ビーナスライン

紀乃鈴

ビーナスライン

 北東の方角から昇る黄金色の朝日を背に浴びながら、目を落とす。スピードメーターとタコメーターの間に取り付けられたデジタル時計を見る——午前四時五十九分。日の出と共に出発してから約二十分。朝の早い時間帯ということと、この時期ということもあって、道を走っているのは私一人。そのおかげか、たったこれだけの時間でずいぶんと遠くで来ることができた。普段は渋滞してまともに進めないこの道路を、気兼ねなく走ることができるのは本当に気持ちが良い。


 私はアクセルを開けた。相棒の速度とエンジン音が徐々に上がっていくと共に、私の心も高鳴っていく。先へ。もっと先へ。見たことのない景色や感動を求めて。





 高速道路を降りて、長野県諏訪市に入った。デジタル時計は午前八時を示している。少し疲れたので、茅野市街に入ったところで近くのコンビニに入ると、ふと綺麗に差し込まれた新聞の『オリンピック』という文字が目に入った。延長すると決まった時の混乱は大きかったが、もう人々の関心は開催に向いている。人間って、強いんだな。と、どこか人ごとのように考えてしまう。


 サンドイッチとコーヒーを買って、ジャケットを相棒にかけてから少し遅めの朝食を頂いた。さて。ここから今日の目的の一つでもある『ビーナスライン』に向かう。スマホで地図を開き、ルートを確認する。道のりが非常にくねくねしていて、見るからに起伏が激しそうだ。相棒と一心同体になって山道を進む中で見える自然はどれほど美しいだろうか。わくわくしてくる。


「お嬢ちゃん。これからビーナスラインかい?」


 声のした方向を見ると、タンクトップ姿のおじいさんが笑顔で立っていた。


「はい。一五二号線から白樺湖、霧ヶ峰を経由して、美ヶ原高原に向かおうと思っています」

「うひゃあ。かわいい顔してガッツがあるねぇ。あんたどこから来たんだ?」

「愛知県の隅っこから来ました」

「そうかそうか。わしも若い頃はよく走っていてね。よく遠征もしたもんだ——お嬢ちゃん。事故には気を付けてな」


 見知らぬおじいさんとの雑談。日常生活だったらきっと嫌だろう。でも今日この日。この慣れない土地での交流はすごく楽しい。これが旅の醍醐味というものなんだろうな。余韻を噛みしめながらジャケットを羽織り、束ねた髪をその内側に入れる。


 それにしても。朝と比べるとだいぶ陽が照ってきた。記録的な暖冬の反動で夏は冷えてくれるかと思ったが、猛暑だな。ジャケットを脱いで風を感じながら走りたい。でもこれから標高が高くなるにつれて寒くなるだろうし、我慢我慢。相棒に跨り出発する。


 茅野市街を抜けると、建物や車は徐々に減り、山々に囲まれた美しい田園風景が広がる。そこを過ぎると自然が目に見えて増えてきて、木々が楽しそうにこの葉を揺らすので気分も高揚してきた。


 白樺湖の美しい湖面とアヒルボートを眺めながら信号で止まる。青になって十字路を曲がると、道路が緩やかな坂になった。高原の起伏の間にあるこの道路を走っていると、なんだか空に昇っていくような感じがして、どきどきが止まらなくなった。ゆっくりと、だが確実に空が近づいてくる。坂が終わり、右手には太陽に照らされ輝く高原、左手には崖と山々の景色を眺めながら走行。やがて、道と光源と青空しか視界に映らなくなる。


 ふと道路の果てに小さな何かが二個……いや三個現れたことに気付いた。どんどん近づいてきて――バイクだ! 三台のバイクが並んで対向車線を走っている! 向こうも私に気付いたようで、手を挙げて挨拶をしてくれた。左手を振って応答する。普段の生活では見知らぬ人とすれ違いざまに挨拶なんてしないけれど、ライダー同士はよくこうやって挨拶をする。それがとても嬉しい。一人で走っていても、それは決して孤独じゃない。変な目で見られることもない。ライダーだというだけで、私たちはみんな無条件で仲間になるのだ。


 途中で南アルプスや富士山に見惚れつつも、ゆったり流していく。交差点を越え、景色を楽しみながらずっと先へ。なんだか道路の雰囲気が変わった。視界いっぱいに広がっていた青空が、いつの間にか木々で遮られている。なんだかおかしいな。違和感がある。先ほどまではあれほど綺麗な道路だったのに。いきなり質素になったというか。それに道が徐々に下り坂に――って下り坂? え、なんで? 下ったらだめなのに! 確実に道を間違えている! とにかくどこかで止まらないと……! 路肩に停まるのは怖いので、どこか駐車できそうなところがないか探す。見つからない! どうしよう。このままだとどんどん下ってしまう――と思ったらあった! ガードレールが切れて、小さな駐車スペースがあった。二台の先客――ぱっと見おそらく関係は父と娘だろう――が休憩しているので、会釈をしてから停車する。


