかし、何か動く複数のモノがある。瞳は慌てて隣で寝ていた霧月を起す。

「どうしました?」

「外に…誰か…ゴホゴホ…いるみたい。」

「え?」

 毎日の畑仕事で、皆疲れていた為、誰も起きそうに無かった。

「私が外の様子を見てまいります。」

 霧月はそう言って立ち上がった。

「…きを…つけてね。」

「大丈夫ですよ。」

 暗がりの中、霧月は外へと出て行った。

 それが、最悪な選択であった。



 霧月が暗がりの中を進んで行くと、かすかに息遣いを感じた。

『誰かがいる…!』

 そう確信した瞬間には、もう既に遅かった。

 後ろから、複数の手が霧月に掴みかかってきた。

 声を出そうにも、首と口に掛かった角質化した手がそれを阻止してくる。思い切り噛み付いた時、男の悲鳴が聞えた。

 霧月は少し緩んだ手を思い切り引っ掻いて、脱出を試みた。すると誰かが、足首を掴んできてその場に転んでしまった。

 ミシミシ。硬い感触が手に残る。

『これは…ビニール…まさか!』

 霧月は慌てて手探りで、自分の下に広がる残骸を確認しようとした。

 冷たい鉄の棒に、カサカサのビニール。


『私たちの、畑…が…?』


 どんなに探しても、あるはずの物が見当たらない。


『私たちの…玉蜀黍が…?』


 ガッツン!


 痛みよりも先に、衝撃が霧月の頭に走った。


 皆で汗を流して耕した畑が、皆で楽しく植えつけた畑が、皆で願いを込めた畑が、穢されてしまった。

 霧月は、土の中に顔を埋めた。額を生ぬるい何かが伝ってくる。周りで、数人の男の声が聞える。

『危ない…皆に知らせなきゃ…!』


 でも、身体が思う様に動いてくれない。

 それでも、このままでは皆に危険が及ぶ。


「逃げて―!」


 霧月は渾身の力で叫んだ。その声を聞いて、誰か気付いてくれたら良い。

 霧月の頭を近くに居た男が、思い切り踏みつけたのだ。


「あっちにも、何かあるかもしれないぞ。」


『ダメ。ダメ。ダメ。ダメ!』


 霧月がどんなに願っても、身体も声で出せない。頭は土の中に突っ込まれ、身体は色んな方向から伸びてくる手によって押さえつけられた。


「女だ…女だぜ!」

「だから言っただろ?」


 何人居るのか分からない。早く…。

『逃げなきゃ!』

 霧月が動こうとすると、再度大きな衝撃が霧月の背中に走る。

「逃げられないよ…。」

「どこの女だ?」

「ここの地主は死んだろ?乞食か?」

「のわりに…良いもの着てるなぁ…。」

 耳元で聞える会話とは別に、足音が遠ざかっていく。


『ダメ!行かないで…皆には、手を出さないで!』



「逃げて―――!」

 霧月の声を聞き付け、少女達は目を覚ました。

「霧月ちゃんが!」

 瞳は霧月を一人で外に行かせた事を、深く後悔して居た。

「とにかく逃げましょ!」

 由美は食料の入った袋を担いで、珂翠に声を掛けた。

「ダメだよ!霧月ちゃんが!」

「相手は、何人いるのか、どういう者なのか分からないのですよ?」

「霧月ちゃんを見捨てろって言うの?」

 由美は、珂翠を掴んでいる手を緩めた。

 『見捨てる』という言葉が、胸を貫かれる。

「…しかし…。」

「闘おう!霧月ちゃんを、助けるんだ!」

「敵が見えない状態では、危険だ。」

 聖がすかさず珂翠の肩を掴んだ。

「でも!」

「そんな身体で、何が出来る?こっちには、病気の瞳と幼い女の子が居るんだぞ?」

「じゃあ、霧月ちゃんはどうするんだよ!」

 珂翠達の会話を黙って聞いていた、亜理紗は眞留美の服の裾を引っ張った。

「お姉ちゃんは、瞳ちゃんを連れて逃げて。」

「亜理紗!」

「亜理紗が行く!」

「ダメよ。私が…。」

「亜理紗なら、馴れてるから大丈夫。」

 眞留美は亜理紗の腕を掴んで、珂翠の前に亜理紗を突き出した。

「珂翠!瞳と亜理紗と詩絵をお願い!私が霧月ちゃんを助けに行く。」

「お姉ちゃん!」

「亜理紗!言う事を聞きなさい。」

 眞留美は真剣だった。

「じゃあ、眞留美ちゃん。僕も残る。亜理紗ちゃんは瞳ちゃんと一緒に安全な場所に身を隠して。僕に良い考えがある。瞳さん!申し訳ないのですが少し家を壊しても良いですか?」

「ええ…。」

 珂翠の強い意志と同じように、眞留美にも譲れない決意があった。

「亜理紗。よく聞いて?太郎は亜理紗を守ったよね?亜理紗は瞳にナイト様になって上げて。解った?頼んだよ!」

「…うん。」


 亜理紗と詩絵が瞳を抱えながら裏口を出て行くと、珂翠は由美と聖に、床板を剥がすよう指示し、それを枝くらいの細さに割って、火をつけた。

「僕がこれを矢の代わりにして、放ちます。そっちに意識が行っている隙に、霧月ちゃんを助けに行く!」

 聖が珂翠の膝に軽く蹴りを入れる。

「少し冷静に状況を確認しろよ。俺がなんでいつもお前の隣に居るんだ?こういう時に、役に立つためだろうが?頭になろとしているならな、誰よりも冷静に現状を把握することを覚えろよ!皆、お前の背中を信じてるんだ!」

珂翠は真剣な聖の声に冷静さを取り戻した。

「…ごめん…聖…そうだね。…じゃあ、弓を放ったら聖が霧月ちゃんの救護に向かってくれ。なるべく畑が明るくなるように、弓を放つから。」

 聖は作業の手を止めなかったが、一つ溜息をつくと、珂翠の頭をクシャクシャと撫でて、畑を耕す為に作ったシャベルに手を掛けた。


 床板とロープで造った簡単な弓矢に火をつけて、珂翠が外へと放つと、6.7人の男達の影が見えた。

 男達は、驚き慌てふためいて、それぞれに声を上げ始めた。

 霧月を押さえつけていた男達も、その手を緩め、何が起こったのか首を左右に振った。


 珂翠は引き攣る脇腹を押さえながら、次々に矢を放った。由美が矢を作り、眞留美が火をつけ、珂翠が放つ。

「弓は得意なんだ。」 

 珂翠は、次々と矢を放つ。しかし、放つ度に脇腹が引き攣って行く。

 弓を放つたびに、集団が拡散されてく。その崩れ落ちていく人間を狙い、聖が炎に紛れて小屋を飛び出した。


 外はあちこちに火降って来る。その隙間に潜む影から、人のうめき声と、鈍器で殴られる音だけが聞こえて来る。

 霧月を押さえつけている男達も手を離し、右往左往していた。

小屋に向かって突っ込んで行く男に矢が当たり、火達磨になって転げる姿が見えた。


「…ナニコレ…これが……争い…?醜い…これが、破滅?」

 霧月は呆然としていた。


 目の前に迫ってきた男を威嚇しようと放った矢が、その男に着火して悲鳴を上げて倒れた。

 珂翠は愕然とした。手が震えて止まらない、矢を真っ直ぐと構える事が出来ない。

「珂翠…?」

 眞留美は珂翠の異変に気付き、自分が持っていた相松を由美に押し付けると、手作りのシャベルを握りして飛び出して行った。大きく振りかぶって目の前に迫る男を殴り、真っ直ぐ霧月の近くへと進んで行く。男達はそれぞれに混乱していて、眞留美の細腕でもなぎ倒せた。

眞留美は霧月を抱え上げた。

「霧月ちゃん!しっかりして…!」

「…まるみ…さん。ハッ!!にげ…‥」


「霧月ちゃん!もう大丈夫よ!」


 ガツン!

 眞留美が霧月と共に倒れる。

「ざまぁみろ!自分だけ、助かろう何てするからだ。畑の物は貰っていくからな。今は取れる所から取る。そういう時代なんだよ!」


 眞留美と霧月に声を投げ付けてくる相手は、随分と幼く聞えた。


『そういう、時代なんだ!』

「…んな、そんな言葉で、そんな言葉で片付けないでよ!」


 眞留美は地にへばり付いたまま叫んだ。

 やり場のない怒りが、あふれ出す。

「眞留美…さん…。」

 霧月が息も絶え絶えに、眞留美の頭を撫でた。

「悔しい!悔しい!悔しい!」


 眞留美が必死になって調べて造った肥料も、皆で耕した畑も、やっと見つけたビニールハウスの素材も、総てがこの一瞬で終った。


 あちらこちらで、矢の火が燻っていて、夜明けに火の花が咲いている様だった。


 聖が眞留美達に元に駆けつけた!

「大丈夫か?こんな無茶して…。また、戻ってくるかもしれない。此処は危険だ。

とにかく、亜理紗ちゃん達と落ち合おう。」

「クッソ!」

 眞留美は奥歯をギリギリ鳴らして、何かに必死に耐えていた。

 失った物の大きさと、高ぶった感情が、事の矛盾を露にしてくる。


 眞留美は号泣しながら、土に顔を埋めた。

「眞留美ちゃん!しっかりするんだ…とにかく今は、身を隠すぞ!今は早めに退散するんだ!立って!!」


 小屋に残して来た、珂翠と由美の元には戻らず、聖は亜理紗と瞳が身を隠している地下通路に向かった。聖に背負われた霧月の手はダランとしていて、後ろからついて行く眞留美の足も重くなった。三人はそれぞれの緊迫した思いを吐露しない様に、無言のまま一歩一歩進めて行くのみだった。

 地下通路に入るとすぐの所に、既に珂翠と由美も合流していて、その中心には息を切らせて蹲っている瞳に寄り添う亜理紗が居た。

「あ!お姉ちゃん~!良かった~無事で。あのね、瞳ちゃんの容態が、悪くて、もう歩けないって。」

 

 亜理紗は心配げに、眞留美を見つめた。

「お姉ちゃん…大丈夫?」

「うん…だい…じょうぶ。」

 亜理紗の顔を見れば、眞留美は強く居られた。そこに亜理紗が居てくれれば、この厳しい現実も受け入れられた。

「とにかく、行きましょう。」

 眞留美が、瞳を自ら支え起した。

 前に進む事こそが最善。後戻りは出来なかった。自分達が創り上げた畑には、もう何も残っていない。残っているのは、憎らしい男達が残して行った足跡だけ。


 何とか地下の研究室まで辿り着く頃には、天井の隙間から朝日が差し込んできていた。

それぞれに張っていた気が、一気に緩む。

 誰からとも無く、その場に崩れ落ちて行った。

「まず、霧月ちゃんと瞳ちゃんを休ませて上げないと。」

 さっきとは別人の様に眞留美は立ち働いた。自分も殴られて怪我を負っているはずなのに、眞留美は疲れも見せずに霧月の怪我の手当てをして、瞳にシーツを掛けた。


 メンバーはそれぞれ口数が少なかった。

 その中で、眞留美は際立って元気そうに振舞った。

 ひと段落付いた頃、眞留美は専門書が積み上げられている部屋に消えていった。

 珂翠がその後を追うと、眞留美は床にまで進出している専門書の束を漁っていた。

 上から本が落ちて来て、一人愚痴りながらも、何かを探しているようだった。

「もう痛い。あ、此処かも…違うかなぁ?」

「眞留美ちゃん?」

「ああ珂翠。ねぇ、そこの緑の背表紙の本、取ってくれる?」

「何してるの?」

「何って?畑を荒らされちゃったから、もう一度やり直さなきゃだから。グチグチしてる暇なんてない!」

「…眞留美ちゃん。」

「何よ、取ってってば。」

「もう良いよ。」

「何がよ!」

「無理しなで、良いよ。」

「今は、無理しなきゃいけないでしょ!」

「眞留美ちゃん。」

「いけない…。」

 眞留美の両目から、滝の様に涙が溢れ出した。

「しっかり…しなきゃ!」

「ごめん。僕が頼りないから…いつも眞留美ちゃんに負担をかけてしまう。強がりたいよね…解るよ。でも、此処にはさぁ、亜里沙ちゃんは居ないから。僕しか居ないよ?」

 眞留美は頭を激しく左右に振った。

「僕になら、当たってくれても…構わないけど。」

 それでも眞留美は奥歯を噛締めた。

「泣いても、弱音吐いても構わないよ。」

 珂翠が眞留美の両腕に抱えられた本を受け取り、近くに置く。しかし、眞留美の腕は本を抱えた格好のまま動かなかった。

「眞留美ちゃんが、どれだけ頑張っていたか。解る。多分一番辛いと思う。頑張れ何て、簡単に言え無いし…僕も、さっきすげえ、怖くて眞留美ちゃんにまた背負わせちゃった。」

「…がう。」

「…え?」

 眞留美は涙を流しながら、瞳で珂翠に訴えかけてきた。

「違う!悔しいのはそんな事じゃない。霧月ちゃんをこれ以上、人に傷つけられて欲しく無くて…!それに…瞳ちゃんには、もう時間が無いの。詩絵と亜理紗には、こんな風に希望はあるって見せてやりたい。だから、だから…私は…。」

 眞留美は珂翠の胸に顔を埋めて、肩を揺らして泣いた。

 無力な自分が悔しかった。

「悔しい…悔しいよ…。」


 珂翠は眞留美の肩をそっと抱いた。

 この綺麗な涙を、決して無駄にはしない。


「簡単なんだね、奪う事は。でも、作り上げていく事は、とても大変なのに…。」


 珂翠は眞留美を強く抱き締めて、決意した。


『僕に出来る事をしなければ。僕には身分が与えられて居るのだから。』と。


「あのさ…眞留美ちゃん。僕は、これから城に戻ろうと思う。」

「え?」

「また襲われるかもしれない。でも、僕は無力だ。だけど、出来る事はある。違う土地を見つけて、また畑を耕し続けて欲しい。それが必ず報われる様に、僕も、僕にしか出来ない事をするから。」

「お城に戻って…出来る事?」

「ああ。僕には戦術は向かないけれど、政治なら出来る。この村が残された最後の土地なら、この村を守らなきゃいけない。皆の為になる。村の意識を変えなければ、同じ過ちを繰り返すだけだ。だから…だけど、一つだけお願いしたい。無茶はしないで…ね?君だって、可憐な女性なんだからね。」

