桃の缶詰め

(先生がいない…)


 学校中を探しても、どこにもいない。

 いつもの生物準備室も、隣の生物室も、外の花壇も、職員室も、トイレも、とにかく高槻がいきそうなところを全て回ったけれど、見つからない。

 あちこちうろついた後、もしかしたら行き違っているのかもと生物準備室に戻ってみたところで、通りがかった先生に「高槻先生なら今日は休みだよ」と聞かされた。


「え?休み?」


 そんなこと、竜平は何も聞いていない。


(朝から授業後まで、こんなにも時間があったのに、俺は先生が休みだということすら知らないのか)


 そんな事実に愕然とした。

 生物の授業がない時には授業後まで会うことがない、なんていうのはよくあることだけれど。


「連絡ぐらいくれたっていいじゃん…」


 竜平は自分の携帯を見る。

 連絡先は教えてあるのに、かかってきた形跡は何もない。

 普段から電話やメールをするのはたいがい竜平の方で、かけ直しや返信以外に高槻の方からしてくれることなんてほとんどない。

 竜平は、準備室のドアを軽く拳で叩いた。

 右手のかすかな痛みは、波紋を広げて胸の痛みに同調する。


(先生にとって、俺は何?)


 ちっぽけすぎる自分の存在を、痛感する。

 竜平はそのまま廊下に座り込んだ。


(小さな俺は、自己主張するしかない)


 体の小さな竜平が常日頃から思っていること、それは精神論にも共通するだろうか。

 わからないけれど、自分にはこれしかないと思う。

 メールにしようか電話にしようかさんざん迷い、電話を選択した。

 会えないならば、声だけでも聞きたい。

 けれど、呼び出し音がずいぶん長く続く。

 回数が増える毎に不安がつのる。

 何かひどい病気で倒れているのか、とか、入院でもするような事態になっているのだろうか、とか、悪いことばかりが頭を過っていく。

 これではいけないとネガティブになっていく自分を奮い立たせ、昨日は何も言っていなかったけれど、何かの急用で休んでいて、きっと今は手が離せないのだと思うことにした。


(やっぱりメールにするか)


 諦めて電話を切ろうと思った瞬間、ディスプレイは通話が開始されたことを示した。

 竜平は慌てて電話を耳に当て直す。


「…もしもし」


 聞こえてきたその声に、狼狽する。一瞬、かけ間違えたかと思うぐらい、別人みたいな掠れた声だった。


「どうしたの?病気?」


 竜平は携帯にかじりつく勢いで問いただす。なんだか涙があふれそうだった。


「ああ、竜平か…」


 声は別人みたいだが、竜平の慌てっぷりにくすりと笑う様子はいつもの高槻と同じだ。それだけで、少し心が落ち着く。


「ちょっと風邪ひいてな。授業が終わった頃に電話しようと思ってたんだが、眠り過ぎたみたいだ」


(電話、しようと思ってくれてたんだ)


 些細な一言に、竜平の心は天まで舞い上がる。


「熱あるの?医者行った?」

「少しな。大丈夫だよ、子供じゃないんだから」

「ねえ、今から行っていい?」


 さっきまでの暗い気分はどこへやら、テンションはすっかりいつも通り。我ながらゲンキンなものだと、そう思う。

 高槻の行動一つ一つに、言葉一つ一つに、一喜一憂する。


「うつるから駄目だよ」

「いいよ、そんなの。駄目だって言っても押しかけるからね」


 それぐらい、竜平にとって高槻はすべてなのだ。

 竜平は力強く立ち上がる。





 チャイムを押すと、すぐにドアが開いた。

 この部屋に入るのは、これで何度目になるだろう。


「大丈夫?」


 竜平を部屋に招き入れた高槻は、思っていたよりひどいようで、赤い顔をして少し足元がふらついていた。

 手を伸ばして頬に触れてみると、かなり熱い。


「わ、すごいね。俺のことは気にしないで、寝てて」

「ああ、悪い…」


 開けっ放しの奥の部屋の、ベッドの上に倒れ込む。

 本当に余裕がないようだ。

 病院には行ったらしく、キッチンに薬の袋が置いてあった。

 それ以外にキッチンを使った形跡はなく、もしかしたら何も食べていないのかもしれない。

 竜平は、途中のスーパーで買ってきた桃の缶詰を皿にあけて、ベッドまで持っていった。


「先生?俺、何にもできないけどさ、桃の缶詰買ってきたから、食べて」


 一口大に切って口元へ運ぶと、高槻はあーんと口を開けて頬張った。


「ああ、うまい。朝から何も食ってないんだ」

「病気といえば桃の缶詰でしょ。俺、料理作ったりとかできないし」

「十分だよ。こんなふうに竜平が食わせてくれるなら、それだけで元気になれそうだ」

「ほんと?」


 高槻の熱い掌が竜平の頬を撫で、首筋にのびる。

 そして竜平を引き寄せようと力が込められたが、すぐにその手を離してしまった。


「やっぱりやめておこう。うつしたら可哀想だ」

「俺、先生の風邪ならもらってもいいよ。おあずけの方がもっと可哀想だよ」


 寂しげに笑った高槻に、竜平は覆いかぶさるようにして口付ける。

 唇も、普段よりずっと熱かった。

 その熱さに、切なくなる。

 駄目だと言いつつも抵抗しない高槻は、竜平が唇を離すと、その様子をじっと見つめていた。キスの最中も見つめていたのかもしれない。


「誰が可哀想?」


 掠れた声で、意地悪く笑う高槻は、普段よりも色気が倍増して見える。


「俺がに決まってんだろ」


 高槻に負けず劣らず赤い顔で竜平が叫ぶと、高槻は満足げに微笑んだ。


「ふーん、そうなんだ。でも、もう駄目だぞ」

「…先生、病気の時でも意地悪なんだ」

「竜平が病気の時には優しくしてあげるよ」

「じゃあその風邪ちょうだい」

「だーめ」


 高槻が目を閉じたので竜平は口をつぐんだ。

 口ではふざけたことをいっているが、体は辛いのだろう。


「先生、氷枕とかないの?」

「あー、ないなあ…」

「じゃあ、タオル濡らしてくる。適当に探していい?」

「いいよ」


 タオルと洗面器を探し出し、氷水で冷やしたタオルを高槻の額にのせた。

 汗で少し湿った髪を撫でてみると、ほどなく高槻は寝息をたてはじめる。


「早く、元気になってね」


 こんなふうに、自分が何かをしてあげられるのは嬉しいけれど。

 それでもやはり、元気でいて欲しいと思う。

 何もしてあげられなくても、したいことが出来ないよりはいい。


「先生が辛いと、俺も辛いんだからね」


 こっそりと、耳元で囁いた。



<終>

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