第21話 売り言葉に買い言葉
季節は巡る。
つい一週間ほど前までは月末恒例となりつつある停電から復活してクーラーの涼しさに二人して涙を流していたというのに、ここのところは肌寒くてクーラーどころか扇風機も付けなくなった。
夏休みが開けて二学期も始まり、クラス中が修学旅行の話で持ち切りだった。
「神戸ってどこ? 大阪とはちがうの?」
「神戸の人は毎日食卓に神戸牛が出てくるんだって」
などと生徒たちは目の前に迫る修学旅行に浮足立っていた。そんな中、俺一人机に置かれた一枚のA4用紙を眺めながら表情を曇らせていた。
その紙には『進路希望調査』と書かれており、国立大学、私立大学、専修学校、就職などと羅列された文字の横にはチェック欄がついている。その下には志望動機や両親の希望する進路などの欄があるが、どの欄も空白だった。
このペラペラの紙がここ一週間ほど俺を悩ませる元凶だった。
クラスメイトの多くが既にこの用紙を提出しているにもかかわらず、俺は未だ空欄を埋められていなかった。こいつを提出しない限りは修学旅行に浮足立つことなんてできない。こいつのせいで昼飯もろくに喉に通らない。
『近本くん、近本巧くん、至急進路相談室まで来てください』
と、そこで教室のスピーカーから俺を呼びだす先生の声が響いた。
どうやら先生が進路希望の催促をしたいそうだ。
俺は重い腰を持ち上げると、とぼとぼと教室を出た。
※ ※ ※
進路相談室へとやって来た俺がドアをノックすると中から「はーい、入っていいよ」と聞き慣れた先生の声が聞こえてくるのでドアを開ける。教室の半分ほどしかないその部屋には折りたたみ式のテーブルとパイプ椅子が数個置かれており、その中の一つに先生が腰を下ろしていた。先生はこちらを向いて足を組んでいるせいで、太ももの間からスカートの中が見えそうになっているがぎりぎり見えなかった。
「俺になんか用ですか?」
俺はわざとらしくそう尋ねると先生は「とりあえず、ここに座って」と自分の前のパイプ椅子を指さす。
俺がとぼとぼとパイプ椅子まで歩いていき腰を下ろすと先生は少し困った様子で俺の顔を見やる。
「近本くん、どうして先生がきみをここに呼んだかわかるよね?」
そう尋ねると先生は襟元が窮屈だったのかブラウスの第一ボタンを外す。が、少しサイズの小さいブラウスの胸元は内側から圧迫されており、第一ボタンを外した勢いで第二、第三ボタンまで勢いよく外れ、先生は慌てて胸元を両手で押さえる。が、手の間から谷間が顔を覗かせていた。
先生は顔を真っ赤にしながら丁寧に第二、第三を止めると少し動揺しながらも俺を見つめた。
「近本くん、高二のきみにこういうことを聞くのは酷だとは思うけれど、将来のことはちゃんと考えているの?」
と、先生はめずらしく先生らしいことを俺に尋ねてくる。
「まあ、考えていると言えば考えていますよ……」
俺はそう答えると先生から目を逸らして窓の外を眺めやった。が、そんな俺の返事が先生には生返事に聞こえたらしく「も、もう……」と腕組みをしてむっとした表情を浮かべる。
「先生はね、近本くんの気持ちがよくわからないの……」
「俺の気持ちがわからない?」
「だって、春の進路希望では大学進学って迷わずに書いてたよね? それなのにどうして急にこんな風になっちゃったのかな……。もしも悩み事があるなら家でも学校でも先生に言ってくれれば相談に乗るよ?」
先生はそう言って目の前の俺の膝の上に乗った手を握った。突然、先生に手を握られ俺は動揺して目を見開くが、先生の目は真剣に俺を見据えていた。
「ねえ、近本くん……」
「な、なんですか……」
「やっぱり先生が近本くんの家に住んでいるせいで、近本くんによくない影響が出てるのかなって少し心配しているんだよ……」
「別にそんなことはないですよ……」
と、俺は答えて再び先生から顔を背ける。
本当のことを言おう。本当は俺の進路に対して今一つ本腰を入れる気になれないのはきっと先生と一緒に生活をしているせいだ。だからと言ってその責任を先生に擦りつける気にはならなかったが、それまでは当たり前のように大学に進学して当たり前のように就職するのだと決心していた俺の気持ちは揺らいでいた。
「ちゃんとこっちを見て話して欲しいの」
そんな中途半端な反応に先生は俺の頬に両手で挟むように触れると、俺の顔を自分の方へと向ける。その結果、意図せず俺と先生は間近で見つめ合う形になる。
俺が思わず顔を紅潮させると、先生も反応して頬を紅潮させる。が、自分がこっちを見てと言ったものだから先生は俺から目を逸らすことも出来ず恥ずかしそうに俺を見つめていた。
「先生はね、近本くんがこれまで先生のためにしてくれたことを忘れるつもりはないし、心から近本くんには感謝しているよ。それは信じて欲しい。でもね、そのせいで近本くんの精神状態が乱れるのだったら、先生はこれからのことを少し考えようと思うんだ」
「これからのことですか?」
先生はこくりと頷いた。
「近本くんは優しいから先生に出ていけなんて言わないだろうけど、先生だっていつまでも近本くんの家にお世話になっているわけにはいかないんだよ。早く新しい家を見つけて近本くんが安心して進路のことを考えられるようにしてあげないといけないの」
と、先生が唐突にそんなことを言い出すから俺は目を見開く。
「そ、そんなの駄目ですよっ!!」
と、俺はわけのわからないことを口にする。どうして自分でもそんなことを言ったのかよくわからない。