「何言って…!それより…そんな偉そうに…出来るの?」

 眞留美は珂翠の顔を覗くと、それはあの弱弱しい少年の表情では無かった。

「出来ない事は無い。それを見せてもらった。この死んだ土地に、玉蜀黍の実が生ったじゃないか。向き不向きはあっても、不可能はない。」

 眞留美は唇を震わせるだけで、言いたい言葉が出てこなかった。

「僕は、もう迷わないから。君たちをちゃんと守れる男になるから!」


 そう言い残して去って行く珂翠の姿が、消えてしまいそうに見える。

 眞留美の耳には、何かの警戒音が聞えていた。


「待って!」


 珂翠は振り返った。

「直ぐなの?もう少し、一緒に…居てよ。」


 珂翠は今までに見た事ない様な、不安定な微笑みを残して去って行った。


「…かないで…よ。」


 眞留美はまた、言えなかった。

 両親が出稼ぎに行くと言った時と同じように、言えなかった。



 珂翠には決心があった。

 行動を起さなければならない時期が来たのだという、決意が。そして、あの時、目の前で自分が放った矢により人が燃えていた。


『僕は、守りたかっただけなのに…奪ってしまった。』


 珂翠が地下研究室の大広場に姿を現すと、そこには詩絵が何か高いところに置いてある物を取ろうとしていた。

 珂翠は後ろから、それを取って詩絵に渡した。

「有難う。これ霧月ちゃんの消毒に…て…由美さんが。」

 珂翠に包まれそうな状態に、詩絵を少し照れながら上目遣いにお礼を言った。


「詩絵ちゃん。」

「何?」

「僕、君の事が好きだ。」

「え?」


 珂翠は詩絵の頬を両手で包み込んで、詩絵の唇に軽く自分の唇を押し付けた。

 固まったままの詩絵の後頭部に手を回して、ゆっくりと抱き寄せた。

「きっと、戻ってくるから。その時、今日の事を怒ってくれて構わない。だけど今は…このままで居て欲しい。僕の決意が揺るがない様に。」



 珂翠は詩絵を放したあと、直ぐに身支度を済ませて、城に戻って行った。



 これが、少女達と珂翠が会話を交わす最後になるとは、誰も想像しなかった。



「どうして引きとめなかったのですか?!」

 由美は眞留美に詰め寄ったが、それは眞留美が一番自分に問いたい所だった。だから、眞留美は無言を通すしかなかった。

「由美さん落ち着いて!珂翠が自分の意思で戻ると決めたなら、それが一番良い事だと俺は思う。」

「何を言ってるのよ、聖!」

「だって、そうだろ。俺達には出来ない事があいつには出来る。政治を動かす為には、戻る方が一番良い。」

 口論を黙って聞いている詩絵が、二人の前に紙切れを差し出した。

「珂翠が…これを、渡してって。」

 それは、珂翠が詩絵を抱き締めた時に、詩絵の手に握らせたものだった。

 その中には、3日に1回朝方に、珂翠の部屋の窓の下に食料を置くから取りに来て欲しい。という内容の走り書きだった。


「あいつ…。」


 聖は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。

 

 霧月の怪我は見た目ほど大した事は無く、後頭部にたんこぶが出来たのと、額が割れただけですんだが、瞳は霧月に対し必死に謝罪をした。

 あの時、霧月一人で外に行かせた事を後悔して居たのだ。

「そんな、瞳さんはちっとも悪くありませんよ。」

 霧月はそう言って、微笑んだ。

 珂翠が姿を消してから数日がたった頃、瞳と瞳の看病に由美を残して、他のメンバーが小屋の様子を見に外へ出た。

 そこは、見るも無残な状態で、皆で寝泊りをして居た小屋さえ壊されていた。

 畑が在った場所は踏みにじられ、玉蜀黍どころかその根まで掘り返されていた。

 唯一の救いは、太郎の墓は気付かれずに、そのままの状態だった事だけだ。

「また、戻ってくるかな?」

 詩絵が畑の硬くなった土を撫でながら沈黙を破った。

「戻って来ないとは言い切れ無いね。」

 眞留美が苦い顔をした。

「何処か人に見つけられない土地はあるかしら?」

 霧月が眩しそうに青空を見上げながら続けた。

「人に見つからない場所は、大体が死んでる土地だろうね。」

 聖が畑の見つめながらそう言った。

「探せば良いじゃない。また探して、もう一度やり直せば良いじゃない。」

 亜理紗が満面の笑みを振りまいた。

「そんな簡単に…あんたね。」

 眞留美は亜理紗を見つめたまま、溜息混じりに微笑んだ。

 昔の亜理紗なら、こんな前向きな事は絶対に言わなかった。珂翠に出会う前までは。

「そうだね!もう一度探せば良いよね。珂翠の政治の助けになるかもしれないし。」

 眞留美は亜理紗に負けない笑みで、そう言った。


 もし、此処に珂翠が居たら、同じ事を言ったかもしれない、そう思えた。


「よし!こうしちゃ居られない。皆で分担して、もう一度耕そう。」

 聖が掛け声を掛けると、全員で拳を握り思いっきり青空へと突き上げた。


 これからの日々は、想像以上に過酷だった。


 畑を耕せば翌日には、踏みにじられ、新しい土地を見つけても、石ころだらけで一向に耕せない。そして心無い罵倒や暴力を振るわれる事もあった。

 毎日の様に誰かが怪我を負う。

少女達は疲れ果てていた。

 しかし、3日に1度必ず置かれている、珂翠からの食事が彼女達の心の支えだった。


『珂翠も頑張っている。自分達もこんな事に負けてはいけない。』


 誰もが、言葉には出さずそう強く願った。


『きっと、珂翠も頑張っている…。』


「由美さん。皆は?」

 瞳は差し込む朝日を眩しそうに見つめながら、由美に声を掛けた。

 由美は文献の整理の手を止め、瞳の側に腰を下ろした。

「畑を耕しに行ったわ。」

「そう。ですか…。」

「瞳ちゃんは心配しないで、どうかしたの?」

「いえ…朝日が…眩しいなって…。」

「朝日が?此処は地下よ?瞳ちゃん?」

 瞳は視点の合わない目を細めた。

「目が…見えないの?いつから、こんな!」

 瞳が由美の手を軽く掴んだ。

「母も、視力を失ったので、覚悟は出来ていました。」

「そんな…。」

「由美さん。教えてください。」

 瞳は真っ白な視界の中に居た。しかし、瞳の隣には、いつも自分を心配してくれた珂翠と、少女達が寄り添ってくれていた。


「私には、皆が見えます。だから、話を聞かせてください。」


「解ったわ。私が知っている限りだけれど。」


「ウフフフ…。」

「どうしたの?」

「いえ、御免なさい。目に浮かぶんです。眞留美ちゃんが、男達を相手に、スコップを振り回してる姿が。カッコいいわ…。本当は凄い。女性なのに、男勝りな顔を見せちゃうのよね。」


 由美は驚いた。そして、瞳に詰め寄った。

 視力を失った少女に、何かが見えているなら、聞きたかった。

「坊ちゃんの事は?見えますか?」


 瞳はにっこりと笑った。


 その頃珂翠は、両親と毎日会議をしていた。

 残された食料を給与にして、村中の人々に働きかけ、畑の開拓を進める政治を珂翠は推奨したが、他の貴族達との関係もあり、直ぐに動く事は出来なかった。

 

 珂翠が城に戻ってから2ヶ月経ったある日、珂翠は、数少ない臣下と村に下りて、貴族が所有している土地全てを開放する代わりに、そこで労働した者達に給与として食料を配るという呼びかけを始めることに成功した。


 その呼びかけを目にした詩絵は、涙を流しながらその場に蹲って喜んだ。久しぶりに珂翠の姿を見られた。それが何よりも嬉しかった。家臣に囲まれて近付けないがそこに珂翠が居た。


 詩絵の心には、大きな変化があった。それは、珂翠と離れてから気付いた感情であった。


「珂翠…待ってる。約束…信じてるから。早く、戻ってきて。」


 自分にしか出来ない事を、やり遂げようと動く。

 それは、彼女達も同じ事だった。

 珂翠が動くまでの2ヶ月間で、詩絵と亜理紗と聖が見つけた庭での畑は、根を張り始めていた。希望は失わずに居られた。

 珂翠が残してくれた知識や工具が、随分と役に立った。


 そして。

「皆!見て!」

 眞留美がメンバー全員を畑に呼び集めると、植え付けをしていない場所から、見た事のない芽が生えていたのだ。

「何これ?」

「何の芽かなぁ?」

「知らないなぁ。」

「ねぇ、此処?」


「皆で、石を埋めた所じゃない?!」

 詩絵が叫んだ。


 奇跡を信じていた。

奇跡は起こると、信じたかった。


「この芽ね、昨日から伸びだしたんだけど、昨日の夜に荒らしが来たみたいなの。それでも、ここに生えている。」

 眞留美が潤んだ瞳を皆に向けた。


 信じていた。だから、報われる事も有るのだと、証明されたような気分だった。



「神様の鼻くそが、土地に芽を生やす。ひぃちゃんの言うとおりですね。」

 瞳は見えない目を細くして、嬉しそうにそう呟いた。動く事はおろか、上体を起す事も出来ない瞳の側に、ずっと居てやれない事が聖は悔しかった。

「ひぃちゃんは、どうして、そんな悲しそうな顔をしているの?嬉しくないの?」

 それは、幼い頃、聖と時間を共有していた頃の瞳に戻った様だった。視力を失って、やっと瞳を側に感じられる事も歯がゆかった。

「なんでだよ。嬉しいよ。」

「じゃあ、笑って。」

「否…でも…。」

「でも何?」

「俺の願いを、神様は叶えてくれないから。」

「ひぃちゃんの願い?」

「俺は…瞳が居れば、瞳さえ居てくれたら、それだけで良かったのに。」

「ひぃちゃん。」

「解ってる。俺が瞳を置いて行ったんだ。会うのが辛くて、俺は自ら瞳の前から姿を消したんだ。神様が悪いんじゃない。でも…。」

「ひぃちゃんは、ひぃちゃんです。ひぃちゃんは、優しすぎる。私は、その優しさが、大好きです。私が、こうして、皆と居られるのは、ひぃちゃんのお陰ですもの。」

 瞳の目には、聖の姿は見えて居ない。

 しかし、瞳の中には、いつも聖が居た。

 優しすぎて瞳にどんな顔をして会えば良いのか解らなくて、一人ベッドで泣いていた聖を、瞳は責めるつもりは無い。

 聖を怨んだ事なんて、一度も無かった。

「私は生きていて、良かったです。ひぃちゃんの祈りを、神様が叶えてくれて良かったです。有難うございます。」


 かすれた瞳の声が、聖を温かく包んでくれた。

 それでも…。


 聖の細やかな願いは誰の耳にも入らない。そして、瞳に残された僅かな時間は過ぎて行く。



 少女達は毎日石を植えた処から生えてきた蔓の植物に水をやり、畑を耕し肥料の生産に取り組んでいた。

 そんなある日、亜理紗と詩絵と聖が裏庭を耕していると、壊れかけた建物から人の話し声がして来た。

〝二人とも。隠れて!〟

 聖はジェスチャーで二人を促しながら、中の様子を見ていた。

 中には汚い格好をしている男達が数名と、上質だが解れた上着を羽織った男が話して居た。

「本当だろうな!」

「決まっている。そうじゃなければ、あんな事出来る筈が無い。奴等は、食料を独占して自分達だけが助かる為に、我らを見殺しにするつもりだったんだよ。」

「クッソ!!バカにしやがって…!」

「そうだそうだ!俺達は、見下されて、バカにされてきたんだ。」

 上質な布の上着を着ている男が、村人達に何かを説いて居る。


『何を話してる?』

 聖は話を詳しく聞こうと、男達に近付いていった。

 その姿を見て、詩絵と亜理紗も聖に付いて行く。


「畑を作っても、少ない食料で労働を強いられ、出来た食べ物は自分達が独占するのだ。」


『!?』


「どうやら、息子が両親を唆したらしい。あの城には食料が沢山保管されて居る。」


『…珂翠の事?』


「騙されないぞ。俺達は騙されない」

「おおおおお!!!!!!!」


『珂翠!』


「いいかぁ、俺も奴らに騙されたんだ。巧妙に計画されていた。だから、一家心中する貴族まで出ている」

 男達は暗がりの中でもわかる程、目が血走り、熱気を出して、先導する男の言葉に耳を傾けていた。


『違う。これは、違う。』


 詩絵は、身震いが止まらなかった。

 聖は、事の重大さを上手く飲み込めず、ただ男達を見つめる事しかできなかった。

 亜理紗は、中心に居る男を見つめていた。真ん中で士気をとり、村人達をまくし立てる、上質な上着を羽織った下級貴族、野口の姿を目に焼き付けていた。

奇声を張り上げ、

「『貴族』に騙されるな!」と怒鳴り散らかし、町を練り歩いて行く。

 廃屋から、全員が姿を消すと、哀しい沈黙が訪れた。


 三人共、止まったまま動けないで居た。


「今の…珂翠…の事だよね。」

 身震いしながら、詩絵が口火を切る。

「どうしよう!どうしてこんな事になるの?何かデモとか起すつもりなのかな?」

 聖は、詩絵の方に視線を送りゆっくりと唾を飲み込んだ。

「デモならまだ良い。あれが膨れあがって暴徒になってしまったら、今の珂翠達には止められない。」

 怒りの向かう先が、変わって行く。

間違った方に、絶対に在っては成らない方向に。


「止めなきゃ…。」

 亜理紗が眉間に皺を寄せて呟いた。

「亜理紗?何する気?」

 詩絵が亜理紗の肩を掴んだ。

「絶対に、止めなきゃ!」

「…どうやって?」

 聖が亜理紗と視線を絡める。

「亜理紗は珂翠お兄ちゃんに助けてもらった。亜理紗も、珂翠お兄ちゃんを助けなきゃ。」

「俺だって助けたい。だから、これからどう動くべきか、話し合わなきゃいけないと思って居る。でも、俺が思うに、君がやろうとしている事は、間違っていると俺は思う!」

 亜理紗は、眉間の皺を伸ばし可愛らしく笑って見せた。

「大丈夫。亜理紗は、お兄ちゃんが悲しむ事なんてしないよ。」

 亜理紗の微笑みは、少しだけひきつっているように見えた。

「とにかく、皆に知らせて、どうするか話し合うおう!」

 詩絵は慌てて、帰り支度を始めた。この時の詩絵は、冷静さをかいていた。いつもの詩絵なら聖よりも早く、この時の亜理紗の変化に気付いたはずだ。



 その時も地下の研究室で、瞳は真っ白の世界を見続けていた。

 真っ白な世界に、赤い太陽が、白い輪郭だけが浮き上がった月を、赤く染めて行く。

 そこに見えたのは、自分の仲間達。

真っ赤に燃え上がる炎に身を投じる群衆に、背を向け、赤い月に手を伸ばす。


 瞳は懸命に叫ぶ。

『ダメ!その月を信じてはダメ!』

 しかし、瞳の声は届かない。

 まず月に浮かんだのは、亜理紗の笑顔だった。血の涙を流しながら必死に笑う。


 瞳が目を覚ますと、周りは騒がしかった。

「亜理紗ちゃんは?」

 瞳は気だるい身体を懸命に動かして、皆に訴えかけた。

「亜理紗ちゃんは、居る?」

 誰かが、瞳の手を握る。

「亜理紗ちゃんは帰ってくる途中、どっかに行ってしまって、今、眞留美ちゃん達が探しに行ってる。」

 聖の声がする。

「ダメよ、行かせないで!」

「大丈夫だよ。亜理紗ちゃんはきっと!」

「大丈夫じゃないの!お願い…助けてあげて…!」

 聖が瞳を落ち着かせようと、額を撫でた。

「解ったから。亜理紗ちゃんは、眞留美ちゃん達に任せて…。」


 詩絵と眞留美は、帰って来る途中で突然亜理紗が姿を消した通路の辺りを、重点的に探し回っていた。

「眞留美ちゃん、ごめんね。私がついていながら!」

「ううん。詩絵は別に悪くないよ!もう、あいつったら…また勝手に!」

 眞留美は平然を装いながらも、内心はとても焦っていた。


 詩絵と聖が走って帰って来た時、眞留美は作業を終えて、質素な夕食の支度をして居た。

詩絵の口から、亜理紗が突然居なくなったと聞いた。

その後の農民と低級貴族の会話を聞いて、手の振るえが止まらなかった。

 聖が、その低級貴族が、亜理紗の顧客の野口という男だったと聞かされて、視界が揺らぎそうだった。

 また、亜理紗の手が遠のいて行く。

 もう二度と、放さないと決めたのに。


 眞留美は焦る気持ちを抑えながら、詩絵と一緒に亜理紗と逸れた場所にやってきた。

 陽は完全に落ちて、辺りは真っ暗で、壁つたいに進むしかない環境下で、どうやって暗がりを自由に走り回れる亜理紗を探せるというのか。殆ど、不可能に近かった。そんな事は、二人にも理解できた。

