第10話 先生にとんでもないことをしてしまった……

 俺は普段、あまり夢を見る方じゃない。いや、実際には見ている可能性が高いが、いつも目が覚めると、いったい自分が今さっきまでどんな夢を見ていたのか大抵の場合は忘れてしまっている。


 だけど、昨晩の夢は目が覚めてもはっきりと覚えていた。それはなんというか口に出すのは少し、いやかなり憚られる内容だ。


『近本くん、好きだよ……』


『近本くん、そこはくすぐったいってばぁ……』


『近本くん、私、初めてだからもっと優しくして……』


 昨晩、夢で見た名シーンの数々が脳内で再生されて、恥ずかしさで俺は軽く死にたくなった。


 朝、目が覚めるとそこには俺の担任織平さくらの姿があった。


 詳しい言及は避けるが、なんというか夢の中であった人というのは妙に意識してしまい、もう同居を始めて少し経つというのに、俺は謎の気まずさを覚えた。


 そして、昨晩見た夢の内容は墓場まで持っていくことを誓った。


 そういえば昨日は教員同士の飲み会に出かけていた先生は、帰りが遅くなったらしく着替えずに眠ってしまっていたらしい。スーツ姿の先生はぺたんとベッドの上に座り込んでいた。


「おはようございます……。すみません、昨日はちょっと疲れていて先に眠ってしまっていました」



 俺が、寝ぼけ眼を擦りながらそう言うと、先生は「え? あ、うん……おはよう……」と少し変な返事をしてきたので、俺はそこで初めて先生の異変に気がついた。


 先生の様子がいつもとおかしい。


 何というか先生は動揺したような……というよりも恐怖心を抱いているような眼差しを俺に向けている。髪の毛は寝ぐせのせいなのかボサボサだ。そして、驚いたことに先生のワイシャツの前開きのボタンは何故か全開になっているようで、先生は俺に下着が見えないように両手で押さえていたが、腕の間から薄ピンク色の下着の一部と、朝から刺激の強すぎる豊満な谷間が顔を覗かせていた。


 なんというか先生の格好は妙にエロかった。


「どうしかしましたか?」


 そう尋ねると先生は露骨に狼狽した様子で、「ひゃっ!?」と小さな悲鳴を上げると、顔を紅潮させて俺からあからさまに目を背けつつも「な、なんでもないよ……」と弱々しい声で答える。


 え?


 俺はそのあからさますぎる狼狽にむしろ、俺の方が狼狽してしまう。


「か、風邪ひくから早く着替えた方がいいよ……」


 と、そこで先生は俺に顔を背けたまま俺の上半身を指さした。そして、俺はその時初めて気がついた。自分が上半身裸で、下半身もパンツ一枚を除いて何も身に着けていないことに。


「なっ!?」


 俺は立ち上がると、「すみませんっ!!」と謝罪をしながらベッドの下に脱ぎ散らかされていたTシャツとズボンを手に取る。そして、慌ててTシャツを被りながら俺はふと思った。


 そもそも何で、俺は半裸で眠っていたんだ。


 少なくとも、昨日の十時ごろベッドに入ったとき、俺はいつものようにズボンもシャツも身に着けていたのだ。


 寝ぼけて脱いだのか?


 いや、寝ぼけていてもズボンとシャツを両方無意識に脱ぐことなんて今まで一度もなかった。そう考えてみると、そもそも先生のワイシャツのボタンが全開なことも不思議に思えてくる。


 そして、俺は直後、決定的なものを見つけてしまった。


 先生の首元、具体的には右の鎖骨の少し上の辺りの一部がピンク色に染まっていることに気がついてしまった。


 その瞬間、俺の顔から血の気が引いていくのに気がついた。


 先生の挙動不審な様子、そして何故か半裸の俺、先生の全開のワイシャツ、そして、首元の謎のピンク色のマーク。それらのことから総合的に判断して、俺は昨晩、寝ぼけて取り返しのつかないことをやってしまったのではないかという推測に至った。


 頭が真っ白になった。


「先生、なんというかこれはっ!!」


 俺は慌てて先生に弁解をしようと、彼女に近づくが、先生は「こ、こないでっ!?」と思わず声を上げてベッドから飛びのいた。が、すぐに我に返ったようで、テーブルの上のイヤリングを両手で留めながら「せ、先生、遅刻しそうだからもう行くね。きょ、今日のお昼は悪いんだけど学食で食べてねっ!!」と逃げるように後退りして家を出ていった。


