余計なひと手間を

海老原ジャコ

第1話 余計なひと手間を

 鉛のように重い身体。

 十連勤明け。

 当然、休日に喜ぶエネルギーなんかこれっぽっちも残っていない。

 食欲なんか全くないからとりあえず早く帰って寝たい。私は重い足を必死に前に出す。

 

 そんな時、なんだかいい香りが私の鼻孔をくすぐる。

 そうするとさっきまで食欲がなかったのが嘘のように途端にお腹が空いてきた。よくよく考えればここ最近仕事が忙しくてまともな食事をしていなかった。

 

 「あーでも寄るのめんどくさいな……」

 

 この良い香りは少し前に通り過ぎた洋食屋からのようだ。

 夕飯食べるだけのために道を戻るのはあまりにも面倒で気が進まない。

 学生の頃はむしろ放課後の寄り道をよくしていたのにいつの間にかそんな元気はなくなっていた。

 社会人になって今年で五年目。

 上司に認められ始めたから仕事を任されるように年々仕事量が増えていく。今年はそれだけじゃなく新人研修までも。

 仕事に追われる毎日。自宅と会社の往復。

 必要最低限に行動し余計なことに体力を割くのは避ける、これが五年で得た教訓だ。

 そのまま足を進めたが私はまた立ち止まる。

 

 「でも夕飯は必要最低限か」

 

 私は社会の流れに逆らってのっそりと踵を返した。

 

 

 「お待たせいたしました。こちら、自家製ハンバーグ定食ライス大盛りになります」

 

 大きな白い皿にはボリューム満点のハンバーグに色鮮やかな瑞々しいサラダ、そして別皿に盛られたライス。

 ハンバーグに万遍なくかけられたデミグラスソースはキラキラと輝いている。

 未だ嘗てこんなに美しい茶色を見たことがあるだろうか。いや、ない。

 端的に言って。

 

 「うまそう……」

 「それはよかったです」

 

 どこから聞こえてきたのかと思えば顔を上げるとまだ店員さんがいた。

 黒髪のマッシュヘアの爽やかな好青年。見た目からして大学生くらいだろう。

 私の節操のない「うまそう」も聞かれていたのか……。

 

 「あ、すみません。見られていたら落ち着いて食事なんてできませんよね。自分が作った料理を美味しそうと言ってもらえて嬉しくてつい……」

 「いや別に大丈夫ですよ」

 

 彼の中で「うまそう」は「美味しそう」に自動的に変換されていたようだ。

 それはよかったとして。

 

 「このハンバーグ、君が??」

 「はい。お店に出したのは初めてでして」

 

 てっきり学生のアルバイトかと思っていたが話を聞いてみるとそうではないらしい。

 両親がこの洋食屋を営んでいてそれでホールの手伝いをしていて今日は初めて厨房に入れてもらえたらしい。

 進んで働きたがるなんて。学生の頃の私なら絶対やらないしできれば今も働きたくない。

 

 「将来は料理人になりたいなと思ってるんです」

 「へぇ……」

 

 そう語る彼の目は希望が宿っている。眩しい。

 赤の他人相手に夢語れるなんて若いなぁ。

 この青年が私と同じように社会の荒波に飲まれないことだけ祈っておこう。

 

 「あ、すみません! ささっ、どうぞお召し上がりください!」

 

 申し訳無さそうに頭を下げるも私の反応が気になるのか不安そうにちらちらとこちらを覗ってくる。

 まあ私としては溜まりに溜まった疲労でそんな視線気にする余裕もないから別に良いんだけど。

 

 私はナイフとフォークを手に取った。

 右手に持った切り込み隊長ナイフが先陣を切ってハンバーグに一刀を加える。

 柔らかな感触を感じるや否や、ハンバーグは一刀両断された。そして。

 

 「うわっ、肉汁やば」

 