それでも、〝仕方ない〟の一言で済ませる事は出来なかった。

「亜理紗は、やっぱり…。」

 詩絵と眞留美は逸れない様に手を握り合っていた。詩絵の手に、少し力が入る。

「野口って貴族の事…詩絵は知ってる?」

「よくは知らない。でも、亜理紗にとって、一番の上客だった事は確か。」

「亜理紗はその野口の所に行ったんだよね。」

「…多分。」

「亜理紗の奴!」

 眞留美は余りに口惜しくて、奥歯で歯軋りをした。

「出来る…と思う。亜理紗なら…。」

「詩絵ちゃん!どういう意味よ!」

「亜理紗は、そうするつもりだと思う!」

「やめて!」

「亜理紗は、自分を身代わりにしに行ったのよ!」

「……。」

 眞留美は、下唇を小刻みに震わせながら、空いている方の手で涙を拭った。

「詩絵ちゃん…お願い…。亜理紗はどこに居ると思う?お願い!亜理紗を止める…亜理紗を、これ以上、傷つけたくないのよ!」


 眞留美の強い思いは、亜理紗には届かなかった。



 亜理紗には、他に道が思い当たらなかった。

 野口は口が上手く、ただの農民から低級の貴族にまで昇進を果たした男だった。

「お姉ちゃん。お兄ちゃん。ごめんね…。亜理紗はやっぱりバカだから、こんな事しか出来ないんだ。」


 亜理紗は笑っていた。

 御人形の仮面を被って、あの橋に向かった。

 亜理紗が毎日通っていた頃とは違い、客待ちする女の姿は無かったが、人は前以上に集っていた。

 橋の中央に台を置いて、野口が演説をくり返していた。

 亜理紗は、人込みの中を潜り抜け、野口の足元まで辿り着くと、野口を見上げた。

「御久しぶりです。」

 野口は演説を一旦止め、亜理紗を見下ろし、ニヤッと黄色い歯を見せた。


『もう、二度と戻れなくても、それでも、亜理紗がお兄ちゃんを助けるから。また皆で一緒に畑を耕してね。神様…もし、本当に居るなら、亜理紗の事は許さないで良いから、お兄ちゃんの事だけは、お姉ちゃん達の事だけは、助けてね!

それが、亜理紗のたった一つのお願い…です。石に願ったお願いです!』



 詩絵と眞留美は翌朝を迎えても帰ろうとせず、亜理紗を探し続けたが、結局昼頃に断念して地下に戻った。


 その日を境に、外はだんだん反貴族への士気が高まり、毎日の様にデモ行進が行われ、危険な装いを呈していった。

 珂翠が人を集めようにも人は集らず、給金用に用意した食料品が盗まれる事さえも、多発していった。

 珂翠は自ら側近達と村に降りて、懇願をくり返すも、暴徒の波にのまれ、危険と判断され、城に帰される日々が続いた。

 しかし、一方では、眞留美たちの畑が荒らされる頻度が減り、玉蜀黍の小さな実がつくまでに成長し石から生えてきた蔓はみるみると伸び、太郎の墓の近くの切り株に巻き付き始めて居た。


 亜理紗が姿を消してから2週間が経っていた。


 亜理紗が姿を消してから、瞳の口数はめっきり減り、一言もしゃべらない日が続いていた。

 眞留美は息が詰まりそうな日々を送り、詩絵は自分の愚かさに嘆き、霧月は毎晩の様に神に祈りを捧げた。

 詩絵は何度も珂翠の姿を見に、行ったが村人達の暴徒が危険で、珂翠が村に降りようとしてもその顔を見る事は出来なかった。


 珂翠を侮辱する言葉を聴いても、反論する事も出来ない。


「亜理紗…元気にしてるかなぁ…。」

 亜理紗の代わりに太郎の墓参りをしている眞留美は、毎日のように太郎にそう問いかけた。

 太郎は何も答えてはくれないが、石の辺りから這い出ている蔓は風に揺れながら、ほのかに優しい香りを眞留美の鼻腔へと運んでくれる。それが、唯一の救いの時間だった。


 詩絵は毎日亜理紗が良く使っていた、地下道へ抜ける裏道を使って、村人たちの状況に探りを入れていた。

「またアイツ、ぬけぬけとやってきたぜ。この間なんて、頭にでっかい石がクリーンヒットして、顔面血だらけになって城に逃げ帰ったくせになぁ。」

 詩絵の胸は張り裂けそうだった。

珂翠が残していった、たった一回の告白と、優しいキスの感覚だけが教えてくれる。別れてしまうまで気づかなかった『愛おしい』と感じるこの想いを。

 詩絵は何とかもう一度珂翠に会いたかった。遠目にでも良い。言葉を交わせなくても良い。ただ、一目、彼に会いたかったのだ。


 詩絵は、男達が話していた場所へと裏道を使って向かった。


 そこには群集が押しかけていた。

 心無い野次や、物が一方方向に飛ばされている。


 その先に、珂翠が居る事は間違いなかった。

 やっと会える!

詩絵は何とか珂翠の姿を見つけようと、視線を巡らせる。

 しかし、間に合わなかった。


「何だよ。もう行っちまうのか?顔洗って、出直して来い!」


 詩絵は人一人通れるかという細い道に、座り込んだ。

「……会いたいよ…珂翠…会いたい。」



 亜理紗はそこに居た。

 毎晩、野口にいたぶられても、亜理紗は笑顔を崩さずにそこに居た。

 そして、毎晩同じ言葉を繰り返す。

「珂翠お兄ちゃんには、貴方を負かす力なんてないよ。だから、このまま行けば、貴方が一番偉い人になれるよ。直接手を出す必要なんて、無いよ。みんな貴方を信じているもの。亜理紗だって!だから、お兄ちゃんに愛想尽かして、こっちに来たんじゃない。」

 嘘で固めた言葉に、嘘で作った笑顔を沿えて、亜理紗は野口の側に寄り添った。

 皆を裏切る結果になっても、野口が直接珂翠を攻撃する事は避けたかった。自分に出来る事は、野口を引き止める事。野口に嫌われないよう、嘘で塗り固めておく事。


 霧月はよく夢を見た。

 移り変わる月が好きだと言っていた母親の夢を、毎晩の様に見ていた。

「この世界に、本当に救いがあると思う?」

「そんなもの、皆無よ。」

 笑顔で否定的な言葉を紡ぐ母親に、幼い霧月が問う。

『お母さんは、神様が嫌いなの?』

 母親は優しい笑みを浮かべたまま、霧月を見下ろして答える。

「ええ、大っ嫌いよ。」

『じゃあ、誰が好きなの?』

 母親の顔が影になって見えなくなる。

「アルバーディス様よ。」

『アル……バァ…ディス…?』


 霧月は勢いよく上体を起こした。息は荒く、額には汗の粒が浮かんでいた。

「また…何故か、凄く嫌な夢を見てしまった様な…夢?」


 瞳の世界は白いままだった。

 時々現れる赤い太陽も赤い月も、何も写さない。ただ地上は、真っ赤に燃やされていくだけだった。そこで、泣き叫ぶ声が聞える。怒りに身を任せ、手を真っ赤に染め、犯した罪をその身を滲ませて行く最中に少女が立っている。

 瞳は手を伸ばそうとするが、届かない。声をかけようとするが、聞えない。

『どうして私には何も出来ないのに、こんなモノを見せられるの?

私には、何も出来ないのに…。』

 身体が揺れている。誰かに揺らされている。声が聞える。

「…とみ?瞳!」

 それは聖の声だった。

「大丈夫か?うなされていたぞ。」

「…ええ…。」

「瞳…水飲むか?」

「いいえ…。」

「そうか。」

「珂翠さんは、今…何処に…。」

「珂翠とは、連絡がつかないんだ。ごめん。」

「そうですか…会いたい…わ。」

「え?」

「何故か、凄く…彼に、会いたい。」

『そして聞いて欲しい。神様は一体、私に何をさせようとしているのかを。彼になら、その答えが解るような気がするから。』


 聖は自分の無力さに絶望する。

 珂翠なら、その笑顔一つで解決してしまった事が、自分には出来ない。自分には、何が出来るのか、歯がゆい気持ちに溺れそうだった。

 結局自分は、珂翠の世話役でしかない。

 珂翠にはなれない。あの貴族生まれの輝きは、求めちゃいけない。そんな思いが芽生え、それを掻き消すかのように、頭を振る。

『俺は。何を考えてる!』

 心が病んでいく。弱っていく。脆く崩れ落ちそうになる。



 珂翠が姿を消して4カ月。亜理紗が姿を消して2ヶ月が経った。

 畑に実った小さな実は、大きくなる前に誰かにもぎ取られてしまう。

 今日は、3日に一回の珂翠からの食料補給の日だった。しかし、食料はいつもの場所に置かれていなかった。

 絶望が、少女達を襲う。

 街に転がる死体の数が増える度に、畑になった実がもぎ取られる度に、耕した土地が荒らされる度に、心が萎えて行く。

その極め付けが、珂翠からの補給の停止だった。


 誰も、何も言わないが、心の中では分かっている。

『何か、問題が起こったのかもしれない』と。

『珂翠は、自分達を見捨てたりしない』と。

 しかし、時間は明らかに人の魂を蝕んでいく。


 どんなに心を強く持とうと努力しても、自分がどれだけ弱い生き物なのか知る時が来る。

その時、何を選択するのか。それが人間に与えられた、自由なのだ。


とても厳しい、自由なのだ。



アリア予言の書 109章2節

『選択の時は万人に平等に訪れる。

 失わずに、与えられる幸福は、長くは続かない。


 さぁ選びなさい。

 どの道を進むか。』




第5章 塔―THE TOWER―

 


瞳の世話をしながら由美は、長屋から地下室に持ち込んだ私物の整理をして居た。

そこには、珂翠が幼い頃の思い出が詰まっていた。珂翠が使用人に撮らせた一枚の写真。そこには幼い頃の珂翠と聖、それに由美が映っていた。二人はやんちゃそうに笑い、由美はその二人を愛おしそうに抱き締めていた。

 由美は、その写真を握り締めたまま、動けずに居た。

「由美さん…。由美さん?」

 遠くの方で、か細い瞳の声がする。

由美はその写真を持ったまま、瞳の元へと駆けつけた。

「どうかした?」

「おトイレに…。」

 瞳は恥かしそうにそう言った。

 由美は優しく微笑んだ。

「恥かしがらなくても良いのよ。」

 トイレの始末をする為に、由美は瞳の枕元に写真を置いた。

 始末を終え、由美が戻ってくると、その写真を瞳が眺めていた。

「見えるの?」

 由美が驚きながら瞳に近付くと、瞳は首を横に振って見せた。

「いいえ、でも、温かさは感じます。これは、何の写真ですか?」

「これはね、珂翠坊ちゃんが小さい頃、聖と三人で撮った写真なの。珂翠坊ちゃんが私にも焼き増しして下さったの。今持っているのは、これだけ。」

「大切な写真なのですね。」

「ええ。」

「…不安…?違うわ、戸惑い?」

 瞳が目を細めて口走る。

「え?」

 由美は、驚きながら瞳を見つめた。

「恐れ、かもしれない。」

「何?どうしたの?瞳ちゃん。」

「由美さんの、心の中にあるものです。」

「何を…。」

 由美が苦笑いを浮かべながら写真を受け取ると、瞳は由美の手を握り締めた。

「珂翠さんの事を、誰も疑ったりしていませんよ。」

 由美は、写真を握り締める事しか出来ずに居た。

『誰も疑っていない。誰も…。』

 そんな事は解って居た。少女達と聖の心に淀みはない。

でも自分だけが、違う。


 そんな気がしてならなかった。


 由美は珂翠の父親を本気で愛していた。相手がお客で在ろうと、結局は妻の元に帰ろうと、それでも自分の身分を考えれば幸せな事だと思っていた。

 しかし、愛する人の子供を育てる、乳母の役を仰せつかって、城に招き入れられ、彼への気持ちが贅沢になっていく自分に気付き始めた。生んだ子供を沼に沈めた自分には、幸せになる権利は無いと思いながらも、彼への想いを募らせた。

 彼と繋がっていられる唯一の存在が珂翠だから、乳母として以上に愛せたのかもしれない。例え彼が、自分の事を息子の乳母としてしか見てくれなくても、彼の血を告いだ珂翠が自分の乳を飲んで育ち、自分にだけ見せてくれるあの可愛らしい笑顔が有るのなら、それだけで充分だと思っていた。

しかし、その思いは、たった一度の過ちで崩れていく。

乳母という立場でありながら、旦那様との関係を続けた事。そして、それが、その妻にばれてしまった事。それが、追放の本当の理由だった。それを隠して、まるで珂翠だけを信じて居たような振りをしてしまった。

