22時限目 理解者(2)


 目を閉じて浮かぶのはあの日の光景だった。 

 ……その日はどこまで行っても真っ青な空が広がっていた。雲ひとつない晴天。そんな空模様にも関わらず、心の中はくすんだ色の暗雲が立ち込めていた。


 シオンは鏡の前に立っていた。十歳の誕生日。白いシャツと黄色いブラウス。それから目に眩しいピンクのスカート。こんな格好をするのは初めてのことだった。


 あるいは最後の日。


(ダメだったらもう最後にしよう)


 自分がやっていることの異常さは分かっていた。男としての自分を大きく踏み外している。もしかしたら自分は狂っているのかもしれない。頭のネジが外れて、どこか遠くの方に飛んで行ってしまったのかもしれない。


 なぜやるのと問われても答えは出てない。

 なぜダメなのと問いたい気持ちだった。自分がしたいようにして、何が悪いんだろう。いや、悪いのは分かっている。誰にだって分かる問題だ。こんな格好したら、さすがにまずい。


「僕は悪い子だ」


 だから、シオンはせめてまずイムドレッドに見せようと思った。彼が嫌な顔をしたり、戸惑ったりしたらやめよう。「えへへ。びっくりした? 冗談だよ」とか言ってごまかして、こんなことはもう二度としないでおこう。


 だからこの一度だけ。


 十歳になる誕生日のたった一度だけ、たった一人にだけ、ワガママを見てもらおう。


 家と家を隔てる塀を乗り越えて、シオンはブラッド家の庭に降り立った。そこからイムドレッドの部屋の窓に、小石を投げた。カツンと音を立てて、ガラスが震える。窓の方に向かってイムドレッドが歩いてくるのが見える。いつもと同じ光景。


 それが今日はこんなにも怖く思える。心の中に立ち込める暗雲は、雷鳴をまとって、シオンの心臓を何度も揺らした。


 どうしよう。どうしよう。

 軽蔑けいべつされたらどうしよう。否定されたらどうしよう。変態だって言われたらどうしよう。狂ってるって罵倒ばとうされたらどうしよう。友達じゃないって言われたらどうしよう。


 渦巻く言葉はシオンの時間を何倍にも膨らませた。喉の奥がカラカラで、おはようと口に出そうとした言葉も出て来なかった。


 カーテンが開いて、窓が動いた。


「……ジオルグ」


 イムドレッドが顔を出す。ぼさぼさの髪は光に照らされて少し青みがかっている。切れ長の瞳は彼は庭で立ちすくむシオンをジッと見つめた。窓枠にひじをついて、イムドレッドは頬づえをついた。


 シオンはぶるぶると唇を震わせて、言うべき言葉をつむぎ出そうとした。


 冗談だよ、びっくりした?


 冗談だよ、ビックリシタ?


 ジョウダンだよ、ビックリした?


 ジョウダンダヨ、ビックリシタ?


 言えない。

 どうしてか言葉が出てこない。先に口を開いたのはイムドレッドの方だった。


「なんだよ、見違えたな」


 イムドレッドの言葉にシオンはうつむいた。心の中で雷鳴がとどろく。自分の中で何かが粉々に砕かれようとした。空が丸ごと落ちてくるみたいで、恐ろしくて仕方がなかった。


 彼はシオンを見下ろしながら、ふっと息を吐いて言った。


「良いじゃん。似合ってるよ」


「…………え」


「そっちの方が、ずっとお前らしい」


 ふっと、雷鳴がやんだ。


 代わりに吹いたのは強い風だった。雲をかき消す強い風。どんな分厚い雨雲だって、積み重ねた言葉でさえ、まっさらにしてしまう突風がシオンを襲った。


「……う」


 涙が溢れ出して、止めることができなかった。庭の真ん中に立ってシオンは声も出さずに泣き続けた。その姿を見て、イムドレッドはおかしそうに笑った。


「なんだよ、泣くなよ。泣き虫だなぁ」


「どうして……なんで」


「そんな怖い顔で見られたら、俺だってちゃんと言わなきゃ悪いだろ。さぁ、遊ぼうぜ」


 ぴょんと飛び出して、イムドレッドはシオンの正面に立った。いつも通りの笑顔で、空はいつも以上の晴天が広がっていた。太陽が二人をまっすぐに照らしていた。


 それから四年。

 最も信頼出来る友人は、シオンのそばからずっと離れたままだった。誰もいなくなってしまったベッドを見ながら、シオンは愚痴ぐちるように言った。


「イムのバカ」


 今何をしているだろうか。お腹を空かせていないだろうか。風邪をひいていないだろうか。危ないことをしていないだろうか。シオンの心は不安と恐怖で一杯だった。


 せめて便りだけでも一通。


 願うなら、また隣でいられる日々を。


 シオンは「おやすみ」と一人きりの部屋でつぶやいて、眠りについた。彼の頬に、涙が伝った。

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