モノマニア

「ねえ、先生」


 放課後、いつものように生物準備室に顔をのぞかせるなり、酷く思い詰めたような真剣な面持ちで竜平がそう切り出すから、別れ話でも切り出されるのかと常にネガティブ思考の高槻は学校仕様の仮面の下で蒼白になる。


「しばらく先生に会うのをやめようと思うんだ」


 続く言葉は高槻の悪い想像を後押しするばかりで、瞬間的に高槻の頭の中では竜平を失い廃人になる自分の未来までもが思い描かれていた。


「…わかった」


 それでも、嫌だとは言えない。俺を捨てないでくれと縋り付くことは高槻にはできない。竜平の選ぶ未来を遮ることは、大人として、教師として、してはいけないのだと常日頃から自らを戒めている。今こうして大人であり教師であり男である自分と付き合っている現状が、一般的に見れば竜平にとって良くないことだという負い目をいつだって感じているのだ。

 竜平がそれをやめたいと願うのならば引き止めてはいけないと、それだけは心に決めていた。

 竜平が終わりだと言えばこの恋は終わる。いくら高槻が竜平を思い続けていようとも、それはもう胸の内だけに秘めて生きていくのだと、それが自分の立場なのだと覚悟は決めている。

 以前と同じように、竜平の前でも仮面をかぶり続ければいいのだ。それでいい。


 そう自分に言い聞かせていると突然竜平が高槻の額に手を当てて、高槻の顔を深く覆っている前髪をがばっと上げる。ひるむほどの近距離に竜平の顔があり、その目は全てを見透かすみたいにじっと高槻の目を覗き込んだ。


「ちょっと待って、なんでそんな泣きそうな顔してるの?先生何か勘違いしてない?」

「…そんな顔してないよ」

「いいや、してるね」


 ポーカーフェイスには自信があるのだが、いつだって竜平は簡単に見抜いてしまう。それを嫌だと思ったことはないが、気付かないでいて欲しいと思う時だってある。格好悪いところは見られたくない。


「ごめん、なんか、俺わかっちゃった、先生の考えてること。違うから。そうじゃないから」


 聡い竜平には、高槻の思考がネガティブな方向に行きがちなことなんて、もうすっかりわかってしまっているのだろう。今の言葉をマイナス方向に受け止めたらどういう結論になるのか、竜平はすぐに思い至ったらしい。

 椅子に腰掛けた状態の高槻の膝の前にしゃがみ、俯きがちな高槻を下から見上げてくる。


「これは俺のテストの話だからね。かっこわるくてはっきり言わなかった俺が悪いんだけど、最近少し成績が不安なの。だからちょっと真面目にね、今度のテスト終わるまで勉強に専念しようとそういう決心をしたの。テストが終わるまでだけの話だし、俺だって先生に会いたいけど我慢するんだからね」


 一体どちらが大人なんだか、小さな子供を諭すみたいに丁寧に竜平は言葉を紡いだ。


「ああ、もう、せっかくの俺の一大決心だったのに、早くも心が折れそうだよ、先生」


 高槻の膝の上にこてんと小さな頭を乗せ、竜平は猫みたいに甘えてくる。


「ごめん」


 そのふわふわの髪の間に指を入れ、愛おしく撫でた。


(ああ、まだこの手の中にある)


 耳に触れ、頬を撫で、ジンとしたものがこみ上げる。


「…よかった…捨てられなくて」

「そんなのありえないから、もう、やめてよね」


 頬に触れた高槻の手を、竜平がぎゅっと握る。その手は氷のように冷たくて、自分の不安が竜平をも不安にさせてしまったのだと気がついた。


「悪かった」


 その手を引き上げて膝の上に抱き込み、謝罪と愛しさとそしてまだ少し引きずった切なさを流し込むようにキスをする。


「こうなっちゃうから会うのやめようって思ったのに」


 竜平は紅潮した顔で責めるように高槻を見つめる。思わず高槻は視線をはずした。後ろめたかったわけではなく、自制心に自信がなかったのだ。これ以上はさすがに我慢しなければ、竜平が可哀想だ。


「そんなに、成績まずいのか?俺は担任じゃないから生物以外知らないけど、生物の成績は抜群じゃないか」

「それは、だって、興味があるから。内容も、先生も。俺が思い込んだら一途なの知ってるでしょ?だけど興味ないことはなかなかさ」

「何がやばいの?」

「英語と数学は全般的に苦手かな。あと古文ね。政経とかも苦手かも」

「…結構あるな」

「そうだよ、だから大変なんだよー」


 プウと頬を膨らますと足をバタバタさせる。さっきは高槻よりも大人に感じたが、一気に年齢急降下だ。だだをこねる小さな子供みたいで可愛い。


「俺が教えてやろうか?生物以外でもそれなりには見てやれるよ?」


 それならば会っていても勉強も進むからいいんじゃないかと高槻は軽い気持ちで言ったのだけれど。


「それはダメ。なんか反則な気がして。ドーピング的な感じがするからフェアじゃないじゃん。それに、先生といると先生のことばっかり気になっちゃって何も頭に入らない気がするんだ」


 返ってきた言葉の眩しさに高槻はただただぎゅっと竜平を抱きしめることしかできなかった。こんなに真っ直ぐで純粋な子に愛されていることを誇りに思う。


「ねえ先生、これは俺の意地なんだけどさ、先生の恋人である以上は付き合うことで成績が下がるなんていうのはあっちゃいけないと思うんだ。別に誰に知られているわけでも誰に咎められるわけでもないんだけど、俺の心の問題でね。例えばもし俺たちの関係が明るみに出たとしたら、責められるのも罰を受けるのも全部先生だと思うんだ。そういうリスクを先生は先生だってだけで背負ってくれてる。だから俺はそれ以上の負担をかけたくないっていうか、本当は一緒に背負いたい分を努力したいっていうか。うーん、なんか上手に伝えられないけど」


 もどかしさにくしゃくしゃと自分の髪をかき回した竜平は、抱かれていた体を離し自分の足でしゃっきりと立つ。


「とにかく俺は最大限の努力をして先生の隣にいたいから、先生も我慢してくださいってことでよろしく」


 ニッカリ笑って可愛らしく敬礼した竜平は、決意が揺らがないうちにと背を向けた。

 小さいけれど頼もしい背中を見送って、高槻は複雑な感情を胸の内に抱える。愛しさと、反省と、喜びと、自戒と、幸福感と、劣等感と、誇りと、寂しさと、そして愛しさと愛しさと愛しさと。

 いつだってそうだ。竜平の強さに驚かされ打ち負かされ憧れる。その輝きを見るたびに、何度でも何度でも恋に落ちるのだ。

 会えなくて辛いなどと小さなことを言っている場合ではない。竜平の事情など構わず四六時中でも一緒にいたいと願ってしまう自分の小ささを隠して隠してそのままなくしてしまいたい。


 往生際悪くいつまでも名残惜しげに竜平が出て行ったドアを見続けている自分に気付き苦笑すると、その引きずる思いを断つようにくるりと背を向け、煙草をくわえた。心を落ち着けるようにゆっくりと火をつけ紫煙を吐き出す。


「少しぐらい格好付けないといつか本当に捨てられるぞ…」


 自分に言い聞かせるように小さく呟いた。



<終>

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モノシリーズ 月之 雫 @tsukinosizuku

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