『珂翠坊ちゃんを信じている。信じているのは確か。でも…。』

 乳母として追放され、側近の者達から嫌がらせを受けても、由美が長屋に残ったのは、彼への想いが断ち切れなかったからなのだ。それが一番の理由だという認識がある。


『だから、私は、こんなにも、恐れている。戸惑っている。珂翠坊ちゃんを、疑ってしまっている。それが…怖い。』


「迷いが晴れない時は、唄を歌えばいいと思うのです。歌いませんか?由美さんも。」

 瞳が、由美の手を軽く引っ張った。


「白い雲が空を滑って 緑の草が騒ぎだした。

…昔、歌いませんでした?この唄。私、大好きでした。一緒に歌いませんか?」


「河の水が太陽を眺め 黒い土が支えてくれた。桃色の花弁が風に流され飛んでいく。

 明日は何処に居るのかな。

 明日は何が起こるかな。

 明日は誰にもわからない。

 明日もきっと晴れるから。

 明日のカタチを描いて進もう。

 明日のカタチを夢見て眠ろう。」


 由美は両目から滝のように涙を流していた。

 純白過ぎる少女が、余りにも眩しすぎて、自分は泣く事しか出来なかった。


 そんなに綺麗な感情だけで、人間は生きていけない。

そんな優しさだけで、お腹は膨らまない。

 それでも、その綺麗ごとにすがりつきたくて、その綺麗ごとを信じている振りをしていたくて、由美は居場所を探していた。

「ああ、なんて、沁み入ってくる唄なんでしょうね。」

「え?」

「沢山の子供を沈めて、自分だけで生き残ってきました。幸せになりたくて、珂翠坊ちゃんを騙して…それでもあの方を求めたら、本気じゃなかったと言われて…。信じたくなくて、珂翠坊ちゃんを逃げ場にした。大人って本当に汚いわね。」

「由美さん。どうして…。」

「瞳ちゃんには、嘘は付けないのね。貴女の目には、きっと神様が宿っているのよ。そうでしょ。その見えない目には、見えているのでしょ?本当はね、珂翠坊ちゃんを信じて残っていたのではないの。仮初めの幻に酔いしれて、犯してきた罪を消してしまおうとして居ただけ。でも、私はもう、此処には居られないわ。」

「どうして、ですか?」

「珂翠坊ちゃんを信じる者だけが、救われる世界に、私は残れない。」

「違います!違いますよ?」

「辛いのよ!生きて居る事が、辛くて…惨めなの。珂翠坊ちゃんが工面してくれる食べ物を口にするのが、辛いの。でも、貴女達は、生きるべきよ。だから、今度は私があの子達の元へ行こうと思う。」


 瞳の目には真っ赤な月が見えていた。

 真っ赤な血で染まった底なし沼に、足を踏み入れる由美の姿が見えていた。

 その奥に、今にも倒れそうな珂翠の城が見える。

 崩れていく。少しずつ、少しずつ、確実に倒れていく。


 由美の手に握られている写真に写る珂翠と聖は、それでも無邪気な笑顔を見せてくれた。そこに映っている由美も、とても幸せそうに笑っていた。この写真が嘘だとは思わない。思わないけれど、またこんな風に笑う事は出来ない。


「私は…貴女達ほど、珂翠坊ちゃんの事を信じられていないの…。」


 由美は瞳にそう告げると、写真を瞳の横に置いて、自分の子供達の肩変え人形を抱えて外に出て行った。

 信じていない訳では無い。由美なりに、深く信じていた。でも、これ以上に信じられなくなる自分が怖かった。いつか、珂翠を疑ってしまいそうな自分が嫌だった。純粋に珂翠だけを見られない自分が、怖かった。


 ナニカニ、ツブサレテシマイソウナ、キョウフカンヲ、カンジテナラナカッタ。


 だから。


 由美は、自らの命をこの沼に捧げる事にした。

 沢山の子供達が眠る、子供を捨てる度に薄汚れて、飲む事は愚か、僅かな生命さえも息づかなくなった死んだ沼に、自ら足を踏み入れた。


『これで、この恐怖から逃れられる。やっと、終わりに出来る。そして、子供達への償いができ…る…。』



 瞳には解って居た。

 瞳の見えない目には、その光景が映っていた。

 由美は姿を晦ましたまま、帰って来なかった。5体の肩代え人形と共に。

 しかし、瞳は皆に由美が自ら命を絶った事を伝えられなかった。ただ、己の胸に仕舞って、由美が帰って来ない事実だけを伝えた。


 しかし、一度抜けてしまった穴は、二度と埋まらない。

 積み上げた積み木のお城は、一つの積み木を抜くだけで簡単に崩れてしまう。

 二度と戻らない。


 由美が姿を晦ました事実を知った眞留美は、探しに行こうと申し出たが、聖と霧月が引き留めた。今、外は毎日の様にデモや暴動が起こり、畑に行くだけでも危険な日々が続いていた。その事を考えると、夜に外に出て人を探すのは、とても危険だった。

「じゃあ、由美さんを放っておくの?!それでも、仲間かよ!」

 眞留美は怒りを露にした。亜理紗が姿を消し、珂翠からの食料補給は断たれ、今度は由美である。心が不安定になっていくのは、当たり前だった。

「こういう時ほど、落ち着いた行動をするべきだって、俺は言ってるんだよ!君は激情的に動き過ぎる。瞳の家の襲撃を受けた時だって、勝手に飛び出してきただろう!

君ももっと冷静になるべきだ!」

 聖が強く言い返す。

 聖にとっても、由美は母親とも言える存在だった。

珂翠と共によく叱られた。由美だけは、自分と珂翠を差別せずに叱ってくれる人だった。由美がどういうつもりだったにしろ、聖には大切な人で在る事には代わりがなかった。

 それでも、今は由美の無事を祈る事しか出来ないと考えた。少女達を、これ以上危険な目に合わすわけには行かない。それが、グループを任された一人の男としての聖の決断だった。

「何よ!偉そうに…。落ち着いて考えて、誰かを助けられた?誰を助けられるのよ!」

 眞留美の怒りは、収まらなかった。

「眞留美さん!」

 霧月が仲介に入る。

「解ってるよ!外が危険なのは承知してるよ!でもさぁ、こうやって地下に潜って、隠れて、どうなるのよ!

珂翠からの支給を待って、畑を耕して、でも何度も何度も荒されてさ…。それで、どういう一歩が進めるって言うのよ!挙句、仲間は見捨てるの?」

「じゃあ、君は、一人で外に出て、外の連中に襲われたいのかよ?」

 売り言葉に買い言葉の連鎖は止められない。

 眞留美と聖は、互いに譲れない、幼さが露呈してくようだった。

「襲われたって、仲間を探すべきでしょ?」

「襲われたら、救えるものも救えない。反対に、他のメンバーに迷惑だとは考えないのか?

そんな事も解らないのか!」

「もう、二人とも止めなさい!」

 霧月が、大声を出して二人の間に割って入った。

「少し、頭を冷やして下さい。」

 聖と眞留美は視線をぶつけ合いながら距離を取り、結局は眞留美が部屋を出て行った。


「……っくっそ。」

 聖は悔しそうに蹲った。

 霧月が、そっと肩に手を添える。

「眞留美さんは、亜理紗さんの事で気が立っているのですよ。」

 聖は何も答えなかった。

「どうされたのですか?聖さんらしくもないですね。何か、ご存知なのですか?」

 聖はピクリと肩を強張らせ、泣きそうな顔で霧月を見上げた。

「前に…言っていた。自分が姿を晦ましたら、探さないでくれって。その時は、冗談だと思って、笑い飛ばしたけど…珂翠の食料が置いてなかった日に、約束を守って欲しいって…言っていた。だから…。」

 聖は顔を真っ赤にして、必死に堪えていた。

 霧月は跪いて、聖の顔を覗きこんだ。

「男性だって、泣いても良いのですよ。お辛い時は、辛いと言っても良いのですよ。」

「…いや。駄目だよ。由美さんが、男は人前でなくもんじゃないって言ってたから、俺は泣かない。泣く所を人に見せない…。」

「解りました。私は、瞳さんの様子を見に行ってきますね。」

 霧月は近くで様子を伺っていた詩絵の手を取り、部屋を出て行った。二人が出て行くと、聖はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら泣いた。


『食糧難になったら、仕方が無い。口減らし。その対象は、子供じゃなくても良いのにね。』


 そう言って由美は笑っていた。

 聖は、笑う事じゃないと、強く反論したが、由美は何も答えてくれなかった。

「…それだけが、それだけが…理由じゃ…ないだろ!!くっそ!!」

 聖は固く握った拳を床のタイルを殴りつけた。

その鈍い音だけが、虚しく響くだけだった。



 眞留美は珂翠と聖が亜理紗を見つけた、ガラクタの洞窟で一人座り込んでいた。

 今でも耳を澄ませば、あの音痴な亜理紗の声が聞えてきそうだった。

 無力な自分が憎かった。何も出来ない自分が鬱陶しく思えた。だから、その思いを聖にぶつけてしまった。それがまた、情けなさを倍増させた。

 靴音が眞留美に、近付いてくる。姿を現したのは、霧月だった。

 霧月は黙ったまま、ただ眞留美の側に腰を下ろした。

 眞留美は、きつく握った拳を眺めたまま、口を開いた。


「ねぇ、霧月ちゃん。本当に神様って…居ると思う?」


 霧月は黙ったまま、眞留美を見つめていた。


「本当に居るなら…やっぱり、亜理紗が神様を信じなかったから、こんな事になったのかな。由美さんが、口減らししたから…。」

「眞留美さん。」

「解ってる!こんな事言っちゃいけない事も解ってる。でも、でも…さぁ、余りにも、余りにも不平等じゃない!こんなの…余りにも…余りにも…さぁ…。」

「平等じゃない事なんて、沢山在ります。」

 霧月は眞留美の肩に手を回した。

「平等じゃない事を憎んだって、仕方が無いのです。今、自分に出来る最善を行う事こそが、望まれているのですよ。」

「出来ない…私は、この状況を…ただ受け入れて、荒されるだけの畑を耕すなんて…もう出来ない!」

「出来ますよ。私達なら、きっと。珂翠さんも、信じて任せて下さったのですから。」

 霧月にも迷いがなかった訳ではない。神を心から信じる事が出来た訳でもない。ただ、二人は珂翠を信じる事ができただけなのだ。


 しかし、運命は無情なまでに、荒れ狂う波の様であった。


 珂翠からの食料は十日経っても置かれる事は無かった。というよりは、城の壁が崩されたのだ。詩絵は珂翠を心配して、城の近くまで行ったが、城の周りには暴徒と化した連中がたむろしていて、近付ける状況ではなくなって居たのだ。


 眞留美と聖は、口論をした後から言葉を交わさなくなっていた。二人の溝を埋める様に、霧月と詩絵には気を使わせてしまっている自覚はある。でも、畑を耕すにも、眞留美よりは聖の男手が必要だし、瞳の側に居たそうな聖に遠慮するし、一人になりたくなった眞留美は、久々に自分の妹を沈めた沼へと足を運んだ。

どうしてそんな行動に出たのか、自分でもよく解らなかった。

何と無く行かなければならないような、不思議な感覚で身体が勝手に動いた。

「相変わらず、ここには人影も無いのね。」

 眞留美は呟いた。そこは死の場所。死に掛けた村人達でさえ、口減らしの為にしか近付かないような場所だった。

 どす黒い沼に、何かが数体浮いている。それを見た眞留美は、身を乗り出した。

「あれ…あれは?」

 見覚えのある肩代え人形だった。

由美が必死に隠そうとした肩代え人形だった。

 眞留美は咄嗟に口を押さえ、その場にしゃがみこんだ。


「ど……ぉしてぇ……。」


『お姉ちゃん!眞留美お姉ちゃん~。』


 どす黒い沼に、亜理紗の顔が映る。

 あの天然パーマをクルクル跳ねさせて、スキップしてくる姿が見える。


『口減らしって、何?』


 亜理紗の友達が居なくなってしまった話を聞いた時、つい口を滑らせてしまった言葉。

亜理紗にしつこくせがまれ、教えてしまった。口減らしと肩代え人形の意味を。


『へぇ~そうだったのか。』


 あっさりと笑顔で返すから、見落としてしまいそうだった、あの哀しい微笑みを眞留美は思い出す。


「亜理紗ぁ、戻ってきてぇ…。」

 眞留美が呟く。

「もう、一度…お姉ちゃんって…呼んで。」

 眞留美は沼に手を伸ばす。

 沼には、亜理紗の笑顔が歪んで見えた。亜理紗の首元に伸びていく、汚い男の手。

「止めて!もう虐めないで上げて!もう…。」

 眞留美の耳元で、何かが囁く。

―本当の妹も助けられないのに、何故、亜理紗を助けられると思ったの?―

「え?だって…。」

―本当は、自分さえ良ければ良いんでしょ。その方が、楽でしょ。そういう振りをして居たいだけなんでしょ。―

「違う!違うんだから!」

―じゃあ、見せてよ。助けてみなよ。―


タスケテミナヨ。ソノテデ。


 沼の水面には、橋の上で男共と揉み合う亜理紗の姿が映る。

 一人の男が亜理紗の首を締め付け、ほっぽり投げた。亜理紗は笑顔を少し歪めただけで、男へとすがり付いていく。その惨めな姿が、眞留美の肩を押す。

 『立て。立ち上がれ!』と。

 眞留美は、勢いよく走り出す。周りの事なんて気にならなかった。反貴族を掲げる人間とすれ違おうと、肩がぶつかり因縁をつけられようと構わずに走り抜けて行った。


 タダ、モウ、ニドト、イモウトヲ、ウシナイタクナイ。


 橋に近付いていく程に人が多くなっていた。

 人々は、大声を張り上げ何かを言っている。どこにこんな沢山の人間が隠れていたのか、壊れかけた橋の上は人々でごった返していた。

 亜理紗はこの中心に居るはずだ。

あの橋は、もう少し先に有るのだ。亜理紗がいつも客を取っていた、亜理紗はそこにいる。漠然とその事だけが頭に浮かぶ。

 人々は、それぞれ手に何かを握り締めて集っていた。

 ある者は、寂れて使えなそうな鎌を。ある者はただの棒切れを。それぞれに振り上げて、何か喚き散らしていた。その尋常でない雰囲気に飲まれそうになりながらも、眞留美は人込みを掻き分けて、進んでいく。


「いいかぁ皆の者!これからは、俺達の時代だ!」

「おおおおおおおおおおおおおお!」


 眞留美は、より声が大きく聞える場所まで辿り着いた。そこには、あの野口という男が晴れ晴れとした顔をして、村人達を煽っていた。


 そして、そこに居た。

「ねぇ、どうして…?亜理紗との約束は?」

 亜理紗は煤けたメイド服のまま、野口に擦り寄っていた。

「こんな…。」

 バチン!!

