第七章(1)『以洋』、台湾大学に向かう

 アスファルトの地面の上に起き上がった時、予想していたような痛みは一切感じられなかった。手足に目を走らせてみても、どこももげたりはしていないし折れてもいない。

 東晴ドンチンは上を見上げてみた。確かに六階分の高さがある。

 なのにこのガキ、指の一本も折れてないってのかよ。

 軽い疼痛を感じている頭に手を這わせてみると、指先に鮮血がつく。じわじわと溢れ出ている血はまだ止まっていなかったが、それだって薄皮一枚破れた程度だろうと東晴ドンチンは思った。

 脳震盪を起こした様子もなく、頭がくらくらしたりもしない。足にちょっと擦り傷があるのと、地面に横たわったせいで服が汚れているだけだ。

 苦笑しながら立ち上がり、前に歩き始める。急がないとあの『先輩』が下りてくるはずだ。そうなったら逃げ出せそうにない。

 このガキ、ほんとに馬鹿だよ……。道理であんなに大勢が、こいつが何か馬鹿をやらかして自分で自分の身を傷つけるんじゃないかって、戦々恐々で見守ってるわけだ。

 以洋イーヤンを飛び下りさせた時、どうして以洋イーヤンがそんなに自信満々なのか、東晴ドンチンはわかっていないままだった。それでも実際のところ以洋イーヤンは――気絶はしているものの――本当にまったく怪我をしていない。

 自分がビルの屋上から飛び下りたあの時のことを、東晴ドンチンは思い出してみる。実際のところ、その時だってひどい苦痛を感じたわけではなかった。覚えているのは、やたらと澄んだ綺麗な目が見えたということだけだ。

 その後は、意識が戻った時にはもうこのガキの身体の中にいたんだよな。

 最初は、以洋イーヤンの身体の中でいったいどうすればいいのかわからなかった。だがその後、東晴ドンチンが襲われたのは嫉妬だ。許せなかった。どうしても許せなかった。

 俺はこんなに苦しい思いをしたのに、なんでこのガキはこんなに幸せそうなんだよ!

 自分がしているのが単なる八つ当たりに過ぎないのは、東晴ドンチンにだってわかっている。しかし、だったらどうすればいいのか?

 自分は既に死んでしまっている。何もかも失ってしまっている。それなのにいまさら何を遠慮する必要がある? いい人ぶる必要がどこにある?

 頭部の傷から滴ってくる血を、東晴ドンチンは袖でぐいと拭った。まだぼんやりと考え事をしながら、タクシーを拾って大学へと向かう。

 賀昱霖ホー・ユイリンに会いたかった。会って、そして訊いてみたい。自分にこんな仕打ちをしたのは、もう自分を愛していないからなのかと……。

 自嘲の笑みが東晴ドンチンの口元に浮かぶ。愛していると言われたからといってどうなる? 愛していないからだと言われたところで、別にどうなるわけでもない。まだ何かできることがあるわけでもない。

 だって自分はもう死んでいるのだ。

 完全に死んでしまっていて、もう取り返しがつかない。

 このガキの彼氏が言ってた通りだよ。

 そう、これは全部、東晴ドンチン自身が選んだことだ。あんな男を選んだのも、こんな人生を選んだのも、全てを捨て去って死ぬことを選んだのも。

 だからもうこれ以上は何も言えない。

 無意識のうちに涙が流れ出しているのに気付き、東晴ドンチンは手で頬を拭った。熱い涙が指を濡らす。

 生きている。そのことがこんなに素晴らしいなどと、東晴ドンチンはこれまで思ったことがなかった。思わないままに、捨ててしまった。こんなに、簡単に。

 止め処なく涙が溢れてくる。悲しくてたまらない。

 死んだ後でもこんな悲しみがあると知っていたら、絶対に死ななかった。生きていればもしかしたらやり直す機会があったかもしれない。でも、もうそんな機会も一つも残されていない。

