ロシアンルーレット3

 雨の日の満員電車は、普段よりさらに不快感倍増だ。車内の湿度の高さと、下半身を容赦なく濡らす傘の存在。くもってしまう窓ガラスとそれに伴う閉塞感も加わり、正直朝から気分はかなり下降する。

 けれど今日の俺は、そんな不快感を吹き飛ばす幸運をゲットしている。目の前30センチの距離に、大好きな千草の姿があるのだ。会話も可能なこのポジションを陣取れるのは十回に一度ぐらいしかない。

 ドアの脇の壁にもたれて立っている千草の真正面に少々強引に体をねじ込んで、俺は幸せに浸る。ぎゅうぎゅうの電車も、密着する相手が見知らぬおじさんなどではなく大好きな千草ならば、それはもう至福の時に大変貌を遂げるのだ。


「おはようございます、千草さん」


 おきまりの挨拶を決めてみる。名前で呼ぶなと、いつもお約束のように叱られるのだが、俺の中では既に「千草さん」という響きが定着してしまっていて、変える気はなかった。

 そうして叱られることがまた楽しみであったりもするのだ。俺ってMだったんだなあと、最近妙な自覚をしてしまう。俺を睨む千草のきつい視線がたまらなく好きなのだ。

 たが、今朝はなぜかお咎めがなく、千草はちらりと一瞬視線を上げて俺の顔を見ただけだった。

 肩すかしを食らった気分で、俺はまじまじと千草を見つめた。

 名前で呼ぶことを許された、というわけではないだろう。多分。

 機嫌が悪くて何も話したくないのか、とも思うが、それとも少し違うような気がした。


「どこか具合でも悪いんですか?」


 眉間に寄せられたしわの原因は、雨の満員電車の不快感だけではないように見えたのだ。なんとなく、だけれど、毎日じっくり観察している俺にはわずかな違和感があった。


「なんでもない」


 かなりテンション低めに呟く千草に、やっぱり具合が悪いのだと確信する。基本的に強がりなこの人が、素直にどこかが悪いと言うはずがない。否定すれば否定しただけ、それは肯定であるのだと、今までの経験で学び取っていた。

 はたしてどこがどう悪いのか、そこまではわからない。頭が痛いのか、気持ちが悪いのか、お腹が痛いのか、と、探るように千草の様子をうかがってみるけれど、何のサインも見つけられない。多分、平気な顔で我慢してしまう人なのだろう。

 しかし、わからないからといって、どうしたの?どこが悪いの?とは聞けない雰囲気だった。聞いても答えてくれそうにないし、それどころかこのテンションでは返事をしてくれるかどうかも怪しいものだ。不機嫌な際に経験したそれが、俺の脳裏によみがえる。だいたい、機嫌が悪そうな時には話しかけないのが正解なのだ。

 そうして俺は、少し俯いた千草を見つめるだけに徹していた。

 たいがいの人より視点の高い俺がこれだけ密着すると、頭を上から見下ろすことになって、残念ながらその大好きな綺麗な顔を見ることはできないのだが、少し長めの茶色い髪が白い頬の辺りで電車の振動と共に揺れるのがいい感じにそそられた。

 するとそんな邪心を見抜かれたかのように千草の視線が上がり、俺は少し狼狽える。


「今日は喋らないのか?」


 思いがけない千草の言葉に、俺はぽかんと口を開けて間抜け面を披露する。


「いや、だって、その、喋ってもいい、んです、か?」

「なんで今さらそんなこと俺の許可とるわけ?いつも勝手にべらべらどうでもいい事喋ってんじゃん」

「ああ、まあ、それはそうですけど」


 いつも、何を話そうかものすごく考えて、共通の話題なんてなさそうだから自分の話なんかをしているのだが、それをあっさりとどうでもいい事と言われ、俺は少し落ち込む。千草のことを聞いたって答えてくれるわけでもないし、そうするより他に選択肢はないのだから仕方がないじゃないか。

