エピローグ

「あれ? 希ちゃん? 久しぶりだね」

 学校帰りに自転車に乗って、近所の公園沿いを走っていると、突然声をかけられて、立ち止まった。

「あ! 静哉君! 久しぶりだね。帰ってきてたの?」

 自転車から降りて、スタンドを立てた。私は、しゃがみ込んで、ランクの頭を撫でた。他県の大学に進学した静哉君は、一人暮らしをしている。ゴールデンウィークを利用して、帰省しているそうだ。なかなか会えなくなってしまった静哉君と、散歩をしているランクもとても嬉しそうだ。ゴールデンウィークは終わっているけれど、ラッシュを避ける為、連休を延長しているとの事。大学生は、羨ましい。その後、公園のベンチに座って、静哉君と世間話をして別れた。

 静哉君は、初恋の人だから、久し振りに話せて嬉しかった。私が体調を崩し、入院したのは、小学四年生の頃だった。静哉君は、受験勉強の忙しい合間を縫って、私にお守りを届けてくれた。実は、そのお守りは、まだ持っている。でも、静哉君の事は今でも好きだけど、当初抱いていた恋心とは、違う気がする。

 あの時、勇気が持てず、静哉君にお守りを渡せなかった私の背中を押してくれたのは、お兄ちゃんだ。私には、分かる。

 入退院を繰り返していた私が、中学校に入学して一か月くらいたった頃、お兄ちゃんは亡くなった。ウチのリビングで、望に抱かれて、家族に見守られて息を引き取った。私と望は、その後、泣きに泣きまくった。体中の水分が、涙として流れてしまったと思うくらいに。私よりも、望の方が立ち直るのに、時間がかかっていた。部屋から出てこなくなり、ご飯も食べていなかった。学校に通える状態ではなく、両親は暫く様子を見る決断をした。望が家を出たのは、私の手術の日であった。

 望は、涙を浮かべながら、『絶対に死なないで』と、何度も何度も懇願し、私の手を握っていた。

 絶対に生きて、家に帰らなくちゃ。私は、強く決意した。もし、私まで居なくなってしまったら、望が壊れてしまう。私の想いと家族の想い、それからお医者さんのお陰で、手術は無事終わった。それから嘘のように体調は回復し、入院生活から脱出した。普通に学校に通って、友達もできて、健康そのものだ。確かその頃から、私はママをお母さんと呼ぶようになった。理由は、覚えていない。たぶん、友達の前で、ママと呼ぶのが恥ずかしかったのだと思う。手術が成功した時に、お母さんから言われた事を、今でもよく覚えている。

―――きっと、よくないもの全部、ホップが持っていってくれたんだね。

 私も、そう思った。きっと、お兄ちゃんが、守ってくれたのだ。

 自転車を庭に止めて、私は家に入った。すると、カチャカチャカチャと爪がフローリングに当たる音が聞こえた。

「ただいま! ホップ!」

 玄関の上がり框に腰を下ろして、ホップを抱きしめた。ホップは、大はしゃぎで私の口元を舐める。

「あーあ、折角僕と遊んでいたのに、ホップをノンタンに取られた」

「ノンタンって言うな!」

 私は、二代目ホップを床に下ろし、リビングへと入った。二代目ホップが、ウチに来たのは一年くらい前だ。お父さんが、突然連れてきた。お兄ちゃんと、同じシーズー犬で、体の模様や色もそっくりだ。チビホップだ。二代目が来て一番喜んでいたのは望だ。そして、お兄ちゃんと同じ名前をつける事に、一番反対していた。今では、すっかり受け入れている。お兄ちゃんは世界に一人だけで、いくら姿形がそっくりだからといって、同じ名前をつける事は嫌だったみたいだ。

 今では、もう問題ないのだが、ホップがきた時は、本当に大変だった。色々躾ける事が、これほどまでに根気がいるとは驚いた。教え方をお母さんから聞いて、私と望がホップの躾係だった。お兄ちゃんは、私達が物心つく頃には、しっかりしたお兄ちゃんだった。もう、何度ウンチを踏んだか、分からない。