 廊下を走る先生の「わ、私もう、お嫁にいけないよぅ……」という声が薄いドア越しに室内まで聞こえてきた。


 終わった……。


 完全に終わった……。


 俺はそう確信した。



※ ※ ※



 学校についたあとも、気が気ではなかった。


 何というか先生のほうも同じだったようで、学校に着いてからも俺は何度か先生とすれ違ったが、その度に先生は「ひゃっ!?」と小さな悲鳴を上げながら、頬を赤らめて露骨に俺から顔を背けたり、話しかけても「ご、ごめん、今はちょっと忙しいから……」などと言われてはぐらかされた。


 その度に俺は自分のしでかしたことの重大さに背筋が凍った。


 俺も今日から性犯罪者の仲間入りか……。


 真面目に釈明しても結局、誰からも信じてもらえないんだろうなぁ……。


 そんなことを考えてたら、いつの間にか昼休みになっていた。


 俺は昼飯もまともに喉に通らず、やつれた状態でまともに午後の授業を受けられる状態じゃなく、気がつくと俺は教室で気を失って保健室へと運ばれていた。


 目を覚ますと保健室には誰もいなかった。しんと静まり返った保健室。


 そのベッドの上で俺は相変わらず、取り返しのつかない過ちに頭を悩ませていた。


 不可抗力というか寝ぼけていたとはいえ、俺はきっと先生のことをひどく傷つけることをしたに違いない。もしも許されるなら、今すぐにでも先生の前に出向いて土下座でも何でもして謝り倒したい。でも、先生はショックと恐怖で俺の顔すら見たくないんだろうなあ……。などと、考えていると涙が零れてくる。


 だが、やってしまったことはもう戻せないのだ。ここはしっかりと前を見て自分の犯した罪と向き合ってこれからの人生を送るしかないのだ。


 そんなことをベッドの上で考えていると、俺はふと廊下からコツコツと足音が聞こえてきて、その足音がこちらへと近づいてきていることに気がついた。


 保険の先生が様子でも見に来たのかな? などとぼーっと考えていると、足音は保健室の前でぴたりと止まり、ドアが開いた。


 俺はドアの方へと目をやって、思わず目を見開いた。


 そこに立っていたのは織平さくらだった。


 先生は「近本くん、大丈夫?」とベッドの方へと歩いてきた。そして、先生は仰向けの俺の顔を覗き込むと、それまでのよそよそしい態度が嘘のように心配そうに俺の顔を覗きこんだ。


 俺はそんな先生の態度に少し面食らった。


「気分はどう?」


「え? あ、あぁ……少し貧血になっただけなんで大丈夫だと思います……」


「お弁当作れなくてごめんね。お昼ちゃんと食べた?」


「ええ、まあ、少しは……」


 嘘を吐いた。


 なんというか俺には訳が分からなかった。そもそも、俺は昨晩のあの事件以降、先生に対する申し訳なさと、心配さで体調を崩したのだ。それなのに、むしろ俺は先生に心配されている。


 と、そこで先生はベッド横の丸椅子に腰を下ろすと、不意に布団から出ていた俺の手を優しく持ち上げた。


「さ、昨晩はあんなことがあったもんね……気分が悪くなって当然だよね……」


 と、そこで先生が突然、そんなことを言い出すので俺は思わずドキッとする。


 やっぱり、昨晩のことは何かの間違いじゃなかったんだ。俺は改めて自分がとんでもないことをしてしまったのだと自覚する。


 そして、謝るならば今しかない。


「あの、先生……俺――」


「近本くん、ごめんね……」


「え?」


 何故か先に謝ったのは先生の方だった。まさか、謝られるなんてことはないと思っていた俺は思わず拍子抜けする。


「昨晩のこと……覚えているよね?」


「え? えぇ……まあ……」


「先生ね、昔からお酒を飲むと寝ぼけちゃう癖があるんだ……。だから、きっと昨晩も夜中に寝ぼけてあんなこと……」


 と、先生は申し訳なさそうに俺を見つめる。


 ん?


 俺は首を傾げる。俺が昨晩、寝ぼけて先生にとんでもないことをしてしまったらしいことを俺は気にしているのだ。なのに、どうして俺ではなくて先生がそのことを俺に謝ってくるんだ?


