第2話 お姉さんの転生

 死というものは、何処にでも転がっているものである。

 鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけてを生きた兼好法師という僧侶は、かの有名な随筆「徒然草」において「四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず」と書き残している。「四季には春夏秋冬の順序があるが、人の死期にそんな順序はない」という意だ。

 兼好法師の言葉の通り、彼女はその時まで、こんな若くして自分が死ぬものとは思っていなかった。


 さて、彼女、今井智恵いまいともえは、何処にでもいるOLであった。腕っ節と恋愛対象の年齢の低さ以外は人並みの、極々ありふれた社会人女性である。

 人並みとは言うものの、恋愛の経験だけはからっきしであった。というのも、彼女の性愛の対象は、手を出すべからざる年少の男子ショタだったのだから。

 自覚したのは大学生になってからであった。小学校高学年や中学の頃には気になる男子というのもいたのであるが、この頃になるとぱったりと同年代の異性に興味がなくなってしまった。そんなある日、通りかかった公園で走り回る少年の姿が目に入った。


 ――何とも可愛らしい。


 膝を出して砂の地面の上を駆ける少年に、どうしようもなく心が惹きつけられる。そうか、自分が好きなのは、このような少年であったのだ。この時、トモエは自らの性質を自覚したのであった。


 恋愛や結婚とは縁遠い人生となってしまったので、せめてもの趣味を見つけようと、武術を志して拳法道場の門を潜った。男に頼らず人生を歩む以上、腕っ節の強さはあった方がいいと思ったのと、もう一つはいざ目の前で子どもが危機に陥った時に助けられるように、という動機からであった。

 拳法道場の主は、毛のない頭に白い髭を伸ばした老齢の男性であった。中国の河南省出身らしく、その出で立ちは仙人じみたものを感じる。もっとも、多くの日本人の仙人に対する解釈は間違っているようで、仙人というものは年を取らないため老人の姿でイメージすることには誤りがある。寧ろ老いることなく若い姿を保っているのだそうだ。

 肉体的にはきつかったが、それでも自らの武技が上達していく様には達成感を覚えた。それに、道場の師範は中国の故事に詳しく、故事成語の由来となった話をしてくれるのが面白くてためになった。


 それは、智恵が二十七歳の誕生日を迎える前日のこと。蝉の声の騒がしい、盛夏暑熱せいかしょねつの日であった。

 智恵は道場に向かう道中を、汗を拭いながら歩いていた。

 その彼女の目に、恐るべきものが目に入った。

「あっ、危ない!」

 目の前を歩く男の子、その彼に向かって、明らかに居眠りと思しき危険な運転をしている車が急接近していた。男の子はスマートフォンで親と話しているらしく、車の接近に気づいている様子はない。

 智恵の足は、ほぼ反射的に動いた。咄嗟に彼の方に駆け寄り、少年の体を左方に放ったのであるが、車は止まらず、無残にも智恵の体をはね飛ばした。あれ程熱中して鍛え上げていた彼女の武術も、悲しきかな車という圧倒的質量の衝突の前には無力そのものであった。

 ――未来ある少年の命が守られたのだ。どうして悲しむことがあろう。

 そのようなことを思いながら、智恵の意識は闇に沈んでいった。


 この時、その様子をじっと眺めていた者たちがいた。


「フッキよ。あの者であれば、我らの世界を救ってくれるやも知れぬ」

「ああ、如何にも」


 智恵の生きた世界とは違う、平行世界の神。人の上半身と蛇の下半身を持つジョカとフッキである。彼らは決して交わらない世界の向こう側から、智恵の世界をじっと見つめていた。

 智恵の肉体より脱離した魂を、フッキの蛇の尾が絡め取る。その魂を、今しがた胎内に新たな生を授かった人間の女性に向けて放り投げた。


 ジョカとフッキは、かの平行世界において人間という種を作り出した創造主である。しかし彼らが泥から作った人間は、当初こそ繁栄したものの、西方からやってきた魔族と呼ばれる種の攻撃を受けるようになった。

