エピローグ 以洋、映画をラストまで見る

 その晩、五度目となったあのDVDの上映を、以洋イーヤン懷天フアイティエンに膝枕してもらいながら鑑賞した。今度も寝てしまうんだろうと以洋イーヤンは思っていたし、懷天フアイティエンもそう思っていたからだ。

 しかし、予想に反して以洋イーヤンは今回、オープニングからラストまで一睡たりともしなかった。それどころか手に汗握るあまり何度も飛び起きそうになって、その度に懷天フアイティエンが可笑しそうに以洋イーヤンを膝へと押し戻していたくらいだ。

「おっかしいなあ。こんなに面白い映画なのに、なんで僕、眠っちゃったりできたんだろ……」

 懷天フアイティエンがディスクをケースに戻すのを首をひねりながら見ていた以洋イーヤンは、映画を見る前に作っておいた夜食を温め直そうと台所へ向かった。

 台所に入り、ふと振り返った瞬間、勝手口のガラスに人影が見えた気がする。

 見間違えだろうか?

 僅かに呆然とした後、以洋イーヤンは勝手口に近付き、サービスバルコニーに続くそのドアを開け放った。

 そこにいたのはやっぱり李東晴リー・ドンチンだ。

『俺は入れないからさ』

 幾分気まずそうに東晴ドンチンが言う。

 だが態度が殊勝になった以外、見た目が全体的に少し黒ずんでいるだけで、それ以外は何も変わらない。

「君さ……なんで輪廻の輪に戻ろうとしなかったの? 道がわからなかったんなら、僕、手伝えるよ?」

 しょんぼりとそう言った以洋イーヤンに、東晴ドンチンはただ笑って首を横に振った。

『生まれ変わりたくなかったんだよ。俺はあいつの傍にいる。あいつが死ぬまではずっとついて行くんだ』

「なんでわざわざ……」

 以洋イーヤンにはわからない。結局、東晴ドンチン賀昱霖ホー・ユイリンのことを愛しているんだろうか。それとも、憎んでいるんだろうか。

『愛があればすなわちそこには憎しみもある』

 まるで以洋イーヤンの疑問が通じたかのように東晴ドンチンが笑いながらそう口にした。

『愛と憎しみ、どっちが理由でもいいさ。俺はとにかくあいつの傍を離れないよ』

「じゃ、あいつが死んだ後で決めるわけ? あいつから離れるかどうか」

『もしかしたらな。その時には俺だって諦めがつくかもしれないし。けど、その時には俺はたぶんどこにも行けなくなってるだろ』

 そう言って東晴ドンチンが、黒く変色しつつある自分の手に目を落とす。

 以洋イーヤンは項垂れずにいられなかった。こらえきれずに涙が溢れ出す。

 この先、東晴ドンチンの全身はもっともっと黒く染まっていくはずだと、以洋イーヤンにはわかっていた。恨みの念が東晴ドンチンを黒く変えていき、最後には東晴ドンチンは自分の恨みに囚われて動けなくなってしまうだろう。

 そうなればもう東晴ドンチンはどこにも行けない。もう生まれ変わることもできない。

「僕のせいだ……。全部、僕のせいだ……」

『お前は俺に何もしちゃいないよ。これは全部俺自身のせいさ』

 穏やかにそう口にした東晴ドンチンが、ふと照れくさそうな笑顔になった。

『ありがとな。うちの母さんのこと、慰めてくれて』

 以洋イーヤンは無言で首を左右に振る。涙がひっきりなしに滴り落ちた。

『お前ってほんと、俺がこれまでに見た中で一番泣き虫な男だよな……』

 やれやれと言いたげな声を東晴ドンチンが出す。だがふと家の中に目をやった途端、東晴ドンチンは今度は笑いだした。

『あいつっていい奴だよな。お前のことをかわいがってくれるし、大事にしてくれるよ。お前ならその幸せをしっかり手の中に留めておけるさ。だから今後はもう二度と、別な幽霊に言われたからってビルから飛び下りたりすんなよ』

 大きく以洋イーヤンは頷いた。

「うん、わかってる……」

『じゃ、俺は行くけど、ありがとうな。本当にありがとう』

 何度も感謝を告げた後、東晴ドンチン以洋イーヤンに背中を向ける。

李東晴リー・ドンチン……」

 そのまま歩き出そうとした東晴ドンチンを、以洋イーヤンはもう一度呼び止めた。

「もし、気が変わったら、いつでも僕のところに来て。僕なら君を輪廻の輪に送ることができるから」

 東晴ドンチンを見つめ真剣な口調でそう告げた以洋イーヤンに、東晴ドンチンは無言で笑っただけだった。そして、ひらひらと手を振った後、後ろを向いて飛び下りていく。

 その姿が地面に溶けて消えてしまった後も、以洋イーヤンはその場から動けなかった。止め処なく涙を流している以洋イーヤンを、様子を見に来た懷天フアイティエンが背後から抱き締めてくる。