 亜理紗の頬を野口が強く殴りつけた。

「女の分際で。無駄口を叩くな。」

「無駄口…じゃないよ…。亜理紗は、野口さんの事を思って…。」

「それはどうかな?

俺を騙せると思って居るのか?あの坊主に、何か吹き込まれてきたのか?ええ?無駄だよ。俺は欲しいモノは必ず手に入れる主義なんだ。食料も、民衆の支持も、お前もだ!」

 そう言い切ると、野口は亜理紗の首を掴み引き寄せた。

 亜理紗は苦しそうに咳き込むが、野口は構わずに亜理紗を人形の様に振り回しながら、民衆を煽り始めた。

 眞留美は近くに居た男が持って居た、さび付いたシャベルを勢いよく奪い取り、野口に向かって襲い掛かった。


「お前!亜理紗を放せ!!」


「さぁ、みんな行け!!」

「おおおおおおおおおおおおおお!!」


 野口の声と、群集の声に紛れて眞留美の声は掻き消された。しかし、錆びたシャベルは群集の波に押され、野口の喉元に刺さった。


 ブシュ!!


 嫌な感覚が手に伝わってきて、眞留美はシャベルを放すと、シャベルごと野口がその場に倒れこんだ。

 しかし、周りは既に野口の存在など忘れたかのように、動き始めている。起爆剤が何で在ろうが、それが発動してしまえば、起爆剤本人の事などどうでもいいかのようだった。

そこに、取り残されたのは、野口の首から吹き出した血を顔面に浴びて、真っ赤に染まった眞留美と、同じく頭から血のシャワーを浴びた亜理紗だけだった。


「…え…わたし…。」


 眞留美が呆然としていると、亜理紗が眞留美の手をとり、群集の波へと混じっていった。

そして、途中の裏道に入り、安全な地下道まで眞留美を引き摺るように歩いていった。

眞留美は放心状態のままだった。亜理紗が歩みを止めると、眞留美も足を止めた。

亜理紗が恐々と眞留美の表情を伺い目が合うと、どちらからともなくガバッと抱きついた。二人とも、野口の血を浴びてベトベトだった。それでも、互いの温もりを愛しむように抱き合った。

「……めん…ね…おねぇ、ちゃん…。」

 亜理紗の囁き声で我に返ると、眞留美は亜理紗の顔に掛かったままの野口の血を、自分の服の袖でふき取ってやった。

「あたし…人、殺しちゃった…。」

 眞留美は、目に涙を溜めていた。

「ううん。亜理紗がやったんだよ。これは、亜理紗がやったの!

お姉ちゃんじゃないよ。亜理紗がやったの。

それでも、止められなかった…から。お兄ちゃんを助けられなかった亜理紗が…悪いの。」

「ヤダ!!もう、止めて!!」

 眞留美が亜理紗をきつく抱き締める。

亜理紗の細い身体を、折ってしまいそうなくらいの力を込める。

「お姉ちゃんが、お姉ちゃんが、殺したんだ!

亜理紗を助けたかったから、お姉ちゃんが、やったの!

亜理紗は悪くない。亜理紗は何も、悪くない!これ以上、亜理紗が背負う事ない。お姉ちゃんが、やったの!

神様が…導いてくれたの!亜理紗が危険だって、神様が…ね。

だから、きっとそうなんだ…きっと…。」


 眞留美はまるで自分に言い聞かせるように、繰り返した。


『あの声は、神様の声。綺麗なステンドグラスに描かれた、天使達の声。』


 もし、そうじゃなかったら…?


「お姉ちゃん…。珂翠お兄ちゃんがね、危ないんだよ!急がないと…!」


 亜理紗がポツリと漏らすが、その声が眞留美には届かなかった。



 珂翠の城は、暴徒たちによって崩されそうになって居た。

 中には火の矢を作って、城に向けて打ち込み始めていた。


 いつもの様に、珂翠の城の状況を見に出た詩絵は、事態の悪化に驚き、目の前を通り過ぎていく村人達を説得しようと一人一人を引き止めて声をかけたが、彼らの目に詩絵が映る事は無かった。


「聞いて下さい!彼は、あなた達が思って居るような人では無いんです!!」

「煩いどけ!!」


 力いっぱい殴られ、蹴られ、それでも詩絵は立ち上がり、同じ事を繰り返した。


「聞いて!

本当に皆で力を合わせれば、畑が出来るんです。もう一度この土地を生き返らせる事が出来るんです。それを、彼は…珂翠は…やろうとしてるんです。

お願いです!聞いて!」


 それでも誰一人として、耳を貸そうとはしなかった。

それどころか、中には、そんな詩絵を棒で殴りつける輩まで居た。


「お願い!止めて!

珂翠…珂翠!!!!」



 その時霧月は畑に居た。

 いつもなら、そろそろ詩絵も畑に戻ってくる頃だった。胸がざわついた。

「あら?」

 霧月は、石を植えた所から伸びている蔓が、少し枯れ始めていた。

「枯れてしまうのかしら、この蔓も…。」

 霧月は枯れかけた葉を見つめながら、昔の事を思い出していた。


―枯れた葉はむしって、土に還すのよ。―

 母がそう、枯れ始めた蔓を切っていた。

 幼い霧月は、その蔓が生き生きとしているのに、何故母はその蔓を切るのか不思議でならなかった。

「土に…還る。でも、この子達は、まだ生き生きしているのに?」


―そうよ。それが、神が望む世界なのよ。

酷い世界よね…。でも、アルバーディス様なら、この枯れた葉を生き返らせてくださる。―


「生き返る…の?

あの時の蔓に、この蔓は似ているような。」


「霧月ちゃん!大変だ。

城が、城が暴徒に襲われている!!」


 霧月は聖の声で我に返り、聖と共に城へと向かった。

 二人に何が出来るのかは解らない。それでも、向かわずには居られなかった。



 小高い丘の上では残酷で、卑劣な、人間達の過ちが、始まっていた。



「見つけたぞ!」

 詩絵は両膝を付き、力尽きていた。しかし、人々の声で力なく顔を向けた。

「奴らだ!貴族が地下に隠れて居やがった!連れ出せ!」


「……やめて…お願い…。」


 詩絵は小さな声で呟く。


「引き摺りだせ!」



「止めて!!!!」


 炎が城に纏わり付き、少しずつではあるが確実に、城が崩れていく。その中央から、人々の群れがこちらに押し寄せてくる。

「引きずり出せ!!」

 詩絵は、視線を巡らせる。

どす黒い民衆の中に、明らかにそれと解る、上質な布を身に纏った女の姿が見えた。

「珂翠…珂翠は?」

 詩絵が、よろよろになった足腰に鞭打って、その大群に近付いていくと、上質な布で出来た服を着た女が発狂していた。

「息子だけは…息子だけは助けて!お願い、許して!」

 詩絵の目には、その髪を振り乱して声を嗄らす母親の姿が焼きついた。

「珂翠の…お母さん…。」

 民衆は構わずに、珂翠の母親を担ぎ上げる。

 誰がどう考えたのか、崩れ落ちた門の残骸から、太い木の棒を持ち出して、死に絶えた地に打ちつけ始める。

「側近の奴らも同罪だ!出来るだけ多く木を持って来い!」

 耳障りな声が、詩絵の耳朶を掠めていく。

 唇がわなないて、視線が定まらない。このどす黒い感情の塊の中に、珂翠が飲まれているのかもしれない。

「せーの!よいっしょ!」

 民衆は、今まで見せたこと無い団結力を見せ付けてくれる。太い木が一本、また一本と、小高い丘に突き刺さる。


 そして……。


「いや――!」

 甲高い悲痛な叫び声が、群衆達の声を掻き消す様に、響きわたった。


 丘の上に突き刺さった大木に、張り付けにされたのは、珂翠の母親と思しき女性だった。

彼女は両の手を頭の上に重ねさせられ、手首を何か古びた鉄杭で打ちつけられた。

 女性は、さっきよりも増して狂叫した。


 詩絵は思わず、両手を口に当てた。

 その余りにもおぞましい光景が、まだ若い詩絵には狂っているようにしか映らなかった。

『何故、どうして、こんな惨い事が、出来るのか…?』

 詩絵の感情を無視するかの様に、人々は歓喜に沸いていた。

 今まで自分達を苦しめ、救おうともしなかった貴族の無様な末路を、人々は嘲笑った。

 杭に打ち付けられ、激しい痛みに悶え苦しむ女性を見て、笑っている人々。

 詩絵は、周りを何度も見回した。そこにいる人の形をしたモノ達が、大きな口を開け、黄色い歯を見せびらかし、狂う様を見つめていた。


『…此処に、人間は……居ない…!』


 現実は、止まらない。

 まるでコマ送りをしている様に、次々に人が運び出され、杭で打ちつけられて行く。その度に悲鳴が大きくなっていく。

「痛い」「止めてくれ」「許してくれ」「俺は、関係ない」「息子の居場所を教えるから、俺だけは、見逃してくれ!」

 詩絵はその最後の言葉を聴いて、我に返った。


「息子の?…の、居場所?」


 詩絵は最後の力を振り絞って、前に進んでいく。

 沢山の人間の塊が、その行く手を阻む。しかし、詩絵は無我夢中だった。

『珂翠!珂翠!珂翠!!』

 心の中で、何度も同じ言葉を紡ぎ出す。

 小さな声で、何度も同じ名前を連呼した。


「世継ぎは…第二倉庫の地下に隠れている!だから、俺だけは助けてくれ!!」


 初老の男は涙と鼻水を垂れ流しながら、何度もそう言っては頭を下げた。

 しかし、村人達は、その初老の男を担ぎ上げ、両腕を無理矢理頭の上に上げさせ、杭を打ちつけた。

「うわわわわわ!!」

 誰よりも、大きな声で騒ぎ立てる初老の男に、人々は自分が持っていた錆びた鎌や、シャベルや唯の棒を、身体中に突き刺した。そして、初老は絶命した。

 しかし、その光景は詩絵以外の者の目には留まる事は無かった。

 木に打ち付けられ、かろうじて息をしている状態の者達はそれぞれの苦しみに、悶えていたまま、既に農民達は次の獲物へと関心を移していたからだ。


 詩絵は唯一人、取り残されたままだった。

 まるで、地獄の様なその光景を受け入れる事等、到底出来るとは思えなかった。


 詩絵は壮絶なる痛みに苦しみ、泣き叫ぶ女性の声で我に返った。

「珂翠だけは…カ…スイ…だけは、見逃して…お…ねがい…。」

 詩絵は、その女性が吊るされている柱の元に行き、全身をかけて柱を倒そうと試みた。

「今…助けますから!」

 何も考えずに、ただ、身体が動いた。

 しかし、女性は詩絵の行動が目に入っていないかのように、苦しみの嗚咽を吐きながら、うわ言をくり返しているだけだった。


「貴様、何してる!」


 詩絵が後ろを振り向く前に、木片で頭を殴られ、詩絵はその場に崩れ落ちた。

「こいつらは、俺達の敵だ!余計な事をすると、お前も吊るしてやるぞ!」

 男の声は、詩絵の頭上から勢いよく降って来た。

 しかし、詩絵は、重い身体を引きずりながら立ち上がると、何も言わずに、また柱に体重をかけその柱を倒そうとした。

「この野郎!」

 男はまた、力の限り木片で詩絵を殴りつけた。何度も、何度も、詩絵が立ち上がれなくなるまで、殴り続けた。

 その時だった。

 今まで以上の歓喜の声が、その男の腕を止めた。


「世継ぎの息子が見つかったぞ!父親の遺体も見つけた!」

「うおおおおおおおおおおおお!!」

「ちっ。世継ぎを残して、親は自害してやがったのかよ。」


「そのガキも吊るせ!!」


「貴族の奴らは、全員血祭りに上げろ!」


「俺達の苦しみを、解らせてやれ!!」


 矢継ぎ早に聞えてくる群集の憎しみが、詩絵の心に突き刺さる。

「やめて…お願い!その人だけは、殺さないで…。」

 両目から、洪水の様に涙が流れて、視界がはっきりとしない。挙句の果てに、殴られ続けた詩絵には、もう立ち上がる余力さえ残されていなかった。


「お願い!止めて!!」


 ただ、腕を伸ばして、一ミリでも珂翠の近くに行きたい。そう思う事しか出来なかった。

「彼だけは、殺さないで!」



 霧月と聖が城に辿り着いた時。

 眞留美と亜理紗が城に辿り着いた時。


 城は真っ赤に燃え上がり、暴徒達は歓喜の声と、食料の争奪戦に湧き上がっていた。

 燃え盛る城の近くには、身体中に怪我を負った詩絵が泣き崩れ、その近くには何本かの柱が打ち付けられ、人間が張り付けにされていた。



 ソレハ、ニドトモドレナイ、ゼツボウノ、ハジマリ。



 吊るし上げられた人々には、沢山の農具が痛ましく刺さっていて、その誰もが絶命している事は確実であった。

 燃え盛る炎と無残な遺体の前で、少女達は立ち尽くすしかなかった。



「赤く染まる。月が赤く染まっていく…。見えない、見えなくなる…。」

 瞳の目に映っていた白い光が、赤に染まり、目が零れ落ちてしまいそうな痛みを感じる。

「あああ!痛い、目が痛い…一体何が?」

 赤と黒が交わる。白い世界は姿を失う。

 黒く濁っていく赤が、頭の中を駆け回っていく。


 白い世界の終わり。

黒い世界の始まり。

赤い世界の混沌。


「きゃああああああああ!!」


 瞳は体を強張らせて叫んだ。

 体中が軋んで、頭が割れそうに痛んだ。


―怖がる事は無い。君は、今まで充分頑張って来た。もう、苦しむ事はない。―


 暗闇に赤い染みが浮かび、その染みが人の口の様に動いて声を掛けて来る。


―痛み、苦しみ、孤独、恐怖、そして、憎しみ…。君が抱いてきたモノ達だ。―


『違う……私は…。』


―自分に嘘をついて、苦しむ事は無い。皆を羨ましいと思ってきただろう。見下され、同情される日々を、我慢してきただろう。誰とも共有できない苦しみを味わってきただろう。私の手を取りなさい。そうすれば、その全てから救ってやれる。―