 視界の端で目の前の店員が小さくガッツポーズをしているがそれどころではない。

 温泉が湧き出るように肉汁が溢れてくる。白い皿に小さな肉汁の温泉ができるほどだ。

 ごくりと唾を飲む。

 正直青年が夢を語っているあたりから食べたくてしょうがなかった。私こんなにお腹すいてたんだ。

 切り込み隊長に続き二番隊隊長フォークが本陣に突き進み、肉汁をすくい上げるようにして口元まで運び。

 パクリ。

 

 「うっまぁ……」

 

 一瞬で口の中に幸せが広がる。

 あれだけ肉汁が出たものだから全部なくなってしまったのでは、と心配したがその心配は無用だった。

 肉厚で弾力があってそれなのに柔らかい。そして何よりジューシー。

 デミグラスソースは王道であるが、やはり王道というだけあってハンバーグとの相性は抜群だ。

 口の中に食べ物が入ってる時に喋るななんて今に関しては無理だ。思わず口元が綻んでしまう。

 こんなに美味しい夕飯はいつぶりだろうか。

 

 せっかくだから一口食べて美味しかったと青年に伝えてあげようとしたができなかった。

 もう一口、もう一口なんて考えていたら気がつけば完食してしまっていたからだ。

 幸い青年はまだその場にいたので私は口の中の食べ物を飲み込んで感想を伝えることにした。

 

 「あの、すごく美味しかったです。肉汁、いやソース、いややっぱハンバーグが――とりあえず美味しさのオンパレードでした」

 

 私の苦し紛れの食レポが面白かったのか青年は少し笑った。

 何もおかしくないのに私も思わず笑ってしまった。表情まで綻ばせるなんてハンバーグは子供に限らず闇を抱えた社会人にとって偉大なのかもしれない。

 

 「初めて作ったのにすごいですね」

 

 社交辞令ではなく素直にそう思った。

 

 「いつも父親が作っているのを見ているのと、あとたまにプライベートで料理は練習してますので」

 「ああ、なるほど」

 流石は夢追う希望に溢れた青年。眩しすぎる。

 「でも肉汁一杯のくらいなら自宅でも簡単にできますよ」

 

 某料理番組でよく聞くキャッチフレーズは好青年が言うとより一層主婦が食いつきそうだ。

 青年は楽しそうに言葉を続ける。

 

 「一見こねるのが大事に見えそうなんですけど一番大事なのは焼き方なんですよ」

 「焼き方?」

 「はい、蒸し焼きで焼くのがポイントなんです。弱火で十分間蒸し焼き、その後は火を止めて五分間予熱で火を通すんです。そうすると結構簡単にできますよ」

 「へぇ~」

 

 自分よりだいぶ年下の人、まして男に料理を教えてもらうのは女としてどうなんだ、と思いながらも素直に感心してしまった。さすが料理人を目指してるだけある。私の料理に対する知識がド底辺なのもあるのかもしれないけど。

 でも私としては少し引っかかることがあった。

 

 「確かに簡単ではあると思いますけどちょっと手間じゃないですか?」

 

 たかが客ごときが料理人を目指す人間にこんな事を言うのは不躾だと言った後に思った。

 別に家で作るハンバーグくらい一般的な普通のものでいい。そんな手間を掛けるくらいなら一分一秒でも寝ていたい。

 それでも肉汁一杯の美味しいハンバーグを食べたければネットで美味しい洋食屋を検索して外で食べればいいだけだ。

 

 でも青年は嫌な顔をすることなく努めて柔和な口調で語り始める。

 

 「この余計なひと手間が大事なんですよ」

 「余計なひと手間?」

 

 私が社会人になって得た唯一の教訓とは全くの逆だ。

 余計なら省いてしまえばいいんじゃないか、なんて揚げ足は嫌な上司のためにとっておこう。

 

 「料理に限った話じゃないと思うんですけどね。趣味とかに例えると分かりやすいかもしれないですね。何か趣味はありますか?」

 「……読書とかですかね」


 年下の男に教え諭されているようでなんともおもしろくないから口からでまかせを言ってしまった。二十七の独身で趣味は昼寝ですなんてあまりにも女として終わっている。

 

 「読書ですか、なんだか大人ですね」

 「ええ、まあ大人ですので……」

 

