官房長官と秘書官

 官房長官に呼び出された秘書官は、執務室のドアをノックした。

なかから「どうぞ」という官房長官の声が聞こえるのを待って、秘書間はノブを回した。

「やあ、君か。待っていたよ」官房長官は机から立ち上がると、秘書官をソファにうながし、自分も深く腰掛けた。

「総理の様子はどうだね」官房長官は、テーブルの上に置いてあるウイスキーのデキャンタにおもむろに手を延ばし、ボン、と蓋を引き抜いた。

「いつも通り、戦闘機ごっこの時間です」秘書間は差し出されたグラスを受け取った。

「そうか。いつも通りだな、まさに」官房長官はグラスに口をつけた。「まあ、あの人はあれでいいんだ。あれしかやってきてないんだから」

「それで、今日はどういったご用件ですか?」そう言って、秘書官もウイスキーで唇を湿らせた。

「──ああ、このウイルスは、チャンスだろう。まあ野党は騒いでいるが、想定の範囲内だよ」

「──この混乱に乗じてのチャンスってことですかね。」

「君、何度も言っていることだが、政治家になるなら核心を突くような物言いはいい加減やめたほうがいいよ」

「そうですね。でも、まあ僕はもう、諦めてますから」

「そんなことはない。今回のことで我々のために働いてくれれば、黒革くんのように、君にも道を開いてあげようじゃないか」

 またこの話か、と考えながら、秘書官はウイスキーをひと口飲んだ。

「君、人間は気持ちひとつだよ。やると決めて行動すれば、望んで手に入らないものはない。段ボール工場で働いていた私が、夜学しか出ていない私が、いまこうしているのが、証拠だよ」

「先生のような人は貴重な存在ですよ、本来は。一般市民の気持ちを理解できる数少ない政治家、のはずですからね」

「本来は、と、はずですから、というところが政治家向きじゃないと言うんだよ」

「政治家向きの政治家なんて、この国にいるとは思いませんがね」

「まあまあ。我が国のコロナ対応はうまくいっていると言っていいし、ウイルスにばかり煩わされていてもいけないからね。まあ幸い、国民の目線が目の前のマスクと資金繰りに向いていることだし、この際、必要なものは通してしまったほうがいいと思わないか」

「布マスクは、非常事態宣言終了後の、マスク不足解消後に、スピード感をもって全国に届きそうですか」

「君、いい加減にしたまえ。君にチャンスをあげようというときに私を怒らせてどうする。君は伊米くんや布マスクの過田くんのように総理のお気に入りになれないでいるが、私は優秀な人物だと君を買っているんだ。このままいつまでもこのへんで燻っていてどうする。今回の黒革くんのことで私に力を貸してくれれば、いずれそう遠くない選挙で君が立候補できるように取り計らうと約束しよう。君にとって、おそらく最後のチャンスになるよ。この機会を逃す手はない。ちがうかな」

 官房長官は、秘書官のグラスにウイスキーを注ぎ足した。秘書官はそのグラスに口をつけると、半分ほどをあおって唇を拭った。

「美味いウイスキーですね……と言いたいところですけど、僕にはこの味がわからないんですよ。先生はおわかりになるんですか?」

「わかるさ。わかるようになったんだ。君もわかるようになったらいい。世の中、美味いものはいくらでもある。しかし、それを味わうことができるのは、選ばれた人間だけだ。そしてその扉が開かれる人間は限られている。恵まれた人間か、切り開いた人間だ。ただし、切り開く人間は、私のように、限られた少ないチャンスを逃さず、掴み取らなければならない。判断力と行動力だよ。君もこっち側に来たらいいのさ」

「選ばれた人間か……確かに先生は、選挙で選ばれた人間ではありますね」

「そうだ。その選挙が肝心なんだよ。選挙で選ばれた人間が手にするものはとてつもなく大きいからね」官房長官は、両手で握っている、複雑にカットされてやたらと輝くグラスを愛おしそうに撫でた。

「そのとてつもなく大きいものを手にした、選ばれた人間たちが雁首揃えて座っている国会中継を見ていると、こんな醜い連中が国を仕切ってるのかとうんざりしてくるのはなぜなんでしょうか」

「醜い──ほう。それはどういうことかな」ウイスキー・グラスを握る官房長官の指に力が入るのがわかった。

「単純に面構えっていうのもありますよ。人生が顔に出るっていうやつです。黒革さんにしても、何を頼まれても、はい、わかりましたって二つ返事をしまくってきたような顔してるじゃないですか。法の番人らしい厳格は微塵もない。でも、そういう情緒的なことだけでもないです。予算委員会とは名ばかりで、裏金問題や汚職や失言に対する口撃を繰り返す野党も酷いですけど、それに対する口裏合わせと隠蔽と、官僚作のはぐらかしの原稿を読むだけで時間を浪費してるのは、醜いとは言わないですかね」