『…私は……。』


―ゼツボウのハジマリは、キボウのカケハシとなる。ワタシのテをトリナサイ!―


 目の前が真っ暗になる。

今まで見ていた白い世界が、暗闇だけの世界となった。

 何も、見えない。見る事が出来ない。今まで以上に身体の重さを感じた。

 誰も、戻って来ない地下室に独り、身体を横たえたまま、瞳は真っ暗闇の世界を見続けた。

『由美さんが言っていた。「珂翠坊ちゃんを信じる者だけが、救われる世界に私は残れ無い。」と。「生きて居る事が、辛くて…惨めなの。珂翠坊ちゃんが工面してくれる食べ物を口にするのが、辛いの。」私だって、辛い。こんな状態で生き続ける事が辛くて、それでも…まだ、死ねない。』


「私は、貴女の様に、自ら死ぬ事さえ、選べない…。この動かない身体では、それさえ選べない…。」


 誰も居ない地下には、瞳の悲痛な叫び声が響いているだけだった。


「…誰か、誰か…聞いて。私は、私は…、神の目を持っている訳でも、何もかもを受け入れられる優しい人間でも無い。私だって、私だって…。」


―ソウ。辛い。悔しい。惨め。憎い。嫉妬したことだって、あるはずだ。―


「…でも、彼は……解ってくれていたの。珂翠さんは…。きっと…。」


―アイツはもう居ない。枯れた葉は、土に還される世界だ。解るだろ?彼は、もう二度と戻って来ない。―


 瞳は頬を伝う温かい涙を拭う事なく、ただ静かに涙を流し続けた。目は熱くなる一方で、目だけをまるで焼かれている様で、痛かった。


「ああ…神様……。」

―私のテを取るがいい。―


「どうして、私達を、お見捨てに?」


―私のテを取るがいい。―


「見捨てられるのですか!!!」




 城を焼いていく炎が、まるで歓喜に沸く人々の心を投影している様に、踊りを踊っている様だった。

 詩絵は力なく、その場に膝をついた。

 眞留美は亜理紗の手をきつく握り締めたまま、炎を見上げていた。

 亜理紗は、眞留美の肩に顔を埋め、表情は見えなかった。

 聖はその場に崩れ落ち、奥歯を噛締めながら、涙を流していた。

 霧月は、思い出していた。父が教会に火をつけ、全てを焼き尽くそうとしたあの時の事を。


「神様…どうしてですか?何故、彼を…彼をお連れになるのですか?何故、救って…下さらない。嘘です。これは嘘です。」

 霧月はフラフラになった足取りで、炎に近付いていく。

「霧月ちゃん!危ない。これ以上は…!」

 眞留美が霧月の腕を取って、引き止めた。

「放してください!彼は助けられるはず!

彼は救われるべき人なのです!まだ、まだ、あの中で…生きているかもしれない!

あれは、違う。彼では無い…彼は…。」

 眞留美は必死な霧月を引き止める為に、繋いでいた亜理紗の手を放して、霧月を両腕で支えた。

「霧月ちゃん!しっかりして!

あれは…珂翠だよ…あそこに居るのが、珂翠なんだよ!」

 霧月は、髪を振り乱して眞留美の静止を振りきろうとした。

「…どうでもいい!私の命なんて、どうでも良いのです!

私の命よりも、彼の命を…神様!助けて!彼を助けて!!私なんて、私なんて、救わなくても良いから、彼を…。」

 霧月は、眞留美の胸に泣き崩れた。

それを見ていた、亜理紗も手で涙を拭いながら立ち竦んでしまっていた。


 彼等はそのまま、炎が城の全てを焼き尽くすまで、ただ其処から離れられずに居た。


 炎が余りにも強すぎて、その近くに晒された彼等を、降ろしてやる事さえ出来なかった。火が完全に消えるまでには、丸2日掛かった。その間、彼女達は一言も言葉を交わさずに、ただ炎を見続けた。


 そして、絶望していった。


 炎が全てを焼き尽くした後、一番初めに口を開いたのは霧月だった。

「終りましたね。」


「ああ…」


 聖が小さな声で答えた。


「お母様が、言っていました。枯れた葉を土に還すのが神ならば、枯れた葉を蘇らせるのが、アルバーディス様であると。」


 詩絵は膝を抱え、そこに顔を埋めていたが、霧月の方に勢いよく顔を上げた。

「霧月ちゃん!それって…珂翠を…助ける事が出来るって事?」

「この2日間、私は考えておりました。幼い頃から、今までの事を。父は母の事は忘れろと言いました。でも、忘れる事なんて出来なかった。この二日間で、明確に思い出す事ができました。父が母を魔女だと呼んでいた事。母があの綺麗なだけのステンドグラスを嫌っていた事。母が私に奇跡を見せてくれた事。

枯れた蔓を、蘇らせた。まるで魔法みたいに。あれが、母が私に残してくれた…力だったとしたら、私が、火の中から生還できたのも、その力のお陰だったとしたら…。」


 ずっと話を聞いていた、亜理紗が霧月をじっと見つめていた。

「亜理紗さん?」

「本当に、それで良いと思って居る?」

「…え?」

 亜理紗の真面目すぎる表情が、強い口調が余りにも亜理紗らしくなくて、霧月は戸惑った。

「霧月ちゃん。可笑しいよ…?みんなも、本当にそうだと思って居るの?

死んだモノが蘇るなんて、ないよ!ありえないよ!」

 亜理紗がそれぞれの表情をうかがう。詩絵と聖は目を光らせていた。眞留美はまだ迷っている表情をして居たが、霧月の言う事に耳を傾けていた。

「ダメだよ!みんな騙されてるよ!亜理紗は、神様を信じてないけど、、霧月ちゃんが言うそれが、良いモノじゃないのは解る!」

「亜理紗さん。…良いモノじゃなければいけませんか?

彼を助ける為ならば、そんな事、関係無いです!!」

「あるも無いも、無いよ。お兄ちゃんは、死んじゃったんだよ。死んだ人は、もう、戻ってこないよ!」

咄嗟に詩絵が泣きはらした顔を、亜理紗に向けた。

「諦めたくない!そんな簡単に、諦めたくない!私は、私達は諦めない!!」

 亜理紗は顎をガクガク震わせながら、それぞれの元に近寄って行く。

「詩絵ちゃんは、神様を信じているんじゃなかったの?

霧月ちゃんは神様を信じたかったんじゃないの?

お姉ちゃんも信じてるんでしょ?

ねぇ!ひぃちゃんからもみんなに言ってよ!


どうして、神様を裏切る様な事を考えるの?

みんな、オカシイよ!!」


―だから、お前は救われなかった。―


「え?」


―お前は救われなかったじゃないか?―


「なに…?」



「亜理紗?」

 眞留美が亜理紗の異変に気が付き、声をかける。

 亜理紗は、自分にしか聞えていないその声に恐れを感じ、頭をゆっくりと左右に揺らした。


―お前だけは、救われなかった。なのに、何故お前は、神の肩を持つ?―


「亜理紗には…お姉ちゃんと、お兄ちゃんと…仲間が…太郎ちゃんが…。」



「亜理紗?」

 一人で頭を抱えてぶつぶつと何かしゃべりだした亜里沙を見て、眞留美は亜里沙の肩を揺らした。しかし、亜里沙は眞留美に反応せず、何か違うモノと言葉を交わし続けた。


―これからも、お前は、その嘘で固めた人形を演じ続けるつもりなのか?―


「煩い!黙れ!!

嘘じゃない!全部が嘘だった訳じゃない!亜理紗だって…全部が嘘だったわけじゃない!」


 亜里沙は今まで誰にも見せたことのないような形相で、空を睨み付けた。


「亜理紗!!どうしたのよ?」

 両耳に手を当てて、蹲る亜理紗を眞留美が抱え上げる。


―お前は、可哀想な子供だ。嘘で塗り固めた人生を送りすぎて、どれが本当の自分か解らなくなってしまっている。―


「お前!!煩いよ!黙れ、黙れ、黙れ!!」


 頭を左右に振りながら、発狂する亜理紗を眞留美は必死に抑え込んだが、引付の発作を起こしている様な亜理紗の眼光は、眞留美の知っている亜理紗ではなくなっていた。


「亜理紗!!」


―お前を、私が救ってやろう。神ではなく、私が、お前の手を引こう。ー


「いや――!触らないで。亜理紗は、亜理紗で…あたしは…!」


 亜里沙は眞留美の手を自ら引きはがし、何かから逃げ惑うように走り出す。

「亜理紗!何?どうしたの?」


―お前は、私にしか救われない。―


「いやあああああああ―」


 亜理紗は狂った様に泣き喚いた。

 聖も尋常じゃない亜理紗の様子に驚き、眞留美と共に亜理紗を落ち着かせようとした。

「亜理紗ちゃん!」

「亜理紗!!」


「亜理紗だって、本当は…本当は、助けて欲しかった…よ。…でも、お前は、お前になんか助けられたくない!!近付くなぁ!

来ないでよ!!アンタなんか、亜理紗は、大っ嫌いなんだから!」


 亜理紗は擦れた叫び声を上げて、急に意識を失った。

 眞留美は血で固まった髪の毛ごと、亜理紗の頭をかき抱いた。

「助かるよ!きっと、助かるから…亜理紗は、何も悪くないもの。私は、助からなくても…亜理紗だけは、私が助ける。

だから…私は迷わない。迷わずに、あいつを殺してやったんだ。もう、戻れない。私は、もう神様の元には、戻れないのよ。だから、もう良いんだよ?有難う!

優しい、私の亜理紗!!」


 眞留美は気を失った亜理紗を抱き上げて、霧月の方へ振り返った。

「私も、霧月ちゃんが信じるモノを信じる。きっと、その力を借りて、私は亜理紗を助ける事ができたのだから。初めて、亜理紗をこの手で助けられたの。」

「眞留美さん…。」


 聖は、焼け野原になった城の跡と、その前に並ぶ無残な知り合いの遺体達から目を逸らして立ち尽くしていた。

「俺は、瞳の事が気になる。彼女を一人にしてしまった…。」

「ええ、そうね。聖さんと眞留美さんは、地下に戻って、瞳さんと亜理紗さんをお願い致します。私と詩絵さんで、彼等を下ろして差し上げましょう。」

 詩絵は呆然として居たが、霧月の迷いのない表情に、少し戸惑いながらも首を縦に振った。



 聖が気を失った亜理紗を抱き上げ、二人は足早に地下へと向かった。

「瞳?!」

 聖が声をかけながら瞳が寝ている部屋に顔を出すと、なんとそこに寝ているはずの瞳の姿がなかった。

「瞳?!瞳が…居ない!」

 愕然した聖は、瞳が寝ていた場所に亜理紗を下ろした。

「…私、探してくる!」

 眞留美が勢いよく振り返ると、裸足のままで、まるで幽霊のように歩いている瞳の後姿が目に飛び込んで来た。

「瞳ちゃん!」

 眞留美が瞳の元へ駆け出すと、眞留美は瞳の顔を見て驚愕した。

「…眞留美ちゃん?眞留美ちゃんなのね…私ね、真っ暗闇なの…。私の世界が真っ暗になっちゃったの。」

 瞳は硬く瞼を閉じたまま、血の涙を流しながら、両手を前に突き出して、眞留美の腕にすがり付いてきた。

「瞳ちゃん、歩けるの?」

「怖かったの。独りで、真っ暗で、何も見えなくて、喉も渇いて…。」

「瞳ちゃん?」

 眞留美が、瞳の流す血の涙を拭って、瞳の顔を覗きこんだ。

「私、もう、戻れないわ。聞いてしまったの。彼は、珂翠さんは、もう亡くなってしまったのでしょ?もう、何処にも戻れないのね。」

「どうして、それを…?」

「聞えたの。私の手を取れば、この苦しみから助けてくれるって、声が。

…私は、愚かだった。私は、愚かだったのよ…。」

「瞳ちゃん!聞いて、瞳ちゃんは間違ってない。愚かでも無い。私も聞いたわ、そのお陰で、亜理紗を今度は助ける事ができたの。

ごめんね、2日間も独りぼっちにして。瞳ちゃんは悪くない。

あれは、救いの声なのよ。きっと、珂翠君の事も救ってくださるのよ。」

「……がう…ちがうわ……あれは!」

「だって、瞳ちゃん。歩いているじゃない?きっと瞳ちゃんの病気も治してくれるのよ。

やっと報われるんだよ!私達!!」

「瞳!!」

 聖が声を聞きつけ姿を現し、勢いよく瞳を抱き締めた。

「良かった。良かった…瞳!治るのか?俺達の願いが、やっと叶うのか!」

 聖がきつく抱き締め、瞳の長い髪に顔を埋めると、瞳はゆっくりとそれに答える様に、聖に腕を巻きつけた。

「珂翠さんは…戻らない…わ。」

 聖は瞳を掻き抱いたまま、感情のままに告げる。

「何を言ってるんだ瞳。瞳がこうして治っているんだ、どんな奇跡でも、きっと叶うよ。」

 一方瞳は、硬く閉じた瞼をより強く瞑って、聞えるか聞えないかの小さな声で、明確にその言葉を二人に伝えた。


「カレハ、ソレヲ、ノゾマナイ。カラ…。」


 瞳は誰も帰らない2日間。

アレと闘っていた。

真っ暗闇の世界に突き落され、飢えと乾きと孤独、そして死への恐怖が彼女の肩を叩き、甘い言葉をくり返す。

―私の手を取れ―と。

 唯それだけの言葉が、瞳を苦しめた。

 アレは、神ではない。瞳にはそれが明確に解って居た。身体は辛くても、白い世界に居た時の感覚とは大きく違う、死臭漂うその言葉が、瞳の神経を苛立たせた。

 瞳は拒み続けた。

もがき苦しむ事になっても、それが神の道だと彼女には思えたからだ。


しかし、アレは言葉を変え、瞳を狂わせた。


―カスイは、もう、シんだ。お前の苦しみも終る。私のテを取れ。―


『珂翠が死んだ?!』


 胸にその言葉が突き刺さる。明らかに何かを失った喪失感に苛まれた。今まで当たり前の様にあった、腕が一本なくなってしまったかの様な…。


『嘘よ!彼は、死んだりしない!』


 瞳の拒絶は虚しく、空を舞って床に落ちていくだけ。

―楽になりたいだろ?―

 当たり前だ。自ら苦しみを選ぶ人間など居ない。

―現実は変わらない。―

 それが現実であると、認めたくは無い。でも、解ってしまう。何故か解るのだ。

―もう、疲れただろう。―

 疲れ果てた。生きて居る事に。せめて、由美のように、自ら死を選べるだけの体力があればとさえ思えてくる程に、疲れ果てていた。

―なら、迷う事はもうない。―

 迷う?

―もう、迷わないで、救われる道を選べ。―

 選ぶ?


