第33話 過去との対峙③

 (1) 


  ーー遡ること、一日前の正午ーー


 互いに小さな旅行鞄を片手に持ったミランダとリカルドは、汽車の乗降口からホームへと降り立とうとしていた。


 ミランダはリカルドの杖を持っていない方の腕を取る。「段差に気をつけてね」と声を掛けながら、ゆっくりと。


「やっと着いたわね」

「うん。ミラ、疲れてない??大丈夫??」


 目的地に辿り着いて開口一番、真っ先にリカルドはミランダの身体を気遣う。

 相変わらずミランダのことばかり気に掛ける夫に、(自分だって、長時間汽車に揺られて疲れている筈なのに……。この人は本当に優しすぎるわ)と呆れてしまう。


「私は全然平気よ。リカルドこそ疲れていない??」

「僕も大丈夫だよ」


 そう言ってリカルドは笑ってみせるが、その笑顔には明らかに疲労の色が見えていた。嘘をつくことも本当に下手くそよね、心中で呟いてみせる。


「でも、まずは宿を探しに行きましょうよ。動くにしても一旦荷物は置いて、ちょっと休憩してからの方がいいと思う」


 疲れているとはいえ、根が好奇心旺盛なリカルドだ。このままミランダが何も言わなければ、「じゃ、早速街を散策してみようか」などと言い出し、荷物を持ったままでも、後で足が痛くなろうが一切お構いなしに動き出しかねない。

 ミランダが「もうこれ以上歩くのは無理!」と根を上げない限り、夕暮れ時になるまで街を歩き回り続けてしまうだろう。


「ミラの言う通りだね。じゃあ、まず最初に宿に寄ろうか」


 リカルドはミランダの提案をあっさり承諾すると、今晩の宿を探しに多くの宿屋が連なっている界隈へと向かったのだった。


 二人が宿泊する宿は思った以上に早く見つかった。

 八帖程の広さの室内には清潔なベッドと簡素なサイドテーブル。壁鏡がある洗面台、その隣に二つのコート掛け、安物のハンガーがそれぞれ一つずつ引っ掛けられている。


 部屋に入るなり、二人はベッドの上に鞄を置いて荷物の整理を始めたが、しばらくして、リカルドが呆然とした様子でミランダに声を掛けた。


「ミラ……、湿布を家に忘れたかも……」

「……は??嘘でしょ?!」

 ミランダはリカルドの鞄を強引に奪うと中の荷物を一つ一つ取り出し、何度も鞄の奥底まで目を凝らして確認する。

「……本当に、一枚もないわ……」

 この街での滞在期間は、少なく見積もっても四日。その間、湿布なしでリカルドに過ごしてもらうのは少々酷である。

「うーん、こうなったら、この街の薬屋で湿布薬を買うしかないわね……」


 とは言うものの、か細い見た目や過酷な生活を送っていた割にミランダは丈夫な質で病気らしい病気にかかったことがなく、薬屋とはあまり縁がなかった。

 この街の薬屋ってどこら辺にあったかしら、と、朧げな記憶を呼び起こそうと試みている最中、リカルドが「……薬屋??……」と呟いた後、「……あっ!」と突然大きな声で叫んだ。


「え、何なのよ??」

「薬屋と言えば、あの人のところだよ。ほら、歓楽街の中の……、男装姿の綺麗な女の子が働いていた……」

「あぁ!シャロンさんの……!」


 あそこは娼婦時代、避妊具や潤滑剤を買っていただけだったが、そう言えば湿布薬や風邪薬などの一般的な薬も置かれていたような……。(薬屋なのだから当然と言えば当然だが)


「あそこなら、宿からも左程遠くはないものね。それに、この街に訪れる機会があれば、ぜひ顔を出して欲しいと仰っていたし……、ってことで早速お店に行きましょ」


 ベッドに腰かけていたミランダはささっと立ち上がると、リカルドの腕を軽く引っ張り、今からシャロンの薬屋へ出掛けるように促した。




 (2)


 二階建ての白い石造りの建物の前ーー、シャロンの薬屋には、『薬屋マクレガー』と書かれた立て看板が九年前と変わらず置いてあった。

 扉を開けると、薬草と化学薬品が混じった独特の臭いが鼻先を掠める。これもまた九年前と変わっていない。


「いらっしゃいませ」


 聞き覚えのある、落ち着きを含んだ高音の声。

 黒檀で作られたカウンターの向こう側には、あの時の少女ーー、いや、かつて少女だったと思われる女性が振り返り様にミランダ達に声を掛ける。棚に薬品を補充している最中のようだ。


「久し振りね、グレッチェン。私の事を覚えている??」

 ミランダは女ーー、グレッチェンに、にこやかな表情を向けて話し掛ける。

「ひょっとして……、ミランダさんと……、旦那様……ですか??」

 グレッチェンはミランダとリカルドを訝しげに見つめながら、遠慮がちに訊く。

「えぇ、そうよ。覚えていてくれて嬉しいわ」

「いえ……、お元気そうで何よりです」

「貴女こそ、男の子みたいだったのがこんなに綺麗になって」

「いえ、そんなことは……」


 ミランダに褒められ、グレッチェンは照れ臭そうに目を伏せてしまった。

 短かったアッシュブロンドの髪は肩ら辺まで伸び、ゆったりとした真珠色のローブ風ドレスの上に、毛織物で作られた(素材の質から言って、アンゴラだろうか)濃紺色のショールを羽織っている。

