第1話 大人の女

「突然呼び出して驚いた?」

 里沙は穏やかな笑みをたたえて迎えた。


「話ってなんだよ」

 反対に西野は浮かない顔をしている。足取りも重かった。


「電話じゃ伝えられない大切なことって言ったんだから、大体想像はついてるんでしょ?」


 その問いに返事はない。


「ご想像の通りよ。赤ちゃんが出来たの」

 里沙はみぞおちの下に手を添え、こともなげにそう告げた。上目遣いで窺った、自分よりも頭一つ分上にある西野の顔は色を失っていった。

「うれしくないの?」


「そんなことないよ。突然で驚いてるんだよ」

 慌てて取り繕ったが「産むわよ」の言葉に顔をひきつらせた。


「結婚するって言ってくれたよね?」

 里沙の目はしっかりと西野を見据えたまま。西野は刹那それに合わせたが、すぐに逸らした。

「奥さんとは別れるって言ってくれたじゃない」


「もちろん別れるつもりだよ。だけどすぐにってわけにはいかないだろ」


「いつ別れるの?」


「だからすぐには無理だって。それぐらい分かってくれよ」

 西野は苛立ちながら哀願した。もともと細面のせいでやつれて見える。


「これからお腹がどんどん大きくなるのよ。いつまで待てばいいの?お腹の中の子供と奥さんの子供、どっちが大事なの?」

 蛇がネズミの退路を封じるように、里沙は問いを繰り出した。


「馬鹿なことを聞くなよ。子供に順番なんてつけられるわけないだろ」


 その言葉に、里沙は片方の口角を上げた。

「今日病院に行ってきたの。それで妊娠してるってはっきりしたんだけど、そこで面白いものを見たの」


「何を見たんだ」


 明らかに狼狽した西野を見て、里沙は微笑したまま答えを出した。

「あなたの奥さんよ。二人目が出来たんでしょ」


 西野は苦悶の表情を隠すように両手で顔を覆った。


「やっぱり知ってたのね、思った通り。あなたの辞書に『避妊』の文字はないのかしら。奥さんには産ませて、私にはおろせなんて言わないわよね。子供に順番は付けられないって言ったその口で」


 西野は顔を歪めたまま両手で髪の毛をかき回した。


「初めから別れる気なんてないくせに。奥さんと子供が大事なんでしょ。私が馬鹿だったってことね」


「そんな・・・」


「もういいわ。別れてあげる。でも、ただで済むと思わないで。責任はちゃんと取ってもらいますから。こっちは自宅も勤務先も分かってるんだから」


「下手なことをしたら、うちの女房から訴えられるぞ。そうしたら君が損害賠償責任を負わなければならなくなる」


「そういうことには詳しいのね。くだらない男。あんたみたいなのに引っ掛かった私が馬鹿だったわ。だけどご心配なく、そんな下手な真似はしませんから。せいぜい楽しみにしておいてね」

 里沙は満面の笑みを浮かべた。


―ストップ!―


 その声で芝居が止まった。里沙の笑みがすっと引いていった。

 声を上げたのは、真正面で芝居をチェックしているディレクターズチェアに座った男。黒のジャージの上下は着古されてすっかり光沢を失くしている。

「ここはそういう表情をする場面じゃないだろ」

 滝沢の指摘に、里沙はすいませんと消え入るような返事をして頭を下げた。表情には怯えの色も窺えた。

「お腹に赤ちゃんがいるんだぞ、この男の。本当は悔しいんだよ。哀しいんだよ。裏には涙があるんだよ。笑顔は無理して強がって作ってるはずだろ。笑うにしてもそういう気持ちを込めろよ。ニヤニヤする場面じゃないんだよ」


 里沙は顔を伏せたままもう一度頭を下げた。


「もう少し大人の芝居をしてくれよ。この女は覚悟を決めた大人の女なんだよ。そんなたどたどしい台詞回しじゃ伝わらないだろ。今の芝居じゃ女の子にしか見えないんだよ。台本をもっと読み込んで、役をちゃんと理解してくれよ。何度も言わせんなよ」

