霧の向こう側にいる貴女へ

潮風凛

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 あの時、私の意識の始まりは病院の白いベッドの上からだった。

 それ以前の記憶を、私は全て失っていた。どうして病院にいるのかすら思い出せない。私の身に、何が起きたのか。いや、そもそも私は誰……? 自己の認識すら曖昧で、そのことが怖くて私は冷たいシーツの中で震えた。

 幸い母親と名乗る女性が私の傍にいて、震える私を抱き寄せてくれた。彼女のことは全然覚えていなかったけれど、少し震えた控えめで丁寧な腕の感触は覚えがあるものだったので嬉しかった。もう少し手が小さくて、腕は痩せていて、汗と埃の匂いがしたはず。そんな考えが頭をよぎったのは不思議だったけれど。頭をひねっていると鉄錆びた匂いと生臭さが微かな雨の匂いとともにやってきて、途端に母の腕が太く気持ち悪いものに感じて吐きそうになったので慌てて首を振った。

 訝しげに私を見下ろす母に、少しつっかえながら掠れた声で私の名前は何か問う。母は少し息を呑んだ後、赤くなった目元を和ませて綺麗な発音で教えてくれた。


 ――アヅキイク。杏月郁。それが、私の名前。


 教えてもらった名前は全く私のものだという実感がなくて、どこか遠い異国の言葉のようだと思った。それでも、ようやく「私」が「私」という証明を得られたようで深く安堵したことを覚えている。

 それから少しの間私の身体を確かめるように触れていた母は、「お医者様と保護観察の方に会って少し話してくるわね」と言って病室を去った。独りになった私は、手慰みに掛けられた布団を握ったり伸ばしたりしながら奪われた自分の記憶を取り戻すことに奮闘した。

 目を閉じて頭の中を探る。霧深い森の中のように全ての輪郭がぼやけて曖昧な中、私は不意に貴女を見つけた。

 貴女は霞みがかったような記憶の中で、旅人の道標の如く輝いていた。青白い顔に栗色の瞳と同系色の髪。痩せて小枝のように細い手足。甘えるような無邪気な笑顔と私の服に縋り付く腕の力強さ。断片的にだがこんなにもはっきり覚えている。それなのに、貴女の名前やどこで出会いどういう関係だったのかを思い出そうとすると途端に霧の向こうに消えてしまうのだ。私は、思わず白い天井に向かって手を伸ばした。


「貴女は、だれ……?」


 とろりとした濃い霧の中、貴女はいつも笑っている。しかし、結局私の問いに答えてくれることは一度もなかった。


 *


 二週間ほど入院して、私は病院を出た。結局、私は退院しても記憶を取り戻すことができなかった。

 母は、私に病院で目覚める前のことをあまり話そうとしなかった。多分、思い出してほしくないのだと思う。担当保護観察官と名乗った女性も、思い出せないことは無理に思い出さない方がいいと言った。


「記憶がないのは不安かもしれないけど、郁ちゃんに必要なことはいつかちゃんと思い出せるはずだから大丈夫だよ。それまで、お母さんとお姉さんが郁ちゃんを助けてあげるからね」


 保護観察官はいい人だった。うなじまでの黒髪が綺麗な、快活で優しい女性。彼女の言葉は真に私を想うもので、嘘はないだろうと思った。

 その時は私も、あまり思い出そうとしない方がいいかもしれないと考えていた。大した怪我も病気もなかった私が退院に二週間もかかったのは身体の栄養状態が中々改善しなかったせいで、その原因が毎晩の悪夢による嘔吐だということを理解していたからだ。

 私は入院中、毎晩のように悪夢を見た。具体的に何があったのかは全然思い出せない。それが過去の出来事なのかどうかも判然としない。ただ、濃い霧に煙る視界と世界を覆うような雨の気配、舐め回すように全身に触れる熱。身体を濡らす生臭い液体と鉄錆た臭いが私の感覚全てを支配し、貫かれるような痛みと気持ち悪さに喘いだ。

 胃の腑からせり上がるような吐き気に人を呼び、空っぽの胃から少量の液体を出しては嘔吐く夜。終わらない苦しみの中で、私が救いを求めたのは貴女だった。

 貴女の笑顔だけが、私の唯一の光だった。暗い夜の淵で悪夢に怯えながら夜明けを待つ間、私はただひたすら貴女に縋った。たったひとつの明解な記憶。幻と分かっていても、貴女の華奢な腕に抱かれることを考えればどんな恐怖も耐えられる気がした。

 何度もそんな夜を超え、薬と根気強いカウンセリングを繰り返して、ようやく悪夢を見る回数が減ってきた。もう悪夢は見たくない。記憶を取り戻すことで再び見るようになるというのなら、私はこのまま何も思い出さなくていいと思う。

 ただ、貴女が。記憶の霧の道標。唯一最初からはっきりとしていた姿。何度も私を助けてくれた貴女が気になる。何度問いかけても、ただ微笑むだけで何も答えてくれない。それでも、私は貴女を思い出したい。


 ――だって先生、あの子は私が思い出すべき「必要なこと」でしょう?