「野党が吹っかけてくるからだろう。連中は幼稚だからね」

「確かに幼稚だし、不祥事、任命責任、辞職って毎度拙速に追い込もうとして空回りしてますけど、政府や与党も、時間がたてば国民は忘れるって馬鹿にしすぎてませんかね。過田さんも木田村さんも伊米さんも黒革さんも、時の権力の片棒を担いで仕事ができる気になってますけど、この政権が、後になってどう評価されるか、教科書にどう載るか、考えたことありますか? 総理や長官は、菅原道真と藤原時平、どっちになると思いますか」

「──藤原時平、と言われてもよく知らないが、何をやったかあまり知られていないんじゃないかな? それと比べろと言われてもねえ」

「何で知られてないんでしょうかね、時の権力者は時平のほうだったのに。その絶大な権力に物を言わせて、道真が左遷されるように仕組んだのが時平ってことになってるんですよ。それだけの権力を振るっていたのに、今は教科書にちらっと出てくるだけの人物になっていて、一方、排除された側の道真は全国1万以上の神社で神になっています」

「何が言いたいんだね」

「どうもあなたたちはみくびっているし、見下してるようですけど、民衆にはわかるんですよ。権力の質が」

「これだけの長期政権とアベノミクスの成果ととしての景気回復、東京オリンピック、それに今回の新型コロナ対応を見ても、悪くはないと思うがね。むしろ上出来だろう」

「大きな仕事を成し遂げるには清濁併せ吞むことになるのは仕方ない、みたいなトーンで仰ってますけど、必死に体裁を取り繕いながら、何年もかけて薄っぺらい景気回復を積み重ねてきた天下のアベノミクスも、今回のウイルス一発で全部吹き飛んじゃったんじゃないですか。どうせ吹き飛ぶのにアベノミクスとオリンピックにうじうじしがみついて、コロナ対応の初動が遅れたことの責任をこの内閣が取ることはないでしょう。今回の特措法の内容も、国にとって都合が悪いことはやらせないように縛り上げているのに、各自治体の裁量と責任でやらせるふうにして、国に責任が回ってこないように仕組んである。姑息ですね」

「姑息? 巧妙だと言ってくれたまえ。実際、結果的にうまくいっているじゃないか。感染者の数も死亡者の数も、世界各国と比べたらこれは奇跡だよ。神国日本と言ってもいい。それにな──」

「ちょっとちょっと」秘書官が手で制しながら遮った。「それ以上気持ち悪いこと言うのやめてください。長官は本当に、このある意味で奇跡的な状況が、政府の対策の効果だと思ってるんですか?」

「──そうだろう。特措法は国が出したんだ。政府の努力の結果じゃないか」官房長官はウイスキーを飲み干すと、自分で乱暴に注ぎ足した。

「長官は本当はわかってるんじゃないですか。政府の対応があまりに無責任で頼りないってことを。そして、こんな政府を頼りにしていたらとんでもないことになると不安を覚えた多くの国民が自発的に活動を抑え、あるいは国の対応に業を煮やした何人かの知事の動きと呼びかけに応じて予防策を講じたその結果として、この奇跡的なレベルでの抑え込みが実現していることを。国じゃない、国民が対応したんですよ」

「何を言っているんだかわからないね。政府が必要な措置を、過不足なくおこなった結果だ。それ以外にはないと承知しているよ」

「官房長官のマスクは24時間はずさないんですか。自分の言葉で喋れよ。あんな頭からっぽの戦争ごっこ総理より、あなたのほうがよっぽどまともな人間だとまだ僕は思ってるんです。あなたの言葉を聞きたいんですよ」

「私の言葉、か」官房長官は、秘書官を一瞥してウイスキーをまたひと口飲んだ。「そんなものを話したのはいつだか、もう覚えていないね。しかし、それは私の怠慢ではない。優秀な役人たちが、私の言うべきことをしっかり把握してくれているからだよ」

「役人てのは、実に優秀な人間の集まりだと思いますよ」

「そうだろう」

「省庁に集まっているのは、そのなかでも優等生中の優等生でしょう。でも、僕は、優等生っていうものに疑問があるんですよね」

「疑問など差し挟む余地のない優秀な人間たちじゃないか。実務能力と状況判断力に秀でた信頼できる人間たちだよ」

「そうですね、何せっていうくらいですから。でも、優等生になるため、優等生であるための条件て何でしょう?」

「それは君、求められた期待と課題に期限以内に基準以上の内容をもって答えられる、ということだろう。定期試験にしても受験や公務員試験にしても、すべてにおいて言えるのはそれじゃあないかな」

「いやいや、そんなことは誰だってわかってますよ、長官。優等生っていうのはね──怒られないように生きるのが巧い人間のことを言うんですよ」

「どういうことだ」

「定期試験でいい点を取れば怒られないでしょう。受験や公務員試験の試験日に間に合うように準備ができて合格すれば、親や教師を失望させることもないし非難されることもない。提出物の期限に遅れたり、日常生活で教師を怒らせるようなことをしたりしなければ、平常点に響くこともない。怒られないことは、優等生であるための必須条件なんですよ。でもね、優等生全員が本当にひたすら真面目に生きてる人間だと思いますか?──そうは思わないでしょう。いないとは言わないにしても、優等生のなかのほんのひと握りですよ。残りの多くの連中は適当に悪いことをしながら、それが見つからないようにするのが、あるいは見つかっても自分が責められないようにするのが巧いんです」