 滝沢は袖まくりした腕で、丸めた台本を懐中電灯で照射するように里沙の顔に向けた。


「言いたい事は分かるけど、里沙だって一生懸命やってるんだから、もう少し柔らかい言い方出来ないのかよ」

 西野は首に巻いたタオルで額の汗を拭ってからそう言った。隣で落ち込む姿を目の当たりにしている。


「お前は自分の芝居の心配してればいいんだよ。お前もところどころ怪しい部分あったぜ」

 滝沢はダメ出しを西野にも向けた。


「何言ってんだ、そういうシーンだろうが。それにこの舞台はお前の演出じゃないんだから、そこまで言う資格ないだろ」

 暑がりの西野はTシャツ1枚になっている。脱いだジャージの上着は腰に巻いていた。


「間違ったことは言ってないぜ。それに里沙の芝居が幼いってのは、会田さんも言ってことだろ」


「最初に比べたらずいぶんよくなってきてるよ。セリフもほとんど覚えてるし」


「そんなのは当たり前だろ。芝居以前の話だ。お前はどう思うんだ、自分の芝居」

 滝沢は椅子に座ったまま、下から覗き込むように若手女優の顔を凝視した。


「自分の芝居ですか」

 里沙は板挟みにされた上に、突然指名されて困惑している。台詞のようには、すぐに言葉が出てこなかった。


「どう思うか聞いてるんだよ」

 滝沢は同じ言葉を、声に力を込めて繰り返した。


「そんなに追いつめなくてもいいでしょ。若い子いじめてどうするのよ」

 里沙のもとに歩み寄って肩に手を添えたのは博美だ。隣に並ぶと、里沙より年齢も体型も一回り上なのがよく分かる。稽古中はいつも長い髪をペイズリー柄のバンダナでまとめている。

「本番までに仕上げればいいのよ。これからよくなるでしょ」


「これからって、舞台は待ってくれないぜ。金を払って見に来てくれる人がいるのに、下手な芝居を指くわえてみているわけにはいかないだろ」


「ずいぶんな言い方ね。西チャンも言ったけど、もう少し柔らかい言い方できないの?それに、こういう格好だから幼く見えるけど、ちゃんとメイクして衣装着たら、ぐっと大人っぽくなるわよ」

 博美は里沙の全身を一瞥した。顔にあどけなさを残しているうえに、すっぴんにスウェット姿では、幼く見えるもの仕方なかった。

「第一肝心の演出家がいないんじゃ、本当の稽古にならないわよ。公演を間近に控えた演出家が、よその劇団の舞台に出てる方が問題でしょ」


「それはその通りだけどな。公演が迫ってるっていうのに」

 滝沢の声のトーンは下がり、ため息が混じった。


「でも本人も困ってたよ。世話になった先輩の頼みじゃ断れないだろ。急病人の代わりなんだから仕方ない」

 西野は演出家に理解を示した。


「だから、よその劇団の心配してる場合じゃないって言ってるの。ただの演出家じゃないのよ。脚本家で出演者で、主宰者なのよ」


「あの人のことだから、団員に悪いなんて、少しも思ってないだろうけど」


「それはそうだろうな」

 今度は西野も滝沢に同意した。里沙はうつむいたままだが、幾分落ち着いたように見える。


「前売りは売れてんのかな」

 滝沢は立ち上がり、台本を椅子の上に置いて腕組みした。


「右肩下がりでしょ。土日はともかく、平日は厳しいでしょうね。そのうちチケットノルマに戻るかも」


「客入りが悪かったら、そういうこともあり得るだろ。スポンサーもつかないんだし」


「それは俺らのせいでもあるけどな」

 西野のその意見に、滝沢は首を振った。

柳田優治やなぎだゆうじのいない逢友社ほうゆうしゃなんて、こんなもんだ」

 その言葉が引き金となって、稽古場にしばしの沈黙が流れた。


 手持無沙汰の西野は、両手を組んで頭上に上げ背伸びした。それから上半身を左右に捻り、屈伸運動をした。腰に巻いたジャージが解けそうになって、きつく巻き直し、それからまた首に掛けたタオルで汗を拭った。


「会田さんの前では言えないけどね」

 博美が漏らした。


「『柳田優治』は禁句だからな」

 滝沢はそう言ってから、壁に掛かった時計に目をやったがすぐに逸らした。また沈黙が流れた。


 西野はペットボトルのドリンクで水分補給をした。里沙もそれに倣う。

 滝沢は台本を手にして1ページずつゆっくりとめくった。「今回の舞台の・・・」と話し始めたところで、稽古場のドアが開いた。

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