第25話 イエス・アンド

 心臓が激しく打ち付けている。江木が何か冗談を言って教室に笑いが起きたが、耳に入って来ない。多村は立ち上がり、講師のもとへ歩み寄った。不意に近寄ってきた刑事に、江木は眉を顰めた。


「これは何ですか?」


「エチュードですが」

 下から顔を覗き込まれた江木はその圧に、身体を仰け反らせるようにして答えた。


 そうだ、エチュードだ。多村はさっき聞いた言葉を思い出した。

「申し訳ない。少しだけお時間をいただけませんか」

 多村は江木の背中を押した。江木は押されるままに、ストップウォッチを大山に渡して、一緒に教室を出た。その様子を受講生たちはあっけにとられて見ていた。


「エチュードについて、教えていただけませんか」

 居ても立っても居られず、多村は教室を出た途端訊ねた。

「エチュードとは何ですか?今は何をしていたんですか?」

 漠然とは分かったが、はっきり確認しておきたい。


「エチュードというのは、簡単に言うと、台本なしの即興劇です。設定だけ決めて、後は自由に演じます」


 台本なしの即興劇、多村は頭の中で繰り返した。

「ということは、今の宇宙人とか彼氏の浮気とかは架空の話ですか?」


「もちろんそうです。そういう芝居をしていただけです」

 

 頭の中で、空回りしていた歯車がかみ合う音が聞こえた。

「架空の話を言い合っていたんですね?」


「簡単に言うと、そうなりますかね」

 エチュードの趣旨とは異なるが、今の場面はそうとらえても間違いではない。


「これはどの劇団でもやるものですか」

 多村の呼吸が荒くなっている。


「演劇の稽古としては一般的なものですから、取り入れている劇団は多いと思います」

 ならば逢友社も取り入れているだろう。

「ただ今日のはあくまでも初心者の方向けのものですので、やり方は少し変則的ですけど」


「箱に入れてお題を引くのは?」


「ああいうやり方は普通はしません。初心者の方に楽しんでもらうためのものです」


 多村は質問を続けた。

「一般的なやり方は設定を決めてあとは好きなように演技をする、そういったところですか?」


「そうですね。設定とか人物とかをもっと掘り下げることもありますが」


「さっきは二人でしたが、大勢でやることもありますか?」


「人数制限はありませんので、何人でやっても構いません。今日もこの後はもっと大人数でやる予定です」

 演劇教室の講師だけあって、訊いたことにてきぱきと答えてくれる。多村は聞きながら次の質問を考えていた。


「設定を決めずにやることもありますか?」


 この質問に、江木は若干思案した。

「イメージを共有するために、基本的に設定は必要です。ただ、一口にエチュードと言ってもやり方は様々ですから、設定なしでやることもありますね」


 そういってから、江木はGルームを振り返った。中の様子が気になっている。大山がエチュードを進めているが、何人かの受講生がこっちに視線を向けていた。


「申し訳ない。もう少しだけお時間を下さい」

 懇願する多村の目を見て、江木は仕方なく頷いた。

「時間を決めずにやることもありますか?」


「やり方は様々ですので、時間制限をしないでやることもあります」

 江木は同じような言葉を繰り返した。


「突然エチュードが始まる事ってありますか?」

 その質問に、江木は首をかしげた。

 多村は人差し指でこめかみをとんとんと叩いた。焦ってうまく質問をまとめられないのがもどかしい。

「どう言ったらいいのか、普通に話している時に、いつの間にかエチュードが始まることってありますか」


 江木は理解したように一つ頷いた。

「お笑い芸人さんは普通に会話をしているうちにいつの間にかコントが始まっていることがあるそうですが、役者同士でも普通に会話をしていたはずが、いつの間にか芝居が始まることはありますよ」


「イエス・・・、相手の話を否定するな、と仰っていましたが、エチュードはそうしなければならない?」


「『イエス・アンド』ですね。それがエチュードをするうえでのルールです。否定したらそこで止まってしまいますから。『イエス』と『アンド』、話を振られたらまず受け入れて、それに自分がプラスして話を展開させ、ストーリーを創り上げていく、それが基本です」


「『イエス・アンド』、それはどこでもそうですか?」


「エチュードの基本というか、ルールです」


「例えば」と言った声が上ずっているのが、自分でもわかった。

「お前ストーカーに遭ってるんだってな、といったら相手はどう返すでしょうか」


「おそらく、そうなんだ、困ってるんだよと乗っかって、そこから話を広げていくと思います」

 江木は事務的に答えた。


「では、お前ピンハネしてるだろと言ったら?」


「当然ピンハネしてるように答えますよ」


「セクハラされたといったら、セクハラしていることで話を進める?」


「そうなりますね」


 多村は一人で何度も頷いた。


「そもそもこれは何のためにやるんですか」


「いろいろな意味合いがありますが、まずは演技力向上のためです。自分でイメージを膨らませる事で表現力を磨くことができますし、様々な人間を演じることで引き出しも増えます。今のは初心者向けのものなので遊びの要素が強いですが、劇団によっては出来が悪いと厳しくダメ出しをされることもあります」

 あとは、と江木は続けた。

「対応力をつけるのも大事です。舞台は生ものですから、セリフを忘れたり、出番を間違えたりしてもやり直しはききません。どんなハプニングが起きても、とっさに対応する必要があるんです。台本に書かれていないことはできません、では舞台は務まりません」


 あっと多村は口を開いた。江木の言葉は映像の中で西野が滝沢に言ったセリフとそっくりだった。


『お前は台本がないと何もできないのか』


 江木がまた部屋を見た。


「お時間をとらせて申し訳ありません。色々とありがとうございました」

 多村は江木に、そしてGルームの中にも頭を下げてその場を後にし、エレベーターで地下まで降りた。


 間違いない。会田が滝沢たちの演技に付き合ったのは、エチュードだったからだ。振られるままに話を合わせたんだ。


 目に焼き付くほど見た映像が、多村の頭の中で再生されていた。

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