第23話 修学旅行1

 それから一週間が経った。結局進路希望調査は白紙のままで提出し、先生もそれを受理して一応は進路に関する悶着は終わった。


 進路希望を提出したら俺の心は晴れて、楽しく修学旅行を迎えられるはずだと思っていたが、ちっともそんなことはない。それどころか修学旅行の日が近づくにつれて気持ちはどんどんと落ち込んでいく。


 そして、俺と先生はというと……。


「はい、これ近本くんのぶん」


 俺と先生は修学旅行を明日に控え二人で荷造りをしていた。先生はしおりを眺めながらスーパーで買ってきた歯ブラシやエチケット袋を俺に手渡す。


 俺と先生は進路希望調査を提出した日から、進路の会話は全くしなかった。それどころから先生の新居の話や芸能プロダクションの話も、とにかくこれからの二人の話は一言も話さなかった。特に二人で決めたわけではないが、二人ともその手の話をするのを避けていた。だから、俺と先生は表面上は元の生活に戻ったと言ってもいいと思う。


 だけど、問題を先送りにしたところで問題そのものがなくなるわけではない。かと言って俺も先生も、いや少なくとも俺はその手の話をする勇気はなかった。ただただ何事もなかったかのごとく先生と仲良くやっていた。


「よし、これで全部揃ったね」


 先生が俺のカバンにバスタオルを二枚入れるとそう言って笑みを浮かべた。


 あとはぐっすり眠って明日から始まる修学旅行に備えるだけだ。時計を見やると時刻は十一時三十分を回ろうとしていた。


「そろそろ寝ますか」


「そうだね」


 そう言うと先生は立ち上がって自分のカバンと俺のカバンを手に取るとそれを玄関へと運ぶ。そしてそそくさとベッドに入ってしまう。


 俺も特にやることがなかったので、蛍光灯から伸びた紐をカチカチと引くとベッドに入った。


 しんと静まり返る部屋。


 俺は先生に背を向けて瞳を閉じる。先生の身体の温もりが布団越しに伝わってくる。


「近本くん……」


 不意に先生が俺の名を呼ぶ。


「なんですか?」


「楽しい修学旅行になるといいね」


「そうですね」


「いっぱい想い出を作ろうね」


「作りましょう」


「近本くん……」


 と、先生は再び俺の名前を呼ぶ。


「なんですか?」


「なんでもないよ……」


 そう言うと先生は俺に声を掛けるのをやめた。それからしばらくして俺は眠りに落ちた。



※ ※ ※



 そして修学旅行の日がやってきた。俺たちは一度学校に集合してバスに乗り駅まで移動すると新幹線に乗った。


 三時間弱の長い旅だ。


 周りの生徒たちはいよいよやってきた修学旅行にすっかり盛り上がっている。俺は誰かが持ってきたトランプで数人で大富豪に興じていた。

 が、俺の頭の中は先生のことでいっぱいで今一つ盛り上がれないでいた。

 結局、問題を先延ばしにしたまま修学旅行の日を迎えてしまった。瞬く間に過ぎ去っていく車窓を眺めながらそんなことを考える。


 俺には自分のしたいことがわからないでいた。先生は遠くない未来に家を出ていってしまう。それが嫌だった。


 だけど、自分がどうしてそれが嫌なのか自分の中でうまく処理することができないでいた。


 冷静に考えてみれば喜ばしいことだ。先生は無事自立して俺だって六畳間を自由気ままに使うことができる。先生の目を気にすることなんて何もない。確かに、先生との生活は楽しかったが、だからといっていつまでも一緒に住むわけにはいかないのだ。いずれこんな日が来ることはわかっていたのだ。