「そ、それに先生はお金に困っているんでしょ? 家を出ていくあてなんてあるんですか?」
必死に平静を装いながらそう尋ねると先生は少し困った顔をする。
「先生のことは心配しなくてもいいの。近本くんは自分の将来のことだけを考えていればいいんだよ。きっと近本くんは優しいからこんな情けない先生の心配をして自分の進路のことがよくわからなくなっちゃったんだよね? ごめんね」
と、俺はよくわからない謝罪をされる。
先生を見つめながら俺は思う。確かに、俺の進路に対する無気力さは先生と同棲することになってからのことだけど、先生のことが心配なのと、俺が進路に対して無気力なことは関係ない。
「謝らないでください。別に先生が心配で進路に困っているわけではないですから」
そう答えると先生は口を噤む。
俺と先生は間近で見つめ合いながら沈黙していた。
早く進路を決めて先生を安心させてあげたい。それが俺の今の素直な気持ちだった。
けれど、今の俺には進路を決める勇気はなかった。今の俺にはどんな進路であれ今の自分の環境が変わるような選択をすることが怖かった。それがどうしてなのか俺にはわからない。もしかしたらそれは思春期特有の感情なのかもしれないが、少なくとも今の俺にはその理由がよくわからない。
「いくら聞かれても今の俺には答えは出せないですよ」
俺は頬に添えられた手を顔を振って払うと先生から顔を背けて再び窓の外を見やる。校庭に植えられた銀杏の葉はわずかに黄色く変色し始めている。それを見ていつの間にか夏が終わっていることを俺は実感する。
「近本くん……」
そんな俺を先生は心配そうに眺めていた。
※ ※ ※
結局、進路相談室では明確な答えは出ずに昼休みが終わった。放課後、俺は何となく家に帰る気がせず駅前の本屋で立ち読みをし、さらにはゲーセンに寄ってから家に帰ると既に先生が帰宅していた。
部屋の窓はわずかに開いており、外から少し冷たい風が差し込んでいる。
「ただいま……」
「お、お帰りなさい……」
テーブルの前に座った先生は、俺が帰ってきたことに気づき俺の分の食事を用意しようと立ち上がる。そして、五分ほどで食卓に俺の分の食事もならび俺は手を合わせると箸を手に取る。
進路相談室で明確な答えが出なかったせいもあって、なんとなく部屋の空気は重苦しかった。
「お、美味しいです……」
俺がそう食事の感想を述べると先生も「あ、ありがとう……」とぎこちない返事をする。が、その会話を最後に二人とも黙ったまま食事を続け、咀嚼音と、箸が食器に触れる音だけが部屋に響く。
が、先生はこりこりとたくあんをしばらく噛んでから呑み込んだどころで、顔を俺から背けつつも、視線だけをこちらへと向ける。
「そろそろ進路希望の紙を他の先生に提出しなきゃいけないんだけど……」
やっぱり進路相談のことが気がかりのようだ。まあ先生には先生の事情があるのだろう。だが、やっぱり俺には今一つこれといった進路希望がないのが事実だった。
「別に、今の時点での希望でいいんだよ。あとから変更することだってできるんだし」
「その今の時点での希望がないから困ってるんです……」
「そ、そうかもしれないけど……」
先生は困ったように俯く。先生にとって俺は本当に困った生徒なんだろうと思う。だけど、今の時点で何も希望がないのだから、困っているのも事実なのだ。
だから、
「なんなら俺の分は白紙のまま出してもらってもいいですし……」
と、何気なくそんな提案を先生にしてみる。
が、それが思いもよらず先生の逆鱗に触れてしまう。
「どうして、そんな投げやりな言い方するの?」
先生はむっと頬を膨らませる。
「別に投げやりなんかじゃないです。今の時点で希望がないんだから白紙で出すって言っただけです」
「それを投げやりって言うんだよ。私はね、近本くんには私みたいに生活に困らないような平穏な人生を送って欲しいの。それで心配して――」
「別に先生にそんな心配をしてもらう筋合いもないですし……」
「っ…………」
先生はそんな俺の言葉に目を見開いて絶句する。
だけど、それもまた事実であることに変わりない。先生のこんな表情を見るのは初めてで俺は内心動揺していたが、苛立っていた俺はそれを必死に隠して言葉を続ける。
「だいたい、先生はどうなんですか……」
「せ、先生のことは今は関係ないよ」
「関係ありますよ。他人にそういうことを言うわりには先生だって中途半端なことをしているじゃないですか?」
言った直後に言うべきではないことを言ったと理解する。けど、今更ヒートアップする感情にブレーキを掛けることができない。
「先生はどうなんですか? 本当に将来のことを考えているんですか? 今は先生をやっていますけど、本当はアイドルにだって未練があるんじゃないんですか? そんなにアイドルがやりたいなら今すぐ教師なんてやめてアイドルに戻ればいいじゃないですか」
「そ、それは……」
と、そこで先生の手から箸がぽとりと落ちる。
先生はしばらく何も答えずにじっと俺を見つめていた。が、不意に怒りをぐっと堪えるように下唇を噛みしめると俺を睨み付ける。
「先生は別に……先生は別に今さらアイドルなんて……」
と、何かを言いかけてそこから先が続かなかった。
結局、俺と先生はその後一言も会話を交わさなかった。
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