「なんでまた泣いてるの?」

 以洋イーヤンは振り返って、自分からも懷天フアイティエンに抱きついた。

懷天フアイティエン、好きだよ。あなたが好き。大好き。もう二度とどんな馬鹿なこともしないから、だからお願いだからずっと僕と一緒にいて!」




 そのまま声を上げて以洋イーヤンは本格的に泣き出してしまう。

 以洋イーヤンの唐突な告白に、懷天フアイティエンは喜ぶべきなのか、それともまず以洋イーヤンを慰めるべきなのかさっぱりわからなくなった。

 苦笑しながら取りあえずは以洋イーヤンをベランダから家の中へ引っ張り戻す。台所では煮え立った鍋から酒の香りが漂っていた。

 さて、火を止めるのと、この子とでは、どちらを優先すべきだろう?

「君ね……告白するときに泣きながら言うのはやめてくれよ。まるで俺を好きになるのが、相当に悲惨なことみたいじゃないか」

 どうにも可笑しくてたまらない気分になりながら、懷天フアイティエン以洋イーヤンを抱きかかえ直し、その背をそっと叩いてやった。




 懷天フアイティエンの腕の中、以洋イーヤンは力いっぱい首を横に振る。

 ついさっきの東晴ドンチンの言葉を以洋イーヤンは思い出していた。

 愛が重みを増せば増すほど、憎しみも深くなるのだろうか。

 自分と懷天フアイティエンが今後どんな風になっていくのか、以洋イーヤンにはわからない。

 それでも、もしも将来、自分の愛が同じくらいに憎しみに変わったとしたら、自分も東晴ドンチンと同じように、身体だけでなく魂も跡形もなく消えてしまうとしても二度と生まれ変わらない未来を選ぶはずだと、それだけはわかっていた。

「わかったから、もう泣くんじゃないって。君はこの数日間てもの、涙で服が洗えるくらい泣いているんだから」

 僅かに身を屈めた懷天フアイティエンが、以洋イーヤンの頬に口吻けてくる。

「それで夜食に何を作ってくれたの? この香りは」

 笑いながらそう言われ、以洋イーヤンも突然夜食のことを思い出した。涙を拭きながら鍋のところに駆けつけ、鍋の様子を一目見るや大慌てで火を止める。

 テーブルに鍋を運び、蓋を取った。

 今夜の夜食は酒釀湯圓ヂウニアンタンユエンだ。

 鍋の中身を知った懷天フアイティエンが、幾分驚いた顔になる。今夜が冬至だということにようやく気付いたらしい。ついでに酒釀湯圓ヂウニアンタンユエンが好物だと、いつ以洋イーヤンに言ったんだっけという顔だ。

 泣き過ぎた目元をまだひりひりさせたまま、以洋イーヤン湯圓タンユエンを器に盛りつけた。

小陸シアオ・ルー、ありがとう」

 懷天フアイティエンが嬉しそうな笑顔で、あつあつの湯圓タンユエンを受け取る。

 まだ一口も食べていないのに、もう酒粕で温まったかのような温もりを感じさせる笑みを見せている懷天フアイティエンの向かいに、以洋イーヤンも腰を下ろした。

「……さっき、東晴ドンチンが来たんだ」

 僅かな沈黙の後、そう告げる。

「そうなの?」

「生まれ変わりたくないんだって。賀昱霖ホー・ユイリンの傍にいたいんだって言ってた」

 言いながら辛くなって以洋イーヤンは目を伏せた。

「全部、僕のせいなんだ。僕のやり方がまずかったせいで、東晴ドンチンは怨霊になるしかなくなっちゃった。賀昱霖ホー・ユイリンが生きている間、ずっとあいつに取り憑いて、祟って、最後はこの世から消えてしまう存在に」

 湯圓タンユエンを食べながら以洋イーヤンの言葉に耳を傾けていた懷天フアイティエンが器をテーブルに戻し、溜め息を漏らしながら以洋イーヤンの手を握った。

「それは君の過ちじゃない。それだって李東晴リー・ドンチン自身が選んだことなんだ」

「でも僕は、本当なら東晴ドンチンを助けてやれたんだ……、本当だったら、こんな風にせずにちゃんと……」

 どれだけ悔やんでも、もう間に合わない。もっといい解決方法を思いつくべきだったのに、以洋イーヤンが使ったのは一番ろくでもない方法だった。。

 結局は東晴ドンチンが消えてしまうことに変わりないのなら、だったらあのまま聚魂盒じゅこんばこに飲み込ませてしまった方がましだったはずだ。

 そうすれば少なくとも東晴ドンチンは怨霊になったりしなかった。賀昱霖ホー・ユイリンに祟った挙げ句、自分の恨みに飲み込まれて苦痛の果てに消滅するようなことにはならなかったはずなのに。