 だけど……だけど、俺は何故かこのまま問題を先送りしたまま、出ていく先生を見送ってはいけないような気がした。


 俺はどうしたいのだ……。


 そんなことを考えているとトランプどころではなかった。気がつくと俺は五回連続で大貧民になっていた。


「お前が弱すぎてゲームにならねえよ」


 からかうクラスメイトに俺は適当な相槌を打つ。


「ねえ、私、近本くんよりももっと大富豪下手そうな子知ってるよ」


 と、そこで女子生徒がそう言って席を立った。そして、後部座席の方へと歩いていくと誰かの手を引いて戻ってくる。


「先生も一緒にやりましょうよっ!!」


 女子生徒が引っ張ってきたのはあろうことか先生だった。


「えぇ……別にいいけど、先生大富豪弱いよ……」


「だから誘ってるんです。ほら先生、近本くんの隣が空いてるんで、そこに座ってください」


 と半ば強制的に先生は俺の隣の席に座らされる。先生は少し困った様子で腰を下ろす。先生は腰を下ろすときに一瞬俺の顔を見やったが、特に表情を変えるわけでもなく配られたカードを手に取った。


 そして、女子生徒の予想通り先生は大富豪がめちゃくちゃ弱かった。


「先生、2で上がるのは反則ですよ」


「ええ、そうなの? なぁ……せっかく大富豪だと思ったのに……」


 先生のおかげで俺は5ゲーム連続で大貧民を免れた。が、ゲームが続くにつれて先生の表情が曇っていくのが俺にはわかった。どうやら先生は乗り物に乗りながらトランプをした結果、電車酔いをしてしまっているようだった。


「はい、また先生が大貧民っ!! じゃあ次のゲーム」


 が、そのことに気がついてるのは先生が乗り物酔いすることを知っている俺だけのようで、他の生徒たちは先生の異変に気がつかずにトランプを続けている。そして、先生はというと。


「次は絶対に大富豪になってみせるもん……」


 と、やや引きつった笑みを浮かべながら、気分が悪いのを我慢して生徒たちの思い出作りのお手伝いを続けていた。


 が、しばらくすると先生の顔色はますます悪くなっていき、ついには気持ち悪そうに小さくげっぷをしているのが見えた。


 え? これ、まずくないか……。


 先生は生徒たちを心配させまいとやせ我慢をしているようだった。が、このままだと先生は生徒たちの目の前でリバースしてしまいそうだ。さすがにそれはまずい。


「先生っ!!」


 俺は立ち上がると先生の手を握った。そんな俺を先生は驚いたように眺める。そして、周りの生徒たちもそんな俺の突然の行動に驚いたように顔を見合わせる。


 掴んでから思った。別にトイレ休憩しようだとか何とか言って先生をトイレに避難させることも出来たはずだ。だが、そこまで思考が回らなかった。俺は先生の手を無理やり引くとトイレのある後方車両へと先生を引っ張っていく。


「ちょ、ちょっと近本くん、どうしたの?」


 俺に手を引かれながら先生は動揺したようにそう尋ねる。


「もう限界なんでしょ? こんなところでリバースしたら生徒たちに一生忘れられない思い出を作っちゃいますよ。悪い意味で」


「そ、それは……」


 と、そこで先生は俺の意図を理解したようだ。先生は少し恥ずかしそうに頬を赤らめると「あ、ありがとう……」みんなに聞こえないぐらいに小さな声でお礼を言った。


 結局、俺はすぐに先生の手を放して、一人でトイレへと向かわせた。座席に戻ると周りの生徒たちが呆然としながら俺のことを眺めていてやばいと思ったが、先生の体調が悪そうだったから連れて行ったと答えると「なんだよ。お前、先生のこと狙ってんのか?」と男子生徒たちからからかわれた。


 いや、からかわれるだけでよかった……。


 再び先生抜きでトランプを続けていた俺たちだったが、先生は十分経っても二十分経っても帰ってくる気配がない。どうやら他の生徒たちも先生のことが心配になってきたようでざわつき始める。