「先生、ちょっといいですか?」


「な~に?」


「先生は俺が昨晩、先生にあんなことをしたから怒っているんじゃないんですか?」


 すると先生はポカンと首を傾げる。


「あんなこと? どうして先生が近本くんに謝って貰わなきゃいけないの?」


 先生は話を何も理解していないようだった。そんな先生を見て俺はますます何が何だか分からなくなる。


「い、いや、俺、昨日寝ぼけて先生にとんでもないことしませんでしたっけ?」


「え? 別に私は覚えていないけど……」


「はあ?」


 いやいやおかしい。なんだか話が食い違っているような気がする。が、そこで俺は先生の首元にできたピンク色のマークのことを思い出す。


「そ、そうだ。先生の首、そのキスマークって俺が昨日寝ぼけてつけたものですよね?」


 そう言うと先生は「え?」と驚いたような顔をして指で俺のつけたはずのキスマークを撫でた。が、すぐに「あぁ……これのこと?」と少し可笑しそうに笑みを浮かべると「これは蚊に刺されたところを掻きむしっちゃっただけだよ。何の話?」と答えた。


 ちょっと待て。おかしいおかしい。じゃあどうして先生は今朝から俺を避けるようなことをするのだ。俺が昨晩、あんなことをしていなければ、先生がそんな反応をするはずがない。


「先生は俺が昨日寝ぼけて、先生の寝こみを襲ったことを怒っているんじゃないんですか?」


 思わずそう直球に尋ねると先生は「ひゃっ!?」と悲鳴を上げて頬を真っ赤に染める。


 そして、何やら俺から視線を逸らすと、手をもじもじさせ始めた。


「それは多分、私の方だと思う……」


「え?」


「近本くん、私が昨日寝ぼけて近本くんにあんなことや、こんなことをしちゃったことを怒っているんだよね? そりゃそうだよね。近本くんはまだ高校生なんだし、先生からあんなことされたらトラウマになるよね? キスマークまでつけちゃったもんね……」


 先生は相変わらず、俺に謝ってくる。


 キスマーク?


 その言葉に俺が首を傾げていると、「もしかして気づいてなかった?」と言ってジャケットのポッケから折りたたみ式の鏡を取り出して俺に向けた。


「なっ……」


 俺の首元には先生同様にピンク色のキスマークが残っていた。


「本当はね、すぐにでも謝ろうと思っていたんだけど、怖いのと恥ずかしいのとで、うまく話しかけられなかったの。先生最低だよね。私、近本くんに嫌われてもしょうがないよ……」


 なんだか狐に抓まれたような気分だった。たった今俺が謝ろうとしていたことを先生がそのまま俺に謝っているのだ。


 が、次第に、昨晩、先生が寝ぼけた勢いで俺に何かをして、それに影響されて先生とあんなことやこんなことをする夢を見たのだという最終的な結論へとたどり着いた。と、同時に先生が寝ぼけて俺にあんなことやこんなことをしているときに目が覚めなかったことを心の底から後悔する。


 まあ何はともあれ、俺は悪くない……。


 俺はほっとした。何よりも性犯罪者の汚名を着せられるという人生最大の屈辱から逃れられたことに安堵した。


 先生は繰り返し頭を下げていた。


「いや、俺は全然覚えていないから大丈夫です。むしろ、先生はどんな夢を見てそんなおかしな行動に出ちゃったんですか?」


 何気なくそう尋ねた。


 すると、先生は「それは……」と言って頬を露骨に狼狽し始めたので、先生も俺同様に昨晩の夢は墓場まで持っていくつもりなのだろうと確信してそれ以上聞かなかった。


「近本くん……」


 と、そこで俺の手を掴んだまま先生は俺を見つめる。


「な、なんですか?」


「先生のこと嫌いになった?」


 先生の眼差しは真剣だった。どうやら、昨日のことを知って俺が怒ってないか心配しているようだった。


「どうして俺が先生のこと嫌いになるんですか?」


「だって、先生、寝ぼけた勢いで近本くんにあんなことやこんなことまでしちゃったんだよ?」


 先生は不思議そうに俺を眺めていた。


 でも、俺はむしろ逆の心配をしていた。寝ぼけた勢いとはいえ、先生が俺にあんなことやこんなことまでしたということは、先生は少なからず俺のことを信頼してくれいてる証だと思っている。


 俺を信頼してくれている先生と毎日、毎日、一つ屋根の下で生活していて俺は本気で心配になる。


 織平さくらと俺はあくまで先生と生徒なのだ。


 俺はこんなバカでピュアで誰よりも優しくて俺のことを心配してくれる先生のことが。


 いつか本気で好きになってしまうのではないかと、本気で心配になった。

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