ミニャルディーズ

深川夏眠

mignardises


 嗚呼、おとめ様。


 おとめ様、は辛い。授業がないのはいいけれど、学校へ行かなきゃ、あなたに会えない。

 もう我慢できない。恵みの雨です。謎の病気は感染力が強くても、湿度が高くなると一時的に威力が鎮静化するんですって。だから、おとめ様に見立ててもらった傘とレインブーツで出かけます。

 おとめ様は雨が好きだし嫌いでもあるとおっしゃった。昼は強い日差しを避けられる、でも、夜も降り続けたらができないからって。初めて聞く言葉に目を白黒させていたら、庭のプールサイドでサマーベッドに横たわって月の光を肌に浸み込ませれば細胞が若返り、いつまでもきれいでいられる、だけど、やり過ぎると後でお風呂に入ったときピリピリするわ……と、茶目っ気たっぷりにウインクなさった。本当は秘密にしなくちゃいけないけれど、同じユリ属の名を持つよしみで教えて差し上げたわ、って。

 おとめ様の正体を知ったのは、二人で社会科の資料を運んでいたとき。階段を下りる途中で本やファイルが滑って、かのこは慌てて捕まえようとして紙で指を切ってしまった。すると、おとめ様は、かのこの手を取り、ワインを嗜む人がアロマを愉しむ調子で鼻を近づけたかと思うと、傷を包み込むように柔らかい唇をお当てになった。かのこはビックリ。それでも、おとめ様だから全然嫌じゃなかった。おとめ様の艶々した髪が、かのこの掌に触れたとき、背筋に鋭く電流が走ったみたいだった。期待と不安で心臓がバクバク言った。だけど、おとめ様は無情にも、舌の先でほんの少し舐めただけで、かのこの血をマズいと一蹴された。ジャンクなスナックの匂いがする、って。ヒトの身体は食べ物で作られるのだから、慎重に選ばなければダメよ、と。

 短い時間のうちに立て続けに、憧れのおとめ様が何者かを知って驚き、生贄に選ばれて感激し、かのこの血が口に合わないと突き放されて落胆したので、すっかり混乱してしまった。でも、おとめ様は、そんなかのこを見放さなかった。お互いに楽しみを先に延ばして、少しばかり悶々するのも、なかなかオツよ、あなたの準備が整うまで待ちましょう……だなんて。

 おとめ様は放課後の音楽室で、わたしたちのテーマにピッタリだと言って端正な曲を弾いてくださった。元々クラヴサンのためのものだけれど、ピアノで弾いちゃいけないって法はないからと、クープランの Les lis naissantsゆりの花ひらく を。今も揺れるバスの中、ワイヤレスイヤホンで聴いています。

 膝の上には、以前おとめ様が連れて行ってくれたお洒落なカフェのおつかい物コーナーの美しいスイーツ、色とりどりの宝石のような mignardisesミニャルディーズ 。かのこはずっと、こういうものの名前をプチフールだと思っていたけれど、フランスではカッチリしたクッキーなどを指す言葉で、ミニサイズのデザートはそちらと区別してミニャルディーズと呼びます――って、店員さんが説明してくれた。また勉強になりました。おとめ様と親しくなってから、かのこの知識はどんどん増えていきます、それが嬉しい。

 今日の詰め合わせの中にはマドンナリリーをかたどったクレームダンジュも入っているのです。早くおとめ様に召し上がっていただきたい……。

 それにしても、ミニャルディーズって言葉の響きは、何だか猫を連想させますね。ミャッ、ニャッ。


 ……えっ?


 急ブレーキで停車。かのこはミニャルディーズの入った手提げ袋を抱き締めて守りました。


 何事?


 アナウンスによれば、道路のずっと先の方で玉突き事故が起きたとか。


 はぁ?


 そこかしこでクラクションが鳴り響き、暴言を吐く声も。バスはエンジンを止めて事態が変化するのを待つ構え。


 そんなぁ……。


 大渋滞に巻き込まれ、身動きできなくなりました。30分もあれば着くはずだとたかを括って、保冷剤を入れてもらわなかったかのこは大馬鹿者です、叱ってください、おとめ様。


 もう、どうしよう……。


 クープランの組曲が耳の中を何周も回ろうとしています。ミニャルディーズの包みが湿っぽくなった様子。はしたない話ですが、貧乏揺すりが止まりません。


 うう……。


 お腹が空いてきたのと、ミニャルディーズが心配なのとで、かのこの理性は揺らぎました。目が回りそうです。ひとまず、様子を確かめるだけでも。そっと箱を開けてみました。

 やっぱり一粒一粒が汗を掻いてしまっています。かわいそう、せっかくこんなに愛らしいお菓子なのに。パティシエさんにも申し訳ない。そう思ったら、歯止めが利きませんでした。

 4×4の16個、上段左から順にシーニュ、白鳥のシュークリームです。食べるのがもったいないと言いながらパクッといってしまう、アレですね。続きまして真っ赤な宝石を思わせるフランボワーズのムース、ザッハトルテ、しっとりしたオレンジケーキ。二段目、コンベルサシオン。サクサクの生地とクレームダマンドのほんのりした甘さが素敵です。青梅あおうめのゼリーは……あ、温まってしまって崩れかかっている、危ない危ない。それから洋梨のタルト。おとめ様にご賞味いただきたかったユリの形のフロマージュ。ほぅ。美味しすぎて溜め息が出ます。三段目、メロンショートケーキ。お次は何と、小さなプラスティック容器に入ったスイカのジュレ。う、一気に啜ってしまいました。ミロワールショコラ。おお、枇杷のコンポート。ラスト、四段目、イチゴやキウイの細片入りのホイップクリームをクルッと巻いたロールケーキ。アジサイをイメージして淡い青と紫色の琥珀糖をちりばめたオルタンシア、美しい。薄いパイの上に小豆餡をまとった白玉。……遂に最後の一個です、ダークチェリー入りガトー・バスク。


 おとめ様、かのこは恥ずかしい。紅茶も飲まずにすべて平らげてしまいました。おとめ様に合わせる顔がございません。だけど、情けなさを噛み締めながら、得も言われぬ満足感に包まれたのも事実です。


 バスが動き出して、すぐ停まりました。ここで下車してくれ、と。立ち上がると胸やけがしました。胃の辺りに違和感を覚えつつ、かのこはバスを降り、傘を差して歩き始めました。お茶が欲しいなぁ。美味しい紅茶が。

 かのこは自分がどこへ向かっているのか、よくわからないまま、人波に揉まれ、あちこちで跳ね上がる飛沫しぶきを受け、俯いてトボトボを進めました。

 今日はもう、おとめ様に会えないのかな。これは欲望に負けてミニャルディーズを食べ尽くしてしまったことへの罰なのでしょうか。 

 顔を上げると、周りも皆、途方に暮れた風な、あるいは実体をどこかに置き忘れてしまった影めいた、心細げな人ばかりでした。いつ家に帰れるのか見当もつかない、憂いに沈んだ雨傘の群れ。ゾロゾロ、ゾロゾロ。その一員として流れに身を任せたかのこは、これじゃあ吸血鬼じゃなくてゾンビだろうが……と、毒づいたのでした。



             mignardises【FIN】



*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の遁走曲フーガ』にて

 無料でお読みいただけます。

**初出:同上2020年4月(書き下ろし)

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

***⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/wMWR1htY

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ミニャルディーズ 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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