 この子は、私達の弟だ。今度は、私達がこの子を守ってあげなくちゃ。

 最近、『なんとなくお座り』ができるようになった。これは、私と望の努力の賜物だ。しかし、ホップが我が家にやってきて、いい事ばかりではない。望が、あまり外に出て行かなくなったのだ。小学生の時は、帰宅後ランドセルを投げ出して、遊びに行っていた。今は、学校から真っ直ぐ帰ってきて、ずっとホップと遊んでいる。部活もやっていない。でも、友達がいない訳ではなさそうだ。学校で見かける望は、常に誰かと一緒にいる。あ、今日は珍しく一人だったな。学校の階段で遭遇した。不覚にも帆夏ちゃんから、『ノンタン』という奇妙なあだ名で呼ばれている事がばれてしまった。お兄ちゃんが亡くなって、『命には限りがある』という事を痛烈に思い知った望は、ホップにべったりくっついている。お兄ちゃんにしていた様な意地悪もしないし、とても優しく大切に接している。帆夏ちゃんに紹介して欲しいと言われたけれど、きっと望は女の子よりもホップを取るだろう。それはそれで、考え物だ。

「望、ホップの散歩、私行くね」

「え? じゃあ、僕も行くよ」

 玄関の脇に掛けられているリードをホップにつなげる。壁には二本のリードが掛かっていて、残っているリードはお兄ちゃんの形見だ。家を出て、いつもの散歩コースを辿る。橋の横にある階段を下り、川沿いの広場に出た。私は、橋の下を指さした。

「望、秘密基地寄っていかなくていいの?」

「うるせえよ」

 そっぽを向く望に、私はクスクスと笑った。これは、ノンタンと呼ばれた意趣返しだ。望は、小学二年生の時に家出をして、橋の下に隠れていた。そう、お父さんが教えてくれた。望を見つけて帰ってきたお父さんは、お兄ちゃんの事を自分の事のように自慢しまくっていた。お兄ちゃんが、望を見つけてくれたようだ。

「あ、そう言えば、今静哉君帰ってきてるよ」

「うん、知ってる。ゴールデンウィークに、拓海の家で会った」

 どうして、私には教えてくれなかったのだ。拓海君とは、高校が別になったけれど、今でも仲良しのようだ。じゃあ、きっと、あの事も知っているはずだね。卒業式の少し前に、拓海君に告白された。そして、丁重にお断りした。でも、この事について、望は何も言わない。

 川沿いの広場に壁があって、その上に私達の家が建っている。壁の近くに点在している桜の木は、綺麗な花弁を散らして、もう骨だけになっている。すると、ホップが桜の木に駆け出し、桜に向かって吠え始めた。いったい何が見えているのやら。子供の頃は、怖かったけれど、今ではもう慣れた。

 私は、首にかけているペンダントを握った。

 このカプセル型のペンダントには、お兄ちゃんの骨が入っている。お兄ちゃんが、息を引き取る瞬間に、私に向かって吠えた。私は、とても驚いた。突然、大声で吠えられたからではない。

 お兄ちゃんの声が聞こえた―――言葉の意味が理解できたからだ。いや、気のせいかもしれないし、私のただの願望なのかもしれない。でも、そのお陰で、私はお兄ちゃんに、嫌われていなかったと思えた。私は、桜に向かって吠える小さなホップを見つめた。

「ねえ、望?」

「ん? 何?」

 望は、懸命に吠えるホップを抱き上げた。ホップは、望の腕の中で、まだ桜の事が気になっている様子であった。

「・・・お兄ちゃんの最後の言葉って、知ってる?」

 望は、私を見て、ホップの頭を優しく撫でた。ホップは、落ち着きを取り戻し、望に甘えていた。

「さっきホップがさ、木に向かって何て言ってたか、分かる?」

「・・・え?」

「『僕のお姉ちゃんには、手を出すな!』ってさ」

 望は、ホップに口元を舐められながら、穏やかに微笑んだ。

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希望の為に、兄は今日も吠える! ふじゆう @fujiyuu194

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