 *


 私の周りは女性ばかりだ。そのことに気づいたのは、退院してしばらく経ってからのことだった。

 私に父親はいないらしい。私の家族は母だけで、時々保護観察官が母を手伝いにきた。私は彼女を「先生」と呼び、出される課題をこなしながら一般社会に通用するだけの知識を身につけていった。

 週に一回のペースで病院にも行った。目的は簡単な検査とカウンセリング。その時担当医と名乗った人も目元の笑い皺が特徴的な中年の女性だったし、カウンセラーも線の細い銀フレームの眼鏡が似合う女の人だ。

 会う人誰もが私に優しかった。きっとまだほとんど記憶を取り戻せていない私に対する配慮なんだろうと思い、少し気はずかしいようなむず痒い気持ちになったことを覚えている。

 あの頃の私は、どうして周りの人々が私から男性を遠ざけていたのか、その本当の理由を知らなかった。彼らがいっそ不気味なほど慎重に私の周囲に気を配っていたことを理解せず、ただ甘えていたのだ。


 だが、事件は唐突に起こる。


 その日、私は検査とカウンセリングのために病院にきていた。

 全ての用事を終え、私は保護観察官が病院まで迎えに来てくれるのを待っていた。いつも、母か保護観察官が送迎してくれる。大抵は彼らの方が早く着くのだが、今日は遅れているらしかった。

 カウンセラーは私に院内で待つように言ったが、窓から見えた中庭が気になって外に出た。ふらふらと歩き回っていたら霧のような雨が降ってきて、私は慌てて古い倉庫のような建物の陰に避難した。

 雨は、あまり好きではない。あの悪夢を思い出すから。私は倉庫の灰色の壁に身体を預け、いつものように貴女のことを考えた。

 その日のカウンセリングで、私は貴女のことを話した。はっきりと残る唯一の記憶。私は貴女を思い出したいのだと、カウンセラーに何度も訴えた。


「あの子は、いつでも私を助けてくれます。でも、同時に彼女からも何か求められている気がするんです」


 当時、私の中では徐々に貴女に対してそのような思いが強くなっていた。貴女の笑顔が、栗色の眼差しが、私に何かを強く求めている。それはきっと、私が貴女を思い出せば分かるはず。そう思っていた。

 貴女を求め、独り眼裏に広がる霧を掻き分ける。だが、どうやら自分の中に深く潜り込み過ぎていたらしい。唐突に近づいて気配に、私は少しも気づかなかった。

 今思えば、彼に悪気はなかったと思う。ただ彼は倉庫に用があった病院の関係者で、暗がりで俯いていた私に気づかなかっただけ。どこででも起こるような、些細な事故だ。

 だが、それだけでは終わらなかった。彼は事件後初めて見た男性だ。私に男性の記憶はない。それなのに、。押し寄せるおぞましさに全身が総毛立ち、歯がカチカチと音を立てた。

 逃げようとした拍子に、私の腕が彼とぶつかった。後ろに尻もちをつき、冷たい霧雨に濡れて髪が肌に張り付いた。その気持ち悪さ。擦りむいたのか、地面についた掌に僅かに血が滲む。その鉄錆びた匂いが雨の中漂った時、私の頭は真っ白になった。

 男性が何か声を掛けてくるが、もう聞こえない。この時、失ったのと同じ唐突さで私は全てを取り戻した。周りの人が必死に隠していたこと。私は、私の全てを思い出したのだ。


 *


 取り戻した記憶の最初は、やっぱり貴女の笑顔から始まった。

 某国。ここではない何処か。その山奥にある薄暗い小屋で、私と貴女は他数十人の女の子達と一緒に閉じ込められていた。

 私も含め、どこから連れて来られたのかは分からない。年齢もバラバラ。少女達は、皆一様に簡素な白い服を着て冷たい床に蹲っていた。

 息を潜め昼とも夜ともつかぬ日々を過ごす中、私と貴女は少しずつ心を交わすようになった。

 きっかけなんて覚えていない。ただ、貴女は少し変わった女の子だったと思う。好奇心が旺盛でいつもひとつだけあった小さな窓に張り付き、何か興味をひくものが見つかるたびに袖を引いて私を呼んだ。