「それがどうした。要領がいいのは悪いことじゃないだろう」

「そうかもしれないですね、今回の特措法にしたって、その実力が存分に発揮されてますからね。何万字もの文書が、一文一文は説得力があるのにぜんたいとしては結局何も言ってないとか、理路整然としているようでいて、どこを探しても責任は政府にたどりつかないように巧みに練り上げられているとか、優等生の御家芸みたいなもんでしょう。自分が怒られないように仕上げることにかけては、国家公務員ほど優れた人材はいません。でも、それももう国民にばれる時代になってると思いませんか。ネットがあってソーシャルメディアもあれば、デマもフェイクも多いけど、確実に裏側はばらされる。みんなにばれてるのに、ばれてないみたいな顔をして冷静を装って対応しなきゃいけない官房長官は、憐れな仕事だと思いますよ。見ててかわいそうになります」

「君、自分がいま何を言っているのか、わかっているんだろうな」官房長官が、噛み締めた歯の隙間から絞り出すように言った。

「わかってますよ。だからね、黒革さんのことも、もう全部ばれてる。そして、ソーシャルメディアが武器になることも国民は気づきはじめている。昭和のじいさんたちが下唇突き出してふんぞりかえってられる時代は、もうとっくに終わってるんですよ。それにね、官僚の腐敗を糾して政治主導にしたのに、首相も国務大臣も専門家が誰もいない、おままごとみたいな政治を続けてるこの国はそもそもとっくに終わってるんですよ。確かにあなたは、自分が総理になれば、もっと地に足がついた政治が実現できる、そのために今日まで我慢してきたのかもしれないし、もしかしたらあなたは本当に理想の政治を実現できる人なのかもしれない。そして、頭からっぽ首相を守るためじゃなくて、自分の政治のために黒革さんが必要だと思ってるのかもしれない。そうだと信じたいですよ、僕も。きっとあなたは、そのために夜間大学からここまで這い上がってきたんだから。でもね、ここに来るまでに、あなたも随分汚れてしまっているでしょう。汚れたままでずっといると、その汚れにも慣れて、自分が臭くて醜いことにはもう気づかなくなりますからね」

「──おまえに何がわかる」官房長官が、酔いで潤んだ目で秘書官を睨みつけた。「おまえに何がわかるというんだ。俺がここまで来るのにどれだけ泥水を飲まされたか、地べたを這いずり回ってきたか、おまえにわかるか。──俺はそうやって、何十年もかけて、ようやくここまで来たんだ」

「じゃあ、あなたを信じましょう。でも、僕ひとりが信じても信じなくても、あなたの政治人生には何の影響もないでしょう」

「そうだ、君の声は果てしなく小さい。そんな蚊の鳴くような声しか持たない君の声が、多くの人に拍手をもって迎えられ、届く日が、もう来ることはないということには気づいているかな。泣きついても今更取り返しはつかないぞ。明日からも平気な顔で秘書としてここで働き続ける気か? 君が辞めなくてもな、辞めさせることだってできるんだ」官房長官は、ウイスキーがなくなったグラスに水を注いだ。

「平気な顔でここで働き続けるのは簡単ですよ。いままで何年もそうやってきたんですから。でも……貯金も目標額はひとまず達成したんでね、こんな世界からはもう離れて、コロナの嵐が去ったらになりますけど、家族と沖縄かどこかでパン屋でもはじめようかなと思ってます。それか、これからの時代は農業がいいかもしれないと思っています」

「十何年もここで働いてきた時間を捨てて、一国を動かす力を手に入れる道を自ら閉ざしてしまって、君、後悔することになるぞ」

「それはどうでしょう。もうすでにここにいることを何年も後悔してるんでね。そういう、一国を動かす、みたいな権力志向に振り回されて、舌を出して餌をもらう順番待ちをしてるあなたたちの近くにいるのはもう、うんざりなんですよ」そう言うと秘書官は、残ったわずかなウイスキーを飲み干して、立ち上がった。

「長官、今のところ僕はあなたを信じますよ。そして、あなたを信じる証拠に、この録音した音声は、ぼくが責任を持って厳重に保管しておきます。でも、もし自分の権力の衛兵として黒革さんを雇っているのがわかったとしたら、そのときは、これを文春か朝日にでも提供します」

「な、貴様……」

「大丈夫ですよ。ぼくを信用してください。、この音源が公開されることは絶対にありませんから」

 秘書官は、そのままドアの前まで進むと、官房長官のほうへ振り返った。

「僕を信用していいかどうか、考えてるんですか? こいつは信用できるか、できないかって、今のその地位に来るまできっとそればっかり、数えきれないくらい考えてきたんでしょうね──結論はお任せしますよ。ウイスキーご馳走様でした。失礼します。それから、お世話になりました。政治家としてのこれからのあなたに、大いに期待しています」

 秘書官はそう言うと一礼をして、官房長官の執務室を出ていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ボク、総理ですけど何か問題でも。 永田南 @nagataminami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