色仕事

霜月ミツカ

色仕事

 秀一叔父さんは親戚の中でも一際浮いている人だった。


 もう五十近くなるのに独身だし、何の仕事をしているのか親戚の中で知っている人は誰もいない。ただ、彼の趣味が絵であるということだけみんなは知っていた。


「アイツは頭がおかしいから近寄らないほうがいい」とときどき会う母方の親戚によく言われたものだ。アンニュイでミステリアスな雰囲気だからか、なんだか僕には酷く気になる存在だった。自分に近いと感じたくなかったけれど、感じざるをえなかったのだ。


 夏休みに入って三日目から、二週間後に控えた小旅行のために日払いのバイトを始めた。学校が忙しくてバイトをやる暇などなくて、昨日急遽、登録制派遣会社へ行き、今日から仕事が始まることになった。


 僕の家の近所に人手不足の工場があったようで、珍しくすぐに仕事が入った。時給は九百円、七時間労働。家から十五分のこぢんまりとした工業団地のひとつの塗装工場。そこで、塗装したプラスチックの検査の仕事をするそうだ。


 九時からはじまる工場に八時四十五分に着いた。工場はまるで家のようなつくりで、一階が現場、二階は事務所兼休憩所だった。


 ペンキのはげた錆びたにおいのする階段を上ってドアを開けると床にマットがおいてあり、その上にスリッパ置きが立ててあった。


 室内は広くはないけれど、大きくわかれて右側にはオフィスデスクが二つ向かい合って並んでいて、電話とファックスやコピー機がおいてあり、事務所としてはちゃんと機能しているように思えた。


 左側は打って変わってまるで家庭が凝縮されているみたいだった。大きなテーブルに椅子が六つあり、テーブルの左側には小さな冷蔵庫があり、その脇に食器棚があり、その上にはテレビがあった。


 テーブルから見て右側にはついたてがあってその手前に長いロッカーが六つある。昨日の晩、派遣会社の人にロッカーは好きに使っていいといわれたので、鞄をロッカーに入れた。背後から扉の開く音があり、振り向くと一人の細長い形の人がはいってきた。工場長かと思い、「おはようございます!」と張り切って声をあげると、その人は柔らかく微笑んで「おはようございます」とかすれた声で、囁くように言った。


 その笑顔を見て「秀一叔父さん?」と自分の意思に関係なく、声が漏れた。秀一叔父さんだ。こんなところで会うなんて思ってなくて一瞬変な空気が流れた。人違いだったらどうしよう。いや、そんなわけがない。


「サトシです」


 僕は自分の手を胸にあて、身を乗り出すような格好になっていた。


 ようやく頭の回線が繋がったようで「おー、ナツミの息子の、大きくなったね。何歳?高校生?」と会わない時間を感じさせない温かな表情で笑った。


「いや、大学一年生です」


「そうか、そうかー」


 叔父さんは相変わらず痩せ細っていた。色白で、頼りない体をしている。目がやたらと彫り深く、高校の頃、美術室の彫刻を見るたびこの人を思い出していた。だから僕はこの人を忘れなかったんだと思う。時計の針は五十分をさしていた。僕はロッカーの鍵をかけ、その場を退いて叔父さんに譲った。


「ナツミは元気?」


叔父さんは小さく僕に問う。


「あ、はい。元気です」


「しばらく、会ってないから、なあ」


 声の調子が寂しそうだった。母もこの人のことをあまりよく思っていなかった気がする。というか親戚中がこの人一人だけ差別しているようなものだった。


「現場に行く前にタイムカード押すんだ」


 おじさんはテレビの横のまるで目覚まし時計のようなソレを指さした。脇にはカードケースがある。僕はその中から自分のものを探した。僕の字ではないが、僕の名前が書かれたカードがあった。