 どの口が言ってんだ、と内心思いながらもまあ年的には大人だから嘘ではないだろう。大人とは子供の前では見栄を張る生き物なのだ。

 

 「読書なんて正直言えばどこでもできるじゃないですか。でもみんなが家で読書をしているかと言われればそうではないと思うんです。喫茶店でコーヒーを飲みながらだったり、公園のベンチで太陽の陽を受けながらだったり」

 「あぁ、なるほど」

 

 青年の言わんとしていることはなんとなくわかった。

 私も入社一年目は一人暮らしに舞い上がって色々やっていた。

 仕事から帰ったあと何故か手の混んだ料理を始めたり、休日には生活必需品を買いに行くだけなのにお洒落をしたり。

 今は仕事から帰れば家に買いだめしてあるカップ麺を食べ、休日には部屋着のままコンビニやドラッグストアへ行く始末。

 

 無論、結果としてはどちらも腹は満たされるし必要なものは手に入るから変わらない。むしろ昔の方が余計な手間がかかっているから損している気すらする。

 ――あの頃の私はなんでそんなことをしていたのだろう。

 

 「余計なひと手間は人を幸せにするんです。人生を幸せ味にするスパイスなんです」

 

 そんなこっ恥ずかしいポエマーみたいなセリフだったが、私の心はなんとなく憑き物が落ちたような気がした

 

 今の私の生活は生きる上で必要最低限。一日三食、時には二食のときもある、それと睡眠、そして仕事。

 これさえしていれば生活できる。生きていける。

 

 だけど。

 

 だけどそこに幸せがあったかと言われるとそうではなかった。

 余計なもの削ぎ落とした結果、効率的で時間は浮いたがそれは結局惰眠に費やすだけだ。

 入社したての頃の私は確かに非効率的なこと、彼風に言えば余計なひと手間ばかり加えていた。

 職場にも仕事にも慣れてないのに、今思えばあの頃の私は馬鹿だった。

 でも――あの頃は楽しかったのかもしれない。

 

 青年は羞恥心から頬を赤くさせ俯いている。

 

 「あの、今のは忘れてください……。しかも目上の人に生意気でしたし」

 

 私の食レポよりよっぽどマシだったんで大丈夫ですよ、と伝えてあげようとしたら店の厨房の方から青年を呼ぶ怒声が私の声を遮った。

 

 「やば、父さんに怒られる……」

 

 青年は血相を変え、礼を言うなり小走りで去ろうとする。それがなんだか上司に怒られる私に似ていて妙に親近感が湧いた。

 そして青年は去り際に振り返り、

 

 「お姉さんみたいなアラサーのお客さんからリアルな感想を聞けてよかったです! ありがとうございました」

 

 余計なひと手間は幸せを呼ぶかもしれないが余計な一言はただ余計なだけだった。まだ三年は猶予あるんだからな、私。

 

 *


 「あ~、づがれだぁ」

 

 八連勤を終えた私の身体はもうボロボロだ。

 新人研修を任されて以降私の仕事はより一層増えた気がする。それに新人も新人で変に意識が高いせいでなかなか手を焼く。

 そんな不満を心の中で垂らしながらいつもの帰り道を歩いている。

 

 「早く帰って寝たい……」

 

 今日はいつもよりだいぶ早い時間に上がったせいかサラリーマンの帰宅ラッシュとは違って人通りが穏やかだ。

 これなら早く家に着きそうだ。

 ふかふかのベッドを思い浮かべて足早に歩く私だったが、ふと足を止めた。

 

 良い香りにつられて思わずその方向に振り向く。

 あの洋食屋だ。

 あのハンバーグを思い出すと同時にお腹が悲鳴を上げ始めた。

 もうこうなってしまえば我慢はできない。夕飯は彼処にするか――。

 店に足を進めようとしたが、

 

 「いやでも明日休みだしたまには自分で料理してみるか。またアラサー呼ばわりされたらたまったもんじゃないしな……」

 

 私はスマホでレシピを調べながら駅前のスーパーを目指して歩き始めた。

 余計な一手間をかけるために。

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余計なひと手間を 海老原ジャコ @akakara98

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