『私は、落ちる…。落ちるのだと解っていても、もう、総てが、辛すぎる。』


 瞳の閉鎖された心とは、対照的に眞留美と聖は、瞳の姿に希望を抱き、笑い合った。

「瞳がこうやって、無事に居てくれたなら、それだけで安心したよ。俺、霧月ちゃん達を手伝ってくる。眞留美ちゃん。この後の事、お願いしても良いかな?」

「うん…。あの、聖さん!」

「ん?」

「この間は、御免なさい。私、聖さんに八つ当たりして。」

「否。俺の方こそ。」


 二人は、落ち着いた微笑を交し合った。

 これから、自分達が仕様としている事の愚かさに、全く気付いていなかったのだ。

 二人は、それが最善だと信じて疑わなかった。

 しかし、瞳の瞼の裏側では、禁忌を犯す自分達の姿が映し出されて消えなかった。

『もう二度と戻れないのなら、最後まで。』

 耳元で、甘い言葉が囁かれる。

 軽くなった身体。呼吸も楽になった。ただ、視界が戻らない事意外は、忘れていた日々を取り戻せる様な錯覚がした。


「私も、珂翠さんの所へ行きたいです。彼にもう一度会いたい…。」


 それが、最悪への一歩であったとしても、自由に動く身体がそれを促してくる。

『もっと、自由に動きたい。』と。

「でも、上はまた危険だよ。暴徒が残っているかもしれないし。」

「行きたいのです。動けるうちに。」

「瞳?」

「こんなに身体が軽いのは、生まれて初めてなんです。だから…お願いです。」

「…解った。行こう。きっと珂翠も喜ぶ。」

「はい。」


『カレハ、ソレヲ、ノゾマナイ。』


 瞳にはそれが解って居た。

 それでも、彼に会いたかった。


 アレの手を取ってでも、珂翠に会いたい。それが瞳の願いだったから。


 聖と眞留美は話し合い、亜理紗の側に眞留美が残り、念の為に聖が瞳を負ぶって、霧月達の元へと行く事になった。



 霧月と詩絵は、珂翠の身体に刺さった凶器を、一本ずつ丁寧に抜いて、珂翠の身体をゆっくりと下ろした。

 暴徒の仲間が徘徊して居たが、霧月達に何かしてくる気配はなかった。

「珂翠。大丈夫だよ。今度は私達が珂翠を助けてあげる番だからね。」

 詩絵は、珂翠の頭を自分の膝に乗せ、血で汚れた珂翠の頬を撫でた。

「こんな姿になって、珂翠…。ねぇ、言わせてよ…。次会った時に、私の反論聞くって言ったじゃない!」

 詩絵は、珂翠の頭を抱かえて涙を流していた。

「私ね…始めて、男の人を…好きになれたんだ。その事を、どうしても珂翠に伝えたくて、毎日お城の近くまで来て居たんだよ。珂翠に、もう一度会いたくて…。ただ、会いたくて。私も珂翠が、好きだよ!」

 詩絵は珂翠を抱えながら、空を見上げた。

 夕方でも無いのに、空は真っ赤に染まっていた。


「太陽が、燃える様に赤い。」


 霧月はただ空を見つめていた。

 耳元で、母親の声が聞えてくる。

―神に見放された子供よ。よくお聴き。太陽が赤く染まる時、人間は神から開放される。本当の自由を得る事が出来るのだよ。その日までは、神に操られて生きるがいい。―

「本当の自由。神からの開放。私達は、自由になれる!」


 霧月は数滴の涙を零した。それは悲しみの涙では無い。歓喜の涙だった。


「霧月ちゃん。どうすれば、珂翠は生き返るの?」

―待ちなさい。奇跡を待つのです。―


 詩絵の言葉と重なるように、母親の声が聞えてくる。


「待つのですよ。奇跡が起こるのを。」


 丁度その時だった。

「霧月ちゃん!」

 霧月の後ろから、瞳の声がした。

 瞳は自らの足で地を踏み、あの優しい笑顔を見せてくれた。

「瞳さん?」

 霧月は瞳の元へ駆け出した。横になる事しか出来なかった瞳が、自らの足で立ち、ゆっくりではあるが、確実に霧月の元へと一歩ずつ近付いてくるのだ。

 霧月は瞳に抱きつき、強く瞳を抱き締めた。

 これを奇跡と言わないで、何を奇跡というのだろうか。

「珂翠さんは?」

 霧月は瞳の視力が戻っていない事を確認する様に、瞳の顔を覗き込んでから珂翠の元へと瞳を連れて行った。

「珂翠さんです。」

 ゆっくりと、二人は腰を下ろして、珂翠の額を撫でた。

「珂翠さん。」

 詩絵は珂翠の額に乗せた瞳の手を掴んだ。

「瞳ちゃんが治るのだもの。珂翠に奇跡が起こっても可笑しくないよね?」

 瞳はその問いには答えなかった。ただ、詩絵の手を握り返すのみだった。


 赤い太陽は、夜が訪れる事を拒んだ。

 そして、奇跡は起こり続けた。


 ヒビの入った水瓶からは、透明な水が湧き上がり、誰も使わなくなった釜には、焼きたてのパンが次々に焼き上がってきた。

 人々は貴族の呪いから開放されたのだと、自分達の行いを正当化した。


 それは少女達にも起こっていた。

 少女達は、こんな温かい食べ物を食べた事は無いと微笑んだ。

 しかし、目を覚ました亜理紗だけは、その食事を口にする事を拒んだ。

「亜理紗。何か食べないと。」

 眞留美は亜理紗が心配だった。

夜が来ない世界では、今がいつで、あれから何日が過ぎたのかさえ解らない状態だった。

「蔓がね。」

「え?」

「お兄ちゃんと一緒に植えた石から生えてきた蔓がね。全部、枯れちゃいそうなんだよ。」

「あれは、石から生えたんじゃ無いよ…きっと。」

「お兄ちゃんと一緒に植えた石がね…。」

「亜理紗!いい加減にしなさい!」

 眞留美は〝お兄ちゃん〟という言葉を繰り返す亜理紗に、苛立っている自分に気付いてはいた。

珂翠は、今でも目を覚まそうとしない。毎日、亜理紗以外の仲間で祈りを捧げているのに、状況は一向に変わらないのだ。

「……。」

 亜理紗は奇跡を信じようとしない。

 神から開放された事を、理解しようとしない。

 何故?

 眞留美の中で、どろどろになった感情が渦を巻いていた。

「どうして?なの。亜理紗…。」

 眞留美は喉を詰まらせながら、亜理紗に問う。

 何故、奇跡を信じないのかと。

「だって、お兄ちゃんは、目覚めないじゃない。」

「それは…もう直ぐだよ。私達が、毎日お腹いっぱい食べられるのは、アルバーディス様のお陰だし…。」

「畑は全部枯れちゃったけどね。」

「それは…。」

「お兄ちゃんと植えた畑は、全部枯れちゃったよ。お兄ちゃんと植えた石から伸びた蔓も、もう直ぐ枯れちゃう。」

「それ以上に奇跡が起こっているじゃない。どうして、それが信じられないの?瞳ちゃんが元気になった事だって。」

 亜理紗は唇を噛締めて、唯頭を左右に振るだけだった。


 地上では、毎日が祭り騒ぎだった。

 酒の樽には、今まで味わった事がない果実酒が溢れ、皿を出せばゴージャスな肉の盛り合わせが乗る。人々は、何も疑わなかった。そして、今まで食べ物を恵んでくれていた、霧月を神の見使いだと崇める者まで出始めた。

 流石に霧月は驚いたが、人々にこれはアルバーディス様のお力であると、路上で説き始めると、人々はそれを信じ、夜の来ない赤い太陽を崇め始めた。


「何か、変な気分だね。」

 活気のある街中を、瞳の手を引きながら歩く聖は、照れ臭そうに笑った。

「変?」

「ああ。だって、皆、楽しそうでさ。」

「楽しそう?そうかしら。私には…そうは、見えないけど。」

「え?」

 聖には、近くに居るはずの瞳が遠くに行ってしまった様に感じられた。

 珂翠が死んでから、どんなに近くにいても、瞳の存在がずっと遠くに見えるのだ。

「珂翠だったら、瞳を笑わせて上げられるのかな?」

「聖さん?」

「元気になって、こうやって歩けるようになっても、全然嬉しそうじゃない。どうして?俺じゃあ、瞳の側にいる価値は無いの。珂翠じゃなければ…駄目なのか。」

「どうされたのですか?」

「…ごめん…なんでも無い。」

 それを嫉妬というのかもしれない。

 聖は強く思う。もし自分が珂翠の使用人でなければ、珂翠と瞳が出会っていなければ、自分がこの立場でなければ、もっと違う形で瞳と付き合えたのかもしれないと。

「瞳、もうそろそろ帰ろうか。」

「そうですね。とても、空気が悪いですし…それに…。」

「ん?何?」

「いえ…何でも。」

 瞳の見えない目には、沢山の未来が見えていた。しかし、それが未来であると、彼女自身信じたく無かったのだ。


 それが、怠慢だと解っていても、瞳には出来なかった。

 この赤い太陽が、夜を奪い取った太陽が、人類の破滅への一歩だという事を。



 そして、アルバーディスと名乗るアレの本来の姿を。



 暴動後に彼女達によって、珂翠の遺体は地下に運ばれ、綺麗に安置されていた。いつでも珂翠が目覚めても良い様にと、彼女達は願っていたのだ。


 亜里沙を除く少女達と聖は、アルバーディス様へ毎日祈りを捧げ、珂翠が蘇る事を祈り続けた。しかし、遺体は腐臭を放つ一方で、ちっとも蘇るそぶりさえなかった。それでも、詩絵は珂翠の側を片時も離れようとはしなかった。

「ねぇ、珂翠…お願い。目を覚まして…お願い!」

 今まで詩絵は沢山の仲間を失ってきた。

自分が生き抜く事だけで、精一杯だった。

だから、こんなにも誰かに心酔する事自体がなかった。

それは、欲に近いものかもしれない。食べ物が与えられて、自分が生きられている事に満足するべきなのかもしれない。それでも詩絵は、願わざるを得なかった。


「珂翠を還して下さい!お願い…神様じゃなくて良い。もう、誰でも良いから。」

 詩絵は腐り始めた珂翠の手を握り締めて、そう願うのだった。


 亜理紗は、皆で植えた畑に独りで訪れる日々を送った。

 その近くには太郎が眠っている。

「ねぇ、太郎。太郎は…どう思う?」

 お腹がすき過ぎて、亜理紗は自分のお腹を数回擦った。

 本当は、お腹いっぱい美味しそうなあのパンを食べたい。まだ幼い亜理紗にとっては、それは当たり前すぎる欲求だった。ただ、亜理紗には何かが引っ掛かるのだ。

 無償で与えられるモノ程、恐ろしいモノは無い。

「でもね、お姉ちゃんは、それを望んでるんだ。」

 真っ赤な太陽が、亜理紗を攻め立てるように照らしていた。生ぬるい風が頬を撫でていく。

「あ!」

 風が、石から生えていた蔓に宿っていた最後の葉を、毟り取っていった。

 亜理紗は、それを唯眺めていた。

 蔓は、みるみるうちに枯れていく。その葉が最後の命だった。

亜理紗の目の前で枯れ落ちて行く。

「終っちゃったね。やっぱり、亜理紗は…変われないんだね。何も、変えられないんだね。」

 亜理紗は寂しそうな笑いを浮かべて、太郎の墓に背を向けた。

「太郎。ありがとう。太郎が守ってくれた亜理紗は…もう、枯れちゃったよ。ごめんね!」

 亜理紗は走り出した。

 涙は見せなかった。

 ただ、張り付いたような笑顔を見せながら、楽しそうにスキップして居た。

「まず、眞留美お姉ちゃんに食事をねだろうっと。それで、今までの事をごめんなさいって…謝って、亜理紗もお姉ちゃんを信じるから、その何とか様を信じるって言うんだ。

そう言うんだから!

絶対にそう言うの。きっと、お姉ちゃんは泣いちゃうかも、泣いて喜んで…くれるかも。それが嬉しい。亜理紗は、それが一番嬉しい…だから…それで良い。もう、良いよね。」

 亜理紗は鼻が詰まった声で、太郎を思い出しながらしゃべり続けた。太郎と二人で過ごしたあの頃を思い描いて、太郎に聞いて貰っているように。


 嘘の始まりは、真実の終わり。

 亜理紗の目には、もう、何も映らない。

 珂翠と眞留美と一緒にはしゃぎながら植えた石から伸びた蔓が、完全に枯れ果ててしまっても、もう構わなかった。


―お前は、それでイイ。―

「あなたの為じゃない。」

―そんな事は、どうでもイイ。―

「じゃあ、どうして、お兄ちゃんは蘇らないの?」

―お前にとっては、そんな事、どうでもイイ筈じゃないのか?―

「…そうね。どうでもいい。あなたが何者でも、どうでもいいのと、同じね。」


 それが嘘でも、どうでもいいと、亜理紗は自分に言い聞かせ、赤い太陽を仰ぎ見た。



「お姉ちゃん。亜理紗~お腹すいた!」

 亜理紗が背後から眞留美に抱きついた。

「ちょっ、あんた何よ!いきなり!」

「だってぇ、お腹が空いてたまらないんだもん。」

「何で…急に…?」

「お腹空いた~お姉ちゃん~!」

「ったく、もう。」

 眞留美は呆れた顔をしながらも、少し嬉しそうに笑って食事の支度を始めた。

 湧き出てくる食事は、亜理紗でも食べた事が無い、美味の者ばかりだった。亜理紗は「美味しい」と言って、眞留美に笑いかけた。眞留美も、「そうだね」と笑い返した。この当たり前の時間が、二人には何よりも掛け替えのない時間だった。


二人だけで、じゃれながら会話をし、亜理紗が零した食べ物の欠片を眞留美が拾い、亜理紗が何も無かったように笑う。そうすれば、あの出来事が起こらなかったと思えるのだ。

 眞留美の手に残る、あの悲劇的な感触を忘れられる気がする。

 時間では埋められない事もある。

野口の喉もとを刺した、あの感触。憤怒に任せて動いたあの一時を、眞留美は忘れようと努力して居た。

 亜理紗がまたこうして笑ってくれるなら、それも可能かもしれないと、眞留美は願うのだった。


「霧月ちゃんは?」

「また、アルバーディス様の話を説きに街に行ったわ。」

「瞳ちゃんたちは?」

「散歩に出かけた。」

「詩絵ちゃんは?」

「…いつもの所。珂翠に声を掛けてる。」

「なんか、皆、ばらばらになっちゃったね。」

 眞留美も気付いていた。

 毎日畑を耕していた頃と比べれば、顔を合わせる機会が少なくなり、畑を耕していた頃よりも簡単に食べ物が入る為、食べ物に対する感謝の気持ちも無くなって来ている。


 壊れ始めた、家族の輪。


「私達は、元から別々だった訳だし…仕方ないでしょ。」

 本当にそう思って居るわけではない。

 しかし、そうでも言わなければ納得のいかない現状が立ちはだかる。

「そうだね。」

 それでも、亜理紗は笑ってくれる。

 眞留美の目には、亜理紗の仮面の様な笑顔が救いだった。

 珂翠と出会う前の時と同じ様に。



 それは突然の出来事だった。

 毎日、アルバーディス様の奇跡を詠っている霧月に対し、石を投げる者が出てきたのだ。

「家の樽からは、水が出てこない!どうなっているのだ!」

「パンにカビが生えていたぞ!」

 夜の来ない赤い太陽は、人々の顔を赤く照らし、まるで鬼のような形相に替えた。

「そんな…そんな事が、あるはずは…。」

 霧月は必死に説得を試みたが、年をとった男が叫びだした。

「あの時と同じだ!あのサーカス団が来た時と同じだ。

あいつらが滞在している時は、上手く行きかけていたんだ。でも、奴らが消えたら、酷い有様になった。水道管からは硫黄の混ざった水が流れてきて、畑を汚染して飲む水さえ苦労する有様になった。それと同じじゃないか!」


『同じ?同じ過ちを…繰り返りてるの?』


「どうして?じゃあ、どうしろと仰るの?