 私は、最初貴女に呼ばれることを嫌がっていた。いちいち報告してくる貴女を疎ましく思い、傍目から見ても分かるほど邪険に扱っていたと思う。

 しかし、貴女はめげなかった。私も貴女の笑顔を見るたび、心が暖かくなるのを自覚するようになった。不器用ながら、私達はゆっくりとお互いをかけがえのない人と認識するようになった。

 その頃、小屋では奇妙に穏やかな日々が続いていた。数日に一度何人かの少女達が消えていく、仮初の平穏ではあったけれど。

 次第に広くなる小屋の中、私達はいつも隅で寄り添って過ごしていた。満足に食べ物も与えられないこの場所で、痩せた腕を組み解れた髪を弄りあって遊びながら、私と貴女は幾度となく約束を交わした。


「ずっと、一緒に」


 何があっても、ずっと一緒にいよう。この場所でたった二人になったとしても、私達だけはお互い離れないでいよう。貴女がいれば、私はどんな世界でも生きていける。貴女さえいれば、他には何もいらない。私は本気でそう思っていた。


 だが、ささやかな平穏は理不尽にも終わりを告げる。


 *


 たすけて。

 たすけてたすけてたすけてはなして。

 おねがいはなしてわたしとあのこを。

 おとこのひとのおこっているこえときもちわるいこえがきりのむこうでひびいている。


「このガキ、じっとしていろ!」


 きり。こいきり。ずっときりのなか。

 どろどろしたきりにわたしはすはだをさらして、かたくあついてがむねをおしりをはいまわる。

 くちにじゅうこうをくわえて、おしりにもなにかかたいものをあてられて、ずっといたいの。

 ねばつくあせのにおい。てつさびたちのにおい。ぜんぶがきりのなかにとけてあめとなってわたしのからだにふりそそぐ。

 むすうのてとじゅうこうとかたいもののむこうで、だれかがわたしをわらっている


「抵抗はしないでくれたまえ。お前達は、我らへの献上品としてここにいるのだから」


 ……ねえ、あのこはどこ?


 *


 ここまで何とか話してきたけれど、正直なことを言うときちんと全て思い出すことができたか分からない。

 特に男達に慰みものにされた時のことは、とても支離滅裂で聞き取りづらかったと思う。でも許してほしい。貴女だってそう思い出したい記憶ではないと思うから。

 代わりにほんの少しだけれど、後から分かったことをここで教えておこうと思う。

 私達は、とある小さな国の戦争孤児だった。他国との長い戦争に疲れた私達の国のリーダーは、敵国に「献上品」を贈ることで同盟を手に入れた。その生贄が私達だったのだ。

 そのあまりに非人道的な行いに、複数の国からなる連合組織が介入した。彼らは私達を保護し、普通の家庭にいるありきたりな子供に戻そうとした。その計画の実行に携わっていたのが保護観察官であり、里親として協力することを認めたのが母だったのだ。

 彼らは沢山の嘘を私についていた。杏月郁あづきいくという名前すら、母があの時私につけた偽物だった。もちろんそれを怒っているわけではない。むしろ母や保護観察官には感謝しているし、同時に申し訳なく思っている。

 だが、私はもうあの人とは一緒にいられない。何故なら、約束を思い出してしまったから。貴女がずっと私に伝えようとしていたのもそれなんでしょう?


『ずっと、一緒に』


 あの後、貴女は私の目の前で死んだ。男達に殺された貴女を私は見た。そのまま私も死ねば良かったのに、何もかも忘れて保護されてしまった。

 遅くなってごめんね。でも、私も今から行くから。貴女がいる霧の向こう側に。ただもう忘れたくないから、こうやって全部遺しておこうと思ったの。

 外は、立ち込める霧と淡い雨の気配。あの時と同じだね。私は霧も雨も苦手だったけれど、これがもう一度貴女と会える日なら好きになれるかも。

 待たせちゃってごめん。もしまた会えたら、あの時と同じ笑顔で私に色々話してほしいな。その前に、もう一度細い腕で抱きしめてほしい。貴女の体温で、私を包み込んでほしい。私も貴女を抱きしめて、とびっきりの笑顔でこう言うの。


「何もかも忘れても、ずっと会いたかった」

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