排泄的コミュニケーション

 のどが渇いたから水を飲もうと机の上であぐらをかくグラスに手をのばす。その手前にあるテレビのリモコンに触れぬよう、その身にのる汗で不用意に指先を濡らさぬよう、細心の注意をはらいながら手をのばす。そういえば今日はあのお笑い番組が放送される日だな。リモコンにならぶボタンの隊列を目にしたとき、ふとそんなことを思い出す。たしか妻も好きな番組だ。忘れないうちに視聴予約をしておかないと。いや違った、妻が好きでみていた番組を僕があとから好きになったんだ。それはそうと妻が眠ったまま起きてこないな。昼間はいそがしそうだったから疲れたのかもしれない。なら視聴予約じゃなくて録画予約のほうが良いかもな。レコーダーのリモコンは……あそこか、机の下、脚とソファの間でだらしなく寝ころがっている。テレビのリモコンひとつでレコーダーも操ることができれば良いのに。そういう商品はあるのだろうけど、残念ながら我が家のベテラン家電はガラパゴス化の一途だ。言葉の使い方があっているかは不安だが、そもそもいつの間にか現れて「さあ、今日から僕も国語だよ」なんて顔で居座るヨコモジ軍団には辟易としている。つまり意味や根拠を知ることすら嫌気がさすんだ。ところでこの『ガラパゴス化』という言葉は端的に述べると『孤立無援の進化』を日本的にそれらしく名付けたものらしい。それくらいは調べたことがある。日本的といいつつガラパゴス諸島をモチーフにしたあたりが”いかにも”日本らしい。僕はこの言葉をきくたびにそう思う。そしてそのあと、行ったこともないエクアドルやコロンビアに想いを馳せ、詳しくもないコーヒーの湯気と香りを想像の世界で楽しむ。湯気といえば、妻が不意に夢の国へ旅立ってしまったのなら、加湿器をつけ忘れているんじゃないだろうか。家電のガラパゴス化といえば、我が家の室環境事情もその最たる例だと思う。加湿器と空気清浄機が分業制をしいているのだ。でも僕はその健気というか堅気というか、ともかく自分の役割を理解し全うするそれらが好きだった。昨今、携帯電話はスマートフォンになり、ゲームに音楽、それに就職活動や行政手続きまで担っているじゃないか。なんでも抱えすぎだと思う。ゲームはゲーム機に、音楽はウォークマンに任せればいいじゃないか。もちろん異論は認めるし、いろいろと不便があるのだろう。おっと加湿器をつけてあげないと……。妻を起こさぬよう、タンクの水をこぼさぬよう、そっと機器をセットし、タッチ式の操作盤から『ぴっぴっ』と請負契約をすませた音をきくと、室内の環境あるいは妻の喉を彼にたくし部屋をあとにした。晩御飯はどうするつもりだろう。妻の今夜の胃袋を心配しながら、僕は食べ終わった食器を片付けようと机に向かう。その手前にあるテレビのリモコンをきっかけに、さきほど録画予約をしそこねていたことを思い出す。あれ、レコーダーのリモコンはどこだ。ああそうだ、脚とソファのあいだで身動きがとれずに喘いでいるんだ。番組表から録画をしようと目当ての番組をさがす。その道中、二時間の枠を独り占めする『世界の調味料』なるまちがいなく砂漠のひろがる風景を思い浮かべる番組を見つけた。明日の夕方、ゴールデンタイムでの放送だ。これは録画なんかせず、香ばしさ漂う食卓を囲みながらじっくりと観たいところだね。そうだ明日はカレーにしよう。今から仕込めば素晴らしいものができあがるぞ。ちょうど実家からダンボールひとつ分の仕送りがきていた。きっとあの中にはジャガイモやらニンジンやら入っているに違いない。ほらね。それどころかオリーブオイルまで入ってる。じゃあ明日はイタリアンだな。パスタを茹でて、トマトとモッツアレラを用意しよう。仕事の帰りにスーパーによっても間に合うだろ。なんせパスタは調理時間が短いのだから。明日が楽しみだ。気分が良い。こんな気分の良いひとりの夜にウイスキーも入れずに僕はなにをやっているんだ。でも待てよ、明日も仕事がある。ここはひとまず風呂に入って、歯をみがいて、いつでも寝られるようにしておこう。そうと決まれば着替えをとりにいかなきゃ。寝ている妻を起こさぬように寝室のクローゼットから下着類一式をとりだした。風呂場へ行くついでに食器を片付けてしまおう。我ながらかしこい、合理的だ。あ、手がいっぱいだな。着替えはここに置いてあとで取りにくるか。あれ、番組表が映ってる。なにをしようとしてたんだっけ。まあいいや、なんだか無性にのどが渇いた。加湿器をつけないといけないな。まずは水を飲もう。

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仮称短編集 白川迷子 @kuroshi

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