 僕は時計の頭の細長い穴にカードをさしこんだ。機械の音がして、機械に食われかけたカードがすぐでてきた。叔父さんも僕の隣に来て自分のタイムカードを押した。


 下の現場に行くとだだっ広い部屋に机が四台、向こう側の部屋は塗装をしていた。男ばかり六人。


 じゃがいものような顔の、青いシャツを着た人が副工場長でその人が僕らの指導。工場長と二人の社員は塗装部屋へ。朝礼などは特になく、軽く挨拶をして作業開始。


 色々な匂いの混ざった現場だった。塗装されたものがキャスターのついた何段かの棚に、網の上におかれた状態で運ばれてきた黒いプラスチックの塊。僕にはこれを何に使うのかわからなかったが、副工場長がやすりを手渡し、「こういうボコって膨らんでいるのとか糸くずとか塗装されているものがあったら削っちゃってください」と微笑んだ。言われた通り、削る。何もなかったらポリウレタンで梱包し、箱に詰める。宝探しみたいな気分でなかなか楽しい。


 僕の向かいで叔父さんも黙々と作業をする。副工場長は忙しく動き回っていた。プラスチックを持つ叔父さんの左手の薬指のキズが気になった。それは偶然ケガをしたというには綺麗すぎる規則的な傷だった。細く、骨ばった指が動くたび、それがちらついた。でもその日は特にソレについて深く考えなかった。


 初日は特に問題なく終った。叔父さんとも普通に話したし、現場の人たちにも僕らの関係を話した。


 家に帰って夕飯時、母に「バイトどうだった?」と訊かれた。「なかなか楽しい現場だったよ」と、それだけいって、別にやましいことでも何でもないのに僕は叔父さんのことを母に話さなかった。


 次の日、仕事が終ってからのことだった。僕が自転車の鍵をさしていたら叔父さんが声をかけてきた。


「サトシ君、ウチで飯食っていかないか?」


 僕は一瞬戸惑った。自宅から遠くもないこの工場。母に外食をするといえば変に思われる気がした。しかし、興味があり、その誘いを受けた。


 自転車を引きながら歩いて母に「夕飯食べて帰ります」とメールをした。母は疑うような返信をせず、「了解」とだけ返してきた。叔父さんの家は工場から一直線の団地の中にあった。そこの一階の南側の部屋。


「一人で住むには少し広すぎる気がするんだ」


 団地の自転車置き場に僕が自転車をとめているとそう呟いた。自転車置き場は雨避けのためか、屋根が深くて僕はどこかに閉じ込められたような気分になった。その仄暗さに夕陽が、わずかな隙間から射し込む。振り返ると叔父さんが優しく微笑んでいた。


 叔父さんの家の中は高校の美術室と同じ匂いが充満していた。部屋に入ると小さな廊下があり、リビングまで入ると隣の部屋との扉がなく、リビングの隣はアトリエという風で、たくさんのキャンバスと絵の具、イーゼルが散乱していた。


「あー、臭いかなあ。僕は慣れちゃったから、アレなんだけど」


「あ、大丈夫っすよ。嫌いじゃないです。絵の具の匂い」


 叔父さんは明らかに使われていない綺麗な方の椅子を引いて僕を手招いた。二人用の小さなテーブルだった。


 叔父さんはそのまま黙ってキッチンに立つ。僕は椅子に腰掛けて辺りを見渡した。角部屋だからか窓が多いけれど雨戸まで閉まりきっていた。


 小さな液晶テレビ。その隣のサンスベリアと札をつけられた観葉植物。空気清浄機。叔父さんの頼りない背中。辛うじて生きる意志のある部屋だ。だけど何故だか生活感というものをあまり感じないのだ。観葉植物が悲しく見える無機質な部屋だった。


 アトリエの方に目をやるとイーゼルには白い布がかかっていて、何を描いているのかわからなかった。「アイツは変な絵ばかり描いて――」という親戚のセリフに洗脳されていた僕は変な絵なんだろうと勝手に思った。


 叔父さんはあまり親戚の集まりに来なかった。結婚式には来ないけど葬式にはサッと来てサッと帰る人だった。


 叔父さんがいなくなると、また、いなかったらいないで皆は悪口を言っていた。実際、僕は何であそこまで悪く言われているのかわからなかった。久しぶりに会った僕にこんなに優しくしてくれるからケチだとかそういう部類ではないんじゃないか。一体、この人の何処がいけないのだろう。