 一見地味な出で立ちにも関わらず、彼女は何処から見ても気品溢れる美しい淑女にしか見えない。


 そのグレッチェンが美しくなった理由ーー、カウンターに置かれた、左手の薬指の指輪が全てを物語っていた。


「グレッチェン。貴女、結婚したの??」


 グレッチェンが、はい、と答えるよりも先にミランダはもう一つの理由にも気付く。グレッチェンの下腹部辺りが丸みのある盛り上がりを見せていたからだ。


 リカルドがさりげなくミランダを気にする視線を送ってきたが、あえて気付かない振りを決め込む。

 スターのお蔭か、妊婦を見ても歯がゆい思いを抱くことが近頃じゃなくなってきていた。


「グレッチェン、お客かね??」

 カウンターの奥の扉が開き、仕立ての良いスーツを着た紳士ーー、この薬屋の店主シャロンがようやく姿を現した。

「はい。シャロンさんが思い出す度に、『今頃どうしているのか』とよく気に掛けていた方々ですよ」


 シャロンはグレッチェンの言葉に対し不思議そうにしていたものの、ミランダ達の姿を見た途端、涼しげで端正な顔に穏やかな笑みを浮かべてみせた。


「あぁ、これはこれはリカルドさんとミランダさんではないですか。お久しぶりですね」

「シャロンさん、お久しぶりです」

「この街を再び訪れた際には、またぜひ店に来て欲しいという言葉、覚えて下さっていて嬉しいですね」

「いえ、こちらこそ覚えてくれていて嬉しいですよ」


 まるで昨日も会っていたかのような調子で、親しげに言葉を交わすリカルドとシャロンを、ミランダとグレッチェンは黙って見守っていた。

 しかし、ミランダが、シャロンの左手の指輪がグレッチェンと同じものだと分かると再びグレッチェンにこそりと話しかける。


「ねぇ、グレッチェン。もしかして、貴方の旦那さんって」

 グレッチェンは苦笑交じりの笑顔で頷いてみせる。

「はい。お察しの通り、うちの店主が私の夫です」

「やっぱりね。ほら、昔から貴女とシャロンさんのやり取りって、長年連れ添った夫婦みたいな雰囲気だったし、納得だわ」

「嫌だなぁ、ミランダさん。それじゃまるで、昔から私は彼女に頭が上がっていなかったようではありませんか」

 すかさず、シャロンが二人の会話に入り込んできた。

「あら、違うんですか??グレッチェンによく怒られていたように思うんだけど」

 笑いを噛み殺しつつ、ミランダはシャロンをからかってみせる。

「ミラ!シャロンさんに失礼だよ……」


 十九年前の、傲慢で冷たい目をしていた頃のシャロンの印象が完全に払拭しきれていないリカルドは、妻によるシャロンへの歯に衣着せぬ物言いにハラハラしている。

 そんなリカルドの心配をよそに、シャロンはハハハ、と、軽く笑ってみせただけだった。

 本当に彼は性格が丸くなったなぁ、と、改めてリカルドはシャロンの変貌振りに目を丸くするばかりであった。


「あぁ、そうだ。シャロンさん。湿布薬を一〇枚程買いたいんだけど」

「分かりました。グレッチェン、悪いが奥から湿布薬を持ってきてくれないかね」

 はい、と、グレッチェンは短く返事を返すと、すぐに奥の部屋へと姿を消した。

「そう言えば……、話は変わりますが、お二人は明日、クリスタルパレス跡地で行われる慰霊の儀に参加されますか??」


 四年前にこの街で起きた「クリスタルパレス炎上事件」及び、事件の翌年から跡地で慰霊の儀が執り行われていたことは遠い地で暮らすミランダとリカルドも知っている。二人は顔を見合わせ、どうする??と目配せし合った。


「シャロンさんは参加されるんですか??」

 ミランダの質問に対し、僅かに片眉を擡げるとシャロンはこう答えた。

「一昨年と昨年はグレッチェンと共に参加しましたよ。……私の友人だった男が、あの事件が元で亡くなっていましてね……」

「そうでしたか……、それはお気の毒に」

 リカルドが痛ましそうに表情を歪める。そんな彼を宥めるように、シャロンは口許のみで薄く笑ってみせる。

「ただ、身重の妻を長時間に渡って寒さと人混みの中に立たせておきたくないので、今年は不参加ですがね」 

「そんなに大勢の人が集まるんですか??」

「えぇ。この慰霊の儀にはファインズ男爵様も毎年参加されていますし、下世話な話、あの方の御姿を一目拝見したいがために参加する人々も少なからずいますから……」


 ここでシャロンは唐突に言葉を切った。おそらくリカルドとミランダ、ダドリーとの間における因縁を思い出してしまったのだろう。どことなく、気まずそうな表情すら浮かべている。


「お待たせしました」


 そこへ丁度、グレッチェンが湿布薬を持って奥からカウンターへと姿を現したので、この話は途切れることになった。しかし、湿布薬の代金を支払っているリカルドの隣で、ミランダは一人考えを巡らせていた。


 シャロン曰く、『下世話な人々』の仲間入りしてしまうのは癪だが、ダドリーの姿を目にする絶好の機会なのも確かだ。これを逃したら、きっと一生彼の姿を見る機会など絶対に訪れないだろう。


 シャロンの薬屋から宿へ戻る道中、ミランダは意を決してリカルドに誘い掛けた。


「ねぇ、リカルド。明日の慰霊の儀、一緒に参加してみない??」

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