 魔族というのは、ジョカとフッキが人間を作り出した際に余った泥が、空気中に漂うマナに触れて突然変異し生まれた新たな種である。人間と変わらぬ容姿を持ちながらその寿命は人間などとは比べものにならない程長く、加えて強力な魔術を操る彼らに、人間たちは全く以て成す術がなかった。かつてあった人間の王朝は西進してきた魔族の軍隊によって滅ぼされ、残された遺民たちは北方や南方の各地に散っていった。


 さて、他の平行世界の神が、異なる世界より魂を招き寄せ、自分の世界に転生させては救世の英雄に仕立て上げるようなことをしていたのを、ジョカとフッキは聞き及んでいた。所謂異世界転生というものである。

 トモエに白羽の矢を立てた理由は、彼女が弱き者に対する仁愛から自己犠牲を選んだということと、武術の心得があったことによる。同じような条件を持つ者は、世界を見渡せば他にも見つかったであろう。だが、彼女はたまたま、この二柱の神の目に、幸か不幸か留まったのであった。


 転生した智恵、もといトモエは魔族の勢力圏から見て北方にある村落で生まれた。幼い頃から腕っ節が強く、周囲の子どもと喧嘩になっても彼女に敵うものは誰もない。

 そのトモエを悲劇が襲ったのは、彼女が十五歳の頃である。彼女の暮らしていた村落に、魔族の支配する国の一つ、ギ国が南から攻めてきたのだ。ギ国の傀儡兵に対して村落の人々は武器を取り必死に戦うも、抵抗空しく皆殺しにされてしまった。

 この時、自らの腕っ節に自信のあったトモエも、大人たちに交じって傀儡兵と一戦交えようとした。しかし、流石にそれは許されなかった。彼女は他の子どもたちと一緒に無理矢理馬車に乗せられ、遠くの別の村に送られたのである。

 それが、彼女を育てた実の両親との今生の別れとなった。


 新しい村に着くと、そこの村の長老と思しき老爺がトモエたちを迎えた。その長老の禿げ上がった頭と長く伸ばした白髭に、トモエは言いようもない既視感を覚えた。

其方そなた、もしや……」

 先に、長老の方がトモエに話しかけてきた。そのしわがれた声を聞いた時、トモエの頭の中に、自分が生まれる前、まだ今井智恵という名であった時の記憶がいっぺんに流れ込んできた。

 記憶の奔流の中で、トモエは前世の自分がどのようにして命を落としたかを知った。そして、同時に自分と同じように馬車で避難させられた子どもたちの不安げな顔に視線を移す。


 ――この子たちを守るのが、自分の役目ではないのか。


「こちらへ来い。其方の内に眠る力を目覚めさせよう」



 長老の風貌は、例の拳法道場の師範とそっくりであった。ほぼ生き写しとしか思えない。長老は、自らの屋敷へトモエを案内した。中に入ると、あの道場と同じような臭いが、彼女の鼻孔をついた。

 トモエはこの場所に度々呼びつけられては、武術の稽古をつけられた。今まで喧嘩拳法で戦うに過ぎなかったトモエであったが、彼女自身でも驚くぐらい、不思議と武術に体が順応し、すんなりと体得できてしまった。


 ――これは、前世で習ったことがある。


 その要因を、トモエは前世の記憶に求めた。拳法道場に通っていたことに教わったものと今長老が教えているものが、殆ど変わらないものだったからである。

 十五といえば、この世界の人間はそろそろ婚姻する年頃である。だがトモエはその時期を道場で過ごした。そうして四年が経った頃、長老は言った。

「まずここから南東にあるロブ村に向かえ。魔族の国であるエン国が、あの村からそう遠くない土地に砦を築いている。程なくしてあの村は侵攻を受けるであろう。其方が救ってみせるのだ」

 長老の言葉に、トモエは素直に従う気でいた。この力で魔族に虐げられる人間たちを救うのだ。

 トモエは風呂敷包み一つで村を出発し、ロブ村と呼ばれる村に向かった。

 

 そうした経緯を経て、彼女はあの戦場に至り、リコウ少年を救ったのである。

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