「アトリエ、見せてもらってもいいですか」


 僕がそういうとフライパンで何かを焼いている音に負けないように珍しく声を張り、「つまらないと思うけど」といって許してくれた。


 僕は椅子から降りてアトリエの電気をつけた。天井に張り付いているまるで円盤のようなソレはパッと広がって部屋のあらゆるものを照らした。


 落ちていた絵の具は白、黄、茶、赤だけだった。随分と偏りがある。白い布を外すと、完成しているのか不明な、一面を肌色で塗られただけのキャンバスがでてきた。


 振り返ると叔父さんはテーブルの上に置いた二枚の皿の上に野菜と焼き終わった肉をのせていた。もう一度キャンバスをみる。変な絵といわれていたけれど、ただの肌色だ。


「これなんですか?」


 僕の声が寂しく部屋に響いて、叔父さんは言葉を捜した。


「女の人だよ」


「え?」


「ミナっていう」


「――女の人?」


 どうも僕にはわからなくて、訊き返してしまった。


「恋人。綺麗な肌の女の人。特に、指がとても綺麗なんだ」


 彼は空気に言葉をのせるようにつづけた。


「夢でしか、会えないけど。ミナは写真に残せないんだ。忘れてしまいそうになるから、あの美しい肌の色を忘れないように何度も何度も色をあわせてミナの肌を作るんだ。だけど、どうも同じ色にはなれない気がする。今まで数え切れないほど肌色を作ったんだけど、ミナにはならないんだ」


 彼は深刻な顔をしていて、僕の胸は高鳴った。自分の心の中のスイッチを押された気分だ。


 この人は、周りの大人達とは違う、周りの人間達とは違う、少しズレた、愛しい処に住んでいる。


 恋人は死んでしまったのだろう。僕は深々と訊けなかった。料理の匂いで我に帰った叔父さんは「冷めてしまうね。食べようか」といつもと同じ顔で笑った。


 叔父さんの話のロマンチックさに僕はずっと心を奪われたままだった。叔父さんの申し訳なさそうに小さく零す言葉を僕は一生懸命拾い集めた。


 こんなに身近にここまで心をくすぐる魅力的な人がいたということが嬉しくてたまらなくて、浮かれ足で家に帰った。僕の家まで約二十分の距離。


 湿気の多い夜の空気も、心を奪われたままの僕は熱気を裂くように自転車を飛ばした。涼しかった。家の前に自転車を置き、すぐさま中に入った。


「ただいま!」


 必要以上に大声でいって洗面所で適当に手を洗い、リビングに入った。


「おかえり。今日誰と一緒だったの?」


 僕は叔父さんのことがもっと知りたくなり、母に叔父さんと同じ工場で働いていること、夕飯をご馳走になったこと、さっき訊いた話をすべて話した。母は全てに戸惑っていた。母は俯き気味に呟く。


「まだ、ミナの話をするの?」


「ミナってどんな人なの?」


 目を爛々と輝かせ、母に訊ねる。


「いないのよ、そんな人。ずっと前からミナという人の話をするけれど、誰も見たこともあったこともないのよ、ミナなんて人」


 僕の中に衝撃が走った。一気に先ほどまで全身を駆け巡っていた興奮が冷めた。


 ベッドに入り、叔父さんの話、母の話を頭の中で反芻した。さっき少し掴んだと思った叔父さんのことがまたわからなくなった。なんて不思議な人なんだろう。


 過剰に稼動する冷房で、少し肌寒くなり消した。夢の中でしか会えない恋人。それに考えを支配されていく僕の脳。全部難しく感じてゆっくりと目を瞑った。


 次の日現場に入れば昨日よりも僕に心を開いてくれたのか、いつもよりも優しく笑う叔父さんの姿があった。


「おはよう」


「あ、おはようございます。昨日はありがとうございました」


 僕は軽くお辞儀をした。副工場長が僕の名を呼び、叔父さんの隣ではなく副工場長と一緒に作業することになったのでミナについて訊けなかった。


 昼休憩は二階の休憩室で食事をとる。工場から家が近い人は家で食事をするから六人のうち三人は帰る。叔父さんもいつもは帰るのに今日は残った。いつもはここで食事をする副工場長は外回り、塗装の上原さんは早退し、僕と叔父さんの二人になったので折り入ってミナについて訊いてみた。