 スマホを取り出し、地図を確認――できなかった。電池が切れていた。しまった。コンビニで休憩した時点で充電しておけばよかった。溜め息を吐きつつ、モバイルバッテリーに繋ぐ。


「あのう。どうかされたのですか?」


 女の子に話しかけられた。どうやら他人の目から見ても、私は相当慌てているように見えたようで、すごく恥ずかしい。


「どうやら道を間違えたみたいで。地図を確認しようにも、電池が切れて調べられなくなっちゃった」

「どこまで行かれるんですか?」

「美ヶ原高原だよ」

「途中の交差点を直進してきちゃったんですね。私たち、これから白樺湖に向かう予定なんです。良かったら途中まで、一緒に行きませんか?」

「あそこで曲がらないといけなかったのか。ありがたいけど、いいの?」


 彼女はにこりとして、


「いいよね、パパ?」

「ああ、もちろんさ。ライダーに悪い奴はいないからな」


 ハーレーのシートに腰かけていた父親は豪快に笑った。私もつられて笑ってしまう。


「ではお願いします」

「よしきた!」


 女の子は威勢よく言うと、自分のバイク――エストレヤに跨り、エンジンをかけた。先行する二台のバイクを追って、私も山道を駆け登っていく。こうして誰かと走るのは久しぶりだ。やはりジグザグと隊列を組んで走ると安心感がある。一人だと色々考えながら走るわけだけど、この場合ついていくだけだから気が楽だ。何より、この「みんなで走っている感覚」が良い。先ほど下ってきた時とは全く別物の道に感じる。


 何気なく始まったマスツーリング――みんなで一緒に走ること――がもうすぐ終わることを、前方に交差点が見えたことで察する。僅か十五分程度のものだったけど、終わると思うと寂しい気持ちが湧いてきた。交差点で止まるタイミングで、私は女の子の隣に横付けする。


「ここでお別れですね」

「少しの間だったけど寂しいよ。ありがとう。ここまで連れてきてくれて。久々に人と走れて楽しかったよ」


 女の子は少し恥ずかしそうにはにかんだ。


「またどこかで会ったときは、一緒に走ってください!」

「うん、また!」


 そして私たちはそれぞれの道に分かれた。たまには寄り道とかしてみても良いのかもしれない。道を間違えなければ、あんなに良い親子に出会うことなんてなかったんだもの。心に灯った人の暖かさを確かに感じながら、美ヶ原高原を目指す。


 やがて見渡す限りに高原と山々が広がった。それからの景色は、控えめに言って最高だった。起伏のある高原が視界の果てまで続いていて、その中にただ一本だけ舗装されたワインディングロード。ずっと遠くまで伸びている。何よりも驚いたのは空だ。近い! 手が届きそうなすぐそこに、青空が広がっている。夏とは思えないほど涼しくなってきて、心地良い風と青緑のコントラストに自然と笑みが零れた。


 目的地まであともう少しのところで、「大展望台」と書かれた看板が目に入り、何気なく駐車場に入る。バイクが五台止まっていたので、その隣に相棒をサイドスタンドで立てた。小さな趣のある小屋を横切って、道の先にある小高い丘へ向かうと、ちょうど五人のライダーが下りてきた。軽く会釈する。丘の斜面がなかなか急で息が荒くなり、苦労しながらも丘の頂上に辿り着く。その瞬間に私は今日の目的を達してしまった。そう、これが見たかったのだ。


 文明のない、どこまでも続く『大自然』。丘はなだらかに先へと続き、夏草が風で揺られている。まるで日差しを目一杯浴びて元気に踊っているかのようだ。その先には名前は知らないけれど、大きな山々が雄大にそびえたつ。紺碧の空を背景にしたそれは、『大自然』の王と呼べるほどの重厚な威厳を纏っているかのようだった。そんな景色が三六〇度どこを見ても続いていく。


 私は今。『大自然』の中で生きている。社会という縛られた環境から解放されたのだ。ここでは人間関係といった悩みなんて、取るに足らないささやかな出来事で。私はそう考えられる心の『自由』を手に入れた。いや、『大自然』が私に与えてくれた。ありがとう。まだまだ私は頑張れるよ。深呼吸をして、ただ一人私しかいない丘の上で、誰も介在しない『大自然』を写真に収めた。


 展望台から戻ると、来た時に駐車していたバイクたちはすっかり消えていて、相棒がただ一台そこに佇んでいた。お待たせ。キーを差し込み、クラッチを握りながらセルを回す。甲高い音がした直後に、重厚なエンジン音が響いた。ふくらはぎに伝わるその振動を確かに感じて、私はつい嬉しくなって空ぶかしをしてしまう。うん。やっぱりいい音だ。気持ちが高鳴るのを感じつつ、相棒のタンクを軽く叩く。さて。次はどこへ行こうか。私はクラッチをゆっくりと離し、アクセルを回す。

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