 校門前でタクシーを降り、キャンパスに足を踏み入れる。向かう先は研究室だ。まだ明かりが点いていたので、賀昱霖ホー・ユイリンが中にいるとわかる。

 三階までの階段をゆっくりと東晴ドンチンは上がった。そしてドアを開け、研究室に入る。賀昱霖ホー・ユイリンがいつもいるのは、一番奥の部屋だ。

 軽くノックをすると、その音で賀昱霖ホー・ユイリンが振り返った。『以洋イーヤン』の姿を目にした賀昱霖ホー・ユイリンが、幾分驚いたような顔になる。

「君かい? なんでまた……そんなにぼろぼろになっているんだね?」

 にっこりと『以洋イーヤン』は賀昱霖ホー・ユイリンに笑い掛けた。

「この間はごめんね」

「ああ……、いや、かまわないよ。しかし、君、どうして私がここにいるとわかったんだ?」

 そう言って立ち上がった賀昱霖ホー・ユイリンの目には、幾らか疑惑の色が籠もっている。

 それはそうだろう。この身体は賀昱霖ホー・ユイリンの好みにぴったりのはずだが……前回あの刑事――高懷天ガオ・フアイティエン――が飛び込んできたあの状況は、美人局を疑わせるのにも充分だったはずだ。

 逃げ帰った後もしばらくは戦々恐々として過ごす賀昱霖ホー・ユイリンの姿は、東晴ドンチンには簡単に想像がついた。そして、昨日今日と何も起こらなかったので、単に運が悪かっただけだと思ってほっとしたところだったはずだ。

 よもや『以洋イーヤン』にもう一度会うことがあるなどとは、全く予想していなかっただろう。

「台湾大学の人だってあの時聞いたからさ。しかも教授でしょ? ちょっと調べたらすぐに出てきたよ。実はボク今、少しトラブルを抱えてて、それであなたなら助けてくれるんじゃないかと思ってさ」

 甘い笑みを『以洋イーヤン』は浮かべてみせる。

「もちろんだとも」

 賀昱霖ホー・ユイリンも笑顔になった。入口に立っている『以洋イーヤン』に向かって賀昱霖ホー・ユイリンが歩きだしたので、『以洋イーヤン』は研究室の外へ向かった。

 ドアを潜り、外廊下まで出て、手すり際で賀昱霖ホー・ユイリンを待つ。建物の下の芝生を見下ろせば、そこではキャンプ愛好サークルがちょうど合宿中だ。参加している学生たちの様子がここからはよく見えた。

「それで私に何をしてほしいのかな?」

 研究室から出てきた賀昱霖ホー・ユイリンが『以洋イーヤン』の耳元でささやく。

 賀昱霖ホー・ユイリンを振り返った『以洋イーヤン』は、笑顔で口を開いた。

「認めてほしいんだよね。俺の論文をあんたが盗んだってことと、研究費を横領した件を俺に押し付けたってこと」

 賀昱霖ホー・ユイリンがぎょっとした顔になり、一歩後退る。

「君はいったい何を言ってるんだ?」

「あんたって昔からそんなだよな」

 東晴ドンチンは溜め息を吐いた。

「スケベなくせして臆病でさ、責任を取る勇気もないタマなし野郎。俺が毎回毎回あんたに俺の論文を好きにさせてやってたのは、俺があんたに惚れてたからだよ。別に俺が馬鹿だったからってわけじゃない」

「君はいったい誰なんだ! 変な冗談はやめたまえ。私は他人の論文を盗んだことなどない。でたらめを言うな!」

「俺は東晴ドンチンだよ。なんでわかんないかな?」

 こちらを睨みつけている賀昱霖ホー・ユイリン東晴ドンチンは笑いながら告げる。

「俺が十五の時、あんたは俺を騙くらかしてベッドに引っ張り込んだよな。俺が十七の時には、俺の傍から離れないよとかなんとか言ったっけ。十八歳の時には俺に指輪を送ってくれた。夜市で買ったみたいな安物だったけど、俺は馬鹿みたいに喜んだっけ。あんたのプレゼントが高価なものになったのは、俺の論文をあんたが盗作するようになってからだった。八千七百元のセイコーの腕時計、六千八百元のジーンズ。あんた俺がジーンズ穿こうとするといつも、貧乏くさいって嫌がってたのにさ……」

「やめろ!」

 賀昱霖ホー・ユイリンの表情は、まるで化け物でも見たかのように引き攣っていた。更に何歩か東晴ドンチンから距離を取った賀昱霖ホー・ユイリンに、東晴ドンチンは微笑みかける。