「昨日母から訊いたんですが」


 一拍置いて大きく息を吸い込んだ。


「ミナさんは、実在しないんですか?」


 あまりにもストレートで言葉を選ばない質問をした。口に出してすぐ後悔した。しかし、叔父さんはすぐに優しい表情を作った。


「君は、夢の中でしか会えない人がこの世のどこかにいると思う?」


「え?」


 質問を質問で返され、思わぬ攻撃に次の言葉が出てこなくてしばらく考え込んだ。


 叔父さんの笑顔が少し曇っていたのにも気がついてしまった。


「いないんじゃ、ないんですか。所詮夢だし」


「だったらどうしてあんなにハッキリとした顔があるんだろう。どうしてミナは毎晩僕に会いに来てくれるんだ?」


 ミナは夢の中の恋人。叔父さんは何十年も同じ夢を見続けている。叔父さんの気持ちが苦しくて切なくてどうしようもなかった。


 僕があの工場で働いたのは僅か十二日間で、それきり叔父さんとも会わなくなった。最後に入った日、別れ際に「いつでも遊びに来て」といわれたけれどあれから行かなかった。


 一年が過ぎて、去年とは違った夏が来た。僕の隣には肌の白い女の子がいた。僕らは青臭い原っぱに寝転がり空を見ていた。太陽から目をそらし、一面に塗りつぶされた青に手をかざす。同じ肌色でしか塗られていないあのキャンバスを思い出した。


「南、あのさ」


 僕は答えが出せなかったあの質問を彼女にしてみた。


「夢の中でしか会えない人がこの世のどこかにいると思う?」


 彼女は長い睫毛のカールした大きな両目で僕を見る。


「いるんじゃないかなあ」


 僕はなんだかその感覚がうらやましく思えた。


「どうして?」


 彼女は長くて綺麗な指を、空に預けていない放置されたままの僕の右側の手に絡めた。


「だって、実在しない人が夢にでてきたら、怖いでしょう?」


 彼女の桃色のルージュの唇を見ていた。フッと口角が上がる。彼女をまた好きだと思った。


「俺の叔父さんでさ、何十年も同じ人がでてくる夢を見る人がいて。その夢の中に出てくる人を恋人なんだって言い張ってんだよ。絵が趣味の人で、だけどその恋人の顔は描かないんだよ。目が覚める直前までは覚えているのに目が覚めた瞬間に忘れちゃうんだってさ。だけどその恋人の綺麗な肌色は忘れたくなくて、同じ色を作ろうとキャンバス一面に肌色を塗りたぐってんだ。


「へぇ」


 南は感心するような声を漏らした。


「左手の薬指に、指の周りをなぞった傷痕があるんだ。その夢の中の恋人が言うんだって。忘れないで、消さないで。って。指輪とかじゃだめなんだって」


 彼女は少しだけ神妙な面持ちをした。


「寂しがり屋さんなのかな? その夢の中の恋人」


「さぁ? 俺は痛いからヤダなぁ」


 僕が笑うと彼女は少しだけ寂しそうに笑ってみせた。


 手を繋いでただ色んなところを歩く。それだけでいつもと世界が変わって思えた。僕らがふらふらと川原を歩いていると、少し先で立ち尽くしている人影があった。僕には一瞬、誰だか判らなかったけれど、目を凝らしてみると、秀一叔父さんだった。彼の体は逆光で、まるでそこだけが世界から黒く塗りつぶされているように見えた。