「おい、お前、先生の様子見て来いよ。チャンスだぞ」


 男子生徒が一人、俺をからかうようにそう言った。


 チャンスかどうかは知らないが、とにかく周りの生徒たちが俺と先生のことを訝しがらないのは幸いだった。俺は立ち上がるとトイレへと向かう。


 一番近くのトイレへとやってきた俺だったが、ちょうどトイレから出てきたのは先生ではなかった。トイレには列ができていてその中にも先生の姿はない。もう戻ったのかと一瞬思ったが、座席に先生の姿はなかったし俺の席から後部座席は見えていたが先生は戻ってきていなかった。


 となると考えられるのはさらに後ろの車両にあるトイレだ。が、俺たち生徒は自分たちが貸し切っている車両から出ることは許されていない。俺は一瞬迷ったが他の生徒たちの目を盗んでこっそりと後部の車両へと侵入した。そして、さらに数両後ろの車両のデッキで先生の姿を見つけた。先生は猿回しの猿の反省のポーズみたいにデッキに手を付いてうな垂れていた。


「先生、大丈夫ですかっ!?」


 俺が慌てて先生に駆け寄ると先生は少し驚いたように「せ、生徒はここまで来ちゃダメなんだよ……」と言ったが、そんな忠告も無視して真っ青になった先生の背中を摩ってやる。


「ち、近本くん、他の生徒に見られたら変な勘違いされるよ……」


「大丈夫です。誰もここまでは来ないですから」


「そ、そうかもしれないけど……」


 先生はそう言って気持ち悪そうにげっぷをする。俺は財布を取り出すと近くの自販機でミネラルウォーター買い先生に手渡す。


「ご、ごめんね、せっかくの修学旅行なのに……」


 先生は申し訳なさそうにそう言うと、俺から水を受け取るとそれを飲んだ。俺はトイレを見やる。どうやらトイレにはまだ誰かが入っているようだった。


「エチケット袋はどうしたんですか?」


 そう尋ねると先生は首を横に振る。


 どうやら座席に置いてきてしまったようだ。


「戻って取ってきますよ」


 俺はそう言って先生の席のある車両へ戻ろうと走り出す。が、すぐに。


「ご、ごめんね、それまでもたないかも……」


 先生は苦笑いを浮かべる。


 マズイ。いよいよ先生が新幹線のデッキでリバースという最悪の結末が見えてきた。俺はあたりを見渡す。気がつくと新幹線は名古屋駅に停車していた。デッキからはスーツ姿の客がぞろぞろと下車していく。


 そして、トイレは一向に空きそうにない。


 四面楚歌だ。


 いや、一つ方法があるにはある。


 俺は乗車口と先生を交互に見やる。先生の顔色は本当に悪く確かにこのままトイレを待っていたらゲームオーバーになりそうだ。


 車内では『まもなく発車します』とアナウンスされている。


 俺は乗車口を眺めながら、頭を悩ませる。俺には先生が屈辱的な状態にならない唯一の方法を知っている。が、それをやるにはあまりにもリスクが高すぎる。が、これ以外に方法はない。


 先生は「う、うぅ……」と今にもリバースしそうな様子だ。


 そんな先生を見て俺は決めた。


「先生っ」


 そう言うと俺は先生の腕を掴んだ。先生は驚いたように俺を見やる。


「ちょ、ちょっと近本くんどうしたの?」


「いいからついてきてください」


 そう言うと俺は先生の手を引くと乗車口の方へと歩いてく。そして、そのまま新幹線から降りた。


「ちょ、ちょっと近本くん、やばいよっ!?」


 と、先生はただでさえ真っ青な顔をさらに青くして俺の顔を見やる。が、次の瞬間、新幹線の扉は閉まり俺たちの目の前で新幹線は俺たちを置いて動き始めた。


 俺と先生は名古屋駅に取り残されてしまった。が、先生のリバースを回避するには駅のトイレを使う以外に方法はなかった。

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