 けれど、この会話は何だろう。そのどうでもいい話を、もしかしたら今俺は求められているのだろうか。あんなことを言いつつ、案外俺の話を楽しみにしていてくれたりするのだろうか。


「少しは、気が紛れるかと思ったんだけどな」


 聞き取れないほど小さく呟いた千草は、また俯いて黙ってしまう。

 俺は慌てて話題を探した。

 千草が俺に何かを求めることなんて、ほとんどない。どんな些細なことでも、求められるならば全てを与えたいと思う。どんな要求にも応えたい。

 結局、やっぱり「どうでもいい話」しか思い浮かばず、昨日の出来事などを話し始めると、千草は少しだけ笑ったような気がした。それは、バカにされているようでもあり、喜んでいるようでもある。

 千草の心はまだまだはかり知れない。



 線路の切り替え部分で、がくんと大きく車体が揺れる。

 それはいつものことで、乗客も慣れているから、だいたいの人はさほど振り回されはしない。その地点に来るとほとんど無意識のうちに、体が衝撃に備えているのだ。

 もちろんそれは、毎日同じ電車に乗っている千草も同じことで、たいていいつも壁にもたれる位置をキープしている千草は余裕でその衝撃をやり過ごす。

 けれどその日、千草の体は大きく揺れ、頭ががつんと俺の肩のあたりにぶつかった。驚いてその体重を支えた俺に、千草はくぐもった声でごめんと呟く。

 千草の手が俺の胸を軽く押し、すぐに体勢を立て直すかと思ったのだが、千草の体はいつまでも俺から離れず、腕に込められた力も抜けてしまった。完全に俺にもたれて、じっと動かずにいる。

 まさか俺に抱きついてみたなんてことは天地がひっくり返ってもあり得ないだろうし、いったい何事かと見下ろすと、千草は左手で自分の足をぎゅっと掴んでいた。


「もしかして、足が痛い?」


 いつも少しだけ引きずる左足。どうしてそうするのか聞いたことはなかったが、不自由なのは確かで、痛むこともあるのかもしれない。


「雨の日は、ダメなんだ」


 さすがに隠し通せないと観念したのか、千草は素直にそう告げた。

 くっついた体から、声が振動となって伝わり、背筋がゾクリとする。


「事故の後遺症でさ」


 千草の口から千草のことを聞いたのは、これが初めてかもしれない。

 できることなら、足に負担がかからないように抱き上げたり、せめて足をさすってやったりしてあげたいが、自由に身動きのとれない満員電車の中ではそれもかなわない。

 なんとかしてあげたい、そんな思いが膨らんで、それでもどうすることもできなかった俺は、自分に体を預けたままの千草の体をぎゅっと抱きしめた。

 すると、腹のあたりに容赦ない勢いで拳がぶち当たる。

 まがりなりにも運動部所属だし、それなりに腹筋は鍛えられているはずだが、不意打ちはさすがにきつい。それに、千草はこう見えて案外腕力が強いのだ。


「千草さん、痛いっす…」


 かなり本気で俺は呻く。


「はなせ」

「…はい…」


 もちろんそれに従うしかなくて、俺は名残惜しさを引きずりつつ心地良かった千草の体を解放した。

 千草は俺の体を突き飛ばす勢いで上体を起こし、自分の足でしっかり立つ。


「ドサクサにまぎれてふざけたことしてんなよ」


 怒鳴るわけではなく冷たく言い放たれ、きつい目で睨まれた。

 ああ、いつもの千草さんだ、と、つい喜んでしまう俺は、やっぱりマゾなのだろうか。

 にへらとだらしなく緩んだ俺の顔を見て、千草の眉間にしわが刻まれる。


「おまえ…バカだな」


 呆れたように呟いたそんな言葉さえ、俺にとっては喜びだ。


「俺で良ければいつでも肩貸しますよ」

「いらない。おまえの肩は高すぎる」

「え、そんな理由っすか?」

「低かったとしても必要ないけどな」


 しょぼんと落ち込んだ俺だったが、電車を降りる時に少し腕をつかまれ、そんなことだけで至福を感じてしまったりするのだった。



<終>

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