彼を見殺しにされて、私をお救いになって、一体どうしろと仰るのですか?」


 霧月は赤い月に向かって、声の出る限り大きな声で叫んだ。

 何が善で、何が悪なのか。この混沌とした世界では、何も解らない。


「私は…綺麗な、あのステンドグラスの天使が好きだった。でも、あれは幻だった。この救いのない世界に、救いの手をもたらしてくださる方を信じて…何がいけないのです?

私に、この無力な私達に、どうしろと仰るのですか?」


『なんか、皆、ばらばらになっちゃったね。』


『辛いの!!生きて居る事が、辛くて…惨めなの。』


『どうすれば、珂翠は生き返るの?』


『楽しそう?…そうかしら。私には…そうは見えない。』

『珂翠じゃなければ…ダメなのかよ!』


『私達は、元から別々だった訳だし…仕方ないでしょ。』


「!!!!」


 霧月の頭の中を何か赤い光が駆け抜けた。

 それぞれの言葉が何度も、何度も繰り返し聞えてくる。


―無償で得られるモノなど、この世には無い。与えた分の代償は貰う。―


「アルバーディス様…何を…?」


―人とは愚かな生き物だね。欲をかくから全てを失うのだという事が解らない。何度、同じ過ちを犯し、何度、輪廻を繰り返しても導かない。―


「輪廻?」


―キミ達が生きている、この小さな世界は循環している。同じ過ちを繰り返す哀れな子羊達。その代償を頂こう。―


『じゃあどうして、助けてくれたのですか?私には何も出来ないのに、何故救って下さったのですか?じゃあ、どうして彼を、救ってくださらなかったのですか?やはり、神様なんて…居ないの…でしょうか?』



 真っ赤に燃え盛る太陽は、膨張し始めた。

 熱いと感じる頃には、既に何もなくなってしまっていたのかもしれない。

 それは、ほんの一瞬の出来事であった。

 ある者は霧月に石を投げている途中に、ある者はカビの生えたパンを頬張りながら、ある者は樽に残った酒を舐めながら、最後の瞬間を迎えるのだった。


 そして少女達は、眩しい赤い光に飲まれながら同じ事を思った。


『何故、彼を救ってくれなかったのか?彼が生きていれば、こんな事には…。』



 ナラナカッタ?



 真っ赤な太陽は、神の作り出した創造物を飲み込み、木っ端微塵に打ち砕いていく。その光景は、美しく儚く、気高く、しかし残酷だった。

 小さく砕かれていく地は塵と化し、果てしなく広がっていた空には、ステンドグラスが簡単に割られて行く様にヒビが入り、崩れて行く。


その奥に見えるのは、暗闇と虚無。



その先で…。

 珂翠は、自分が生まれ育ち、沢山の出会いがあり、互いに育んだ思い出のカタチが、壊れていく様を、唯、見つめていた。

 ただ、赤い丸い波が、薄暗い世界を飲み込んでいく光景が、目に焼きつく。

否、既に珂翠に視界という感覚は無い。

耳もとに聞こえるのは、少女達と過ごした、あの数カ月の思いで。聖と由美と過ごした、無知な少年で居られた頃の幼い日々。

否、珂翠には聴覚もない。胸の中で響く鼓動と同じように感じる。


 では、自分は一体どうやってこの光景を見ているのか?感じているのか?


 そして、この光景を眺める事が、初めてではない気がしていた。


―貴方は、アレの手を取らなかった。―

『誰?』

―どうして、取らなかったの?―

 意識の中で、あの時の光景が蘇ってくる。


 城の食料が底を付き始めた時、食料の減りが早い事に気付かれ、両親に厳しくどやされ、部屋に監禁された時、珂翠は少女達のことしか考えられなかった。

その日は、早朝に食料を渡す約束の日だった。有り余るほどの食糧が貯蓄されている訳では無いことは解って居た。

給料として渡すために用意した、食料が盗まれ大きな打撃を受け、使用人達さえ毎日食事にありつけない緊迫した状況なのも理解はしていた。

それでも、珂翠は、未来の為に動いてくれている、少女達と聖と由美を疑う気持ちは全くなかったし、彼らを見捨てる気持ちも無かった。


唯、自分の無力さに嗚咽した。


 しかし、民衆が暴徒と化して襲ってきた時、母親は自分を倉庫に隠し、自ら囮になるといって出て行った。父親は珂翠が倉庫に入った時には、既に自害していた。

両親は、息子の珂翠だけは助けようとそれぞれのカタチで必死だったのだ。

珂翠は父親の亡骸に掴みかかり、愛されていた事を感じつつも、何て無力な無能な最後を選んだのだと罵った。そして、覚悟を決めた。


自分の在り方をどう示すのかを。


倉庫の戸が壊され、暴徒と化した人々が雪崩れ込んできた時、珂翠は、しっかりと自分の足で立ち、彼らの前で腰を折った。

どんな姿を見せても、どんな言葉をかけても、きっと彼らの心には届かないだろう。それは理解していたが、最期までこの村の最高指揮官として惨めな姿は晒したくは無かった。

暴徒は、皇子として珂翠を扱う事は無く、丸腰の少年をいきなり殴りつけ、床を這いずる程痛めつけた上で、珂翠を担ぎ上げた。

珂翠は、血の味をする顔を下げる事はしなかった。悲鳴を上げる事もしなかった。彼らに許しを請う姿勢も取らなかった。しっかりと目を開けて、向けられてくる憎しみの雨を、全身で受け止めた。

しかし、民衆によって外に連れ出された時…。

 そこに、ボロボロになった詩絵の姿が目に入った。

 自分の母親と思しき女性が張り付けられた木に体当たりを繰り返して、助けようとしてくれていた。数人がその周りを取り囲み、詩絵を鈍器で殴っている。

 詩絵が伸ばしてくれた腕が余りにも愛おしくて、思わず詩絵の名を叫んだ。

「詩絵!!!」


その時だった。

―助けてやろうか?―


―お前は、ここで、死ぬぞ。助けて欲しければ、このテを取るがいい。―


 しかし、珂翠はただ詩絵を見つめて、強く願ったのだ。

『さようなら。僕の愛しい人達。今までありがとう。

もし、来世があったなら、その時は、必ず……。』


 珂翠は、その時、己の死に対して少しの迷いもなかった。ただ、残して行く愛しい人たちの事だけが心残りだった。


 だから…。



―おめでとう。貴方は、無事に輪廻の輪から生還出来ましたね。―


『輪廻?』


―そう。今回もあなただけ。―


『…今回も…?』


―哀れな子羊達は罪を償う。その為に輪廻の天命は繰り返す。

やはり愚かな輪廻を止める事は出来なかったわね。―


『輪廻を止める?』


―何故貴方がこの輪に拘るのか、興味はあるけれど、私には理解できない。こんな愚かな実験を繰り返しても、人間という駒はやはり神のダミーにはなれない欠陥品という事は証明されているのに。―


『欠陥って…何?そんなことは無い!』


―いつまで、こんな下らない事を続けるつもり?―

『下らない…事…?何が?』


 目を閉じると、見えて来る。

「珂翠お兄ちゃん」と無邪気に微笑む亜理紗の笑顔が。

「ちょ…珂翠!」頬を赤らめながら、でも優しく時々呼び捨てしてくれる眞留美の顔が。

「珂翠さん」女神の様な優しい笑顔で、穏やかに微笑む瞳が。

「…珂翠さん」冷たいようでいて、でも暖かく包み込んでくれる、霧月の声が。

「ったく、珂翠!」やんちゃな顔で、頭を掻きながら手を伸ばしてくれる聖が。

「坊ちゃん」母よりも母の様に優しく、時に厳しく接してくれた、由美の温もりが。

そして…。

「珂翠…。」いつも節目がちに、躊躇するように、はにかむ詩絵が。だけれど、そんな詩絵が最後…酷い形相で珂翠の名を叫んでいた。


 好きな人に、あんな表情をさせてしまった。

 聞いたことない言葉が聞こえて来る。


『珂翠、好きだよ。答えさせてよ…。返事をさせてよ!ずるいよ!』


 詩絵ちゃんが、僕の為に泣いている。

 詩絵ちゃんだけではない、皆、僕の為にそれぞれの痛みと戦って、見たくない現実に潰された。


それが人間だから…?

 それが人間だから!


『彼女達は…どうなるの?』


―輪廻転生を繰り返し、同じ罪を償い続ける事になる。でも、その他の傍観者でしかなかった民衆たちは無に化す。新たな命を芽生えさせる肥やしとなる。―


『罪?彼女達が、どんな罪を犯したというのですか?彼女達が、罪を犯す前に、何故神は助けて…くれて無かったのですか?』


―私が助けたじゃない。それぞれに、色んな形で手を貸した。彼女達と貴方なら、アレに惑わされず、今回の輪廻を育てていけるかもしれないと思ったからよ。でも、失敗したわね。―


『失敗?…輪廻を育てる?』

 

―さぁ、見なさい。―


 珂翠が意識を替えると、さっきまで真っ赤に飲み込まれて行った世界が、真っ暗闇になっていた。そこには太陽の破片達がそこら中に浮いている。


―あれが流れて、ぶつかり合って、丸くなって、また生命を宿す星となる。―


『それが…僕達が生きる星に?』


―いいえ。貴方はもういいんじゃない?この実験は終わりにしなさいよ。何度繰り返しても、結果は変わらない。彼らのいつかは塵となり肥やしと化して…―


『なんで?そんなことはさせない!』


―なんで?だって、創造主が望むコピーになれるのは何度繰り返しても貴方だけだから。もうこの実験は終わりにしていいでしょ。―


『嫌だ!駄目だ!終わらせたら、終わらせてしまったら、彼女たちはどうなるの?消えてしまうの?そんなの…駄目だ。』


 強く珂翠が感情を爆発させると、もう存在しないはずの身体が熱く燃える様な感覚に襲われた。熱い。痛い。苦しい。リンクしてくる感覚が、我が身に起こっている事ではない。


 その感覚は、残していた愛しき人達の痛みで、苦しみで在る事を感じられる。


『助けなきゃ…今度こそ、助けなきゃ!』


―そう。また、貴方はそっちを選ぶのね。何度も、何度も…もがき苦しんで、哀しみしかもらえない道を選ぶのね。無駄な事を。…愚かね。―


『人は愚かかもしれない。でも、君が言っている事は違う。

僕は沢山の喜びを、幸せを、笑顔を皆から貰ったよ。掛け替えのない沢山の心を。なのに…僕は…いつも救えなかった。』


 いつも?

 あれ?

 僕は…何かを知っている?


―もういいわ。貴方が輪廻に戻る選択をするなら、思い出す必要は無い。どうせ、また何もかも忘れて、彼女たちを探す輪廻を始めるのだから。―


『うん。僕は助けに行く。詩絵ちゃんを、瞳ちゃんを、眞留美ちゃんを、霧月ちゃんを、亜理紗ちゃんを、聖を、そして…由美を…!』


―由美?あの女はもう…。―


『ああ、知ってる。否、解ったというべきかもしれない。』


―欲は身を亡ぼすわよ。―


『ああ。でも、決めたんだ。誰も見捨てない。何度でも、僕はやり直すって。』


―本当に呆れるわ。輪廻を繰り返すたびに、増えていくなんて。創造主が試しているのは、あの5人の少女だけなのに‥‥。

まぁ好きにしなさい。

これから少し休んで、長い眠りに付きなさい。あれが星になって生命の息吹が芽生えるその時まで。―


『うん…。あれ?でも、そんな事より、君は一体…誰なの?』


―また忘れて…そんな事、今聞いても、どうせまた覚えていないわよ。―


『それでも、名前くらい知りたいな…。』


―私はアリア。―


『アリア預言の書…の?』


―さぁね。もうお眠りなさい。貴方には、これから予想も出来ない辛い宿命が待っている。

 何度でも過ちを繰り返す。惨めな生きモノ。己が生きる世界を、自ら壊す。己が首を己で締め続ける。残念な生きモノの輪廻を、止める事なんて…、例え貴方でも出来るのかしら?

 でも、不思議ね…少しだけ、貴方に期待したい私もいる。私には…何も出来ないのに。―


 アリアと名乗る声が遠くなって行く。頬を掠めたのは、絹の様な白銀の髪。

 珂翠は彼女を知っている。何処かで…会った事がある。でも思い出せない。今はまだ、思い出しては成らないのかもしれない。


「アリア…僕は必ず、また君に会いに来るよ。僕の愛しい人たちと共に…。」

 珂翠の意識は、だんだんと薄れて行く。



 今度目覚める時、きっと僕は何も覚えて居ないのかもしれない。

 それでも、僕は、君達を救いたいと思うんだ。

 それでも、また君達に会いたいと思うんだ。

 それでも、必ず僕は君達をまた見付けるよ。


 ああ、太陽の欠片の赤みがすっかり黒くなってきているよ。


『僕らは、こんな大きな世界の小さな存在だったのか…。』 

 


アリア預言の書の  序章 一項 


『人に科せられる試練は、きっとその人を試すものなのでしょう。

人に運命が存在するのならば、その運命は自ら変えていくものなのでしょう。


私達は、誰かのプログラムにそって生きる為に生まれたものではない。

己の意思を持って、未来を変えていける存在なのだから。


これから紡ぐ物語はまだ白紙のまま。

さぁ子羊達よ、何度でも踊るが良い。』




                                        完


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輪廻~アリア予言の章~ 深海愁 @shinkaiurei

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