「俺が怖いの?」

 今や賀昱霖ホー・ユイリンは力の限りに首を振っているだけだ。

東晴ドンチンは死んだんだ。東晴ドンチンは死んだんだぞ……」

「そうだよ、俺は死んだんだ。それもあんたに殺されてね」

 追い詰めるように東晴ドンチン賀昱霖ホー・ユイリンに向かって一歩足を踏み出した。

「近寄るな! そんな話、東晴ドンチンがお前に話したに決まっている! 私を脅せると思うな!」

 ぎらついた目で賀昱霖ホー・ユイリン東晴ドンチンを睨み、後ろに退く代わりに東晴ドンチンの方に一歩足を進める。

 東晴ドンチンは逆に外廊下の手すりに向けて一歩下がった。その笑顔が楽しげな、それでいて見る者をぞっとさせるほどに荒んだものになる。

「俺が東晴ドンチンじゃないって? 確かめてみるか? あんたに盗られた俺の論文のタイトルを全部言ってやろうか? あんたと行ったことのあるホテルの名前を一つ一つ言うか? それとも、あんたの身体中の黒子の位置にするか?」

「私を脅せると思うなと言っただろう!」

 賀昱霖ホー・ユイリンが大声で怒鳴り、その声に気付いたキャンプ中の生徒たちが上階に目を向け始めた。

「そうか? 俺が十五歳の時、年越しに行った陽明山でカーセックスしたのはもう忘れたか? 十六歳の時のバレンタインに、宜蘭の温泉で俺に無理矢理何をやらせたかは? 十七歳の時に俺たちが……」

「それ以上言うな!」

 飛び掛かってきた賀昱霖ホー・ユイリン東晴ドンチンを手すりに押し付ける。

「お前の言うことなど一言たりとも信じない! 東晴ドンチンはもう死んだんだ!」

「俺がこんなにあんたのことを愛してるのに、あんたはこれまで俺のことなんか一度としてそんな風に意識しなかったんだろ」

 東晴ドンチンの目から涙が溢れ落ちた。

「ビルから飛び下りる感覚がどんなものだか、あんた知ってるか? 十数階から地面に叩き付けられるのがどんな感覚かは? 俺みたいな死に方する度胸があんたにあるか? 無理だよな! あんたにそもそもそんな度胸ないもんな! 俺なしじゃ論文なんて一文字も書けやしなかったくせに!」

「黙れ!」

 怒りに任せて賀昱霖ホー・ユイリンは『以洋イーヤン』を突き飛ばし……、そして『以洋イーヤン』が笑ったのを見た。

 驚愕と混乱の中、賀昱霖ホー・ユイリンはようやく気付く。自分が『以洋イーヤン』を建物の外に突き落としたのだと。

 慌てて『以洋イーヤン』を掴み止めようと伸ばした手は、『以洋イーヤン』に払い除けられた。『以洋イーヤン』の笑顔だけが目に焼き付く。落ちていく、その楽しそうな笑顔だけが……。

 階下の芝生でキャンプ中だった学生たちの喉から驚愕の叫びが迸った。彼等は目撃してしまったのだ。賀昱霖ホー・ユイリン教授が建物の三階から誰かを突き落としたその光景を。

 落とされた誰かは茂みに叩き付けられ、その中に落ちていった。パニック状態の学生たちが口々に叫びながら電話を掛ける。救急車を呼ぶ者、警察に通報する者。そして何人かは落ちてきた人物のところへ慌てて駆けつけた。

 頭からは出血し、身に着けている服もぼろぼろに破けている。急いでその被害者を助け起こし、茂みの中から連れ出そうとした時、賀昱霖ホー・ユイリン教授がパニック状態で走ってくる。

「これは、私のせいじゃない……、彼が……、彼が悪いんだ。私じゃない。私は悪くない!」

 そう叫ぶや否や賀昱霖ホー・ユイリン教授は走り去っていってしまい、残された学生たちはどうしたらいいのかわからずに顔を見合わせた。




 朦朧とした意識の中、以洋イーヤンは薄く目を開く。大勢の生徒たちが周りから代わる代わるに、大丈夫か、どんな具合かと問い掛けてくるが、どういう事態なのかが頭がくらくらしていてよくわからない。顔を横に向けると、馴染みのない、それでいてよく知っているような気のする顔が、遠くから以洋イーヤンを見ているのが見えた。

 ……李東晴リー・ドンチン

 東晴ドンチンは何も言わない。もう無惨な死に顔や飛び出した眼球で以洋イーヤンを怖がらせることもしない。ただ静かな穏やかな顔で以洋イーヤンを見つめているだけだ。

 そして、何も言わないまま後ろを向くと立ち去っていく。

 ……どうか君の新しい人生に向かっていって……。そして……、もう二度とあんなろくでなしとは出会わないで……。

 これ以上ないような疲労を感じて以洋イーヤンは目を閉じた。再び意識が遠ざかっていく中、一つの思いだけが胸に浮かぶ。

 懷天フアイティエンに今とても会いたかった。

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