 こうなったのは、以洋イーヤンの過剰な自信のせいだ。以洋イーヤンの思い上がりが、この結末を招き、それだけでなく君遠ヂュンユエンにまであんなショックを与える羽目になった。

小陸シアオ・ルー

 以洋イーヤンの手を握っている懷天フアイティエンの手に力が籠もる。

「この先も君はまだ今回みたいな件に何度も出くわすと思う。今度の件の埋め合わせをする機会はあるんだ。今回限りじゃない。だから、悲しんだり後悔することを焦るな」 

「うん……」

 微笑みながらの懷天フアイティエンの慰めの言葉に、以洋イーヤンは頷いて涙を拭った。

「わかってる。気をつけるよ。もう同じ間違いは犯さない」

 真剣な顔でそう答えたあと、もう片方の手も伸ばして両手で懷天フアイティエンの手を握り返す。

「さっき言ったこと、僕は本気だから。本当の本当に、僕はあなたのことがとても好きだよ」

 懷天フアイティエンを見つめてそう告げ、以洋イーヤンは深く息を吸い込んでから言葉を続けた。

「だから、僕のことが面倒でないなら、僕がいつも幽霊を連れてあちこち駆け回ってしょっちゅうあなたに心配を掛けていても、それが気にならないなら、どうか僕と一緒にいてください。一緒にいられる時間が短くてもいいから……」

 言っているうちにまた涙が出てきてしまう。

 懷天フアイティエンが立ち上がって、以洋イーヤンを抱き締めてくれた。

「二人ともそうしたいと思ってるんなら、一緒にいられる時間がどのくらいでも別に問題ないさ。心配しなくていいよ。たとえいつか一緒にいられなくなっても、互いに憎みあうようなことにはならないから」

「本当に?」

 懷天フアイティエンの胸に凭れながら、以洋イーヤンはまだ不安でそう訊ねる。

「そりゃそうだよ」

 懷天フアイティエンが笑って以洋イーヤンの背中を撫でた。

「君は悪意ってものを全然持たない子だからね。だから君が誰かを恨んだりすることはありえないし、それに俺だって君に負けないくらい君のことが好きなんだから、君を嫌いになる可能性なんてないよ」

 東晴ドンチンが言ってた通りだ。

 僕はほんとに運がよくて、そして幸せなんだ。

 ぎゅっと懷天フアイティエンに抱きついて、その胸に以洋イーヤンは顔を埋めた。

 一生、この手は絶対に離さない。絶対に懷天フアイティエンのことを嫌いになったりもしない。そう心の中で誓う。

 誰も嫌いになったりしたくなかった。誰かを、家族を、友達を、恋人を、愛すべき全ての人を、以洋イーヤンは一生、ただ愛していたい。

 特に、今、以洋イーヤンをその胸に抱きしめてくれている懷天フアイティエンのことを。

 懷天フアイティエンは自分が一生愛し続けるべき人なのだと、そう思う。

 将来の自分達がどうなるのかはわからない。それでも今この時、誰かを愛すことができるこの感覚を、以洋イーヤンは大切に受け止めていたかった。

 東晴ドンチンがもう失ってしまった、一番貴重なものを。

 以洋イーヤンは目を閉じた。涙を流しながら、懷天フアイティエンに自分から口吻ける。

 まだ誰かを愛すことができる。そして誰かに愛されることもできる。

 それだけで以洋イーヤンは、これ以上ないほどに幸せだった。


第六巻本編完






七巻の連載開始時に、タイトルを変更して連載を続行するか、別タイトルで新規に連載開始するかをまだ決めておりません。このため、しばらく「完結済み」にはせずに置いておきます。

七巻開始時には、当作品をフォローしている方にも伝わる形でお知らせいたします。

なお、ただいま原作の蒔舞先生が、示見シリーズの新版を台湾で出版するため、旧原稿のブラッシュアップ中です。ですので日本語版も、七巻以降はブラッシュアップ後の状態に合わせた翻訳を行うため、現在できている旧版に即した翻訳は、一次翻訳として保留状態になります。原作のブラッシュアップ完了後に、七巻の翻訳にもブラッシュアップを反映させての連載開始となります。どうぞお楽しみに!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒔舞作品 台湾発BLホラーファンタジー 示見の眼シリーズ 第六巻 新しい日々 黒木夏兒(くろきなつこ) @heier

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