「誰?」


 彼女は、じっと彼を見る僕の顔を覗き込んで僕の視界を遮った。


「あの人だよ。さっき話してたの。僕の叔父さん」


 叔父さんは驚いている顔のままでゆっくり近づいてきた。そんなに僕にここで会うのが吃驚することなのだろうか。叔父さんは去年よりも痩せて、余計に彫りが深くなっていた。


「ミナ?」


 彼は例の夢の中の恋人の名前を呼んだ。僕と南は互いに互いの顔を見合わせた。


「ミナだろう?」


「え?」


 彼女は戸惑っていた。


「あの、叔父さん。叔父さんの夢の中に出てきた人って?」


「そうだ、ミナだよ。僕のミナだ」


 僕らは動けなくなるほど、動揺してしまった。


「ミナ、ずっと会いたかったんだ。」


 叔父さんは南の細くて折れてしまいそうな二の腕をぎゅっと掴んだ。


「いや!」


 南は必死で振り払い、僕はただあたふたとしていた。


「どうして? あんなに、僕を」


「叔父さん、やめてください。南はきっと叔父さんの夢に出てきた人と似てるだけで、同じ人ではないんです」


 僕は拳を握り、衝動的に臨戦体勢になっていた。


「何が違うんだ、同じだよ!この肌の色は僕のミナと同じだし、この目もこの髪も輪郭も全部ミナと同じなんだ!ミナなんだ!」


 彼の叫ぶ声がみっともなく川原に響いた。僕らのとても小さな世界に響きわたった。


「あの」


 ミナは顔を上げた。


「私、あなたのこと知りませんし、人違いだと思うんです。早くみつかるといいですね。本当のミナさん」


 彼女はそういって後ろを向いて歩き始めた。僕は叔父さんに軽く頭を下げ、足早に去っていく彼女を追いかけた。とても、恐かったんだろう。彼女は涙を零し、指で次々に流れる涙を拭った。


 僕は彼女の小さな肩を抱いて、この夏の暑い中、暑さを忘れてぴったりと寄り添い合って歩いていった。


 


それからしばらくして、叔父さんが好きだといっていたゼリーを持ってあの工場の近くの叔父さんが住む団地へ向かった。チャイムを鳴らしても反応はなかった。扉を叩いた。


「叔父さん、いないんですか? サトシです!」


 何度かそういっていればこの間よりもさらに痩せて、髪も着ている服も汚い秀一叔父さんが出てきた。


「ごめんごめん。最近気分が優れなくて」


 あの日の恐ろしい形相とは大違いの、完全に病んだ微笑みを浮かべた。


「あの、ゼリー持ってきたんでよければ」


「あ、あ、ありがとう。汚いけど、どうぞ」


 扉はキシキシと音を立て、ゆっくり部屋の中を見せ付けてくる。入るのが恐ろしくなった。一年前とはまるで違った。壊れたキャンバスやイーゼルが玄関まで散乱していた。確かに、南の肌と似たソレだった。机も壊れていて、辛うじて椅子ひとつだけが生き残っている。僕はとりあえずゼリーの入った袋を叔父さんに渡した。


「あ、ありがと本当」


「あの、やっぱりもう帰ります」


「少し、話しをさせてほしい」


 叔父さんは消え入りそうな声で、いかにも具合が悪い様子だった。僕は自分の座れる程のスペースの部分だけものをどかし、地べたに腰を下ろした。


「君の恋人に、無礼を働いてしまって申し訳ない。本当にそっくりなんだ。いや、彼女はミナだ。ミナは実在した。しかしミナの魂はもっと別のところにあった。僕は所詮、魂にまで触れることができなかったんだ。君の恋人に出会った日以来、彼女が夢に出てくることはなくなったし、僕は何も描けなくなった。だからもう全てが恐くて、こうなった」


 話をききながら辺りを見渡した。彼の魂も何かに抜き取られてしまったんだ。


「もう何もないんだ。僕には」


 彼は僕の顔を見ないでずっと床をみていた。


「謝っておいてくれ。もう君の顔も見たくない。何もかも忘れてしまいたい。僕も君らの前には現れないよ」


 彼のことは結局、何も掴めず解らないままだった。苦しめただけだった。夢の中から引っ張りだすことも、ちゃんと目を覚ましてやることもできなかった。


 僕は「さよなら」と一言いい、玄関に破れたキャンバスの小さな欠片を手にし、南のところへ向かった。


「どうしたの?」


「いや、会いたくなって。叔父さん、きみに謝ってたよ」


「会いにいったの?」


 僕はポケットから叔父さんの作った色の欠片を取り出し、南の肌と見比べた。


「何これ」


「叔父さんのつくった色だ」


「そっくりね。ねぇ、私は本当にあなたの叔父さんの恋人だったのかしら?」


「違うよ。だってきみは傷痕より指輪がいいだろ?」


 同じ指輪が僕らの左手の薬指に光った。


 僕ら二人は二日後、天に昇る煙を見上げた。指を絡めながら、永遠に夢から覚めなくなった色職人を想った。


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